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選択[3] ~登る山は無限にある

第5章〈人生〉#06


〈じっと考えてみよう〉

=甲子園球児の挫折=

雄大(ゆうだい)は小学校のころから天才ピッチャーと言われた野球少年である。もちろんプロ野球選手になるという夢をもっている。プロの世界に入ることは、はるか高い山の頂上を目指すことであり〈図のD点〉、日々練習に明け暮れた。中学でさらに実力をつけ、名門野球部のあるK高校に入学した。2年生からエースを任された雄大は甲子園でおおいに活躍し、世間からさわがれる存在になった。そして2度目の甲子園出場となる3年生の夏の大会。雄大はたくみな投球でチームを勝利にみちびいていった。結果的に準決勝で破れはしたものの、プロ球団のスカウトたちに雄大がプロでも通用する逸材であることを示すにはじゅうぶんな試合内容だった〈B点〉。

このままいけば、ドラフト会議に自分の名前があがって〈C点〉、晴れてどこかのプロ球団に入ることができ、念願だった目標の山〈D点〉に登れることを確信していた。

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ところが、そんな矢先、肩に重大な異常があることが判明した。医者からは、このまま野球を続けると、肩が一生動かなくなるかもしれないと告げられた。手術によって肩は正常にもどるが、野球は趣味くらいにしかできなくなるという。その瞬間、雄大の夢は無残にもくだけ散った〈X点〉。

雄大は1週間泣きくれた。なにも考えられなくなっていた。もう、自分の頭のなかには、プロ野球選手になるという山を望むことはできない。では、この先、なんの山を目指していけばいいのか……。しかし、現実の時間はどんどん進む。就職するのか、大学へ進むのか、決断しなくてはならなかった。


□もし、あなたが雄大だったら、今後の人生の方向をどう考えていくでしょうか? 夢破れた後に、新しい夢を見ようとするでしょうか?



小さいころから一途(いちず)に思い描いた夢。その夢が大きければ大きいほど、そして実現への可能性が高ければ高いほど、それを失ったときの苦しみは大きいものです。雄大はプロ野球選手になるという大きな山を目指していました。そしてたしかに8合目あたりまで来ていました。 が、登頂への道が体の重大な故障によって絶たれてしまった。野球一筋で駆けてきて、いまからなにを目指せばいいのか。野球選手以外の山をどう見つければいいのか。苦しみや悲しみに浸っているひまはありません。雄大の高校卒業は間近です。就職か進学かの決断が迫っています。そこでの決断は、これからまだ何十年と続く人生のスタートになるのです。

さて、あなたが雄大の状況にあったら、今後の人生の方向をどう考えていくでしょう。

失った夢があまりに大きく、挫折が大きいと、「あれほどの夢は見られない。夢を持つのはもうやめよう」という気持ちになるのは無理のないことかもしれません。そのため、適当に就職か進学をして、無難に生きていこうとするかもしれません。それは一つの選択としてあるでしょう。ただ、夢の敗北者として一生悔やみ続けることになるかもしれません。

それに対し、なにか別の山を見つけて新たに歩み出すという生き方もあります。そのとき雄大は決して野球をあきらめる必要はありません。むしろ野球に関連することで別の夢はいくらでも探せるのです。そこで大事になってくるのが、自分の「思い」はなになのかをもう一度しっかり見つめることです。ここで言う「思い」とは、心の奥底からわいてくる願い、誓い、満たしたい意味といったものです。となると、雄大の思いはなんでしょう。プロ野球選手になるという願いのさらに奥にある願いはなんでしょう……。

たとえばそれは「野球とともにある一生を送りたい」「名勝負を生みだすことにかかわることのできる自分でいたい」ということではないでしょうか。そうした根底にある「思い」をレンズにすれば、世の中には新たに目指すべき山がいろいろ見えてきます〈図2〉。

