「美しい」について[3]~美はそれを見つめる心のなかにある

第3章〈価値〉#06

 

〈じっと考える材料〉

4月。桜が満開の朝、玲子と夏穂は桜並木の通学路を歩いている。

夏穂:
桜ってほんとうにきれいだね。

玲子:
うん、そうね。ぱっと景色が明るくなっていいわね。でも、わたし、基本的にピンクが好きだけど、桜の色はちょっとか弱すぎる。もっと強めのピンク色がいいのよ。バラのピンクみたいな。

夏穂:
わたしはこういう繊細なところがいいと思うんだ。か弱いように見えて、まだ肌寒い春にしっかりと咲くところが。

玲子:
うちのおばあちゃんは、「散るときの桜が一番きれいだ」って言ってたな。去年、入院してたとき、病院の窓から散っていく桜の花を一日中ずーっとながめてた。そのすぐあとだったなぁ、亡くなったの。

(と、2人が前を見ると、翔太が肩を落として歩いている)

玲子:
翔太、おはよう。どうしたの、浮かない顔をして。

翔太:
きのう、サッカーの試合に負けたんだ。ぼくのプレーが原因さ。あぁ、なんであのときあんなミスをしたんだろう。

玲子:
そんなこと悔やんでも時間は戻らないわ。これからどうやればもっと強くなれるかを考えなさいよ。ところで、ほら、桜が満開でとてもきれいよ。

翔太:
あ、満開だったんだ。気づかなかった。でも、いまは桜見る気分じゃないよ。

夏穂:
みんな、いろんな桜を見ているのね。

□ 夏穂は最後に、「みんな、いろんな桜を見ている」と言いました。玲子、夏穂、玲子の祖母、翔太は、それぞれどんな桜をどのように見ていますか?

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春に咲く桜は、日本人の多くが美しいと感じるものです。しかし「桜は美しい」といっても、その「美しい」は人によってさまざまです。また、同じ人のなかでも、人生のときどきによって感じ方がちがってきます。では設問文でみていきましょう。

玲子は桜の花の色を見ています。目に入ってくる薄いピンク色が、景色をぱっと明るくしてきれいだと言っています。夏穂も花の色がきれいだと言っています。けれど彼女は同時に、花の色が一見か弱そうに見えながら、実は桜は肌寒いなかでしっかりと咲く生命力を内に秘めているところにも美しさを感じています。

この2人の違いはなにを意味しているのでしょう。それは美には、目に見えやすい「外面的な美」と、目に見えにくい「内奥的な美」の2つがあるということです。玲子はおもに、花の色という外側に現れる部分で美しいと感じている。夏穂はおもに、桜の木の内側からわいてくる生命力を見つめ、その力強さを美しいと感じています。

次に、玲子の祖母は桜をどう見ていたのでしょう。おそらく彼女は、自分の死期が近いことを知っていて、散りゆく桜に自分の状況を重ね合わせていたのではないでしょうか。さまざまな生命が生まれては死に、生まれては死ぬ無常の世界で、桜の花が短い間で一途(いちず)に咲こうとするけなげさとか、生命がどこからやってきて、どこへ消えていくのかという不思議さを考えていたのではないでしょうか。彼女は桜を見つめるとともに、自分のこれまでの一生を見つめ、目の前の桜から深い美しさを引き出していたのでしょう。

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こうした散っていく桜の美しさは、子どものころはあまり感じられないもので、大人になるにつれ、ましてや死を意識すればなおさら強く感じ取れるようになるものです。これは言ってみれば「大人が見る美」です。ここでいう大人とは、「人生経験や知識を積んだ」という意味です。世の中には人生経験や知識を積むことによって見えてくる美があるのです。

たとえば寺社建築や仏像を思い起こしてください。あなたたちは学校の社会見学や修学旅行でお寺に行き、仏像を見たことがあるでしょう。多くの学生は、ああいったものをまだ「美しい」とは思えないかもしれません。思えたとしても、「なんとなく威厳があって、存在感がある」くらいではないでしょうか。

