ものごとのとらえ方[2] 「もう一人の自分」とどう対話するか

第7章〈意志・こころ〉#02

 

〈じっと考えてみよう〉

Q1~Q3につき、どういう〈とらえ方〉をすれば、前向きな気持ちになれるでしょう?
空欄(1)~(3)に書き込んでください。

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前回わたしたちは、なにか〈出来事〉に遭遇したとき、その〈とらえ方〉によって、生じる〈気持ち〉が変わってくることを学びました。宏美と多英は同級生にけがをさせてしまった。その悪い出来事に対し、宏美はマイナス方向に落ち込む一方でしたが、多英はプラスの方向へ立て直すことができました。それぞれの〈とらえ方〉が異なったからです。

そのことをさらに理解するために、冒頭に問いを3つ用意しました。さて、あなたはどんな〈とらえ方〉で〈気持ち〉をプラス方向に変えることができたでしょうか。なお、最後のページに答案例を紹介しておきましたが、これは一つの参考です。他にもいろいろ考えられるでしょう。

さて、あなたはいま、学校で国語や数学、理科、社会、英語などさまざまな科目を勉強しています。そして定期的に科目ごとのテストがあり、考える力を試されています。学校でやるテスト問題には、必ず先生が用意した正解があって、あなたはその正解を引き出せればマルがもらえます。いまはそういう基本的な段階の思考力をやしなっています。

ところがあなたはじょじょに、次の段階の思考力を身につけはじめる時期にきています。それは、ものごとをどうとらえるかという思考力です。ものごとをどうとらえるかというのは、いかようにでも答えがある問題です。あらかじめ正解が一つだけ用意されているテストの問題とは種類がちがいます。しかし、世の中を生きていくにあたっては、こうした正解のない問題のほうがむしろ多いのです。

キャプテンである自分が2試合続けて大きなミスをした。このショックと責任の重圧からどう自分の心を守ればいいのか。また、同級生から友だちの少なさを言われたときに、その言葉をどう払いのければいいのか。また、経済苦の家庭に生まれ、自分は大学進学できない境遇だと知ったとき、どう自分の運命と向き合えばいいのか―――。

これらの人生問題には「唯一(ゆいいつ)これが正しい」といった答えはありません。なにか公式があってそこに数を当てはめれば自動的に正解が出るものでもありません。覚えた歴史年号を空欄に埋めれば点数がもらえるような問題でもありません。その状況をたくましく乗り切る答えは人それぞれ無数にあります。

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あなたはいまから5年や10年もすれば、社会に出て職業を持ち、独立して生きていくことになります。そこで直面する問題の多くには、だれかが用意してくれた正解はありません。目の前の出来事や事実をどうとらえて、どう気持ちをつくり、どう行動していくか。いわば、自分で正解をつくり出していくしかないのです。そのときあなたは、感情に流されるまま悲観的にものごとをとらえることもできるし、意志を持って楽観的にとらえることもできる。どちらの姿勢がよりよい生き方につながっていくか、決めていくのは自分です。

ものごとをどうとらえるかというのは、言葉を変えると、ものごとをどう解釈するか、どんな見解を持つかです。さらにもう一歩深く考えて、それら解釈や見解はなにの影響を受けているかというと、それは信念や価値観です。信念とは自分の心に持つ「こうあるべきだ・こうすべきだ」という考えの軸です。価値観とは「これはよい・これはわるい」と判断するときの考えの地盤になるものです。

信念・価値観は、心のなかにいる「もう一人の自分」と考えることもできます。なにかの出来事に対し、それをどう解釈したらいいか、どんな見解を持ったらいいか「現実の自分」が迷っているとき、信念・価値観という「もう一人の自分」が、「こうあるべきなんじゃないか」「また別のこういう考え方だってあるよ」と声をかけてくるのです。そうして「もう一人の自分」と「現実の自分」とで何度も話し合いをする。そして自分の解釈や見解を決めていきます。きょうの設問3つを考えたときも、あなたは知らずのうちに、心のなかの「もう一人の自分」と話し合いをしていたのではないでしょうか。

