人生の大きさ ~梵鐘を丸太でたたけ

第5章〈人生〉 #02


〈じっと考える材料〉

むかし、甚太郎(じんたろう)という十歳になる少年がいた。甚太郎は近所のお寺でよく一人で遊んだ。ある日、お寺の和尚(おしょう)さんが甚太郎を呼び、こう言った。

「本堂の裏に蔵(くら)があるじゃろ。実はあの蔵の中に代々保管されている宝物がある。その宝物がなにか、蔵に入って見てくるがいい」。

甚太郎は興味津々(きょうみしんしん)で蔵に入っていった。蔵には窓が一つもなく、なかは昼間でも真っ暗でなにも見えない。しかし、目の前に「なにか」があることは気配でわかる。ただ具体的になんであるかは見当がつかない。そのとき、甚太郎の足裏に小枝のような木片が触れたので、彼はそれを拾い上げ、目の前の「なにか」をたたいてみた。

チン、チン・・・ カラン、カラン・・・

甚太郎は蔵のなかから出てきて本堂に戻り、こう告げた。
「なんだ和尚さん、あれは『鍋(なべ)』か『やかん』ですね」。

和尚さんは「そうか、鍋・やかんだったか。はっはっはっ」と空に向かって笑い声をとばし、去っていった。

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───歳月は流れ、甚太郎はじゅうぶんな大人になっていた。生まれ故郷を離れて仕事を持ち、結婚をし、父親になっていた。が、都での仕事がつまずき、追われるように、きょうこの町にもどってきた。ここで再出発をするつもりだ。甚太郎は何十年ぶりにお寺に行ってみた。変わらぬ境内には、変わらぬ姿で和尚さんがいた。甚太郎を見つけこう言った。

「蔵のなかの宝がなにか、また見てくるがいい」。

甚太郎は、蔵のなかに入っていった。あのときと同じように、足裏に触れた木片を拾い上げ、目の前に感じる「なにか」をたたいてみた。

チン、チン・・・ カラン、カラン・・・

「やっぱり鍋かやかんか。でも、和尚さんが宝物というんだからなにかあるのだろう」と思いながら、甚太郎はさらにしゃがみこんで、足元のまわりを手で探ってみる。クモの巣やらほこりやらをかぶりながら、頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、重い丸太のようなものが手に触れた。その丸太を持ち上げ、甚太郎は目の前の「何か」を力いっぱいたたいてみた。

ゴォーーーーン。

甚太郎は走って本堂に戻り、顔を赤らめてこう言った。
「和尚さん、あれは大きな鐘(かね)だったんですね。あんなにふかい鐘の音は聞いたことがありません」と。

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生きることは、ほんとうに複雑で奥深い活動です。わたしたちは、生きているあいだに無限に成長が可能ですし、そこから無尽蔵(むじんぞう)に喜びや感動を引き出すことができます。けれどその一方で、停滞や漂流もあるし、悩みや苦しみもたくさん湧き起こってきます。

まわりの人たちをよく観察するにつけ、また、テレビなどに出てくる有名人をながめるにつけ、さらには歴史上の人物を読書で知るにつけ、この世にはほんとうにたくさんの生きる姿があるのだなと気づきます。そうした千差万別の多様性こそ、人間が生きることの複雑さや奥深さを表わしているともいえます。

さて、問題はあなたの「生きる」です。あなたの「生きる」も、まちがいなく、とてつもない複雑さや奥深さをもっています。ただ、それがどれほどのものかは、あらかじめ目に見えません。あなたの「生きる」は、現時点では、真っ暗な蔵のなかにつるされている「なにか」です。そのたたき方によって、鳴り方がちがってくるのです。

もし、あなたが生きることに対して、「自分って才能ないし、がんばっても限界あるよな」とか、「生きるって、こんなものか。楽しいこともないし」とか、そんなようなしらけ、あきらめ、割り切りの気持ちで過ごしていくなら、蔵のなかの「なにか」はちっぽけな音しか鳴らさないでしょう。あなたは割り箸くらいもので、いいかげんにたたいているだけだからです。

しかし、もし、あなたが大きな丸太を持ち上げて、強くどーんとたたけば、その「なにか」は必ずゴォーンと鳴るものです。その「なにか」はそもそも立派な梵鐘なのですから。そして、その奥深いゴォーンという音は、打った本人のみならず、村じゅうに響いて、人びとに時を知らせたり、心を落ち着かせたりするはたらきをします。鍋・やかんが、せいぜい自分が食べるためだけの役しかはたさないことを考えると対照的です。

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「丸太で強くたたく」とはどういうことでしょう? 「丸太で」とは、自分自身が丸太のように太く頑丈になるということです。そのために、自分の才能をいろいろ磨いていく、自分の健康を増進していく。「強くたたく」とは、強い思いを持ってものごとに当たっていくことです。「いまは自信がない。ないけれども、何度もチャレンジすることで自信はついてくるものだ」「動いた分だけなにかが見えてくる。もっと動こう。その先を見るために」「しんどいけど、そのしんどさがあるからやりがいもある」といったような気概(きがい)のことです。

どんな環境に、どんな自分で生まれようと、その生は深い音のする立派な梵鐘です。鐘をたたいてみて、小さな音しか鳴らなくても、鐘にケチをつけるのは筋違いです。それは鐘の問題ではなく、あなたのたたき方の問題なのですから。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]



