「道に迷うこともあったが、それはある人びとにとっては、もともと本道というものが存在していないからのことだった」。
─── トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』(実吉捷郎訳、岩波文庫)
『トニオ・クレエゲル』は、ドイツの文豪トーマス・マン(1929年ノーベル文学賞受賞)の若き日の自画像小説です。
主人公トニオ(若き日のマン)は2つの気質を合わせ持っている。それは彼の出自が両極端な二つの方向から来たことによる。一方には、領事を務める父から受け継ぐ北ドイツの堅気な市民精神があり、もう一方には、イタリアで生まれた母から授かった開放的な芸術家気質がある。トニオは芸術家として立つことを決意するものの、鷹揚さや官能が支配する芸術の世界にどっぷり浸ろうとしても父方の血がそれを嫌悪して許さない。はたまた、ただ誠実に凡庸に生きるという市民的な生活に安住することにも、母方の血が黙ってはいない。この二つの気質の相克のなかで、何にもなりきれないでいる自らを「道に迷った俗人」と呼んだトニオの人生は、されど続いていく……。
人生にもともと“本道”なんてものはない。───トニオが吐露したこの言葉をどう受け止めるか、ここは読者にとって重要な箇所です。
小説の中でマンはこの後に、(本道というものがないのだから)どんな道を行くのも可能と思えるし、同時に、どんな道を行くのも不可能に思える、というような表現を加えています。私たちは人生において、さまよっているときは往々にして(特に芸術家はそうですが)、強気にポジティブになるとき(躁の状態)と、弱気でネガティブになるとき(鬱の状態)が交互にやってくるものです。『トニオ・クレエゲル』は、まさに主人公がこの躁鬱の振り子を大きく往ったり来たりする日々を繊細に描いた小説です。若きマンが、その躁鬱の苦悶から安らぎを得るためにたどり着いた一種の諦観──「人生において道に迷うことは必然なのだ」──それが冒頭の言葉です。
ゲーテも『ファウスト』の中で、「人は努めている間は迷うものだ」と書いています。おそらくマンもこの一文には触れていて、心のひだで共振していたのではないでしょうか。
私は仕事のうえでキャリア形成理論をかじっています。今日の学術的考察においては、「キャリア(職業人生)というものは偶発性に左右されることが無視できない。むしろその偶発性を意図的に呼び込むなかで選択肢を拡げ、キャリアをたくましく形成していくのがよろしい」と指摘する。この分野では有名な『計画された偶発性理論』」(Planned Happenstance Theory)です。同理論を提唱する米国スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授は次のように言います。
───「キャリアは予測できるものだという迷信に苦しむ人は少なくありません。“唯一無二の正しい仕事”を見つけなくてはならないと考え、それをあらかじめ知る術があるはずだと考えるから、先が見えないことへの不安にうちのめされてしまうのです」。(『その幸運は偶然ではないんです!』より)
確かにこの理論は、私も自身の20余年のキャリアを振り返ってみてじゅうぶん理解できるものではあります。ただ、学術知識として、観念として分かっても、やはり人生の悩みは人生の悩み。現実どこに自分を持っていくかは、依然大きな問題として眼前に横たわります。しかし、自分の歩むべき道を容易に定めることができない、その難しさこそが人生を深く、味わい深いものにしているのだと思います。
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「道」という言葉を耳にするとき、私は反射的に、東山魁夷の描いた作品『道』を思い浮かべます。ただ一本の道が続いていく、それを清澄な空気のなかに情感豊かに描いたあの名作です。東山はこの作品についてこう語っています。
「人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、私はこの本のはじめの章に書いている。その考え方はいまも変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の据え方、その方向というものが、かなりはっきりと定まってきた気がする。しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々(たんたん)として、在るがままに在る、ひとすじの道であった」。
(東山魁夷『風景との対話』。以下の引用も同著より)
東山はこのひとすじの道は、自分自身がこれから歩いていく方向の道を描いたと言っています。そしてその道は、“他力”によって見えてきたのだと。彼が言う「他力」は、「他力本願」といった場合に使われるような受け身で依存的な他力ではありません。そうしたひ弱な他力ではなく、死にもの狂いの自力で努力して努力して、そこを超えたところで出合う「おおいなる何か」という意味での他力です。
