「美しい」について[1]~美とはなんだろう?

第3章〈価値〉#04

〈じっと考えてみよう〉

玲子(れいこ)、翔太(しょうた)、夏穂(なお)の3人は、美術の授業で「あなたが最近『美しい』と感じたものをいくつかあげなさい」という宿題を与えられました。その宿題について放課後話しあっています……

玲子:
わたしはまず、なんといっても、これ(ファッション雑誌を開く)。大好きなモデルのMIKAKOよ。どう、彼女の「美しい顔」「美しい髪」「美しい脚」「美しい服」、どれも文句なしにカッコイイでしょ。

夏穂:
わたしは、そうだなぁ、旅行で見た「美しい風景」とか、野草の花びらに見つけた「美しい模様」とか。

翔太:
「美しい」っていう言葉を男子はあまり使わないんだな。でもそういえば、書道の先生は、「美しい字は、美しい姿勢から」っていうのが口グセだ。

夏穂:
そうかぁ、「美しい」って、なにも物にかぎらないということか。姿勢は物じゃないから。

玲子:
最初にバイオリンの曲を聴いたとき、「音色が美しいな」と思った。これも物じゃない。

翔太:
だったら、サッカーやってるときにも出るね。「あれは美しいプレーだね」とか、「きれいなシュートだった」とか。

□問い:
あなたが最近「美しい」と感じたものはなんでしょうか? 
3つあげてみましょう。  
ここでは美しいを広くとらえて、きれい、カッコイイと置き換えてもいいでしょう。そして、あなたはそれらのなにを美しいと感じたのでしょうか?

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さて、あなたは「美しい」と感じたものになにをあげたでしょう。玲子がファッションモデルを例にしてあげたのは、人の容姿や服装についての美です。目についた物体の色や形をきれいというのは、もっとも一般的な「美しい」です。そうした外見の美については、ほかにも「自動車のデザインが美しい」とか「美しく印刷されたポストカード」「造型が美しい建築」などのように言えます。

夏穂があげたのは風景や花の美しさです。自然には美しいと感じるものがたくさんあります。富士山や夜空に横たわる天の川のように雄大な美もあれば、小さな花の模様や、顕微鏡でしか見られない結晶の規則的な配列など微小の美もあります。

翔太は姿勢の美しさを言っています。物以外にも美はあります。姿勢はしぐさや振る舞いといった動作的なことです。動作的な美がだんだん洗練されてくると、技(わざ)の美になってきます。「美しいプレー」とか「きれいなシュート」もその種類です。ちなみに、動作の技を美として芸術的に追求していくものに、能や歌舞伎、茶道などがあります。

また、美しいは見て感じるだけではありません。「美しい音」のように耳で聴く場合もあります。あるいは舌で味わう場合もあるでしょう。食べ物が「おいしい」を、漢字では「美味しい」と当てます。

このように「美しい」とは、物や人の外面にあらわれるなにかについて言うことが多い。ところが、わたしたちは人の内面にも目を向けます。内面が澄んでいて、善いことをすすんで行う人のことを「あの人は心が美しい」と言います。人の内面は目に見えませんが、目に見えないものを心で美しいと感じるのです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、ものごとが美しいと感じるとき、わたしたちはそこからなにを感じ取っているのでしょう。───それはおそらく、ものごとが持っているなにか「良いこと」であったり、「すぐれていること」であったり、あるいは「善いこと」「生きる力の根源に近いこと」ではないでしょうか。

ここでの「良いこと」とは、たとえば、快さを与えてくれる、清らかである、整っている、秩序があるなどのような状態をいいます。そうした性質・状態が美しさに通じているというのは、次のようなことを想像するとわかりやすいかもしれません。

