「美しい」について[3]~美はそれを見つめる心のなかにある
第3章〈価値〉#06
〈じっと考える材料〉
4月。桜が満開の朝、玲子と夏穂は桜並木の通学路を歩いている。
夏穂:
桜ってほんとうにきれいだね。
玲子:
うん、そうね。ぱっと景色が明るくなっていいわね。でも、わたし、基本的にピンクが好きだけど、桜の色はちょっとか弱すぎる。もっと強めのピンク色がいいのよ。バラのピンクみたいな。
夏穂:
わたしはこういう繊細なところがいいと思うんだ。か弱いように見えて、まだ肌寒い春にしっかりと咲くところが。
玲子:
うちのおばあちゃんは、「散るときの桜が一番きれいだ」って言ってたな。去年、入院してたとき、病院の窓から散っていく桜の花を一日中ずーっとながめてた。そのすぐあとだったなぁ、亡くなったの。
(と、2人が前を見ると、翔太が肩を落として歩いている)
玲子:
翔太、おはよう。どうしたの、浮かない顔をして。
翔太:
きのう、サッカーの試合に負けたんだ。ぼくのプレーが原因さ。あぁ、なんであのときあんなミスをしたんだろう。
玲子:
そんなこと悔やんでも時間は戻らないわ。これからどうやればもっと強くなれるかを考えなさいよ。ところで、ほら、桜が満開でとてもきれいよ。
翔太:
あ、満開だったんだ。気づかなかった。でも、いまは桜見る気分じゃないよ。
夏穂:
みんな、いろんな桜を見ているのね。
□ 夏穂は最後に、「みんな、いろんな桜を見ている」と言いました。玲子、夏穂、玲子の祖母、翔太は、それぞれどんな桜をどのように見ていますか?
春に咲く桜は、日本人の多くが美しいと感じるものです。しかし「桜は美しい」といっても、その「美しい」は人によってさまざまです。また、同じ人のなかでも、人生のときどきによって感じ方がちがってきます。では設問文でみていきましょう。
玲子は桜の花の色を見ています。目に入ってくる薄いピンク色が、景色をぱっと明るくしてきれいだと言っています。夏穂も花の色がきれいだと言っています。けれど彼女は同時に、花の色が一見か弱そうに見えながら、実は桜は肌寒いなかでしっかりと咲く生命力を内に秘めているところにも美しさを感じています。
この2人の違いはなにを意味しているのでしょう。それは美には、目に見えやすい「外面的な美」と、目に見えにくい「内奥的な美」の2つがあるということです。玲子はおもに、花の色という外側に現れる部分で美しいと感じている。夏穂はおもに、桜の木の内側からわいてくる生命力を見つめ、その力強さを美しいと感じています。
次に、玲子の祖母は桜をどう見ていたのでしょう。おそらく彼女は、自分の死期が近いことを知っていて、散りゆく桜に自分の状況を重ね合わせていたのではないでしょうか。さまざまな生命が生まれては死に、生まれては死ぬ無常の世界で、桜の花が短い間で一途(いちず)に咲こうとするけなげさとか、生命がどこからやってきて、どこへ消えていくのかという不思議さを考えていたのではないでしょうか。彼女は桜を見つめるとともに、自分のこれまでの一生を見つめ、目の前の桜から深い美しさを引き出していたのでしょう。
こうした散っていく桜の美しさは、子どものころはあまり感じられないもので、大人になるにつれ、ましてや死を意識すればなおさら強く感じ取れるようになるものです。これは言ってみれば「大人が見る美」です。ここでいう大人とは、「人生経験や知識を積んだ」という意味です。世の中には人生経験や知識を積むことによって見えてくる美があるのです。
たとえば寺社建築や仏像を思い起こしてください。あなたたちは学校の社会見学や修学旅行でお寺に行き、仏像を見たことがあるでしょう。多くの学生は、ああいったものをまだ「美しい」とは思えないかもしれません。思えたとしても、「なんとなく威厳があって、存在感がある」くらいではないでしょうか。
ところが歳を重ねて、日本の古いものに何度も触れ、忙しい毎日を送り、また歴史や伝統に関する知識が増してくると、お寺の造りがとても優れたものであり、そこがとても安らぐ空間であり、仏像彫刻が奥深いものであることに、ふと気づくときがきます。これらの美しさは、「渋い」とか「粋(いき)である」とか、「慈悲に満ちた」「わび・さび」といった種類に属するものです。これらを味わうためには、どうしても見る人の成熟が必要になってきます。建築物や伝統工芸品、芸術作品などは「大人が見る美」の典型です。
しかし一方で、大人になるにつれ見えなくなる美もあります。それをここでは「子どもが見る美」と名づけましょう。たとえば、昆虫を手に取って、その体のつくりとか動きのしなやかさを食い入るように見つめるとき。あるいは、野原で花をつんで、その繊細な模様に目をこらし、においをかいでいるとき。おそらく、あなたは好奇心に満ちて全神経をそこに集中させ、自然と一体になっています。それはまちがいなく美を感じている瞬間で、子どもにしか感じることのできないものです。多くの大人は成長するにしたがい、そうした好奇心をなくしていき、純粋無垢(じゅんすいむく)にものごとを見つめられなくなるのです。
さて、再び設問にもどって、翔太は桜をどう見ていたのでしょう。残念ながら翔太はそのとき、桜の美しさを味わっている心の余裕がありませんでした。もし、サッカーの試合での失敗がなければ、彼は玲子や夏穂といっしょになって、桜をめでていたでしょう。
このように、同じ桜の花に対して、これだけ違った「美しい」の受け取りがある。桜は人間がそれを美しいとか美しくないとか言うのとは無関係に、ただ咲いているだけです。となると、美はいったいどこにあるのでしょうか。
もちろん「美しい」のもとになる性質は桜が持っています。桜が地に根を張り、冬の寒さをじっと耐えて、一生懸命に繊細な色合いの花を咲かせようとしている。それは良いことに通じ、生きる力の根源に近い性質です。ただ、その性質がそのまま「美しい」ということではありません。「美しい」というのは、あくまで人間が見い出し、感じるものなのです。そのため、いくら桜がすばらしく咲いていても、そこに人間がいて、「美しい」と感じてやらなければ、そこに美しい桜はなく、単に桜が咲いているだけなのです。したがって、美はどこにあるかといえば、それは最終的には、「美しい」と感じた人の心のなかにあるといえます。
[文:村山 昇|イラスト:サカイシヤスシ]
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