ほんとうの自分 ~ダヴィデは石のかたまりの中にいた

第5章〈人生〉 #01


〈じっと考える材料〉

石の四つ子兄弟がいた。みな粗くて大きいだけの石だった。

長男A石は、「おれはなんでこんな堅くて融通(ゆうづう)がきかない体なんだ。もっと柔らかくて、軽やかで、輝くものとして生まれたかった」と、そんな願望を抱いて放浪の旅に出てしまった。

次男B石は、自分を飾りはじめた。色とりどりのペンキを塗り、紙や布で装飾をした。

三男C石は、「自分のとりえは堅固で安定しているところだ」と考えた。自分をガツンガツンと分割するや、建物の柱を支える基礎石になったり、石垣になったり、あるいは漬けもの石となって自分を役立てた。

四男D石は、自分を彫りはじめた。彫刻の技術をこつこつと磨き、ねばり強く自分に一刀一刀入れていった。やがて、粗くて大きいだけの石は、力強くも流麗(りゅうれい)で繊細な彫刻物となった。町の人びとはその彫刻を美術館に展示し、その美を永遠に称(たた)えた。

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わたしたちはさまざまに生を受ける。ある人は、よい家に生まれたり、容姿に恵まれたり。逆に、ある人は「なんでこんな親のもとに」とか「どうして自分はこんなに才能がないんだ」というふうに生まれてくる。なぜ、そうした生まれながらの不平等が起こるのか?───それは科学がいくら進んでも、科学では解明できない問題であるし、科学が答えるべき分担の問題でもない。これは哲学や宗教が分担する問題といえる。

ある教えは「それは天が決めたこと」としたり、別の教えは「それは自分自身の過去の行いが決めたこと」と答えたりする。どの答えが絶対的に正しいということは証明できないが、あえてあるとすれば、それはあなたが一番納得できて、生きることに力がわく答えが、「あなたにとっての正しい答え」である。結局、どの答えを“信じるか”の次元に行き着く問題となる。

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さて、ともかくも、あなたは生まれてきた。気がつけば、いまのような環境のもとに、いまのような身体、資質をもって生まれてきた。もう、これから逃げようはない。

人がよりよく生きていくのは、先天的に受けたものをベースとしながら、後天的な努力でいかに自分を納得いくまで輝かせていくかという活動である。

わたしたちが先天的に受けるもののなかには、好ましいものも好ましくないものもある。たとえば、裕福な家庭に生まれお金の心配がない、とても利発的な頭を持ち勉強ができる、運動神経と体格に恵まれスポーツが万能である、などは好ましいものを先天的に受けたわけだ。だから、あとはこれをどう最大限生かしていくかになる。逆に、経済苦の家庭に生まれ進学のためのお金がない、病弱に生まれ体力がない、なにをしても不器用で人並みに作業ができない、などは好ましくないものを先天的に受けたわけである。ただ、最終的にそれが悪いものだったかどうかは、自分のその後の生き方によって決まるといえる。

たとえば、ヘレンケラーは先天的に三重苦(目が見えない、耳が聞こえない、口がきけない)の障害を抱えた。しかし、彼女は後天的な努力で見事にこれらを克服し、大きな人生を歩んだ。悪い境遇をむしろバネにして、よい方向へ自分を押し上げたのである。逆のことを言えば、生まれながらに恵まれた環境に育っても、そのことに甘えてしまい自己中心的な生き方になってしまえば、だれからも見放されてしまい、ついには不幸な人生で終えることも生じる。

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さて、石の四兄弟の話に移ろう。ともかく彼らは、粗くて大きな石の身で生まれてきた(ここでは、あなたが粗くて融通のきかない資質で生まれてきたと想像してもいいでしょう)。そのとき、兄弟はそれぞれのどうしたか───

長男A石は、たぶん自分を直視するのがいやだったのだろう。自分の身がもっとなにか素敵なものだったらよかったのに、と現実逃避の旅に出てしまった。次男B石は、自分の外側を飾り立てて安心しようとした。たしかにいっときは人目を引くことはできるかもしれない。でも、雨や風に当たれば装飾ははげてしまうし、はげた姿はよけいにみすぼらしくなってしまう。さらに、B石の意識はどこにあるだろう。「人からどう見られるか」ばかりを気にしてはいないか。