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たとえば、グローブやシューズのなどの製品開発にたずさわって「野球道具開発者になる」という山が見えてくる。また、「スポーツトレーナーになる」という山も見えてかもしれません。さらに「野球審判員になる」「スポーツ新聞記者になる」などの山もあるでしょう。そのように、思いを捨てない人の前には、それこそ山は無限に現われてきます。そして、そのどれになるにしても、過去の挫折を乗り越えた自分が生きてくるような内容の仕事ができるでしょう。つまり雄大は、さほど明確な理由をもたずにその職についた人より、はるかに強く思いのこもった仕事ができるはずです。

もちろん、それらの山を登っていくためには、準備を一(いち)から始めなくてはならないでしょう。しかし、その方向性さえ見えていれば、就職するにせよ、大学進学するにせよ、目的意識をもって進むことができます。新たに目指した山の頂上にたどり着くためには、5年かかるかもしれないし、10年かかるかもしれない。回り道も必要かもしれない。けれど、思いのもとに進んでいる自分には強い力がわいてきて、悔いがありません。たとえ長い道のりであっても楽しめるはずです。

そしてもし努力を重ねて、その新たに目指した山の頂上に立つときがきたなら、かつて自分があこがれた「プロ野球選手になる」という山を遠くになつかしく眺めるでしょう。そして「あぁ、あの山もすばらしいけど、自分が登ったこの山だって、それに負けないくらいすばらしい!」と思うにちがいありません。そのときの充実感こそ、ほんものの勝利の充実感です。

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=雄大のその後=

雄大は高校を卒業して造園会社に就職した。理由は、日本一の天然芝のプロになろうと思ったからだ。天然芝は、野球場やサッカー場、ゴルフ場に張られている。日本では人工芝が多くなったとはいえ、格式のある競技場では天然芝が使われる。雄大が入社した造園会社は、その天然芝を生産し、競技場に販売し、管理する事業を行っている。

雄大は思う───「思い返せば、甲子園球場で黙々と芝を刈る人、水をまく人。あの人たちの背中はかっこよかった。いま自分も天然芝をあつかう仕事につき、競技場の芝を最高の状態にすることで選手のプレーを支えたい、名勝負が生まれる環境をつくりたい。選手になる夢はかなわなかったけど、その分の思いを芝に込めて生きていきたい」。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

 
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選択[2] ~選択肢をつくりだす

第5章〈人生〉#05

〈じっと考えてみよう〉

ある小国の貧しい貴族の家に3人の娘(甲娘・乙娘・丙娘)がいた。3人とも10代のおしゃれ盛りで、着る服について好みが強かった。が、家は裕福ではなかったので娘たちに買ってやるドレスは少なかった。

甲娘はいつもこう漏らす―――「なぜ私には3着しかドレスがないの。しかも格好の悪いものばかり。いまどきこんな古い型なんて恥ずかしい。ああ、今晩の舞踏会になにを着ていけっていうの。このなかから選べと言われても選べないわ」。

それに対し、乙娘はというと、裁縫道具や布切れを部屋に広げ、手持ちのドレスに自分で手を加えている。―――「この部分はこう作り変えてしまえばいいかな。あ、そうだ、この素材を縫い付ければ今風になるわね。あと、ドレスを上下に分けてしまえば、いろいろと組み合わせもできるし、手元に3着しかなくても、5着、10着にも見た目を増やせるわ」。

一方、丙娘は、町でドレス作りを商売にしている職人やデザイナーを何人も広間に集めていた。丙娘は彼らを前に熱く語り始めた―――「ドレス作りを我が町の産業として有名にしていきましょう。来月行われる舞踏会には、国じゅうから貴族たちが集まります。王女も来るでしょう。そこであなたたちの腕前を見せつけるのです。最高のドレスを何着も作ってください。私がモデルになって宣伝しましょう」。


□ 3人の娘のうち、選択できるドレスの種類がもっとも限られているのはだれでしょう? 
逆に、もっとも豊富なのはだれでしょう?