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まさにいまあなたは、日々いろいろなことを勉強し、見聞し、成長しています。その過程で成功したり失敗したり、人から信頼されたり裏切られたりしながら、信念や価値観をつくっていきます。いわば、心のなかの「もう一人の自分」がどんどん育っているのです。

よりよく生きていくうえで、もちろん知識や技術は大事です。性格や健康も大事です。それと同じように、信念や価値観も大事です。信念・価値観のもとに、知識や技術、性格、健康が生かされたり、生かされなかったりするからです。

〈答案例〉

(1)
・完璧な人間などいない。キャプテンだってミスをすることはある。
・今後、大会は何回でもある。活躍するチャンスはある。
・負けたことによって学んだこともある。それを次に生かせばよい。

(2)
・人は多くから愛されるにこしたことはないが、少数から愛されることでもべつにかまわない。
・人の魅力は、人気によってすべて測られるものではない。
・友人の少なさが人生のさみしさにつながっているとはいえない。
 軽い付き合いの友だちを増やすより、深く付き合える親友を一人でも二人でも持てればよい。

(3)
・運命は変えられないわけではない。  
 (歴史上の偉人たちの多くは運命を変えていった人たちだ)
・お金がなくても大学に進学している人たちはいる。
 彼らはどうやって入学したのだろう。

 なにかよい方法があるにちがいない。調べてみよう。
・自分がこういう家庭に生まれたことには、なにか意味があるのかもしれない。

 

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]  



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ものごとのとらえ方[1] 「出来事→とらえ方→気持ち」

第7章〈意志・こころ〉#01

〈じっと考えてみよう〉

宏美(ひろみ)と多英(たえ)は仲良しクラスメイトである。ある日の休み時間、2人は会話に夢中になりながら廊下を歩いていた。廊下の角を曲がったところにある階段に来たときだ。あまりにはしゃいでいた2人は、ちょうど階段を上ってきた優奈(ゆうな)と出会いがしらにぶつかってしまった。優奈は階段をころげ落ちた。優奈は足にひどいねんざを負った。数日間は松葉づえが必要だという。

宏美も多英もその日のうちに優奈の家に行って見舞いをし、自分たちのしたことをあやまった。宏美はその夜からずっと自分を責めた。「なぜ、自分はあのとき落ち着きがなかったんだろう。廊下ではもっと静かであるべきだったのに。ふざけすぎの自分に責任がある」。そして翌日も「あぁ、あのとき、あんなにはしゃがなければ、人を傷つけずにすんだはず。なぜ自分は……」。

他方、多英も反省をした。「でも、起こってしまったことは起こってしまったこと。優奈とはこれまで話す機会があまりなかったけど、これをきっかけにして仲よくなろう。それがいまできる一番いいこと」と思った。そして多英は翌日、優奈の席に行って、いろいろと話をした。

宏美はその後、優奈に対してはなにか罪悪感が残り、彼女をついつい敬遠してしまうのだった。逆に多英は、それから優奈と親密になり、今ではこの事故のことがなかったかのようである。

□ 宏美と多英はクラスメイトにけがをさせてしまいましたが、その出来事に対する反応が2人で異なっています。それはなぜだと思いますか?  (性格が異なるからというのは一つの答えではありますが、ここではそれを考えない)

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悲しいことがあれば悲しむ。うれしいことがあればうれしく思う。これは人間であれば当然のことです。けれど、人は起こった出来事に対して、単純に反応しているばかりでは疲れてしまうこともあります。もちろんうれしいことに対しては素直に喜べばよいでしょう。とくに注意が必要なのは悪いことが起こったときです。

なにか自分につらいこと、苦しいこと、困ったこと、悲しいこと、罪を感じることが起こったとき、単純に「あぁ、悪いことだ。いやなことだ」と反応するだけでは、心が落ち込むばかりで、体をこわすことも出てきます。人は、いやなことほど心のなかで何度も反復したくなるし、苦しい感情ほどそれにひたりたくなる傾向性があります。悪い出来事に遭遇(そうぐう)したとき、自分の心をうまくコントロールできるようになるのが、ある意味、大人になることでもあります。