その点、三男C石は自分という素材にきちんと目を向けた。そのうえで「この自分を世の中にどう役立てていけるか」というところに意識がある。そこで、自分の特性をもっとも生かすことのできる道でがんばろうとした。四男D石も自分自身から逃げなかった。彼は技術を磨き、自分自身を彫りはじめた。

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イタリア・ルネサンス期の彫刻家ミケランジェロが彫った歴史的名作に『ダヴィデ像』がある。あの力強くも流麗な「ダヴィデ」はどこにいたのだろう?───それはたしかに粗大な石の塊(かたまり)の中にいて、ミケランジェロが彫り出したのだ。

「ほんとうの自分はどこにいるんだろう?」「自分はこれからどうなっていくんだろう?」といった不安はだれにでも起こる。そんなときこそ、自分という石の塊と正面から向き合い、刀を手にとって、自分を彫り出していくことが大事なんだろう。その逃げない行動を積み重ねることで、「ほんとうの自分」は姿を現す。

彫り出してみてはじめて、自分はなにを彫刻したかったのかがわかる。
彫り出してみてはじめて、自分の能力を証明することができる。
彫り出してみてはじめて、彫刻物が存在として影響力を持つ。
そしてなにより、その彫り出すことに懸命になった日々が、財(たから)の思い出になる。



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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ものごとの両面性 ~雨=悪い天気?

第3章〈価値〉#01


〈じっと考えてみよう〉

 
ある夏の朝、それぞれの場所で空を見つめる2人がいました。

【智(さとし)の朝】
智は朝5時にはもう目覚めていた。きょうは何カ月も前から楽しみにしていた家族旅行の日です。飛行機に乗って遠くまで行き、山や川で遊ぶ計画です。ところが、天気予報によると、大きな低気圧が近づいていて、全国的に数日間雨が続くという。智は窓を開け、灰色の雲がおおう空をうらめしそうに見上げた。「あぁ、ここ最近ずっと晴れが続いていたのに、よりによって、なんできょうから雨なんだよー」。窓に吊していた“てるてる坊主”が無表情に揺れていた。

【米農家の斉藤さんの朝】
朝5時、米を作っている斉藤さんは祈るような気持ちで灰色の空を見上げた───「ようやく降ってくれそうかな」。この夏は雨がほとんど降らず、水不足で稲の生育がよくありません。田んぼは干し上がってしまいそうな状況です。米の栽培は年1回。稲を死なせてしまえば、農家は来年までやることがなくなり、もちろん収入もなくなります。農家にとっては大打撃です。斉藤さんは天に向かって2回手をたたき、手のひらを合わせた。


□わたしたちはよく、雨が降りそうになると、「天気が悪くなる」と言います。はたして、「雨=悪いこと」なのでしょうか? 右の二人の朝を読んで考えてみましょう。

□「物が腐る」ことは悪いことでしょうか?

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一つのものごとは、けっして一つの解釈ではとらえられません。立場や観点を変えれば、ちがった見え方をしてくるものです。ある一つのものごとが、立場や観点を変えることによって「良い/悪い」のようにまるっきり正反対のものに見えることを、そのものごとには「両面性」があるといいます。今回の設問のように、「雨が降る」ことにも両面性がある。

智にとって、これから降りそうな雨はうらめしい。智だけでなく、ふつうの人たちにとっても、雨はなにかと不便や不快をもたらすので歓迎すべきものではありません。できればいつもさわやかに晴れればいいなと思います。晴れは良であり、雨は悪なのです。だから「天気が良くなる=晴れてくる」となり、「天気が悪くなる=雨になる」と口にするのでしょう。

しかし、農家の斉藤さんにとって、きょうから降り出しそうな雨は恵みの雨です。このまま雨が降らなければ農作物は枯れてしまう。雨こそ良であり、晴れは悪となる。このように同じ空を見上げて、一方は悲しみ、一方は喜ぶ。雨が降ることにはそういった両面性があるのです。

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では、設問のもう一つ、「物が腐る」ことを考えてみましょう。食べ物を放置しておくと、やがて腐りはじめる。強いにおいを放ち、それを食べようものなら、下痢を起こしたり、ひどい病気にかかったりする危険があります。だから、たいていの場合、「物が腐る=悪いこと」となる。しかし、これは一面からのとらえ方にすぎません。では、別の一面とはなんでしょう……?

