自由 ~消極的な自由と積極的な自由

第5章〈人生〉#03


〈じっと考えてみよう〉

健(けん):「将来つきたい職業は?」って課題作文、うーん、どんな職業がいいのかわからないよ。いまさら「プロ野球選手になるのが夢です」なんて書けないし。その点、悠人はいいよな。自分んちが大きな店やってるから、それを継げばいいんだろう。

悠人(ゆうと):あぁ、長男だから継がなきゃだめだろうなぁ。店をやっていくことが自分に合ってるのかどうか、わからないけど。

健:でも、将来が決まっていると、どんな勉強やればいいかがはっきりするからいいよな。進学先だって、就職先だって悩む必要なしだ。

悠人:自由のないことがそんなにいいことかな? ぼくは自分の将来を選べないんだよ。でも、健は選べる。自分のなりたいものに、なんだってなっていいんだ。一〇〇%自由があるわけさ。うらやましいよ。

健:自由がありすぎても困りものさ。いっそ、だれかが決めてくれたほうがラクなこともあるよ。


□就職先について、あなたは悠人のようにある程度決められている人生がいいだろうか? 
 それとも健のようにまったく決まっていない人生がいいだろうか?


□悠人は自分には自由がないと言っているが、ほんとうに自由がないのだろうか。
 悠人に自由があるとすればどんな自由か?

□あなたは「自由がありすぎて困る」と思ったことはあるか?

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人類の歴史を振り返ってみると、人が自由に意見を表明できたり、自由に職業を選べたりするようになったのはつい最近のことです。日本も江戸時代(つい150年前)までは、表現の自由は制限され、身分制度があって職業や階級は家系によって決まっていました。言いたいことを社会に広めようとしたり、身分制度を逸脱することは、命を危険にさらすことでした。

いまでも世界中を見わたせば、人の自由が大きく制限されている国は多い。ですから、今回の設問のように、自分がなりたいものにはなんだってなれる自由を手にしていながら、その自由にとまどってしまうというのは、自由を持っていない人からすれば信じられない悩みにちがいありません。手に入れた自由をどう生かすかというのは、人類史からみれば比較的新しい問題であり、未来への大事な課題でもあります。

さて、設問文をみてみましょう。悠人も健も将来つきたい職業について「これだ」という具体的な望みはありません。もちろん、いまの時点で望みがないことはべつに悪いことではありません。中学、高校、大学と、勉強やその他の活動をやっていくなかで、じょじょに考えていけばよいものです。しかし、大人になれば自動的にやりたい仕事がみえてくるのかといえば、そうではありません。

実際のところ、すでに職業を持った大人たちでさえ、「これがほんとうに自分のつきたかった仕事だろうか」と考えている人はたくさんいるでしょう。深く強い理由を持たずに、たまたまのなりゆきで就職するケースが多いのです。ただ、そうしてついた職業であっても、働いていくうちにその職業の奥深さを発見し、やりがいを見出していくことはじゅうぶんにあります。

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ありあまる自由のなかで、人は2種類に分かれていきます。

1種類めは、自由をどう生かしてよいかわからず、できればだれかに「ここはこれを選びなさい」とか「将来はこのレールの上を走って行きなさい」とか言ってほしいと願う人です。この人は自由をすすんで活用することを敬遠します。言ってみれば、自由という心地のよいソファに寝ころんで、動くのがやっかいだと思っている状態にあります。もし、あなたが、悠人のように就職がある程度決められている人生をうらやましく思うのであれば、その姿勢はこの種類に属するものです。


そして2種類めは、自由を積極的に活用し、どんどん自分の進むべき道を創造していく人です。この人は自由を楽しむことができ、自分が選んだことに対し責任を負っていこうとします。それでなにか失敗したり、痛い目にあったりしても後悔しません。いわば、自由という剣(つるぎ)を武器にして、人生を切りひらいていこうとする姿勢です。

