ソフトバンクの携帯電話CMで、いま「白戸家・授業参観」篇が流れています。
「こども店長」でお馴染の加藤清史郎クンが先生役となって教壇に上がり、
『ちやほやの法則』なるものを説明します。
清史郎先生が“ちやほや”と書かれた球を高く持ち上げ、ズトンと地面に球を落とす。
そのときの清史郎先生のセリフ―――
「持ち上げといて、落とされる。
高く持ち上げられるほど、落差が大きい(再び球を高くから落とす)。
信じられるのは家族だけ……」。
(生徒に扮するマツコ・デラックスが) 「気を付けなよ、先生」。
(清史郎先生) 「あなたも」。
(さらにマツコ・デラックがイヌの白戸家お父さんに向かって) 「あんたもよ」。
……「さんざん持ちあげて、落とす」。
かつてメディアで働いていた自分にとっては身につまされる真実ですが、
このCMには思わず笑ってしまいました。
メディアも世の中も、常に自分たちの関心を奪うキャラクターを欲しています。
政治家にしろ、芸能人、文化人、スポーツ選手にしろ、
ヒーローやスター、アイドル、ヒール(悪役)を何かしら生み続け、
そして同時に、消費し続ける。
これは大衆心理に宿る習慣病のようなものなのかもしれません。
一般人である私たち一人一人も、長い人生途上にあって、
メディアに騒がれるかどうかは別にして、
ときに周囲からちやほやされ、実力以上に持ち上げられるときがあります。
また同時に、少し頭角を現すや否や、
周囲の嫉妬などによってつぶされそうになるときがあります。
そんなとき、私たちが留意しておきたい大事なことを
プロ野球選手・監督して活躍された野村克也さんは、こう表現しています。
「人間は、“無視・賞賛・非難”という段階で試されている」。 (『野村の流儀』より)
〈段階1:「無視」によって試される〉
誰しも無視されることは辛いものです。
自分なりに一生懸命やっても、誰も振り向いてくれない、誰も関心を持ってくれない、
話題にも上らない、評価もされない。
組織の中の一歯車として働いていると、こうした感覚をよく覚えます。
あるいは個人でブログを開設し、
自分の意見や作品をネット発信して叫ぶのだけれど、まったく反応が来ない。
また、就活中の学生が、志望企業にエントリーをしてもしても、
応募は空を切るばかりで、自分という存在が何十回も否定される。
これらはすべて、「無視」という試練にさらされています。
「無視」という名の試練は本人の何を試しているかといえば、それは「負けじ根性」です。
偉大すぎる芸術家などは、その作品があまりに万人の理解を超えているので
ときに、本人の生前には誰もが評価できない場合が起こりえますが、
一般人の場合であれば、たいてい自分の身の周りには目利きの人が多少いるものです。
ですから、もし「無視」によって、自分にやる気が起こらないという状況にあれば、
そのときの答えは、負けじ根性を出して「人を振り向かせてやる!」という奮起です。
その心持ちをしぶとく持ってやっていれば、
ひょんなところから理解者、評価者は現れてくるものです。
〈段階2:「賞賛」によって試される〉
いまはネットでの情報発信、情報交換が発達している時代ですから、
仕事の世界でも、趣味の世界でも、「シンデレラボーイ/ガール」があちこちに誕生します。
ネットの口コミで話題になったラーメン屋が一躍「時の店」になることは頻繁ですし、
「You Tube」でネタ芸を披露した人(ペット動物さえも)が、
1週間後にはテレビに出演し、人生のコースが大きく変わることはよくある話です。
人生のいろいろな場面で、こうした「賞賛」という名の“持ち上げ”が起こります。
「賞賛」は、受けないよりは受けたほうがいいに決まっているのですが、
これもひとつの試練です。「賞賛」によって、人は「謙虚さ」を試されます。
芸能人ではよく目にすることですが、
賞賛によってテング(天狗)になってしまい、その後人生を持ち崩してしまう人がいます。
賞賛は、わがままを引き出し、高慢さを増長させるはたらきがあるからです。
このことを古くから仏法では「八風におかされるな」と教えてきました。
「八風」とは、『ウィキペディア』の説明によれば、
仏道修行を妨げる8つの要素で、
「利・誉・称・楽・衰・毀・譏・苦」をいいます。
このうち前半4つは四順(しじゅん)と呼ばれ、
利い(うるおい):目先の利益
誉れ(ほまれ):名誉をうける
称え(たたえ):称賛される
楽しみ(たのしみ):様々な楽しみ
で、どちらかというとポジティブな要素です。
まさに称賛という試しは、この四順の中にあります。
ちなみに後半の4つは四違(しい)と呼ばれ、
衰え(おとろえ):肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ):不名誉を受ける
譏り(そしり):中傷される
苦しみ(くるしみ):様々な苦しみ
といったネガティブな要素になります。
これらは次の試しの段階にかかってきます。
〈段階3:「非難」によって試される〉
野村さんが3番目にあげる試練は「非難」です。
そう、世の中は「上げておいて、落とす」ことがあるわけですから。
その人のやっていることが大きくなればなるほど、
妬む人間が増えたり、脅威を感じる人間が増えたりして、
いろいろなところから非難や中傷、批判、謀略が降りかかってきます。
野村さんは「賞賛されている間はプロじゃない。
周りから非難ごうごう浴びるようになってこそプロだ」と言います。
自分を落としにかかる力を撥ね除けて、
しぶとく高さを維持できるか、ここが一流になれるか否かの重大な分岐点になるでしょう。
この分岐点は、いわば篩(ふるい)と言ってもいいものです。
この篩は、その人の技量や才覚によって一流か否かの選別を行うのではなく、
その人が抱く信念の強さによって選別を行います。
結局、自分のやっていることに「覚悟」のある人が、非難に負けない人です。
芸術家として思想家として政治家として、
生涯、数多くの非難中傷を受けたゲーテは言います―――
「批評に対して自分を防衛することはできない。
これを物ともせずに行動すべきである。そうすれば、次第に批評も気にならなくなる」。
(『ゲーテ格言集』高橋健二訳より)
以上のことをふまえ、
「無視・賞賛・非難」という3つの段階で試されることを図にするとこうなるでしょうか。
さて、さらに発展して考えると、
歴史上の偉人たちはもうひとつ4段階目のプロセスを経ているように思えます。
つまり、下図に示したように、
さらなる困難や妨害といった強力な下向きの力を受けながらも、
しかし、同時に、それを凌駕する上向きの力を得ながら高みに上がっていく、
それが偉大な人の生き様です。
で、このとき受ける上向きの力は、2段階目のときの「持ち上げ」とはまったく異なり、
これは共感や同志という名の堅固なエネルギーの力です。
偉大な仕事には、必ずそれを支える偉大な共感者や同志の力があったはずです。
私は4段階目にあって大きなことを成し遂げようとする人の姿を
広野に一本立つ大樹のイメージでとらえます。
その大樹は、高く立っているがゆえに、枝葉を大きく広げているがゆえに
風の抵抗をいっそう強く受ける。
しかしその大樹は、人びとの目印となり、勇気づけとなり、
暑い夏の日には広い木陰を与え、冷たい冬の雨の日には雨をしのぐ場所を与えてくれる。
そしていつごろからか、そこにつながる蹊(こみち)もできる。
春や秋には、樹の下で唄や踊りもはじまる。
そして、清史郎先生が樹を見上げてたたずみ、ひと言―――
「いや、あなたは、よくぞ“ちやほやの法則”を乗り越えて、ここまで来ましたな(敬礼)」。