○快さを与えてくれる
→ショパンの作ったピアノ曲の旋律は美しい

○清らかである
→山の雪解け水が集まって川をつくる。そのキラキラとした流れは美しい。

○整っている
→朝礼の列が縦横にぴしっと整っていると美しい。

○秩序がある
→機械式腕時計の裏ぶたを開けると、小さな部品が秩序をもって正確に動いている。それは美しい。

○うっとりさせる
→その国民的アイドルは美しい顔だちで多くのファンを魅了した。

○理にかなっている
→鳥が飛ぶ姿は美しい。それは自然の法則にさからわない無駄のない動きだから。

○機能的である
→扇子(せんす)は広げれば風を起こす大きな形となる。そして蛇腹(じゃばら)折りにして棒状に収納できる。この機能的な形は美しい。

また、「すぐれていること」というのは下のような性質・状態のことで、これもまた美しさに通じています。

○能力がたくみに発揮されている
→何十年もの修行を積んだ職人さんの手の動きは美しい。

○研ぎ澄まされている
→アインシュタインの論文は明晰で、導き出された法則の数式は美しい。

○品格がある
→この書は実に美しい。書いた人間の気高い精神が込められている。

さらに、「善いこと」というのは次のような性質・状態のことで、美しさに通じています。

○正しい
→発展途上国に渡り、死ぬまで学校建設に献身した彼の生き方は美しい。

「生きる力の根源に近いこと」というのは次のような性質・状態のことで、やはり美しさに通じています。

○生命力に満ちている
→春の若葉の輝きは美しい。

○懸命である
→ひたむきに努力する彼の姿は美しい。

○不可思議である
→なんの力がこの微細で美しい雪の結晶をつくるのだろう。

○超然としている
→この無限の宇宙に広がる無数の星々は美しい。




[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]  



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苦労~「へこみ」は「うつわ」

第5章〈人生〉#07

〈じっと考える材料〉

荒野のまんなかに大きな岩があった。
その岩は、日々、砂まじりの強い風によって表面をけずられる。
いつしか、岩の一部にくぼみのようなものができた。

ある日、めずらしく雨が降った。
岩のくぼみに水がたまった。

するとそこに昆虫や鳥などが集まってきた。
それぞれは水浴びをし、羽を休めた。
その小さな水の鏡は広大な空を映しだしていた。

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打ちのめされたり、傷ついたり、落ち込んだりした状態を、俗に「凹(へこ)む」という。でも考えてみるに、凹んだ部分は器になる。その器でなにかをすくうことも、なにかを受けいれることもできる。

釈尊やイエスの教えが、なぜ千年単位の時空を超えて人びとの心を抱擁(ほうよう)するのだろう。それは彼らが偉大な苦しみのなかに身を置き、光を発したからだ。

ガンジーやキング牧師の言葉が、なぜ力をもって民衆の胸に入り込み、民衆を立ち上がらせたのだろう。それは彼らが深い深い闇の底から叫んだからだ。

ドストエフスキーが狂気的なまでに善と悪について書けたのはなぜだろう。それは彼があるときは流刑の身となり、兵士となり、またあるときはてんかんをわずらい、あるときは賭博(とばく)に明け暮れるという、まさに狂気の淵(ふち)でものを考えたからだ。

正岡子規があれほど鋭く堅牢(けんろう)な写実の詩を詠めたのはなぜだろう。それは病苦に悶絶(もんぜつ)し、命の火も絶え絶えになるなかにあって、魂で触れることのできる堅いなにかを欲したからだ。

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東山魁夷はこう書いた───

「最も深い悲しみを担う者のみが、
人々の悲しみを受け入れ慰めてくれるのであろうか」。 
(『泉に聴く』より)

ヒルティは『幸福論』のなかでこう記す───

「ある新興宗教の創始者が、自分の教義の体系を詳しく述べて、これをもってキリスト教にかえたいというので、彼(タレーラン侯)の賛成をもとめた。
すると、タレーランはこう言った。
しごく結構であるが、新しい教義が徹底的な成功をおさめるにはなお一事が欠けているようだ、『キリスト教の創始者はその教えのために十字架についたが、あなたもぜひそうなさるようにおすすめする』と」。

人は、苦しんだ深さの分だけ喜びを感受できる。また、ほんとうに悲しんだ人は、ほんとうに悲しんでいる人と、ほんとうの明るさを共有できる。生きることの分厚さや豊かさといったものは、苦や悲といったネガティブな状態にえぐられることによって獲得できる。宗教が慈悲や愛を基底にしているのはこのことと無関係ではない。

いずれにせよ、すべての人は負(マイナス)を正(プラス)に転換できる力をもっている。おおいに悩み、おおいに迷うことは、自分のなかの凹みという器を大きくしている過程であるともいえる。その器は、やがてあなたの徳となって表れる。

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

 