さて、悠人はほんとうに自由がないのでしょうか。店を継がなければならないという一点ではたしかに自由はありません。しかし、長い目で見れば、じゅうぶんな自由があると言えないでしょうか。その店を自分のアイデアで変えていく自由。あるいは、何年か商売経験を積んだのちに、それを生かしてまったく新しい商売を始めてみる自由。そう考えると、悠人はやはり自分の未来を無限に変えていく可能性を手にしています。

自由があるかないかという観点からすると、じつは悠人も健もどちらも大差はありません。あるのは、まぢかの就職先が多少見えているかいないかという表面的で小さな差です。そんなことより二人にとってほんとうに大事な問題は、心の姿勢として、自由をおおいに生かそうという意欲に満ちているかどうかです。

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欧米や日本などの先進諸国は、自由というものを2段階にわたって獲得してきたといえます。1段階めは「~からの自由」の獲得です。そして2段階めに「~への自由」の獲得です。

最初の自由は、人びとが制度上の束縛や制限から自由になることをいいます。民衆は長い時間をかけて権力者と戦い、社会が基本的人権を保障して、表現の自由や法のもとの平等を認めることを実現させました。この自由は簡単に言えば、「不自由な状態からの自由」です。

これを土台にして、一人一人が縦横無尽にどんな考えをするか、どんな行動をするか、どんな表現をするかというのが次の段階の自由です。すなわち、「自主的な創造への自由」「自由を無限に生かすことへの自由」です。この二段階めの自由こそほんとうの自由です。

自由という名のソファにうずくまっているのはラクです。でも、座ったままで見る景色は限られています。同時に、自由という名の剣は重くて扱いが難しい。けれど、その剣によって目の前の景色をどんどん切りひらいていけば、広い展望を得ることができます。

消極的に自由にひたる生き方と、積極的に自由を活かす生き方と───あなたはどちらを選ぶか。それもまた自由です。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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価値[2] ~価値をはかる「ものさし」

第3章〈価値〉#03


〈じっと考えてみよう〉

□Q1:
A山は、高さ3000m。
B山は、高さ1000m。
どちらが「すごい山」だろう?

□Q2:
20万部売れた本と
2000部売れた本と
どちらが「すぐれた本」か?

□Q3:
一個5000円で売っている高級料亭の弁当と
今朝お母さんがつくってくれた弁当(値段はついていない)と
どちらが「おいしい弁当」か?



0303b_2前回、「価値」とは、人がものごとに対して感じる「よい」性質のことであると学んだ。わたしたちはよく、なにか行動するときに「それはやる価値のあることだろうか」と考えたり、二つの物を並べて「こっちのほうがいいよね」とか「あっちはよくないな」とか比べたりする。それはつまり、あるものごとに対し、価値があるかないか、あるいは、価値が高いか低いかを判じているのだ。

そのように価値をはかることを「評価」という。ものごとを評価するときに大事になってくるのは、どんな「ものさし=基準」を使うかである。使う「ものさし」によって、みえてくる価値がちがってくるからだ。

〈Q1〉をみてみよう。3000mのA山と1000mのB山を比べて、どちらが「すごい山」か。この問いで重要なのは、なにをもって「すごい=よい=価値がある」とするかだ。いちばんわかりやすいのは、「標高」というものさしを使うことだ。標高の高い山ほどすごいと決めるなら、3000mのA山のほうがよりすごい山であり、価値がより高いという評価になる。


ところが「ものさし」を変えると、B山のほうがすごいとなる場合もある。たとえば、A山は活火山で溶岩がごつごつしただけの山である。いつ噴火するかもしれないので危険でもある。それに対し、B山は落葉樹におおわれるおだやかな山で、湖や滝もある。野花もたくさん咲いている。もし、「ハイキングでの楽しさ」というものさしを当てるなら、B山のほうがよりすごい山となり、価値もより高くなるだろう。

あるいは、A山はあなたにとって写真でしか見たことのない遠くの山だとしよう。それに比べB山は地元の山で、小さいころから家族や友だちと何度も登っている自分を育ててくれた山である。このとき、「思い出深さ」というものさしを当てるとどうだろう。圧倒的にB山のほうが、自分にとってすごい山であり、価値が高い山ではないだろうか。