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ほんとうの自分 ~ダヴィデは石のかたまりの中にいた

第5章〈人生〉 #01


〈じっと考える材料〉

石の四つ子兄弟がいた。みな粗くて大きいだけの石だった。

長男A石は、「おれはなんでこんな堅くて融通(ゆうづう)がきかない体なんだ。もっと柔らかくて、軽やかで、輝くものとして生まれたかった」と、そんな願望を抱いて放浪の旅に出てしまった。

次男B石は、自分を飾りはじめた。色とりどりのペンキを塗り、紙や布で装飾をした。

三男C石は、「自分のとりえは堅固で安定しているところだ」と考えた。自分をガツンガツンと分割するや、建物の柱を支える基礎石になったり、石垣になったり、あるいは漬けもの石となって自分を役立てた。

四男D石は、自分を彫りはじめた。彫刻の技術をこつこつと磨き、ねばり強く自分に一刀一刀入れていった。やがて、粗くて大きいだけの石は、力強くも流麗(りゅうれい)で繊細な彫刻物となった。町の人びとはその彫刻を美術館に展示し、その美を永遠に称(たた)えた。

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わたしたちはさまざまに生を受ける。ある人は、よい家に生まれたり、容姿に恵まれたり。逆に、ある人は「なんでこんな親のもとに」とか「どうして自分はこんなに才能がないんだ」というふうに生まれてくる。なぜ、そうした生まれながらの不平等が起こるのか?───それは科学がいくら進んでも、科学では解明できない問題であるし、科学が答えるべき分担の問題でもない。これは哲学や宗教が分担する問題といえる。

ある教えは「それは天が決めたこと」としたり、別の教えは「それは自分自身の過去の行いが決めたこと」と答えたりする。どの答えが絶対的に正しいということは証明できないが、あえてあるとすれば、それはあなたが一番納得できて、生きることに力がわく答えが、「あなたにとっての正しい答え」である。結局、どの答えを“信じるか”の次元に行き着く問題となる。

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さて、ともかくも、あなたは生まれてきた。気がつけば、いまのような環境のもとに、いまのような身体、資質をもって生まれてきた。もう、これから逃げようはない。

人がよりよく生きていくのは、先天的に受けたものをベースとしながら、後天的な努力でいかに自分を納得いくまで輝かせていくかという活動である。

わたしたちが先天的に受けるもののなかには、好ましいものも好ましくないものもある。たとえば、裕福な家庭に生まれお金の心配がない、とても利発的な頭を持ち勉強ができる、運動神経と体格に恵まれスポーツが万能である、などは好ましいものを先天的に受けたわけだ。だから、あとはこれをどう最大限生かしていくかになる。逆に、経済苦の家庭に生まれ進学のためのお金がない、病弱に生まれ体力がない、なにをしても不器用で人並みに作業ができない、などは好ましくないものを先天的に受けたわけである。ただ、最終的にそれが悪いものだったかどうかは、自分のその後の生き方によって決まるといえる。

たとえば、ヘレンケラーは先天的に三重苦(目が見えない、耳が聞こえない、口がきけない)の障害を抱えた。しかし、彼女は後天的な努力で見事にこれらを克服し、大きな人生を歩んだ。悪い境遇をむしろバネにして、よい方向へ自分を押し上げたのである。逆のことを言えば、生まれながらに恵まれた環境に育っても、そのことに甘えてしまい自己中心的な生き方になってしまえば、だれからも見放されてしまい、ついには不幸な人生で終えることも生じる。

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さて、石の四兄弟の話に移ろう。ともかく彼らは、粗くて大きな石の身で生まれてきた(ここでは、あなたが粗くて融通のきかない資質で生まれてきたと想像してもいいでしょう)。そのとき、兄弟はそれぞれのどうしたか───

長男A石は、たぶん自分を直視するのがいやだったのだろう。自分の身がもっとなにか素敵なものだったらよかったのに、と現実逃避の旅に出てしまった。次男B石は、自分の外側を飾り立てて安心しようとした。たしかにいっときは人目を引くことはできるかもしれない。でも、雨や風に当たれば装飾ははげてしまうし、はげた姿はよけいにみすぼらしくなってしまう。さらに、B石の意識はどこにあるだろう。「人からどう見られるか」ばかりを気にしてはいないか。

その点、三男C石は自分という素材にきちんと目を向けた。そのうえで「この自分を世の中にどう役立てていけるか」というところに意識がある。そこで、自分の特性をもっとも生かすことのできる道でがんばろうとした。四男D石も自分自身から逃げなかった。彼は技術を磨き、自分自身を彫りはじめた。

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イタリア・ルネサンス期の彫刻家ミケランジェロが彫った歴史的名作に『ダヴィデ像』がある。あの力強くも流麗な「ダヴィデ」はどこにいたのだろう?───それはたしかに粗大な石の塊(かたまり)の中にいて、ミケランジェロが彫り出したのだ。

「ほんとうの自分はどこにいるんだろう?」「自分はこれからどうなっていくんだろう?」といった不安はだれにでも起こる。そんなときこそ、自分という石の塊と正面から向き合い、刀を手にとって、自分を彫り出していくことが大事なんだろう。その逃げない行動を積み重ねることで、「ほんとうの自分」は姿を現す。

彫り出してみてはじめて、自分はなにを彫刻したかったのかがわかる。
彫り出してみてはじめて、自分の能力を証明することができる。
彫り出してみてはじめて、彫刻物が存在として影響力を持つ。
そしてなにより、その彫り出すことに懸命になった日々が、財(たから)の思い出になる。



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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