ところが歳を重ねて、日本の古いものに何度も触れ、忙しい毎日を送り、また歴史や伝統に関する知識が増してくると、お寺の造りがとても優れたものであり、そこがとても安らぐ空間であり、仏像彫刻が奥深いものであることに、ふと気づくときがきます。これらの美しさは、「渋い」とか「粋(いき)である」とか、「慈悲に満ちた」「わび・さび」といった種類に属するものです。これらを味わうためには、どうしても見る人の成熟が必要になってきます。建築物や伝統工芸品、芸術作品などは「大人が見る美」の典型です。

しかし一方で、大人になるにつれ見えなくなる美もあります。それをここでは「子どもが見る美」と名づけましょう。たとえば、昆虫を手に取って、その体のつくりとか動きのしなやかさを食い入るように見つめるとき。あるいは、野原で花をつんで、その繊細な模様に目をこらし、においをかいでいるとき。おそらく、あなたは好奇心に満ちて全神経をそこに集中させ、自然と一体になっています。それはまちがいなく美を感じている瞬間で、子どもにしか感じることのできないものです。多くの大人は成長するにしたがい、そうした好奇心をなくしていき、純粋無垢(じゅんすいむく)にものごとを見つめられなくなるのです。

さて、再び設問にもどって、翔太は桜をどう見ていたのでしょう。残念ながら翔太はそのとき、桜の美しさを味わっている心の余裕がありませんでした。もし、サッカーの試合での失敗がなければ、彼は玲子や夏穂といっしょになって、桜をめでていたでしょう。

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このように、同じ桜の花に対して、これだけ違った「美しい」の受け取りがある。桜は人間がそれを美しいとか美しくないとか言うのとは無関係に、ただ咲いているだけです。となると、美はいったいどこにあるのでしょうか。

もちろん「美しい」のもとになる性質は桜が持っています。桜が地に根を張り、冬の寒さをじっと耐えて、一生懸命に繊細な色合いの花を咲かせようとしている。それは良いことに通じ、生きる力の根源に近い性質です。ただ、その性質がそのまま「美しい」ということではありません。「美しい」というのは、あくまで人間が見い出し、感じるものなのです。そのため、いくら桜がすばらしく咲いていても、そこに人間がいて、「美しい」と感じてやらなければ、そこに美しい桜はなく、単に桜が咲いているだけなのです。したがって、美はどこにあるかといえば、それは最終的には、「美しい」と感じた人の心のなかにあるといえます。

[文:村山 昇|イラスト:サカイシヤスシ]


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「美しい」について[2]~個別の美と普遍の美

第3章〈価値〉#05



〈じっと考える材料〉

前回に引き続き、玲子(れいこ)、夏穂(なお)、翔太(しょうた)の3人が会話をしています

玲子:
MIKAKOはいつ見てもきれいだなぁ、美しすぎる。見てよこの写真。この洋服のコーディネート最高だと思わない。バッグのデザインもおしゃれだわ。今年はピンクが流行するのかしら。目元のメイクやヘアスタイルも完璧ね。


翔太:
(写真を見ながら)こんな派手なファッションがきれいだって、とんでもない。ごちゃごちゃしすぎだよ。そもそもぼくはこのピンクって色が好きじゃない。


玲子:
翔太は好き嫌いでファッションを見てるだけよ。美しいものを見分けるセンスってものがないのよ。じゃ、あなたはどんな服装がカッコイイと思うの。


翔太:
そうだな、たとえばこれだよ(持っていたサッカー雑誌を見せる。有名なプロサッカー選手のふだん着の写真がのっている)。ジーンズにTシャツ、シンプルでカッコイイだろ。ファッションは派手な色やデザインにごまかされちゃダメなんだ。着こなしが大事なのさ。


玲子:
そんなヨレヨレのジーンズ、趣味が悪いし、ぜんぜん着こなせていないわ。この服装がカッコよく見えるのは、翔太がこの選手をカッコイイと思っているからよ。この選手が着るものなら、あなたは何でもカッコイイって言うわ。ところで夏穂、あなたはどんな服がいいと思う?


