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「美しい」について[2]~個別の美と普遍の美

第3章〈価値〉#05



〈じっと考える材料〉

前回に引き続き、玲子(れいこ)、夏穂(なお)、翔太(しょうた)の3人が会話をしています

玲子:
MIKAKOはいつ見てもきれいだなぁ、美しすぎる。見てよこの写真。この洋服のコーディネート最高だと思わない。バッグのデザインもおしゃれだわ。今年はピンクが流行するのかしら。目元のメイクやヘアスタイルも完璧ね。


翔太:
(写真を見ながら)こんな派手なファッションがきれいだって、とんでもない。ごちゃごちゃしすぎだよ。そもそもぼくはこのピンクって色が好きじゃない。


玲子:
翔太は好き嫌いでファッションを見てるだけよ。美しいものを見分けるセンスってものがないのよ。じゃ、あなたはどんな服装がカッコイイと思うの。


翔太:
そうだな、たとえばこれだよ(持っていたサッカー雑誌を見せる。有名なプロサッカー選手のふだん着の写真がのっている)。ジーンズにTシャツ、シンプルでカッコイイだろ。ファッションは派手な色やデザインにごまかされちゃダメなんだ。着こなしが大事なのさ。


玲子:
そんなヨレヨレのジーンズ、趣味が悪いし、ぜんぜん着こなせていないわ。この服装がカッコよく見えるのは、翔太がこの選手をカッコイイと思っているからよ。この選手が着るものなら、あなたは何でもカッコイイって言うわ。ところで夏穂、あなたはどんな服がいいと思う?


夏穂:
わたしはユニフォーム姿の人にあこがれるな。キャビンアテンダント(旅客機の客室乗務員)とかホテルの人たちとか。ああいう働く服のきりっとした雰囲気が美しいと思う。あ、そうだ、きりっとしたという意味では、和服も好き。特に無地で落ち着いた色のもの。それを着ながら凜(りん)と歩いている女性って素敵だと思わない?


翔太:
それにしても夏穂は好みが大人だね。でも、地味だけどカッコイイということはあるような気がする。たとえばサッカーで、デフェンスがしぶとく相手にまとわりついてボールを奪うプレー。地味だけどカッコイイ。特にぼくはデフェンスやってるからよくわかるんだ。



□ この3人の会話では、美しい(あるいはカッコイイ、きれい、素敵)と感じるファッションについて、いろいろな意見が出ています。ファッションのように、美しいと感じるものが個人によってばらばらになるものをほかにもあげてみましょう。

□ では逆に、多くの人のあいだであまり意見のちがいがなく、だれもが美しいと感じるものをあげてみましょう。

□ 自分が美しいと感じたものに対し、ほかの人が「美しくない」と言ったとしましょう。その場合、その人の感じ方がまちがっているのでしょうか? それとも自分の感じ方がまちがっているのでしょうか? それとも、「まちがっている/まちがっていない」とは別の問題でしょうか?

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「どんなファッションをおしゃれと感じるか」「どんな顔がきれいか」ほど、人によって答えがちがうものはないかもしれません。ある人が「あの服装、センスいいね」と感じても、別の人は「えー、全然そう思わないけど」という場合はよくあります。また、ある人が「あの男優はハンサムね」と言っても、別の人は「あの男優のどこがハンサムなの?」と返す場合もよく起こります。

その他たとえば、「どんな自動車がカッコイイか」「どんな音楽が素敵か」なども意見が分かれるものです。ある人がほれぼれするようなロックギターの音色は、ある人にとっては耳ざわりな雑音にしか聞こえません。これらのことは、自分には自分の美しいがあり、他人には他人の美しいがあることを示しています。つまり「人が個別に感じる美」です。 

ところが、多くの人が共通して美しいなと言う「みなが感じる美」のようなものもあります。たとえば、白い雪をいただいた雄大な富士山、青く透明に輝く海、夜空に打ち上がる花火など。これらのものを美しくないという人はいないでしょう。そこには普遍的な美があります。

人間は「美しい」を目で感じたり、耳で感じたり、心で感じたり、また頭で思ったりします。その意味で、人間はからだ全体が「美の受信機」になっています。ただ、その受信能力は人それぞれです。ものごとに接して、そこからなにか「美の波長」のようなものを受信する感度、受信する傾向性(クセと言ってもいいでしょう)は一人一人ちがっているのです。

翔太が見せたサッカー選手のファッションが翔太には美しく見えて、玲子には美しく見えないことが起こるのはなぜでしょう。その理由は、そのファッションの発する「美の波長」が、翔太の「美の受信機」にはピーンと合うけれど、玲子の「美の受信機」には合わないからです。

その一方で、白い雪をいただく雄大な富士山が発する「美の波長」は、だれの受信機にも容易に合うので、だれもが美しいと感じるわけです。

わたしたちは「美しい」の奥に、なにか良いこと、すぐれていること、善いこと、生きる力の根源に近いことを感じとっていると前回触れました。ものごとがどういう具合に、良いか、すぐれているか、善いか、生きる根源に近いかによって、そのものごとが発する「美の波長」は変わってきます。

雄大な富士山の景色は、とても強く、わかりやすく「良いこと」「生きる力の根源に近いこと」に通じているので、その「美の波長」は広く受信されやすいのです。ところが、流行ファッションのように先鋭化してどんどん変わっていくものは、それがどれくらい良いのか、ほんとうに良いのかがわかりにくい。そのためにその「美の波長」はだれもが受け取るものではなくなってきます。ですからファッションについては、人によって「美しい」がばらばらになりやすいと考えられます。

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こうしてみると、「美しい」にはどうやら2つのことが関係しているようです。1つは、ものごとが発する「美の波長」がどうか。もう1つは、感じる側である人間の「美の受信機」がどうか。この2つが互いに合ってはじめて「美しい」は生じる。そして「美しい」の感じ方が人それぞれにちがうのは、2番目の各人の「美の受信機」のちがいによる。

「美の受信機」は難しい言葉で「審美眼」とも言います。人はそれぞれの顔や体形がちがうように、審美眼も違います。だから、他人の「美しい」が、自分の「美しい」とちがうからといって、それをけなしたりするのではなく、認め合うことが大事です。また、自分が美しいと感じるものを他人に紹介することはできても、押しつけることはできません。人は自分の受信能力によってしか「美しい」を感じられないからです。しかし、逆に考えれば、人それぞれに「美しい」があるからこそ、世の中にさまざまな美が生まれるともいえます。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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