さて、設問をみてみましょう。宏美と多英は2人して優奈にけがをさせてしまいました。同じ出来事に遭遇しながら、宏美と多英はまったく異なる気持ちを抱いています。その差はどこから生じているのでしょうか。

わたしたちはなにか出来事にあったとき、その結果として気持ちが生じます。たとえば、

〈出来事〉  → 〈気持ち〉
宝くじに当たった  → うれしい
交通事故にあった  → 悲しい

このことから、なにか〈出来事〉が原因となり、その結果として〈気持ち〉が生じているように思えます。しかし厳密に考えていくと、そこにはもう一つ大きな要素が隠れています。実は、〈出来事〉の後に、〈とらえ方〉というものがあって、その後に〈気持ち〉が生じているのです。つまり因果関係は、

〈出来事〉→〈とらえ方〉→〈気持ち〉

の3段階です。宏美の場合、この3段階の流れがどうなっているかをみてみましょう。まず、優奈にけがをさせる〈出来事〉を起こした。宏美はそのことに対し、「ふざけすぎの自分が起こした事故だ。廊下では静かにあるべきだった。それを破った自分が悪い」という〈とらえ方〉をしています。その結果、「こんなことを起こした自分がいやだ。優奈と会うのがつらい」という〈気持ち〉になった。そしてその気まずさがいまでも続いています。

 

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多英の場合はどうでしょう。優奈にけがをさせた〈出来事〉に遭遇しているのは宏美と同じです。しかし多英は「起きてしまったことは起きてしまったこと。あやまちはだれにでもある。優奈と仲良くなって元気づけてやることがいまできる一番のこと」という〈とらえ方〉をしています。その結果、「明日、優奈の席に行って明るく話をしよう」という〈気持ち〉になった。そしてその後とても親密になって、いまは事故のことなど忘れてしまっています。

このように2人でなにが異なるかといえば、それは〈とらえ方〉です。〈とらえ方〉の違いが〈気持ち〉の違いを生んでいるといえます。

たしかに他人にけがを負わせたことは悪い内容の出来事です。しかしその悪いことを受けて、自分はダメだ、自分はこうあるべきだったんだ、と悪い方向ばかりでとらえていては、気持ちも悪い方向にしかいきません。すると、その後の行動も悪い方向にいってしまい、さらに気持ちが落ち込むという悪循環におちいってしまう。けれど多英のように、そんな悪い出来事を受けても、「これは優奈と仲良くなれるチャンスなんだ」と前向きなとらえ方をする。すると、気持ちも前向きになって、悪い状況を良い方向へ転換する行動ができます。

 

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あなたはこれからの人生で、いろいろな出来事に遭遇していくでしょう。

その遭遇する出来事を100%コントロールすることはできません。しかし、それをどうとらえるかは、ある程度、自分でコントロールができます。その結果として、自分の気持ちもある程度コントロールできる。ですから、ものごとの〈とらえ方〉というのは、平安に力強く生きていくうえでとても大事になるものです。

“人はものごとをではなく、それをどう見るかによって思いわずらうのである。”
―――エピクテトス(古代ギリシャ・ストア派の哲学者)の言葉



[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

 

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「美しい」について[4] ~外の美・内の美・内から外への美

第3章〈価値〉#07

〈じっと考える材料〉

玲子:
ああ、MIKAKOってやっぱりきれいな顔だちだなぁ。わたし、大人になったら整形手術しようと思ってるの。目を二重まぶたにして、鼻すじもすっと通す。人生変わるだろうな。少なくとも、毎朝自分の顔を鏡で見るときの劣等感にはさよならね。

夏穂:
わたしは整形手術には抵抗があるな。そこまでしなくても、って感じ。

玲子:
それは夏穂が顔に劣等感がないからよ。ちょっとした整形であれば、それはお化粧したり、かつらをつけたりすることとたいした違いはないわ。歯並びをよくする矯正だって整形のうちよ。

翔太:
いくら見た目を整えても、玲子のそのきつめの性格をどうにかしないと男子にはモテないと思うぜ。やっぱり大事なのは内面じゃないの。

夏穂:
整形について親はどう思うかしら?