夏穂:
わたしはユニフォーム姿の人にあこがれるな。キャビンアテンダント(旅客機の客室乗務員)とかホテルの人たちとか。ああいう働く服のきりっとした雰囲気が美しいと思う。あ、そうだ、きりっとしたという意味では、和服も好き。特に無地で落ち着いた色のもの。それを着ながら凜(りん)と歩いている女性って素敵だと思わない?


翔太:
それにしても夏穂は好みが大人だね。でも、地味だけどカッコイイということはあるような気がする。たとえばサッカーで、デフェンスがしぶとく相手にまとわりついてボールを奪うプレー。地味だけどカッコイイ。特にぼくはデフェンスやってるからよくわかるんだ。



□ この3人の会話では、美しい(あるいはカッコイイ、きれい、素敵)と感じるファッションについて、いろいろな意見が出ています。ファッションのように、美しいと感じるものが個人によってばらばらになるものをほかにもあげてみましょう。

□ では逆に、多くの人のあいだであまり意見のちがいがなく、だれもが美しいと感じるものをあげてみましょう。

□ 自分が美しいと感じたものに対し、ほかの人が「美しくない」と言ったとしましょう。その場合、その人の感じ方がまちがっているのでしょうか? それとも自分の感じ方がまちがっているのでしょうか? それとも、「まちがっている/まちがっていない」とは別の問題でしょうか?

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「どんなファッションをおしゃれと感じるか」「どんな顔がきれいか」ほど、人によって答えがちがうものはないかもしれません。ある人が「あの服装、センスいいね」と感じても、別の人は「えー、全然そう思わないけど」という場合はよくあります。また、ある人が「あの男優はハンサムね」と言っても、別の人は「あの男優のどこがハンサムなの?」と返す場合もよく起こります。

その他たとえば、「どんな自動車がカッコイイか」「どんな音楽が素敵か」なども意見が分かれるものです。ある人がほれぼれするようなロックギターの音色は、ある人にとっては耳ざわりな雑音にしか聞こえません。これらのことは、自分には自分の美しいがあり、他人には他人の美しいがあることを示しています。つまり「人が個別に感じる美」です。 

ところが、多くの人が共通して美しいなと言う「みなが感じる美」のようなものもあります。たとえば、白い雪をいただいた雄大な富士山、青く透明に輝く海、夜空に打ち上がる花火など。これらのものを美しくないという人はいないでしょう。そこには普遍的な美があります。

人間は「美しい」を目で感じたり、耳で感じたり、心で感じたり、また頭で思ったりします。その意味で、人間はからだ全体が「美の受信機」になっています。ただ、その受信能力は人それぞれです。ものごとに接して、そこからなにか「美の波長」のようなものを受信する感度、受信する傾向性(クセと言ってもいいでしょう)は一人一人ちがっているのです。

翔太が見せたサッカー選手のファッションが翔太には美しく見えて、玲子には美しく見えないことが起こるのはなぜでしょう。その理由は、そのファッションの発する「美の波長」が、翔太の「美の受信機」にはピーンと合うけれど、玲子の「美の受信機」には合わないからです。

その一方で、白い雪をいただく雄大な富士山が発する「美の波長」は、だれの受信機にも容易に合うので、だれもが美しいと感じるわけです。

わたしたちは「美しい」の奥に、なにか良いこと、すぐれていること、善いこと、生きる力の根源に近いことを感じとっていると前回触れました。ものごとがどういう具合に、良いか、すぐれているか、善いか、生きる根源に近いかによって、そのものごとが発する「美の波長」は変わってきます。