□ 3人の娘の間でそういった選択肢の多さに差が出たのはなぜでしょう? 
各人の心の姿勢に着目して考えてみましょう。

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 わたしたちは日々、なにかを選択しながら生きています。A、B、C、D……、目の前にはいくつかの選択肢があって、どれかを選んでいく。たとえば、レストランに行けば、メニューにはたくさんの料理がのっていて、そこから食べたいものを選びます。家電店に行けば、テレビが何種類も並んでいて、価格や機能、予算に応じて選んで買います。高校や大学もそうです。自分の学力や家庭の経済力に合わせて、学校を選んでいきます。選べるものがたくさんあって迷うときもあれば、選べるものが少ない、あるいはまったくなくて困るときもあります。さて、そんな選択肢をめぐることについて、3人の娘の例で考えていきましょう。

自分が舞踏会用に着ていくドレスで、どれだけのものから選ぶことができるか。まず、甲娘が選べるのは3種類だけです。彼女は与えられたドレスからしか選ぼうとしていないからです。一方、乙娘はどうでしょう。彼女は与えられたドレスに自分でアレンジを加え、着こなせるパターンを5種類や10種類に増やしています。さらに丙娘となると、ドレス職人を集めて、さまざまに新しいドレスを作らせて、自分で着てしまおうというアイデアと行動を起こしています。おそらく丙娘が着られるドレスは種類も多いし、質も高いものになるでしょう。なにせ、腕前のいい職人が意気込んでドレスを作るのですから。

このように選択肢がもっとも限られるのは甲娘で、逆にもっとも豊富なのは丙娘です。では、なぜこのような差が生まれるのでしょう?―――それは、ただ目の前にある選択肢を選り好みしているだけなのか、あるいは、選択肢をあらたにつくりだそうとするのか、という心の姿勢の差にあります。

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甲娘は、与えられた選択肢にいろいろと文句はつけるだけで、選択肢を増やそうという努力をしていません。「これもダメ」、「あれもバツ!」と言って、最後には「ああ、自分は恵まれていない」とぐちをこぼす姿勢です。これでは自分の選べるものがじり貧になってしまいます。

それに対し、乙娘は自分の力で選択肢を増やそうとしています。手持ちのものが自分の好みや都合に合わないのなら、合うように変えていく努力をしているのです。

丙娘は選択肢を増やすために、もっと積極的に取り組んでいます。自分の力だけでなく、他人の力も巻き込んでやろうという計画です。しかも協力してくれるみんながハッピーになれるような働きかけをしています。そうやって丙娘は、たくさんの、しかも新しいドレスのなかから選べる状況をつくりだしました。


わたしたちは小さいころからいろいろと選択肢を与えられます。「こっちの青と、あっちの赤とどっちがいい? 好きなほうの服を選びなさい」「晩ごはんはカレーにする? ハンバーグにする? 食べたいほうはどっち?」「この予算内で自分が買いたい自転車を決めなさい」「あなたの実力で合格できそうなのはA校かB校です。どちらの受験を決意しますか?」など。親や先生があらかじめ示してくれた選択肢を子どもは受け取り、そのなかから自分に合ったもの、自分がよいと思うものを選ぶ。そうした過程で、子どもはものを比較したり、判断したりする力をつけていきます。これは一つの大事な成長です。

けれど、その成長は一つの段階にすぎません。なぜなら、それは与えられたものから選んでいるだけだからです。次の成長段階は、選択肢をみずからつくりだすということにあります。

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いま、あなたの目の前には「A・B・C」の3つの選択肢があるとしましょう。そして、その3つにどれも満足できないとします。さて、あなたはどうしますか? 

文句を言って全部を拒否するか―――でも、そうやって投げやりになって、状況がよくなるためしはありません。

または、しょうがないなと言ってどれかを選んでがまんするか―――でも、妥協ばかりを積み上げてこしらえた人生はどこかさびしい。

あるいは、新しく「D」という選択肢、あるいは「E」という選択肢を創造しようとするか―――そう、そういう強い心の姿勢をとれる人が、人生をどんどんひらいていく人なんでしょう。

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]




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