2つの世界大戦をまたぐ東山の幼少期、青年期の苦労話は割愛しますが、ともかくも彼は画家として目立った成果をあげられないまま昭和20年を迎えます。そしてこの年の7月(つまり終戦の1カ月前)、よもや37歳の東山まで召集令状を受け、直ちに熊本の部隊に配属されます。そこでは爆弾を身体に巻き付け、上陸してくる米軍戦車を想定した突撃訓練が行われていました。そんな訓練が続くある日、東山は熊本城の天守閣跡に登りました。そしてその日、そこからみた眺望がその後の運命の分岐点となりました。東山はこのように書いています。
「私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を――。
(中略)
これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに――歓喜と悔恨がこみ上げてきた。
あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない」。
結局、東山はそのまま終戦を迎え、すんでのところで戦場行きを免れました。その魂を震撼させられた体験から2年後、『残照』が日展の特選となり、政府買い上げの作品となりました。私たちが知る日本を代表する風景画家、東山魁夷の誕生はここからといってもよいでしょう。実に遅咲きでした。
『道』を描いたのはそれから3年後の昭和25年、42歳のときです。『残照』で高い評価を得、それで有頂天になるわけでもなく、かといって、戦後の激動社会の中で画家としてやっていくことに不安や悲観に支配されるわけでもなく――そこを東山は「明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく」と表現した――、ともかくもただ無心で眼前に現れた道を一歩一歩進んでいきたい、その心象が『道』なのです。つまり東山が言う「早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道」です。
人生の道というものを考えるとき、東山はこう表現します。
「いま、考えて見ても私は風景画家になるという方向に、だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。(中略:人生の旅の中にはいくつもの岐路があるが)私自身の意志よりも、もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが――」。
「生かされている」や「他力によって」などの言い回しは、私個人、若い頃は受け付けませんでした。「人生を動かすのはあくまで自分の能力・努力である。運を引き付けるのも実力があってこそ。自分は自らの意志で生きている」のだと、豊かな時代に育った血気盛んな青臭いちっぽけな自信家はそう思っていました。ところがそれは本当の苦労知らず、本当の自力・他力知らずの感覚だったことを、ようやく40代も半ばを過ぎたあたりから肚でわかるようになりました。
私も仕事柄、さまざまなキャリア・働き様の人びとを観察しています。そして自分自身もそれなりの歳月を生きてきました。そこから感じることは、
自力が弱い人は、他力をあてにする。
自力が強い人は、他力を軽視する。
自力が突き抜けた人は、“おおいなる他力”と出合う。
そして真摯な気持ちをもった人は、その“おおいなる他力”に抱かれながら、
“おおいなる自力”を発揮するようになる。
『民藝』運動を起こした柳宗悦も“他力”ということについて次のように言及しています。
「実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にかかる法則が働いているためであります。これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を超えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡(すべ)てかかる大きな他力であります。かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。
(柳宗悦『手仕事の日本』)
「欲求5段階説」で知られる心理学者のアブラハム・マスローは、その5番目にある欲求を「自己実現欲求」としました。彼もまた、この自己実現に関し、“おおいなる他力”に通底するものを指摘します。
「自己実現の達成は、逆説的に、自己や自己意識、利己主義の超越を一層可能にする。それは、人がホモノモスになる(同化する)こと、つまり、自分よりも一段と大きい全体の一部として、自己を投入することを容易にするのである」。