このように山を評価するとき、ものさしはいくつもある。言い方を変えると、どんなものさしを使うかで、山はちがった価値をもつ。

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では、このものさしについてもう少し考えを深めてみよう。ものさしには二つの重要な点がある。一つは、それによって「なにを」はかろうとするか。もう一つは、はかった度合いを「どう」示すか。

たとえば、先ほどの「標高」というものさし。これは山の外面的な高さをはかろうとし、その度合いを「メートル」という長さの単位を用いて数値で示すものだ。このものさしはだれにでも明瞭である。測定方法も決まっているし、メートルも世界共通の単位だからだ。3000mの標高の山はだれが測定しても3000mである。また、標高3000mと標高1000mとの比較も容易である。つまり客観的な評価ができるものさしなのだ。

それに比べ、「ハイキングでの楽しさ」や「思い出深さ」といったものさしはどうだろう。これらは山に対していだく情緒的な強さをはかろうとし、その度合いを感覚的に示そうとするものだ。この場合、人それぞれに感覚のちがいがあるし、必ずしも数値によって測定できるものではないために、あいまいな部分が出てくる。これは評価する人の主観的な判断にたよるものさしになる。

わたしたちはふだんの生活のなかで、ついつい、外面的な「多い/少ない」「大きい/小さい」をはかった数値に目を奪われがちになる。そしてそれらの数値によって、「自分はどうだ、他人はどうだ」とか、「勝った、負けた」と気をもむ。けれど、そうした外面の測定値だけでものごとをながめ比較することは、ほんとうに価値をみつめていることにはならない。

たとえば、数学のテストで90点取った生徒と50点取った生徒とがいたとき、90点取った生徒のほうがすごいと思うだろう。一カ月に100万円稼ぐ人と10万円稼ぐ人がいたとき、100万円稼ぐ人のほうがすごいと思うだろう。たしかに一面ではすごいことだ。しかし、それはあくまで人の技能的・経済的な価値しか表わしていない。

では、50点取った生徒や10万円稼ぐ人は、価値の低い人だろうか。たとえば50点取った生徒は、テストは苦手だけれども、ふだんから友だちの面倒をよくみて、いつもクラスを明るくしている。10万円稼ぐ人は音楽家で、地元の人たちにボランティアで音楽を教えたり、音楽会を主催したりしている。そうしたとき、もし彼らに「ほかの人や社会への貢献」というものさしを当てればどうなるか。このものさしは、その人の内面ややっている内容にまなざしを向けるもので、評価は必ずしも客観的な数値では表せない。が、彼らの存在の大きさがぐっとみえてくる。

〈Q2〉のように、本などの知的な表現物も評価がむずかしいもののひとつだ。多くの部数が売れていると、わたしたちは自動的に「さぞ、すぐれた本なんだろう」と思う。逆に、数が売れていない本については「あまりよくないのだろう」と思う。テレビ番組にしてもそうだ。視聴率という数値の高い低いによって、その番組の内容を評価しがちになる。

しかし、部数や視聴率の低いもののなかには、ほんとうに深い内容のことを言っているので、多くの人にわかってもらえない場合が起こることを忘れてはいけない。だから、大事なことは、「数が大きいからすごい」とか「みんながいいというから、いい」という安易な評価に流れないことだ。

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最後に〈Q3〉。高級料亭の5000円もする弁当は、たしかに素材も立派で、きれいにつくられている。技術の面でも、味の面でもすぐれているだろう。それに対し、お母さんのお弁当は、見ばえも地味だし、はっきり言って味も薄かったり濃かったりする。でも、よくみると、きのうのおかずの残りをうまく使っていたり、自分の好きなウィンナーを多めに入れておいてくれたりする。そしてなによりも朝早くから起きてつくってくれたものだ。そういう生活の知恵や愛情といったものさしを心のなかから引き出してきて、母の弁当をみつめることができたなら、その弁当はとても価値の輝くものになる。