食べ物が腐るとは、化学の授業でも習いますが、微生物が食べ物に付着してその成分を変化させる現象です。その現象に人間は2つの呼び名を与えました───そう、「腐敗」と「発酵」です。

人がふだん食べている味噌やしょうゆ、納豆、チーズ、ヨーグルト、お酒などは、発酵によってつくられます。これらは現象的には、腐敗によってつくられたといってもまちがいではないのです。発酵は食品づくりだけでなく、薬の開発にも幅広く利用されていて、人間社会に大きな貢献をしています。

このことからわかるように、物が腐ることには両面性がある。物が〈人間に益をもたらすように〉腐る場合、それは発酵と呼ばれ、良いこととしてとらえられる。逆に、物が〈人間に害を与えるように〉腐る場合、それは腐敗と呼ばれ、悪いこととしてとらえられる。

発酵にせよ、腐敗にせよ、それは人間が益になるか害になるかの観点でとらえたにすぎません。微生物の立場になってみれば、彼らはただ、生きるために懸命に物を食べているだけなのですね。それがたまたま化学的に物質を分解し、合成する現象を起こしている。そこには良いも悪いもありません。


ほかにもたとえば、空には太陽が照っています。太陽の光は一面では、動植物にとって欠かせない「生」を育む力になります。けれど同時に、太陽光のなかの紫外線には殺菌作用があり、「死」を与える力を持っています。そのように、動植物の立場から見れば、太陽の光は自分たちを「生かす/死なせる」両面の力があるわけですが、太陽自体はただ膨大に燃えているだけです。そこには生かすも死なせるもない。

わたしたちは知らず知らずのうちに、ものごとをとらえる視点が固まったり、かたよったりしてくる傾向性があります。いわゆる「固定観念にとらわれる」「偏見が強くなる」といった状態です。ものごとをある一面だけからながめて、こうだと決めつけるのは簡単なことです。あるものごとに接したとき、もっと違ったながめ方もあるのではないかと考えてみる。場合によっては、良い悪いを度外視して、ものごとを超越的にながめてみる。そんな習慣を身につけることはとても大切です。世の中の奥行きがぐんと広がって見えるとともに、自分の頭のなかの奥行きもぐんと広がるでしょう。

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〈発展問題〉
ものごとを両面性でながめる訓練を下の問いでやってみよう。

【問1】
欲が強いことは、悪いことだろうか? それとも良いことだろうか?
欲が強いために、人間がマイナス面におちいることを考えてみよう。
欲が強いために、人間がプラス面に押し上げられることを考えてみよう。

【問2】
ある南の小さな島は、サンゴがきれいな海を持つ。島は農業、漁業以外に特別な産業がなく、財政は豊かではない。そこで島は観光地としてお金を稼ごうと、海を埋め立てて空港を造る計画を立てている。大型旅客機が乗り入れるようになれば、大勢の観光客が来てくれるからだ。さて、自慢のサンゴの海を埋め立てて空港を建設することは、島の「開発」だろうか? それとも、島の「破壊」だろうか?

【問3】
アメリカでは一般市民が銃(ピストルやライフル)を買い、保持することが許されている。銃を「人を殺す道具」にして事件を起こす人間がいるので、「身を守るための道具」として銃が必要だと彼らは考える。さて、銃は「人を殺す道具」だろうか? それとも、「身を守るための道具」だろうか? さらに、銃がこれらどちらの道具にせよ、銃を世の中からなくすために市民ができることはなんだろう?