(アブラハム・マスロー『完全なる人間』)
「他力に任せきる」、「自分よりも一段と大きい全体に自己を投入する」───過去の哲人たちがこう言い示すように、虚心坦懐に一つの物事に努力を積み重ねていけば、やがて“他力”的なる何かを感得する境地に達するのでしょう。そこで見えてくる進むべき道は、確かな道にちがいありません。こういう話をすると何か宗教臭さを感じる人もいるでしょうが、この精神性は誰もが本然的に持っているものだと思います。
いずれにせよ東山の描いた『道』をいま一度画集で見ると、迷いがなくどっしりと、清らかに澄んだひとすじの道です。とても静かな絵ですが、東山の決心が横溢と迫ってきます。
* * * * *
最後にもう一つ「道」をめぐる言葉───
「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」。
(高村光太郎『道程』より)
東山は他力によって、眼前に進むべき一本の道を見ました。そして高村はこれと視点が逆で、自分の後方に道を見ます(それは自らがつくった道であるわけですが)。この有名な一行においては、高村は力強い“自力”を書いているように感じます。ですが詩の全体を読むと、「自然」や「父」という語で自分を育み慈しむ“おおいなる他力”の存在を書いています。高村もまた、他力のもとの自力を覚知していたのです。
前に見えてくるものであろうと、後に出来てくるものであろうと、「道」とは、その人の決心や覚悟といったものの表れです。おのれの道を潔く真剣に歩んでいる人を、私たちは美しいと思う。
「私たちは仕事によって、望むものを手に入れるのではなく、
仕事をしていくなかで、何を望むべきかを学んでいく」。
───ジョシュア・ハルバースタム 『仕事と幸福そして人生について』
私が研修の中でよくやるディスカッションテーマの1つが───
「お金を得ることは、働くこと(仕事)の目的か?」である。
ありふれたテーマのようだが、実際、このことについてしっかりと討論をする機会は日常ほとんどないように思う。だから、研修でじっくり時間をとってグループでやってみると、実に熱くなるし、さまざまな考え方が出るので面白い。各グループに結論を発表させるのだが、おおかた、グループで統一の見解は形成されず、「こんな意見も出ましたが、一方でこんな意見もあり、なかなかまとまらず……」のような発表になる。いや、それでいいのだ。このテーマについて、もしすんなり統一見解が出せるようなら、この人間社会はそれだけ薄っぺらなものだという証拠になってしまう。金に対する意識や欲の度合いが人により千差万別だからこそ、この人間社会は複雑で奥が深いとも言える。
だからこの問いに唯一無二の正解はない。講師である私ができることは、古今東西、人は労働とお金(金銭的報酬)、あるいは金欲についてどう考えてきたかを、偉人や賢人たちの言葉を紹介しながら、個々の受講者が自分にもっとも腹落ちする答えを見つけてもらうことだ。各自が「きょうからもっと働こう」「もっと稼ごう」と思える解釈を引き出せたなら、このディスカッションは成功だ。
私が引用する偉人・賢人たちの言葉はさまざまあるが、その1つが冒頭に掲げたハルバースタムのものである。米・コロンビア大学で哲学の教鞭を執る人物だけあって、実に味わい深い表現だと思う。
ここには2つの仕事観が描かれている。1番目は「望むものを手に入れる」ことが目的化した働き方だ。この目的は、必然的にお金を多く得たいという欲望と直接結びついている。「働くこと」はその手段として置かれる。
2番目の仕事観は、「何を望むかを学んでいく」ことが目的となっている。このとき、学んでいくプロセスはまさに「働くこと」そのものに内在しているので、「働くこと」は手段ともなり目的ともなる。そのプロセスに没頭して面白がる、気がつくと、お金がもらえていた。それがこの仕事観の特徴だ。
私自身、最初メーカーに就職し、次に出版社に転職をした。メーカーにいるころは、ヒット商品を出すことに熱中し仕事に励んだ。出版社に移ってからは、よい記事を書き、よい雑誌をつくることに専念した。多忙でストレスもあり、きつい仕事でもあったが、面白がれる仕事をして給料がもらえるなら幸せなことだといつも思っていた。
ただ、20代から30代半ばまでは、自分が望むべきもの、つまり夢や志、働く大きな意味のようなものはなかなか見つけられなかった。いろいろ見えてきはじめたのは30代の終わりころ。いくつかの出来事が重なり、「自分が望むべき道は教育の分野である」との内側からの声がしっかり聞こえてきた(それはいま振り返ると、必然の出来事だったように思う)。