玲子:
整形でちょっと目や鼻をいじるだけで、わたしは自分の顔に自信が持てる。そして毎日がウキウキできる。それこそわたしの内面が変わって、明るく変われるときよ。親だって、劣等感でふさぎこんでる娘を見るより、そっちの明るい娘を見るほうがうれしいにちがいないわ。

夏穂:
玲子は自分の顔のことを悪く思いすぎ。たとえば、あなたが写真部の活動で何かを真剣に撮ってるときの顔はとても素敵よ。

翔太:
ぼくも母親によく言われる。あんたはサッカーしてるときが一番いい顔だって。

玲子:
そうやって素のままでいいよって言ってくれる人がいればいいけどさ……

□ 将来、整形を施したいという玲子に対し、あなたならどんなことを助言してあげますか?

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見た目をかっこよくしたい。その欲求はまったく自然のものです。その欲求が人間にあるからこそ、この世界は装飾やデザインにあふれ、視覚的に豊かになっているといえます。また、あなたたちはいま、いろいろなものを見て、それにあこがれて、それをまねたいという気持ちが強い年代です。「まねる」とは「まなぶ=学ぶ」という言葉ともつながっていて、成長には欠かせない要素です。ですから、玲子がモデルのきれいさを追いかけ、自分も同じようになりたいと思うのは悪いことでもなんでもありません。ただ、それは「美を求める心」の第1段階であることを理解する必要があります。

きょうは、その「美を求める心」を3段階に分けて説明しましょう。3段階とは───

第1段階が「かっこいいものを持ちたい」
第2段階は「美しく生きていきたい」
そして第3段階が「身の回りの環境を美しくしよう」

という心の成長です。人はまず、ものごとの外面のきれいさ、かっこよさに目をひかれます。色彩的にきれいなもの、形状的にかっこいいもの、装飾的に見栄えのするものなどをめでるとともに、それらを物として所有したいと思います。それらを手に入れ、自分の一部にしてしまうことで、自分もかっこよくなれると思うからです。そういった意味で、この第1段階にいる人間が強く持っているのは「外面的な美を所有する心」です。

ところが美は、これまで考えてきたように、目に見えやすい外面的な美だけでなく、目に見えにくい内奥的な美もあります。ここで、彫刻家の巨人オーギュスト・ロダンの言葉を紹介しましょう。

「美は性格のなかにあるのです。情熱のなかにあるのです。美は性格があるからこそ、もしくは情熱が裏から見えてくるからこそ存在するのです。肉体は情熱が姿をやどす型(かた)です」

「内面からの肉づけがないなら、輪郭は脂(あぶら)を持てない。しなやかにならない。堅い陰(かげ)で乾(ひ)からびる」

「われわれが輪郭線を写し出すときは、内に包まれている精神的内容でそれを豊富にするのです」

「一切の生は一つの中心からわき起こる。やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。同じように、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる」。


───『ロダンの言葉』(高村光太郎訳) *一部現代的かなづかいに変換 

 

少しむずかしい表現になっていますが、とても大事なことをふくんでいるので、繰り返し読んで味わってください。

美に透徹したロダンがここで言っているのは、ほんとうの美は内側からの精神(情熱や性格、衝動とも言っている)のわき出しにある。外側の肉体(輪郭とも書いている)はそれを受け止める型である、ということです。そのためロダンは弟子たちに、彫刻は外側だけをとりつくろって形を出そうとするな。内面からの精神のわき出しを心の目で見よ、それを表現せよと教えたのです。

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彫刻家と同じように、わたしたちも成長するにしたがって、ものごとの内側から出てくる強さや輝きを感じとれるようになります。ものごとをじっと見つめ、その内側に健康的な躍動や精神的な充実などを見出すと、「あぁ、美しいな」となります。これが第2段階への入り口です。

この段階に入ってきた人は、美しさのほんとうの出所(でどころ)はものごとの中身であると確信します。ですから、自分自身においても中身を大事にしようと思いはじめます。自分が献身的に没頭できるなにかを見つけて、自分の中身・人生の内容を充実させようとします。第2段階で強まってくるのは、そんな「内奥的な美に生きる心」です。