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選択[3] ~登る山は無限にある

第5章〈人生〉#06


〈じっと考えてみよう〉

=甲子園球児の挫折=

雄大(ゆうだい)は小学校のころから天才ピッチャーと言われた野球少年である。もちろんプロ野球選手になるという夢をもっている。プロの世界に入ることは、はるか高い山の頂上を目指すことであり〈図のD点〉、日々練習に明け暮れた。中学でさらに実力をつけ、名門野球部のあるK高校に入学した。2年生からエースを任された雄大は甲子園でおおいに活躍し、世間からさわがれる存在になった。そして2度目の甲子園出場となる3年生の夏の大会。雄大はたくみな投球でチームを勝利にみちびいていった。結果的に準決勝で破れはしたものの、プロ球団のスカウトたちに雄大がプロでも通用する逸材であることを示すにはじゅうぶんな試合内容だった〈B点〉。

このままいけば、ドラフト会議に自分の名前があがって〈C点〉、晴れてどこかのプロ球団に入ることができ、念願だった目標の山〈D点〉に登れることを確信していた。

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ところが、そんな矢先、肩に重大な異常があることが判明した。医者からは、このまま野球を続けると、肩が一生動かなくなるかもしれないと告げられた。手術によって肩は正常にもどるが、野球は趣味くらいにしかできなくなるという。その瞬間、雄大の夢は無残にもくだけ散った〈X点〉。

雄大は1週間泣きくれた。なにも考えられなくなっていた。もう、自分の頭のなかには、プロ野球選手になるという山を望むことはできない。では、この先、なんの山を目指していけばいいのか……。しかし、現実の時間はどんどん進む。就職するのか、大学へ進むのか、決断しなくてはならなかった。


□もし、あなたが雄大だったら、今後の人生の方向をどう考えていくでしょうか? 夢破れた後に、新しい夢を見ようとするでしょうか?



小さいころから一途(いちず)に思い描いた夢。その夢が大きければ大きいほど、そして実現への可能性が高ければ高いほど、それを失ったときの苦しみは大きいものです。雄大はプロ野球選手になるという大きな山を目指していました。そしてたしかに8合目あたりまで来ていました。 が、登頂への道が体の重大な故障によって絶たれてしまった。野球一筋で駆けてきて、いまからなにを目指せばいいのか。野球選手以外の山をどう見つければいいのか。苦しみや悲しみに浸っているひまはありません。雄大の高校卒業は間近です。就職か進学かの決断が迫っています。そこでの決断は、これからまだ何十年と続く人生のスタートになるのです。

さて、あなたが雄大の状況にあったら、今後の人生の方向をどう考えていくでしょう。

失った夢があまりに大きく、挫折が大きいと、「あれほどの夢は見られない。夢を持つのはもうやめよう」という気持ちになるのは無理のないことかもしれません。そのため、適当に就職か進学をして、無難に生きていこうとするかもしれません。それは一つの選択としてあるでしょう。ただ、夢の敗北者として一生悔やみ続けることになるかもしれません。

それに対し、なにか別の山を見つけて新たに歩み出すという生き方もあります。そのとき雄大は決して野球をあきらめる必要はありません。むしろ野球に関連することで別の夢はいくらでも探せるのです。そこで大事になってくるのが、自分の「思い」はなになのかをもう一度しっかり見つめることです。ここで言う「思い」とは、心の奥底からわいてくる願い、誓い、満たしたい意味といったものです。となると、雄大の思いはなんでしょう。プロ野球選手になるという願いのさらに奥にある願いはなんでしょう……。

たとえばそれは「野球とともにある一生を送りたい」「名勝負を生みだすことにかかわることのできる自分でいたい」ということではないでしょうか。そうした根底にある「思い」をレンズにすれば、世の中には新たに目指すべき山がいろいろ見えてきます〈図2〉。

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たとえば、グローブやシューズのなどの製品開発にたずさわって「野球道具開発者になる」という山が見えてくる。また、「スポーツトレーナーになる」という山も見えてかもしれません。さらに「野球審判員になる」「スポーツ新聞記者になる」などの山もあるでしょう。そのように、思いを捨てない人の前には、それこそ山は無限に現われてきます。そして、そのどれになるにしても、過去の挫折を乗り越えた自分が生きてくるような内容の仕事ができるでしょう。つまり雄大は、さほど明確な理由をもたずにその職についた人より、はるかに強く思いのこもった仕事ができるはずです。

もちろん、それらの山を登っていくためには、準備を一(いち)から始めなくてはならないでしょう。しかし、その方向性さえ見えていれば、就職するにせよ、大学進学するにせよ、目的意識をもって進むことができます。新たに目指した山の頂上にたどり着くためには、5年かかるかもしれないし、10年かかるかもしれない。回り道も必要かもしれない。けれど、思いのもとに進んでいる自分には強い力がわいてきて、悔いがありません。たとえ長い道のりであっても楽しめるはずです。