ものごとの「評価=価値をはかること」はとてもむずかしい。一生をかけて学んでいくテーマといってもよい。豊かにものさしを持った人のみが、豊かにものごとをみつめることができる。そしてやがては、ものごとをあれこれ比較して、気をもむこともやめてしまうだろう。


【味わいたい言葉】
「私は五大陸の最高峰に登ったけれど、高い山に登ったからすごいとか、

厳しい岸壁を登攀したからえらい、という考え方にはなれない。
山登りを優劣でみてはいけないと思う。
要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、
登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う」。

             ―――植村直己(冒険家)『青春を山に賭けて』より



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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価値[1] ~価値とは何だろう? 

第3章〈価値〉#02


〈じっと考えてみよう〉

各問の①、②、③の空欄に、選択肢a、b、cから適当なものを入れなさい。

〈Q1〉
□日本に住む私たちにとって、コップ1杯の水は「①___」です。
□砂漠を旅する人にとって、コップ1杯の水は「②___」です。
 a)ふつうのもの
 b)貴重なもの

〈Q2〉
□野球部がいま練習で使っている野球ボールは「①___」です。
□その野球ボールの一個に、有名なプロ野球選手がサインをしてくれました。
そのボールは「②___」です。
 a)とんでもない宝もの
 b)なんでもないもの

〈Q3〉
□彼女は大人になって、実は育ての親が実の親でないことを知った。
そして彼女は、実の親を探す旅に出た。
どうしても「①____」を知りたかったのだ。
□F氏が勇気をもって一人抗議したことは、賞賛に値する。
その行動には「②____」がある。
□人はいくつになっても、若さを欲する。
みずみずしい若さには「③____」があるからだ。
 a)正しさ
 b)美しさ
 c)真実

〈Q4〉
ガソリンで走る自動車は、
長い距離を快適に移動でき、物を運べるという「①    」を与えてくれる。
その一方で、自動車からの排出ガスは地球環境や人体に「②    」を与えている。
 a)害
 b)便益

〈Q5〉
山のゴミ拾いボランティアの参加募集があった。
幸介(こうすけ)は、正直、半日かけてのゴミ拾いは「①    」ので、あまり気が進まない。
でも、町の人や登山の人がよろこんでくれる顔を想像すると、「②    」ので、参加することにした。
 a)しんどい
 b)気持ちがいい


*問題の答えは文末にあります

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「価値」とはなんだろう?―――それは簡単に言えば、人がものごとに対して感じる「よい」性質のことだ。「よい」というのは、好ましい、優れている、役に立つ、得になる、ほんとうである、正しい、美しい、などである。わたしたちは、ものごとのなかにこういった「よい」性質を見出すとき、それには「価値がある」と言ったり、また、その度合いに応じて「価値が高い/低い」と言ったりする。

たとえば、コップ一杯の水はわたしたちののどの渇きを癒やしてくれるという「よい」性質がある。だから水には価値がある。ただ、〈Q1〉でみるように、同じコップ一杯の水でも日本の住人と砂漠の旅人とでは価値の度合いが違う。日本では水の価値は低いが、砂漠では価値が高い。その理由は、コップ一杯の水の役に立つ度合いが、砂漠のほうが高いからだ。加えて、砂漠では水が少ないことも水の価値を押し上げている。

〈Q2〉において、同じ野球ボールでも、サイン入りは価値が高くなる。なぜなら、「有名選手がサインした」というみながあこがれる性質が加わったからである。そしてそのボールは多くの人がほしがるので、ひょっとすると高く売れて得をするかもしれない、という理由もある。

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〈Q3〉でみるように、真実や正しさ、美しさは価値である。そして人はそれらを求める。これらはとくに「真・善・美」(しん・ぜん・び)と呼ばれ、価値の代表として知られている。

なぜ彼女は、旅に出るのか。それは、自分を生んだ親についてほんとうのことを知りたいからだ。いまだ自分が知らない真実には価値があり、それを求めずにはいられないのだ。また、F氏の行動がなぜ賞賛されるにふさわしいのか。それは、その行動が正しさという価値を含んでいるからである。また、なぜ人は若さを欲するのか。それは、若さが持っているエネルギーが美しさに通じていて、人はそれを価値とみるからだ。