ロダンが書いたように、ほんとうの美は内から外へ咲き開く。ところが、内側だけ美しいというのはいまだ完全な姿ではありません。中身の充実が外に表れてこそ完成します。内奥的な美に生きる人は、やがて、内に持つ精神(情熱、性格、衝動など)と調和する形で外にあるものを変えていこうとします。外にあるものとは、自分の身体や持ち物、自分が過ごす空間です。これらは広く「環境」と言っていいでしょう。つまり「環境的な美を求める心」が強く出てくるのが第3段階です。

千利休を例にあげてみましょう。千利休は茶道の大家で、「わび茶」といわれる分野を完成させたことで知られます。「わび茶」とはその名のとおり、「わび(侘び)」の精神を、茶を点(た)てる作法として表わすことです。

「わび」の精神とは、自然のままの不揃いの状態、不完全な状態、簡素な状態のなかに悟りを得ようとする意識です。そういう精神性に美を見出す千利休は、当然、自分の環境も「わび」させていくのが美しいと確信していました。そのため、質素な身なりをし、林のなかにとけ込む小さな茶室を設けます。ごつごつしただけの器を使い、木枝を削って茶さじを作り、庭で取った草木を竹の筒に生ける。千利休は内から外へ、「わび」という美を一貫させていったわけです。

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そのように第2段階で内奥の美をしっかりとらえる人は、外側にある環境もそれに応じて美しくしたいと思います。これが第3段階の美を求める心です。「外側の美」にこだわるという点では、第1段階も第3段階も同じです。しかし本質的には大きくちがいます。

第1段階の心が欲しているのは、かっこいいものを所有することです。かっこいいとは見た目がいいねとか、デザインがウキウキするね、すごくかわいいね、買いたいな、持ちたいな、というふうに感情を高揚させる視覚的な刺激です。しかし、かっこいいものは、往々にして、すぐに飽きがきます。流行や他人の影響を受けることが大きく、自分の内面の奥深いところとつながっていないがために長続きしません。

それに対し、第3段階の心が求めるのは、自分が一番落ち着ける環境です。ここで言う“落ち着く”とは、自分の精神が「こうありたい」と目指す状態と、身の回りのものの状態が調和していて、心身ともに平安なことをいいます。

そこで求める美は、必ずしも流行を追ったものではなく、それを所有しなければ気がすまないといったことでもなくなります。あくまで、自分が内面で大切にしていることがまずあり、それに合わせるように、持ち物はこういう様子のものがいいな、身なりはこんな感じにしていこう、毎日過ごす部屋はこういうふうに変えていこうとなります。それはつまり自分なりの美しさを外側へ創造することであり、内側の意志とつながっています。

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さて、設問に移りましょう。玲子は将来、整形手術をして顔を変えたいと言っています。玲子はいま思春期の女の子で、きれいさにあこがれたり、自分の容姿にコンプレックスを持ったり、夢を想像したり、ともかく頭や心があちこちに激しく動く年ごろです。みな、そういう時期を経て、精神的に大人へと向かっていくものですから、いま頭や心にわいてくることを無理やり押さえ込むことはありません。おおいにあこがれ、おおいに想像をふくらませればよいでしょう。そのなかで、「整形したい」という気持ちについては答えを急ぐのではなく、少し時間を置いてみましょう。つまり、じゅうぶん成人になったとき、再び考えてみることにしたらどうでしょう。

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 というのも、玲子はいま「美を求める心」の第1段階に入ったばかりです。世の中にあるかっこいいものにいろいろ魅了されるまっさかりです。そして自分もそれを持ちたいと思う。それを持つことによって自分もかっこよくなれると思う。自分の容姿に自信がないので、なおさらそう思うわけです。だから玲子は、ある種、熱病のなかで「わたしもきれいになりたい。人から注目されたい」という欲求にとらわれている状態です。