2番目の意識に立つ人にとって、働くことは、いわば「自分が何を望むべきか」を“彫刻する営み”となってくる。日々の大小の仕事は一刀一刀彫っていく作業である。最初は自分でも何を彫っているのかはわからない。しかし、5年10年と経っていくうちに、じょじょに自分の彫るべきものが見えてくる。途中まで何となくAを彫っていたつもりだったが、途中からBに変えたということが起こってもいい。
ミケランジェロは、石の塊を前に、最初から彫るべきものの姿を完全に頭に描いたわけではない。一刀一刀を石に入れながら、イメージを探していくのだ。彫ろうとするものを知るには、彫り続けねばならない。そして彫りあがってみて、結果的に「あぁ、自分が彫りたかったものはこれだったのか」と確かめることができる。
研修でのディスカッションを聞いていて気づくことは、いまの仕事がつまらない、やらされ感がある、労役的であると思っている人は、1番目の「仕事観X」に傾く。仕事は我慢であり、ストレスであり、その憂さ晴らしにせめて何かいい物を買いたい、何か楽しい余暇を過ごしたい。そのためにはお金が要る。そういった心理回路だ。人生の喜びの見出し先は働くことにはなく、お金を交換して得られる物や余暇に向いている。
逆に、仕事自体が面白い、仕事を通して何か社会に貢献していきたいというような想いを持っている人は、2番目の「仕事観Y」に近さを感じる。もちろん若い社員たちは十分に高い年収を得ているわけではないから、経済的に裕福とはいえない。ローンや子どもを抱えていればなおさらだ。しかし、そんななかでも、仕事観Yを強く抱いている人は意外に多い。ただ、自分の「望むべきこと」(=夢や志、意味的なもの)がすぐに見えてこないことに焦りや不安を感じるのだ。仕事観Xのもとでは、お金さえ用意すれば、望む物と即座に交換でき満足が得られることとは対照的である。
「仕事観X」と「仕事観Y」とを比べて、どちらが良い悪いということではない。誰しもこの両方を持ち合わせている。その強さの割合が個人によって異なり、人生のときどきの状況によって変化するだけだ。ただ、働く意識の成熟化という観点で言えば、仕事観Xから仕事観Yに移行するのが成熟化の流れなのだろう。エイブラハム・マズローの概念を借りれば、「生存欲求」から「自己実現欲求」への移行だ。
平成ニッポンの世に生まれ合わせた私たちにとって、仕事観Xにどっぷり浸かって生涯を終えるのはなんとも残念だと思う。仕事観Yのもと、自分の望むものが何かを彫刻していく喜びをしっかりと味わいたいものだ。ただし、喜びとはいえ、それは真剣な戦いである。
私は桜の終わりの季節を迎えると、一人の匠の言葉を思い出します。
志村ふくみさんは、染織作家で人間国宝にも選ばれた方です。
彼女によれば、
淡いピンクの桜色を染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るそうなのですが、
春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、
あのピンク色は出ないのだといいます。
秋のころの桜の木ではダメなのです。
「植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。
たとえ色は出ても、精ではないのです。
花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、
花そのものでは染まりません」。
「色はただの色ではなく、木の精なのです。
色の背後に一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです」。
───(志村ふくみ『一色一生』より)
さらに、志村さんの言葉です。
「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。
桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、
その時期に切って染めれば色が出る。
……結局、花へいくいのちを私がいただいている、
であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、
いただいたということのあかしが……。
自然の恵みをだれがいただくかといえば、
ほんとうは花が咲くのが自然なのに、私がいただくんだから、
やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしいっていうような気持ちが、
しぜんに湧いてきたんですね」。
───(梅原猛対談集『芸術の世界〈上〉』より)
現代では、多くの労働者が第三次(第四次)産業に就き、
仕事の対象がますます情報・知識に向かっている。
そしてサラリーによって雇われ、空調のきいたビルの中で、
パソコン端末の窓の中に頭を泳がす。
頭を泳がす先にあるのは、利益獲得という得点ゲーム。
ゲーム展開は『エクセル』シートのタテ・ヨコに並んだ膨大な数値が