このように、人はものごとのなかに「よい」性質を見出すとき、それを価値と感じ、価値を求めようとする。逆に、ものごとのなかに「わるい」性質を見出したとき、それは「反価値」としてきらったり、避けようとしたりする。「わるい」性質とは、好ましくない、劣っている、害を及ぼす、損になる、偽りである、悪である、醜い、などだ。

〈Q4〉をみてみよう。ガソリン車は価値のうえで両面性を持っている。つまり、移動や運搬の道具としてはおおいに便益があって価値あるものだ。ところが、排気ガスによって環境に害を与えるという面では、反価値のものである。〈Q5〉も価値と反価値の問題だ。半日のゴミ拾いボランティア活動について、幸介はしんどいという反価値と、人のためになるという価値の両方を感じている。幸介は心のなかで、価値と反価値をてんびんにかけ、いろいろと悩む。それで最終的に人によろこんでもらえるという価値のほうが大きいと思ったので、参加する決意をしたわけである。

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人間はなにかものごとに接するとき、知らずのうちに価値を考えている。たとえば、「今度、保健委員を任された(その役目を引き受けることはどれほど価値のあることだろうか)」。「店でA製品とB製品、二つの物が並んでいる(どっちの価値が高くてお買い得だろう)」。「クラスで目立ちたがり屋のSがなにやら得意げに話をしている(あれは信用できないな。聞く価値のないウソの話だ)」。「一風変わった曲を歌うミュージシャンが出てきたぞ(それは買って聴くほどの価値のある曲かな)」……など。

人間は基本的に、自分に好ましいこと、利益になること、真理であること、正しいこと、美しいことに引かれて行動するようにできている。おそらくそれらのことが自分の命を守る作用があることを生命全体で知っているからだろう。


(問題の答え)
Q1-①:a Q1-②:b
Q2-①:b Q2-②:a
Q3-①:c Q3-②:a  Q3-③:b
Q4-①:b Q4-②:a
Q5-①:a Q5-②:b



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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行動のなかの幸福 ~笑うから幸福なのだ

第8章〈幸福〉 #01


〈じっと考えてみよう〉

高校2年になった瑞季(みずき)は、はやくに父を病気で亡くし、以来、母と妹と3人暮らしだ。母は生活を支えるため仕事に忙しい。母とはいっしょに遊んでもらったことも、ましてや家族旅行などにも連れて行ってもらったこともない。が、明るく気丈にふるまっている母の姿には感謝をしている。瑞季も勉強と部活の合間にアルバイトをしている。大学か短期大学に進学するために、少しずつだが貯金をするためだ。

ある土曜の晩、母は瑞季にある誘いをした───

「明日の昼に、盲学校で朗読会のボランティアがあるんだけど、いっしょに行かない? 生徒さんたちに本を読んであげる会よ」。

「えー、なんでわたしたちがボランティア? うちこそお金なくて助けがほしいくらいなのに。そういうのって幸せで余裕がある人がやるもんじゃないの」……。瑞季はバイトの疲れや勉強の悩みもあって、つい、とがった言葉で返してしまった。とても行く気になれなかった。

翌日、朗読会から帰宅した母は、とてもすがすがしい様子だった。「健康で生きていられるって、それだけですばらしいことね」とひとこと放ち、さっそうと台所に立った。



□「幸せだから、人助けができる」のだろうか、
  それとも、「人助けするから、幸せ」なのだろうか?