雄大な富士山の景色は、とても強く、わかりやすく「良いこと」「生きる力の根源に近いこと」に通じているので、その「美の波長」は広く受信されやすいのです。ところが、流行ファッションのように先鋭化してどんどん変わっていくものは、それがどれくらい良いのか、ほんとうに良いのかがわかりにくい。そのためにその「美の波長」はだれもが受け取るものではなくなってきます。ですからファッションについては、人によって「美しい」がばらばらになりやすいと考えられます。

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こうしてみると、「美しい」にはどうやら2つのことが関係しているようです。1つは、ものごとが発する「美の波長」がどうか。もう1つは、感じる側である人間の「美の受信機」がどうか。この2つが互いに合ってはじめて「美しい」は生じる。そして「美しい」の感じ方が人それぞれにちがうのは、2番目の各人の「美の受信機」のちがいによる。

「美の受信機」は難しい言葉で「審美眼」とも言います。人はそれぞれの顔や体形がちがうように、審美眼も違います。だから、他人の「美しい」が、自分の「美しい」とちがうからといって、それをけなしたりするのではなく、認め合うことが大事です。また、自分が美しいと感じるものを他人に紹介することはできても、押しつけることはできません。人は自分の受信能力によってしか「美しい」を感じられないからです。しかし、逆に考えれば、人それぞれに「美しい」があるからこそ、世の中にさまざまな美が生まれるともいえます。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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「美しい」について[1]~美とはなんだろう?

第3章〈価値〉#04

〈じっと考えてみよう〉

玲子(れいこ)、翔太(しょうた)、夏穂(なお)の3人は、美術の授業で「あなたが最近『美しい』と感じたものをいくつかあげなさい」という宿題を与えられました。その宿題について放課後話しあっています……

玲子:
わたしはまず、なんといっても、これ(ファッション雑誌を開く)。大好きなモデルのMIKAKOよ。どう、彼女の「美しい顔」「美しい髪」「美しい脚」「美しい服」、どれも文句なしにカッコイイでしょ。

夏穂:
わたしは、そうだなぁ、旅行で見た「美しい風景」とか、野草の花びらに見つけた「美しい模様」とか。

翔太:
「美しい」っていう言葉を男子はあまり使わないんだな。でもそういえば、書道の先生は、「美しい字は、美しい姿勢から」っていうのが口グセだ。

夏穂:
そうかぁ、「美しい」って、なにも物にかぎらないということか。姿勢は物じゃないから。

玲子:
最初にバイオリンの曲を聴いたとき、「音色が美しいな」と思った。これも物じゃない。

翔太:
だったら、サッカーやってるときにも出るね。「あれは美しいプレーだね」とか、「きれいなシュートだった」とか。

□問い:
あなたが最近「美しい」と感じたものはなんでしょうか? 
3つあげてみましょう。  
ここでは美しいを広くとらえて、きれい、カッコイイと置き換えてもいいでしょう。そして、あなたはそれらのなにを美しいと感じたのでしょうか?

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さて、あなたは「美しい」と感じたものになにをあげたでしょう。玲子がファッションモデルを例にしてあげたのは、人の容姿や服装についての美です。目についた物体の色や形をきれいというのは、もっとも一般的な「美しい」です。そうした外見の美については、ほかにも「自動車のデザインが美しい」とか「美しく印刷されたポストカード」「造型が美しい建築」などのように言えます。

夏穂があげたのは風景や花の美しさです。自然には美しいと感じるものがたくさんあります。富士山や夜空に横たわる天の川のように雄大な美もあれば、小さな花の模様や、顕微鏡でしか見られない結晶の規則的な配列など微小の美もあります。

翔太は姿勢の美しさを言っています。物以外にも美はあります。姿勢はしぐさや振る舞いといった動作的なことです。動作的な美がだんだん洗練されてくると、技(わざ)の美になってきます。「美しいプレー」とか「きれいなシュート」もその種類です。ちなみに、動作の技を美として芸術的に追求していくものに、能や歌舞伎、茶道などがあります。