そしてもし努力を重ねて、その新たに目指した山の頂上に立つときがきたなら、かつて自分があこがれた「プロ野球選手になる」という山を遠くになつかしく眺めるでしょう。そして「あぁ、あの山もすばらしいけど、自分が登ったこの山だって、それに負けないくらいすばらしい!」と思うにちがいありません。そのときの充実感こそ、ほんものの勝利の充実感です。

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=雄大のその後=

雄大は高校を卒業して造園会社に就職した。理由は、日本一の天然芝のプロになろうと思ったからだ。天然芝は、野球場やサッカー場、ゴルフ場に張られている。日本では人工芝が多くなったとはいえ、格式のある競技場では天然芝が使われる。雄大が入社した造園会社は、その天然芝を生産し、競技場に販売し、管理する事業を行っている。

雄大は思う───「思い返せば、甲子園球場で黙々と芝を刈る人、水をまく人。あの人たちの背中はかっこよかった。いま自分も天然芝をあつかう仕事につき、競技場の芝を最高の状態にすることで選手のプレーを支えたい、名勝負が生まれる環境をつくりたい。選手になる夢はかなわなかったけど、その分の思いを芝に込めて生きていきたい」。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

 
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選択[2] ~選択肢をつくりだす

第5章〈人生〉#05

〈じっと考えてみよう〉

ある小国の貧しい貴族の家に3人の娘(甲娘・乙娘・丙娘)がいた。3人とも10代のおしゃれ盛りで、着る服について好みが強かった。が、家は裕福ではなかったので娘たちに買ってやるドレスは少なかった。

甲娘はいつもこう漏らす―――「なぜ私には3着しかドレスがないの。しかも格好の悪いものばかり。いまどきこんな古い型なんて恥ずかしい。ああ、今晩の舞踏会になにを着ていけっていうの。このなかから選べと言われても選べないわ」。

それに対し、乙娘はというと、裁縫道具や布切れを部屋に広げ、手持ちのドレスに自分で手を加えている。―――「この部分はこう作り変えてしまえばいいかな。あ、そうだ、この素材を縫い付ければ今風になるわね。あと、ドレスを上下に分けてしまえば、いろいろと組み合わせもできるし、手元に3着しかなくても、5着、10着にも見た目を増やせるわ」。

一方、丙娘は、町でドレス作りを商売にしている職人やデザイナーを何人も広間に集めていた。丙娘は彼らを前に熱く語り始めた―――「ドレス作りを我が町の産業として有名にしていきましょう。来月行われる舞踏会には、国じゅうから貴族たちが集まります。王女も来るでしょう。そこであなたたちの腕前を見せつけるのです。最高のドレスを何着も作ってください。私がモデルになって宣伝しましょう」。


□ 3人の娘のうち、選択できるドレスの種類がもっとも限られているのはだれでしょう? 
逆に、もっとも豊富なのはだれでしょう?


□ 3人の娘の間でそういった選択肢の多さに差が出たのはなぜでしょう? 
各人の心の姿勢に着目して考えてみましょう。

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 わたしたちは日々、なにかを選択しながら生きています。A、B、C、D……、目の前にはいくつかの選択肢があって、どれかを選んでいく。たとえば、レストランに行けば、メニューにはたくさんの料理がのっていて、そこから食べたいものを選びます。家電店に行けば、テレビが何種類も並んでいて、価格や機能、予算に応じて選んで買います。高校や大学もそうです。自分の学力や家庭の経済力に合わせて、学校を選んでいきます。選べるものがたくさんあって迷うときもあれば、選べるものが少ない、あるいはまったくなくて困るときもあります。さて、そんな選択肢をめぐることについて、3人の娘の例で考えていきましょう。

自分が舞踏会用に着ていくドレスで、どれだけのものから選ぶことができるか。まず、甲娘が選べるのは3種類だけです。彼女は与えられたドレスからしか選ぼうとしていないからです。一方、乙娘はどうでしょう。彼女は与えられたドレスに自分でアレンジを加え、着こなせるパターンを5種類や10種類に増やしています。さらに丙娘となると、ドレス職人を集めて、さまざまに新しいドレスを作らせて、自分で着てしまおうというアイデアと行動を起こしています。おそらく丙娘が着られるドレスは種類も多いし、質も高いものになるでしょう。なにせ、腕前のいい職人が意気込んでドレスを作るのですから。