刻々と上がり下がりすることで示される。
だからこそ勝ち負けがはっきりしてビジネスは面白い!ということでもあるのだろうが、
そこにあるのは「仕事の興奮」であって、
「仕事の幸福」ではないような気がする。
現代の多くのビジネスパーソンにとって、
上の志村さんの言葉は、気に留めることもない遠いささやきのように思える。
ビジネス現場での仕事が、ますます、生命や自然と切り離されてゆく。
そして一方、癒しの露天温泉や登山・キャンピングなどが人気レジャーになる。
仕事は仕事で、人工的な装置とルールの中で数取りゲームをやり、
休みは休みで、自然をカラダの中に取り込みに行く(渋滞道路にストレスを溜めながら)。
そんな分離の姿は、それこそ不自然なのだが、そうするしかないのだろう。
自然を考えることや生命を感じ取ることが普段の生活の中にあり、
そしてそれが、仕事にも当たり前のように結び付いてくる。
それは、近代までの農業的・職人的な仕事生活でしか適用できないものだろうか。
(これはウィリアム・モリス『ユートピアだより』1890年以来の問題でもある)
いや、自然や生命への希求は人間が本然(ほんねん)として持っているものだから、
現代の情報・知識産業の現場においても、
一人一人の働き手が、仕事の根底に据えていいはずものである。
企業の研修現場は、スキル・知識を習得させることに忙しい。
そんな中で、私は「観」を涵養するプログラムを押し進めていく。
桜は咲いてよし、はらはらと散ってよし。そして散り積もってよし。
水面に並び浮かぶ花びらを「筏(いかだ)」と見立てたのは何とも古人の風流心。
人の欲望にあらかじめ、それが「よいもの」「わるいもの」というラベルが貼ってあるわけではない。「こうしたい」「ああなりたい」「あれがほしい・これを手に入れたい」といったエネルギーは、人を育てもするし、惑わしもするし、壊しもする。
若いころの欲は、往々にして、「具体的で功利的な結果」を求め、「自己に閉じがち」である。しかし、その人が“よく成熟化”していくと、欲の性質が変わっていくように思える。つまり、「意味の感じられるプロセス」を求め、「他者に開いていく」心持ちになっていく。
ただし、この変化はそこに書いたように“よく成熟化”した人間が得られるのであって、年齢とともによく成熟化ができないと、依然、欲は結果に拘泥し、自己に閉じたまま、いやむしろ、それが強まりさえしてしまう。
私自身、決してよく成熟化しているとは言えない凡夫なのであるが、個人的に振り返ってみるに、やはり20代、30代の欲は、功名心や野心めいたものの力が強かったように思う。
メーカーで商品開発を担当し、次に出版社に転職をして雑誌の編集をやったが、「ヒット商品を当てて世間を騒がせたい」「スゴイ記事を書いて世の中を驚かせたい」と鼻息は荒かった。そのためにいつも自分が担当した商品や記事の販売数や閲読率という数字に執着していた。成功者になりたいというエネルギーは、多分に自己顕示欲を満たしたい、自己優越感に浸りたいといった感情を連れ添っていた。
また、「自己実現」という言葉が流行ったときでもあり、「そうだ、すべてはジコジツゲンのためだ!」とストレスと疲労が溜まっても自分にモチベーションを与えて頑張っていた。が、いま考えると、その自己実現は「利己実現」ではなかったかと恥ずかしくなる。
しかし、年を重ねるとは、有難や、不思議な影響を人間に与えてくるもので、私は41歳でサラリーマンを辞め、教育事業で独立をした。理由の1つには、“消費されない仕事”をしたい。消費されない仕事とは、人をつくる仕事だと思うようになったこと。そしてもう1つは、「大きな目的のために自分を使いたい」と心持ちが変化したことだ。
私は子供のころから身体が丈夫なほうではない。大病こそせずに済んでいるが、いつも身体のことを気にかけている。もし私が、昭和以前に生まれていたなら、この生物的に弱いつくりの個体は、とっくに何かで死んでいただろう。医療が発達し、物質が豊かで、衛生環境もよい現代の日本に生を受けたからこそ、ようやく私は人並みに働くことができ、生きている。
私は40歳になったとき、「40以上の寿命は天からの授かりものと思って、今後はもっと世のため人のためにこのアタマとカラダを使いたい」と思った。
そういえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、あの1970年「よど号ハイジャック事件」に乗客として遭遇し、無事解放されたときに、「これからの人生は与えられた人生だから、人のために身をささげようと決心した」と語ったエピソードは有名である。そしてまさに、先生はそうされている。
さて、この記事で私が何を言いたいかというと、
1)心の成熟化に伴って、「成功」志向は弱まっていき、「意味」志向になる
2)つまり、成功という「功利的結果」を手にするよりも、