また、美しいは見て感じるだけではありません。「美しい音」のように耳で聴く場合もあります。あるいは舌で味わう場合もあるでしょう。食べ物が「おいしい」を、漢字では「美味しい」と当てます。

このように「美しい」とは、物や人の外面にあらわれるなにかについて言うことが多い。ところが、わたしたちは人の内面にも目を向けます。内面が澄んでいて、善いことをすすんで行う人のことを「あの人は心が美しい」と言います。人の内面は目に見えませんが、目に見えないものを心で美しいと感じるのです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、ものごとが美しいと感じるとき、わたしたちはそこからなにを感じ取っているのでしょう。───それはおそらく、ものごとが持っているなにか「良いこと」であったり、「すぐれていること」であったり、あるいは「善いこと」「生きる力の根源に近いこと」ではないでしょうか。

ここでの「良いこと」とは、たとえば、快さを与えてくれる、清らかである、整っている、秩序があるなどのような状態をいいます。そうした性質・状態が美しさに通じているというのは、次のようなことを想像するとわかりやすいかもしれません。

○快さを与えてくれる
→ショパンの作ったピアノ曲の旋律は美しい

○清らかである
→山の雪解け水が集まって川をつくる。そのキラキラとした流れは美しい。

○整っている
→朝礼の列が縦横にぴしっと整っていると美しい。

○秩序がある
→機械式腕時計の裏ぶたを開けると、小さな部品が秩序をもって正確に動いている。それは美しい。

○うっとりさせる
→その国民的アイドルは美しい顔だちで多くのファンを魅了した。

○理にかなっている
→鳥が飛ぶ姿は美しい。それは自然の法則にさからわない無駄のない動きだから。

○機能的である
→扇子(せんす)は広げれば風を起こす大きな形となる。そして蛇腹(じゃばら)折りにして棒状に収納できる。この機能的な形は美しい。

また、「すぐれていること」というのは下のような性質・状態のことで、これもまた美しさに通じています。

○能力がたくみに発揮されている
→何十年もの修行を積んだ職人さんの手の動きは美しい。

○研ぎ澄まされている
→アインシュタインの論文は明晰で、導き出された法則の数式は美しい。

○品格がある
→この書は実に美しい。書いた人間の気高い精神が込められている。

さらに、「善いこと」というのは次のような性質・状態のことで、美しさに通じています。

○正しい
→発展途上国に渡り、死ぬまで学校建設に献身した彼の生き方は美しい。

「生きる力の根源に近いこと」というのは次のような性質・状態のことで、やはり美しさに通じています。

○生命力に満ちている
→春の若葉の輝きは美しい。

○懸命である
→ひたむきに努力する彼の姿は美しい。

○不可思議である
→なんの力がこの微細で美しい雪の結晶をつくるのだろう。

○超然としている
→この無限の宇宙に広がる無数の星々は美しい。




[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]  



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価値[2] ~価値をはかる「ものさし」

第3章〈価値〉#03


〈じっと考えてみよう〉

□Q1:
A山は、高さ3000m。
B山は、高さ1000m。
どちらが「すごい山」だろう?

□Q2:
20万部売れた本と
2000部売れた本と
どちらが「すぐれた本」か?

□Q3:
一個5000円で売っている高級料亭の弁当と
今朝お母さんがつくってくれた弁当(値段はついていない)と
どちらが「おいしい弁当」か?