このように選択肢がもっとも限られるのは甲娘で、逆にもっとも豊富なのは丙娘です。では、なぜこのような差が生まれるのでしょう?―――それは、ただ目の前にある選択肢を選り好みしているだけなのか、あるいは、選択肢をあらたにつくりだそうとするのか、という心の姿勢の差にあります。

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甲娘は、与えられた選択肢にいろいろと文句はつけるだけで、選択肢を増やそうという努力をしていません。「これもダメ」、「あれもバツ!」と言って、最後には「ああ、自分は恵まれていない」とぐちをこぼす姿勢です。これでは自分の選べるものがじり貧になってしまいます。

それに対し、乙娘は自分の力で選択肢を増やそうとしています。手持ちのものが自分の好みや都合に合わないのなら、合うように変えていく努力をしているのです。

丙娘は選択肢を増やすために、もっと積極的に取り組んでいます。自分の力だけでなく、他人の力も巻き込んでやろうという計画です。しかも協力してくれるみんながハッピーになれるような働きかけをしています。そうやって丙娘は、たくさんの、しかも新しいドレスのなかから選べる状況をつくりだしました。


わたしたちは小さいころからいろいろと選択肢を与えられます。「こっちの青と、あっちの赤とどっちがいい? 好きなほうの服を選びなさい」「晩ごはんはカレーにする? ハンバーグにする? 食べたいほうはどっち?」「この予算内で自分が買いたい自転車を決めなさい」「あなたの実力で合格できそうなのはA校かB校です。どちらの受験を決意しますか?」など。親や先生があらかじめ示してくれた選択肢を子どもは受け取り、そのなかから自分に合ったもの、自分がよいと思うものを選ぶ。そうした過程で、子どもはものを比較したり、判断したりする力をつけていきます。これは一つの大事な成長です。

けれど、その成長は一つの段階にすぎません。なぜなら、それは与えられたものから選んでいるだけだからです。次の成長段階は、選択肢をみずからつくりだすということにあります。

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いま、あなたの目の前には「A・B・C」の3つの選択肢があるとしましょう。そして、その3つにどれも満足できないとします。さて、あなたはどうしますか? 

文句を言って全部を拒否するか―――でも、そうやって投げやりになって、状況がよくなるためしはありません。

または、しょうがないなと言ってどれかを選んでがまんするか―――でも、妥協ばかりを積み上げてこしらえた人生はどこかさびしい。

あるいは、新しく「D」という選択肢、あるいは「E」という選択肢を創造しようとするか―――そう、そういう強い心の姿勢をとれる人が、人生をどんどんひらいていく人なんでしょう。

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]




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選択[1] ~「選択の正しさ」について

第5章〈人生〉#04

〈じっと考えてみよう〉

早希(さき)は、第一志望だった大学の入学試験不合格を知った晩、自分の選択ミスをおおいに後悔した。「なんで、ああいう判断をしてしまったのだろう。あのようにしなければ、受かっていたかもしれないのに……」。

彼女が悔やむ判断は次の二つだ。ひとつは、部活期間を延長したこと。彼女は書道部で活躍し、高校2年のときに部長を1年間務めた。3年に進級したときに、後輩のなかに部長をやれる者がいなかったので、責任感の強い彼女は、夏休み前まで活動期間を延ばし、部長を継続することにした。

後悔する二つめの判断は、予備校を途中でやめて自習に切り替えたこと。彼女は夏休みから本格的に勉強に集中しようと、予備校通いを始めた。ところが、自宅から予備校まで、バスと電車を乗り継いで片道1時間半ほどかかる。往復だと3時間、乗り継ぎが悪かったりすれば4時間かかることもある。乗り物のなかでは勉強に集中できないこともあり、彼女は秋以降、自宅での自習に切り替えた。  

彼女がいま思うのは、
・3年への進級のときに部活をすっきりやめるべきだった
・自己流の勉強ではなく、予備校できちんと傾向と対策を教わるべきだった ・このような選択ミスの重なりによって自分は第一志望校に合格できなかった

早希は失意のなか、この春、第二志望の大学に入学する。



□問い:
早希のような状況にあったとしたら、あなたはどういうふうに心を立てなおして、第二志望の大学での新生活を迎えるでしょう?