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フランスの哲学者アランが『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫版)で説く幸福は、一貫して行動主義的である。それを表わす有名な一節がこれである。
 

「幸福だから笑うわけではない。
むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」。


わたしたちのほとんどは、自分がまず幸福という状態にいて、だから笑うんだと思っている。逆に言えば、自分が幸福な状態にいなければ、笑うことはないと思っている。だが、アランはそう考えない。自分がどんな状況にあったとしても、心を起こして、まず笑ってみる。それが幸福なんだ、と。アランはこうも書く───

「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。(中略)あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである」。


悩みがなにもないことが幸福ではない。竜宮城のような楽園で永遠に暮らすことが幸福ではない。むしろ、自分の置かれた状況が苦しくとも、なにか理想に向かって創造していることじたいが、ほんとうの幸福である。幸福はそのように、静的な状態をいうのではなく、動的な行いそのものであるというのがアランの主張だ。

もう少しゆるくとらえて、ある心地よい状態に身をうずめて、安楽でいられることが幸福だとしても、その幸福は、不安定で弱い幸福と言わざるをえない。そうした静的な安楽状態にとどまっている人ほど、いまの幸せがいつまで続くのか不安でたまらない、この幸せをなくすのが怖いと思いはじめる。その心の状態をはたして幸福と言っていいのだろうか。それに対し、意志を持ってなにかに動いている人は、苦しさやしんどさはあるが、その喜びは強くて安定している。

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「動けば動くほど安定する。動かなければ不安定になる」───このことをよく知るためには、玩具のコマを思い出してみるとよい。

コマは指やひもを使って回転の力を加えると、軸が立って回りだす。ところがだんだん回転速度が遅くなってくると、軸がぐらつきはじめ、やがてごろんと倒れる。つまり、コマは回転力が強いときほど安定し、回転力が弱いと不安定になる。わたしたちがつかもうとする幸福もこれと似たところがある。心地よい環境にひたって動きを止めている安楽は不安定でもろい。動きのなかで感じている幸福は、安定して頑丈(がんじょう)である。

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」というアランの行動主義的幸福は、いろいろなことに広げて考えることができる。つまり───、

動かずにえられる平和などない。だから、平和を成すのだ。
動かずにえられる自由などない。だから、自由を活かすのだ。
動かずにえられる正義などない。だから、正義を行なうのだ。
動かずにえられる友情などない。だから、友情を築くのだ。
動かずにえられる愛などない。だから、愛するのだ。
動かずにえられる健康などない。だから、健康をつくるのだ。



幸いなことにわたしたちは生まれながらに、平和や自由が当然のように与えられた。が、それらは過去の人たちが苦闘のすえに勝ち取り、整えてくれたものだ。それを受け継ぐわたしたちは、その恩恵にじっとうずくまっているだけでは、平和や自由は崩れてしまうだろう。それはコマが回転力を弱めたときにごろん倒れてしまうように。平和や自由は、ただ観念としてそこにあるのではなく、みなが平和を成すように動く、自由を活かすように動くことで、強く立ち上がってくるものなのだ。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 

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人生の大きさ ~梵鐘を丸太でたたけ

第5章〈人生〉 #02


〈じっと考える材料〉

むかし、甚太郎(じんたろう)という十歳になる少年がいた。甚太郎は近所のお寺でよく一人で遊んだ。ある日、お寺の和尚(おしょう)さんが甚太郎を呼び、こう言った。

「本堂の裏に蔵(くら)があるじゃろ。実はあの蔵の中に代々保管されている宝物がある。その宝物がなにか、蔵に入って見てくるがいい」。

甚太郎は興味津々(きょうみしんしん)で蔵に入っていった。蔵には窓が一つもなく、なかは昼間でも真っ暗でなにも見えない。しかし、目の前に「なにか」があることは気配でわかる。ただ具体的になんであるかは見当がつかない。そのとき、甚太郎の足裏に小枝のような木片が触れたので、彼はそれを拾い上げ、目の前の「なにか」をたたいてみた。

チン、チン・・・ カラン、カラン・・・

甚太郎は蔵のなかから出てきて本堂に戻り、こう告げた。
「なんだ和尚さん、あれは『鍋(なべ)』か『やかん』ですね」。

和尚さんは「そうか、鍋・やかんだったか。はっはっはっ」と空に向かって笑い声をとばし、去っていった。

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───歳月は流れ、甚太郎はじゅうぶんな大人になっていた。生まれ故郷を離れて仕事を持ち、結婚をし、父親になっていた。が、都での仕事がつまずき、追われるように、きょうこの町にもどってきた。ここで再出発をするつもりだ。甚太郎は何十年ぶりにお寺に行ってみた。変わらぬ境内には、変わらぬ姿で和尚さんがいた。甚太郎を見つけこう言った。