0303b_2前回、「価値」とは、人がものごとに対して感じる「よい」性質のことであると学んだ。わたしたちはよく、なにか行動するときに「それはやる価値のあることだろうか」と考えたり、二つの物を並べて「こっちのほうがいいよね」とか「あっちはよくないな」とか比べたりする。それはつまり、あるものごとに対し、価値があるかないか、あるいは、価値が高いか低いかを判じているのだ。

そのように価値をはかることを「評価」という。ものごとを評価するときに大事になってくるのは、どんな「ものさし=基準」を使うかである。使う「ものさし」によって、みえてくる価値がちがってくるからだ。

〈Q1〉をみてみよう。3000mのA山と1000mのB山を比べて、どちらが「すごい山」か。この問いで重要なのは、なにをもって「すごい=よい=価値がある」とするかだ。いちばんわかりやすいのは、「標高」というものさしを使うことだ。標高の高い山ほどすごいと決めるなら、3000mのA山のほうがよりすごい山であり、価値がより高いという評価になる。


ところが「ものさし」を変えると、B山のほうがすごいとなる場合もある。たとえば、A山は活火山で溶岩がごつごつしただけの山である。いつ噴火するかもしれないので危険でもある。それに対し、B山は落葉樹におおわれるおだやかな山で、湖や滝もある。野花もたくさん咲いている。もし、「ハイキングでの楽しさ」というものさしを当てるなら、B山のほうがよりすごい山となり、価値もより高くなるだろう。

あるいは、A山はあなたにとって写真でしか見たことのない遠くの山だとしよう。それに比べB山は地元の山で、小さいころから家族や友だちと何度も登っている自分を育ててくれた山である。このとき、「思い出深さ」というものさしを当てるとどうだろう。圧倒的にB山のほうが、自分にとってすごい山であり、価値が高い山ではないだろうか。

このように山を評価するとき、ものさしはいくつもある。言い方を変えると、どんなものさしを使うかで、山はちがった価値をもつ。

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では、このものさしについてもう少し考えを深めてみよう。ものさしには二つの重要な点がある。一つは、それによって「なにを」はかろうとするか。もう一つは、はかった度合いを「どう」示すか。

たとえば、先ほどの「標高」というものさし。これは山の外面的な高さをはかろうとし、その度合いを「メートル」という長さの単位を用いて数値で示すものだ。このものさしはだれにでも明瞭である。測定方法も決まっているし、メートルも世界共通の単位だからだ。3000mの標高の山はだれが測定しても3000mである。また、標高3000mと標高1000mとの比較も容易である。つまり客観的な評価ができるものさしなのだ。

それに比べ、「ハイキングでの楽しさ」や「思い出深さ」といったものさしはどうだろう。これらは山に対していだく情緒的な強さをはかろうとし、その度合いを感覚的に示そうとするものだ。この場合、人それぞれに感覚のちがいがあるし、必ずしも数値によって測定できるものではないために、あいまいな部分が出てくる。これは評価する人の主観的な判断にたよるものさしになる。

わたしたちはふだんの生活のなかで、ついつい、外面的な「多い/少ない」「大きい/小さい」をはかった数値に目を奪われがちになる。そしてそれらの数値によって、「自分はどうだ、他人はどうだ」とか、「勝った、負けた」と気をもむ。けれど、そうした外面の測定値だけでものごとをながめ比較することは、ほんとうに価値をみつめていることにはならない。

たとえば、数学のテストで90点取った生徒と50点取った生徒とがいたとき、90点取った生徒のほうがすごいと思うだろう。一カ月に100万円稼ぐ人と10万円稼ぐ人がいたとき、100万円稼ぐ人のほうがすごいと思うだろう。たしかに一面ではすごいことだ。しかし、それはあくまで人の技能的・経済的な価値しか表わしていない。

では、50点取った生徒や10万円稼ぐ人は、価値の低い人だろうか。たとえば50点取った生徒は、テストは苦手だけれども、ふだんから友だちの面倒をよくみて、いつもクラスを明るくしている。10万円稼ぐ人は音楽家で、地元の人たちにボランティアで音楽を教えたり、音楽会を主催したりしている。そうしたとき、もし彼らに「ほかの人や社会への貢献」というものさしを当てればどうなるか。このものさしは、その人の内面ややっている内容にまなざしを向けるもので、評価は必ずしも客観的な数値では表せない。が、彼らの存在の大きさがぐっとみえてくる。