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わたしたちは、朝起きたときから夜寝るまで、つねになにかの選択をしています。……目覚まし時計が鳴った。このまま起きようか、あと10分寝ていようか。朝ご飯のテーブルで、きょうは温かいお茶を飲もうか、冷たい水にしようか。クラスの会議で発言をしようか、発言をやめておこうか。放課後、部活の練習に行くべきか、それともきょうは早く帰って宿題を片付けるべきか……。このように、いま、こっちをするか、あっちをするか。この方法でいくべきか、あの方法でいくべきか。Aの道を選ぼうか、Bの道を選ぼうか。あなたの人生は、こうした数かぎりない選択の連続でつくられていきます。

選択において、きょうのおやつはケーキにしようか、アイスクリームにしようかという決断は、軽い気分で決めてもいいものです。しかし、受験校をどこにするか、そこに合格するためにどんな勉強方法を選ぶかという大きな問題は、真剣に考えなければいけません。できるかぎり失敗が少なく、成功が多くなるように熟考します。

しかし、いくら熟考して決めた選択でも人生は自分の予想どおりに動くとはかぎりません。現実はまったくちがった展開になることがよく起こるものです。この世の中は、自分に都合のよい方向ばかりに動くほど底の浅い仕組みではないからです。私たちが生きていくうえで心に留めておきたいことは、自分がいま選択したことは、その時点では、正しいとも、正しくないとも、どちらとも言えないことです。ただ言えることは、自分の選択が将来振り返って「正しかった」と思えるように状況をつくっていくほんとうの勝負がそこから始まるということです。

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早希は大学受験をひかえて二つの選択をした。一つは部活期間を伸ばすこと。もう一つは、自宅学習に切り替えること。それらの選択はその時点では、正しいとも正しくないとも言えませんでした。しかし、第一志望校に合格できず、結果的にその二つの選択は正しくなかったという状況になった。そのために、いま早希は自分のした選択を悔やんでいる。

しかし、その選択ははたして正しくなかったのでしょうか? こういうとき大事なのは、人生を5年、10年という長い時間でながめることです。人は悪いことが起こると、自分は運命にいじめられていると悲観的になります。しかし、悪いことは一過性の現象にすぎないかもしれません。むしろそれがあったからこそ最終的に自分はよい方向に行けたと思えるときが来るかもしれないのです。

ですから、くよくよ考えるより、楽観主義をもって新しい状況のもとで、新しい目標に向かっていくことです。そうやってなにかに邁進(まいしん)していくと、いつの日か、ふと、「あ、あの選択はまちがっていたわけではないんだ。あのとき失敗してこっちの道に来たことにはちゃんと意味があったんだ」と感じられるときが来るでしょう。そのときこそ、自分の選択を事後的に“正しい”ものにできた瞬間なのです。

“正しい選択をした”人が幸せになるのではありません。
その選択を事後の努力によって“正しいものにした”人が幸せになれるのです。

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〈早希のその後の話〉

早希の大学4年間はあっという間に過ぎた。そして来春からは、一番入りたかった経営コンサルタント会社への入社が決まっている。難しい就職戦を勝ち抜いたのだ。早希は充実した気持ちで、自分を振り返る……。

早希は大学2年時に文学部から経営学部に転部した。そもそも文学部を受験したのは、ただなんとなくという理由だけだった。が、彼女は大学1年のなかごろから、明確に経営の勉強がしたいと思うようになった。そのきっかけは、あの高3の予備校から自宅学習に切り替えたときに始まる。

早希は自宅で勉強する時間が増えるにつれ、自営業をやる両親の苦労する様子がよく見えるようになっていた。自営業は数少ない働き手で、仕入れ、販売、接客、お金の管理などをこなしていかねばならない。母はいつも「だれかいい商売の相談相手がいると助かるんだけど」と言っていた。

早希は大学に入って、世の中に経営コンサルタントという職業があるのを知った。経営コンサルタントは、会社に経営のアドバイスや支援をおこなう仕事をする。彼女は「この職業について、全国の自営業のお手伝いをするのもおもしろいかな」と思うようになった。早希が失意のなか入学した大学は、うまい具合に学部変更の制度があったので転部も問題なかった。ちなみに、第一志望していた大学にはこの学部変更制度がなく、もしそこに入学していたら、途中で転部できたかどうかはわからない。

早希はそうして経営の勉強をし、就職活動では人気の経営コンサルタント会社K社を志望した。K社での面接のとき、彼女は面接官から、責任感やリーダーシップについて質問された。早希はその場で高校3年のときの部活を思い出した。自分が部長として期間を伸ばし活動したこと、後輩を育てることの難しさなどを語った。自分としては力強く答えられたと思った。……面接後、1週間がたち、K社から採用通知が届いた。

 

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

  

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