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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負荷 ~負荷が人を鍛える

第2章〈成長〉#01



〈じっと考えてみよう〉

宇宙飛行士は、宇宙ステーションや宇宙船で何カ月間も滞在すると、その間に筋力が衰えたり、骨が弱くなったりする。地上に帰ってきたときには、うまく歩けない状態だという。さて、それはなぜだろう?


*負荷(ふか)=(責任や役割を)おいになうこと。かつぐこと。あるいはかつぐものの重さ(=荷重)



21a_4宇宙飛行士が宇宙滞在中に筋力が衰えたり、骨が弱くなったりすることは、テレビ番組などでも報じられているので、この現象はみなもよく知っているのではないでしょうか。そしてその原因はなんでしょう───そう、重力がない空間にずっといるからです。

地上にいるわたしたちにはつねに重力がかかっている。そのため、肉体はひとときも休まず重力と戦っています。あなたがいまそうして座っているのも、本を手に持っているのも、顔を上げているのも、あなたの筋肉と骨が重力にさからってがんばってくれているのです。重力という負荷があるから筋肉や骨は鍛えられ、その強さが維持される。

ところが無重力の場所では、体は宙にふわふわと浮く状態で、筋肉や骨に負荷がかからない。そんな状態を何カ月間も続けていると、とうぜん、筋肉や骨が弱ってくる。だから宇宙飛行士は、船のなかで筋肉トレーニングをしきりにやって体を鍛えているわけです。

ところで、水のなかで泳ぐクラゲは優雅に舞っているように見えます。水中では浮力がはたらき重力を小さくしてしまうので、無重力に似た状態になるのです。ですからあのようにふわふわと舞うことができる。けれど、クラゲをひとたび陸にあげてしまうとどうなるでしょう。重力によって体がぺたんとつぶれてしまい、どうとも動けなくなる。その姿はなんともかっこうがわるい。宇宙飛行士は地上に帰ってきたとき、クラゲになりたくないのです。そのために、あえて筋肉と骨に負荷を与えていると言ってもよいでしょう

さて、これと同じことは精神的なことにも言えます。つまり、精神的な負荷はわたしたちの心をじょうぶにするということです。

わたしたちはふだんの生活でなんの苦労も挑戦も役割もなければ、精神的にはとてもラクな状態かもしれない。しかしそれは、精神的になんの負荷もない無重力のなかでふわふわ浮いている状態で、それが長くつづくと精神は弱くなる。人間はやはり、問題や悩みを乗り越えようとする、つらいことに耐える、難しいことに取り組む、人のためになにか役割をになっていくなどのことで、心が強くなる。ふんばる根性がつく。他人の悲しみがわかるようになる。ですから、問題解決に向けて苦労することや挑戦することは、いわば、心を鍛えるトレーニングのようなものなのです。そのために、むかしの人は「若いうちの苦労は買ってでもせよ」とよく言った。

図を一つ描いてみましよう。あなたは生きていくうえで、つねに坂に立っていると考えてください。坂の傾斜角度はあなたが直面する問題や挑戦の大きさです。直面する問題や挑戦が大きければ坂はきつい角度になるし、小さければゆるやかな角度になる。

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とうぜん、坂に立つあなたには下向きの力がかかる。問題解決や挑戦にともなう困難や危険、わずらわしさ、こわがる心、逃げたい気持ちといったものです。それに対し、あなたは苦労や挑戦を乗り越えていこうという上向きの力をわかすこともできる。

坂を上っていくのはしんどい。けど、鍛えられ、成長できることはわかっている。他方、下るほうはラクです。そして問題や挑戦を避けていった末に自分がどうなってしまうのか、それもわかっている。坂に立ち、あなたは心のなかで、がんばって上にいこうか、それとも、下にころがるにまかせるか、この二つの気持ちの綱引きをやることになる。───さて、どちらを選ぶかです。その選択は、言い換えると、自分の心を鍛えられたアスリートの筋肉のように強いものにしたいか、それとも、陸にあがったクラゲのように弱々しいものにしてもいいのか、という問いでもある。



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