「蔵のなかの宝がなにか、また見てくるがいい」。

甚太郎は、蔵のなかに入っていった。あのときと同じように、足裏に触れた木片を拾い上げ、目の前に感じる「なにか」をたたいてみた。

チン、チン・・・ カラン、カラン・・・

「やっぱり鍋かやかんか。でも、和尚さんが宝物というんだからなにかあるのだろう」と思いながら、甚太郎はさらにしゃがみこんで、足元のまわりを手で探ってみる。クモの巣やらほこりやらをかぶりながら、頭をどこかにぶつけながら、はいつくばって手を伸ばしていくと、重い丸太のようなものが手に触れた。その丸太を持ち上げ、甚太郎は目の前の「何か」を力いっぱいたたいてみた。

ゴォーーーーン。

甚太郎は走って本堂に戻り、顔を赤らめてこう言った。
「和尚さん、あれは大きな鐘(かね)だったんですね。あんなにふかい鐘の音は聞いたことがありません」と。

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生きることは、ほんとうに複雑で奥深い活動です。わたしたちは、生きているあいだに無限に成長が可能ですし、そこから無尽蔵(むじんぞう)に喜びや感動を引き出すことができます。けれどその一方で、停滞や漂流もあるし、悩みや苦しみもたくさん湧き起こってきます。

まわりの人たちをよく観察するにつけ、また、テレビなどに出てくる有名人をながめるにつけ、さらには歴史上の人物を読書で知るにつけ、この世にはほんとうにたくさんの生きる姿があるのだなと気づきます。そうした千差万別の多様性こそ、人間が生きることの複雑さや奥深さを表わしているともいえます。

さて、問題はあなたの「生きる」です。あなたの「生きる」も、まちがいなく、とてつもない複雑さや奥深さをもっています。ただ、それがどれほどのものかは、あらかじめ目に見えません。あなたの「生きる」は、現時点では、真っ暗な蔵のなかにつるされている「なにか」です。そのたたき方によって、鳴り方がちがってくるのです。

もし、あなたが生きることに対して、「自分って才能ないし、がんばっても限界あるよな」とか、「生きるって、こんなものか。楽しいこともないし」とか、そんなようなしらけ、あきらめ、割り切りの気持ちで過ごしていくなら、蔵のなかの「なにか」はちっぽけな音しか鳴らさないでしょう。あなたは割り箸くらいもので、いいかげんにたたいているだけだからです。

しかし、もし、あなたが大きな丸太を持ち上げて、強くどーんとたたけば、その「なにか」は必ずゴォーンと鳴るものです。その「なにか」はそもそも立派な梵鐘なのですから。そして、その奥深いゴォーンという音は、打った本人のみならず、村じゅうに響いて、人びとに時を知らせたり、心を落ち着かせたりするはたらきをします。鍋・やかんが、せいぜい自分が食べるためだけの役しかはたさないことを考えると対照的です。

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「丸太で強くたたく」とはどういうことでしょう? 「丸太で」とは、自分自身が丸太のように太く頑丈になるということです。そのために、自分の才能をいろいろ磨いていく、自分の健康を増進していく。「強くたたく」とは、強い思いを持ってものごとに当たっていくことです。「いまは自信がない。ないけれども、何度もチャレンジすることで自信はついてくるものだ」「動いた分だけなにかが見えてくる。もっと動こう。その先を見るために」「しんどいけど、そのしんどさがあるからやりがいもある」といったような気概(きがい)のことです。

どんな環境に、どんな自分で生まれようと、その生は深い音のする立派な梵鐘です。鐘をたたいてみて、小さな音しか鳴らなくても、鐘にケチをつけるのは筋違いです。それは鐘の問題ではなく、あなたのたたき方の問題なのですから。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]



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