意味のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に
喜びを感じるようになる
3)とはいえ、若いうちは大いに成功を目指し、結果を出すことを習慣づけるべき
そのあたりのことを、賢人たちの言葉から補ってみたい。
「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。
だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。
───大原総一郎 (『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より)
「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。
───湯川秀樹 (『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)
このお二人の無私で透明感のある言葉を、ようやく私は咀嚼できるようになってきた。しかし、仕事上で20代、30代の若い世代に「仕事観」を醸成する研修を行っている私は、こうした賢人の達観を伝えるとともに、次のメッセージも届けなければならないと感じている。それは、
「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。
───マルチナ・ナブラチロワ (テニスプレイヤー)
母国チェコスロバキアを逃れてアメリカに亡命し、70~80年代に黄金の歴史を築いた女子プロテニス界最強の一人が言うのだから、実にすごみのある言葉である。
そう、やはり、勝つという結果にはこだわるべきなのだ。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいいのだ。最初から結果を軽視して、「私はプロセス重視派です」なんていうのは、実際のところ、怠慢か逃避の言い訳である。そういう姿勢は、結局、先の二人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなる。
逆に、若いうちに成功を求め、結果を追った者ほど、ある人生の段階に入ったときに、二人の言葉がふぅーっと心に入りやすくなる。なぜなら、欲は、よいものもわるいものも、利己的なものも利他的なものも、“ひとつながり”だからだ。欲の質は縁(きっかけ)に触れて変わる。仏教はそれを「煩悩即菩提」と教えている。
「結果」と「プロセス」を語るとき、そして「成功」について語るとき、そこに忘れてはならないワードは、「目的」である(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが「開いた意味」に根ざしているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくだろう。代わって、プロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってくる。しかもそれは持続的である。結果や成功を得ることが、ある種、一時的な興奮・高揚であるのとは対照的である。
とまぁ、ややこしいことをややこしく書いたが、要は、動くことなんだろうと思う。動くことからすべてが起こる。動くほどに、ものが見えてくる。動くほどに、同じように動いている人と結び付く。そしてその人たちの影響を受けて、さらにものが見えてくる。さらに動こうという欲求が起こってくる。
【姉妹記事】
○「成功」と「幸福」は別ものである <中>
○「成功」と「幸福」は別ものである <下>
○「結果とプロセス―――どちらが大事か?」
京都駅にて
清春芸術村(山梨県北杜市長坂町)のアトリエ「ラ・リューシュ」
梅原龍三郎(1888-1986年)は戦前・戦後の日本を代表する洋画家である。
冒頭の言葉は、
梅原と親交の深かった画商・吉井長三氏の半自伝『銀座画廊物語』の中で紹介されている。
梅原の最晩年のエピソードを吉井氏はこう書いている―――
ある日、(梅原)先生のお宅にうかがうと、
「今朝起きたらバラがあんまり綺麗だったから、10号のキャンバスに描いてみた」
と仰り、書生の高久さんに、「吉井君にその絵を見せてあげてくれ」と言われた。
高久さんが怪訝な顔をして、
「どこにあるんですか。今朝そんな絵をお描きになりましたか」と言うと、
「いや、描いた。そこに伏せてあるからね、それを見せてあげなさい」
と念を押される。しかし、絵はどこにもなかった。
この話を数日後、私は小林秀雄先生にした。
「梅原先生も最近錯覚するようになりましてね、
描いてないものを描いたと言っておられるんですよ」と言うと、
「それは君、錯覚じゃないよ。それは空で描いているんだよ。
そういうことを勘違いしてはいかん」と小林先生は言われた。