〈Q2〉のように、本などの知的な表現物も評価がむずかしいもののひとつだ。多くの部数が売れていると、わたしたちは自動的に「さぞ、すぐれた本なんだろう」と思う。逆に、数が売れていない本については「あまりよくないのだろう」と思う。テレビ番組にしてもそうだ。視聴率という数値の高い低いによって、その番組の内容を評価しがちになる。

しかし、部数や視聴率の低いもののなかには、ほんとうに深い内容のことを言っているので、多くの人にわかってもらえない場合が起こることを忘れてはいけない。だから、大事なことは、「数が大きいからすごい」とか「みんながいいというから、いい」という安易な評価に流れないことだ。

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最後に〈Q3〉。高級料亭の5000円もする弁当は、たしかに素材も立派で、きれいにつくられている。技術の面でも、味の面でもすぐれているだろう。それに対し、お母さんのお弁当は、見ばえも地味だし、はっきり言って味も薄かったり濃かったりする。でも、よくみると、きのうのおかずの残りをうまく使っていたり、自分の好きなウィンナーを多めに入れておいてくれたりする。そしてなによりも朝早くから起きてつくってくれたものだ。そういう生活の知恵や愛情といったものさしを心のなかから引き出してきて、母の弁当をみつめることができたなら、その弁当はとても価値の輝くものになる。

ものごとの「評価=価値をはかること」はとてもむずかしい。一生をかけて学んでいくテーマといってもよい。豊かにものさしを持った人のみが、豊かにものごとをみつめることができる。そしてやがては、ものごとをあれこれ比較して、気をもむこともやめてしまうだろう。


【味わいたい言葉】
「私は五大陸の最高峰に登ったけれど、高い山に登ったからすごいとか、

厳しい岸壁を登攀したからえらい、という考え方にはなれない。
山登りを優劣でみてはいけないと思う。
要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、
登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う」。

             ―――植村直己(冒険家)『青春を山に賭けて』より



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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価値[1] ~価値とは何だろう? 

第3章〈価値〉#02


〈じっと考えてみよう〉

各問の①、②、③の空欄に、選択肢a、b、cから適当なものを入れなさい。

〈Q1〉
□日本に住む私たちにとって、コップ1杯の水は「①___」です。
□砂漠を旅する人にとって、コップ1杯の水は「②___」です。
 a)ふつうのもの
 b)貴重なもの

〈Q2〉
□野球部がいま練習で使っている野球ボールは「①___」です。
□その野球ボールの一個に、有名なプロ野球選手がサインをしてくれました。
そのボールは「②___」です。
 a)とんでもない宝もの
 b)なんでもないもの

〈Q3〉
□彼女は大人になって、実は育ての親が実の親でないことを知った。
そして彼女は、実の親を探す旅に出た。
どうしても「①____」を知りたかったのだ。
□F氏が勇気をもって一人抗議したことは、賞賛に値する。
その行動には「②____」がある。
□人はいくつになっても、若さを欲する。
みずみずしい若さには「③____」があるからだ。
 a)正しさ
 b)美しさ
 c)真実

〈Q4〉
ガソリンで走る自動車は、
長い距離を快適に移動でき、物を運べるという「①    」を与えてくれる。
その一方で、自動車からの排出ガスは地球環境や人体に「②    」を与えている。
 a)害
 b)便益

〈Q5〉
山のゴミ拾いボランティアの参加募集があった。
幸介(こうすけ)は、正直、半日かけてのゴミ拾いは「①    」ので、あまり気が進まない。
でも、町の人や登山の人がよろこんでくれる顔を想像すると、「②    」ので、参加することにした。
 a)しんどい
 b)気持ちがいい