「これは素晴らしい話だよ。言葉が絵なんだから」
最晩年には、高久さんがキャンバスや絵の具を用意しても、
梅原先生は絵筆をとろうとしなくなった。そして、こう仰った。
「美しいものが実によく見えるようになったから、もう絵は描かなくていいんだ」
「もう絵は描かなくていいんだ」―――私はこの末尾の一行を読んだ刹那、
椅子から立ち上がり、唸り声を上げてしまった。
繰り返し読むほどに、梅原の一言はなんとも重く、広く、味わい深い。
表現する営みがすなわち生きる営みである芸術家にとって、
表現をやめるなどということは、ふつう考えられない。
私のような半端なもの書きであっても、死ぬ間際まで何かを書き続けたい、
思考と技術を向上させたい、形にしたものを人に触れさせたいと熱望するものだ。
モネは、ほとんど視力を失っても睡蓮を描き続けようとしたし、
マティスは、筆が持てなくなると、今度はハサミを持って切り絵で表現しようとした。
ベートーベンは聴力が不自由になっても、耳をピアノの板に押しつけながら第九を遺した。
ピーター・ドラッカーにしても、最晩年に記者から
「これまでの最高の自著は何か」と訊かれ、「次に書く本だよ」と答えたという。
風貌や画風から見てとれるとおり、豪放磊落な生命が横溢するあの日本洋画壇の巨人が、
そうやすやすと「もう描かなくていい」とは口にするはずがない。
それだけにこの一言を発した心境を想像することは実に面白い。
───私は、梅原龍三郎がついに「諦(あきら)め」の境地に達したのだと解する。
ちなみにここで、「諦める」という言葉について道草をしておきたい。
「諦める」とは「明らめる・明らかにする」が原義である。
すべてのことが明らかになるということで、「諦」は「真理・悟り」を意味する。
現代の口語で「諦める」は、中途半端に断念・中断するという意味で使われるが、
本来はそんななよなよした言葉ではない。
古典文学研究者である中西進氏の著書『ひらがなでよめばわかる日本語』に
「あきらめる」に触れた箇所があるので、それを抜き出してみる。───
ものごとの状態を明らかにするよう、十分に努力をし、もうこれ以上はできないというところでやめる。それが「あきらめる」なのですね。「諦」という漢字をあててしまったことで、本来の意味がわかりにくくなっていますが、「あきらめる」には本来、今日使われているような、「もうしようがないや」とものごとを投げ出すような、ネガティブなイメージはありませんでした。
おもしろいことに、英語の「ギブ・アップ(give up)」も同じです。「ギブ」を「アップ」する。あることを成し遂げるため八方手を尽くし、「ギブ」していく。そして、もうこれ以上「ギブ」できないところまできて、「アップ」する。そういうふうに考えれば、ただ「降参する」のではなく、「十分」という意味が生きてくるでしょう。
日本語の「あきらめる」も、英語の「ギブ・アップ」も、今日使われているようなネガティブなことばではなく、もっとポジティブな意味をもっているのです。単に努力の放棄ではない。努力に努力を重ねた結果、もう十分であるという結論に達した。それが「ギブ・アップ」であり、「あきらめる」ことであると、私たちは考えないといけないのです。
……そうした「諦める」の本義を確認したところで、改めて、
梅原は最晩年、とうとう「諦め」の境地に達したのだと私は思う。
おそらく梅原は、本当は死ぬ間際まで筆をとって描きたかったに違いない。
しかし、いつごろからか、眼や手や身体が思うとおりにならなくなった。
そんな無様な状態を、そして間近に来る死を受け入れるには相当の憂悶と抵抗があったはずだ。
しかし、その大きな受容と入れ違いに
頭がかつてないほど冴えわたるようになってきたのではないか。
そして彼の言葉どおり、
「美しいものが実によく見える」ようになった。
画家にしても何にしても、作家というものは、
作品という外形物をこしらえて初めて、自分の見たもの、創造したかったものを確認する。
だが、梅原にあっては、いよいよ、作品をこしらえずとも、
(小林秀雄の表現を借りれば“空で描いて”)ものが見えるようになった。
作品の最終形まで頭の中で手触りできるようになった。
だから、もう筆で描くことに執着することもない、あきらめよう、となったのだろう。
この状態こそまさに「明らかなる」境地であり、「諦め」の境地だ。
梅原はなんと幸福な人間だろう。
生きている間に芸術家として高い評価を受け、作品は多くの人に愛された。
98星霜を生きて、ついに「諦める」ことができた。
燃え尽きて灰になるのでもなく、
余生の日々を無為に存(ながら)えるのでもなく、
この世に悔いを残すでもなく、
この世の欲に執着するでもなく、
じゅうぶんに描ききり、じゅうぶんに感じきった生涯。
生き方も、逝き方もかくありたいと思えるひとつのモデルである。