*問題の答えは文末にあります

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「価値」とはなんだろう?―――それは簡単に言えば、人がものごとに対して感じる「よい」性質のことだ。「よい」というのは、好ましい、優れている、役に立つ、得になる、ほんとうである、正しい、美しい、などである。わたしたちは、ものごとのなかにこういった「よい」性質を見出すとき、それには「価値がある」と言ったり、また、その度合いに応じて「価値が高い/低い」と言ったりする。

たとえば、コップ一杯の水はわたしたちののどの渇きを癒やしてくれるという「よい」性質がある。だから水には価値がある。ただ、〈Q1〉でみるように、同じコップ一杯の水でも日本の住人と砂漠の旅人とでは価値の度合いが違う。日本では水の価値は低いが、砂漠では価値が高い。その理由は、コップ一杯の水の役に立つ度合いが、砂漠のほうが高いからだ。加えて、砂漠では水が少ないことも水の価値を押し上げている。

〈Q2〉において、同じ野球ボールでも、サイン入りは価値が高くなる。なぜなら、「有名選手がサインした」というみながあこがれる性質が加わったからである。そしてそのボールは多くの人がほしがるので、ひょっとすると高く売れて得をするかもしれない、という理由もある。

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〈Q3〉でみるように、真実や正しさ、美しさは価値である。そして人はそれらを求める。これらはとくに「真・善・美」(しん・ぜん・び)と呼ばれ、価値の代表として知られている。

なぜ彼女は、旅に出るのか。それは、自分を生んだ親についてほんとうのことを知りたいからだ。いまだ自分が知らない真実には価値があり、それを求めずにはいられないのだ。また、F氏の行動がなぜ賞賛されるにふさわしいのか。それは、その行動が正しさという価値を含んでいるからである。また、なぜ人は若さを欲するのか。それは、若さが持っているエネルギーが美しさに通じていて、人はそれを価値とみるからだ。

このように、人はものごとのなかに「よい」性質を見出すとき、それを価値と感じ、価値を求めようとする。逆に、ものごとのなかに「わるい」性質を見出したとき、それは「反価値」としてきらったり、避けようとしたりする。「わるい」性質とは、好ましくない、劣っている、害を及ぼす、損になる、偽りである、悪である、醜い、などだ。

〈Q4〉をみてみよう。ガソリン車は価値のうえで両面性を持っている。つまり、移動や運搬の道具としてはおおいに便益があって価値あるものだ。ところが、排気ガスによって環境に害を与えるという面では、反価値のものである。〈Q5〉も価値と反価値の問題だ。半日のゴミ拾いボランティア活動について、幸介はしんどいという反価値と、人のためになるという価値の両方を感じている。幸介は心のなかで、価値と反価値をてんびんにかけ、いろいろと悩む。それで最終的に人によろこんでもらえるという価値のほうが大きいと思ったので、参加する決意をしたわけである。

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人間はなにかものごとに接するとき、知らずのうちに価値を考えている。たとえば、「今度、保健委員を任された(その役目を引き受けることはどれほど価値のあることだろうか)」。「店でA製品とB製品、二つの物が並んでいる(どっちの価値が高くてお買い得だろう)」。「クラスで目立ちたがり屋のSがなにやら得意げに話をしている(あれは信用できないな。聞く価値のないウソの話だ)」。「一風変わった曲を歌うミュージシャンが出てきたぞ(それは買って聴くほどの価値のある曲かな)」……など。

人間は基本的に、自分に好ましいこと、利益になること、真理であること、正しいこと、美しいことに引かれて行動するようにできている。おそらくそれらのことが自分の命を守る作用があることを生命全体で知っているからだろう。


(問題の答え)
Q1-①:a Q1-②:b
Q2-①:b Q2-②:a
Q3-①:c Q3-②:a  Q3-③:b
Q4-①:b Q4-②:a
Q5-①:a Q5-②:b



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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