若いころのそういう熱病的な欲求は、ときに夢や志に発展していくので、あっていいものです。しかし、玲子の欲求は少し注意が必要なのです。なぜでしょう───。

たとえば「ぼくは将来、プロサッカー選手になりたい!」という少年の熱病的欲求と、玲子のそれとはどこが違うか考えてみましょう。プロサッカー選手になるためには、長い時間をかけて能力を鍛えていく努力が必要になります。その過程には、失敗も成功も、運も不運もあるでしょう。それを乗り越えていく精神力も欠かせません。ところが、玲子の望みである整形は、手術代さえ用意すれば数時間でそれが手に入ってしまうのです。

少年は鍛えた能力や精神力を自分の内面に残すことができます。たとえプロ選手になれなかったとしても、それらはその後の人生でおおいに自分を助けてくれるでしょう。けれど、整形で手に入れるかっこいい二重まぶたや鼻すじは、いわば部品を買って表面に付けるものであり、内面に蓄積されるものではありません。

玲子はそれによって自信がつき明るくなれると言います。たしかに一時的には気分が高まるかもしれません。しかし、さらに歳をとってくると、今度はくちびるが気に入らないとか、シワが出てきたからシワをなくしたいとか、そんなようなことでまた自分の外見にがまんができないことにならないでしょうか。結局それは、永遠に見た目に支配される生き方になりはしないでしょうか。

見た目はどうでもいいという問題ではありません。見た目をよくする努力は必要です。ただ、「内奥の美」を知ったうえでの見た目をどうするかと、「内奥の美」を知らずに外見だけどうするかではまったく異なるのです。

そういった意味で、玲子はこの先、いろいろに見聞をして、経験を重ねて、「美を求める心」の第2段階に入っていくことです。中身の充実から外へ咲き出す美がどういうものかがわかってくると、考え方も変わってくるでしょう。いや、そのときに、やはり「整形をしたい」ということになるかもしれません。それはそれでいいのです。おそらく、自分の内側になにか固い思いがあるのでしょう。少なくとも、いまのようにあこがれ気分だけで言っているのとはちがう次元から出た答えのはずです。

人の美しさとはどういうものであるか。あるいは、人を美しくさせるものはなにか。この問いにどんな答えを持つかは、自分が「美を求める心」の第1段階の住人なのか、それとも第2段階、第3段階の住人なのかでまったくちがってくるものです。

[文:村山 昇|イラスト:サカイシヤスシ]

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「美しい」について[3]~美はそれを見つめる心のなかにある

第3章〈価値〉#06

 

〈じっと考える材料〉

4月。桜が満開の朝、玲子と夏穂は桜並木の通学路を歩いている。

夏穂:
桜ってほんとうにきれいだね。

玲子:
うん、そうね。ぱっと景色が明るくなっていいわね。でも、わたし、基本的にピンクが好きだけど、桜の色はちょっとか弱すぎる。もっと強めのピンク色がいいのよ。バラのピンクみたいな。

夏穂:
わたしはこういう繊細なところがいいと思うんだ。か弱いように見えて、まだ肌寒い春にしっかりと咲くところが。

玲子:
うちのおばあちゃんは、「散るときの桜が一番きれいだ」って言ってたな。去年、入院してたとき、病院の窓から散っていく桜の花を一日中ずーっとながめてた。そのすぐあとだったなぁ、亡くなったの。

(と、2人が前を見ると、翔太が肩を落として歩いている)

玲子:
翔太、おはよう。どうしたの、浮かない顔をして。

翔太:
きのう、サッカーの試合に負けたんだ。ぼくのプレーが原因さ。あぁ、なんであのときあんなミスをしたんだろう。

玲子:
そんなこと悔やんでも時間は戻らないわ。これからどうやればもっと強くなれるかを考えなさいよ。ところで、ほら、桜が満開でとてもきれいよ。

翔太:
あ、満開だったんだ。気づかなかった。でも、いまは桜見る気分じゃないよ。

夏穂:
みんな、いろんな桜を見ているのね。

□ 夏穂は最後に、「みんな、いろんな桜を見ている」と言いました。玲子、夏穂、玲子の祖母、翔太は、それぞれどんな桜をどのように見ていますか?

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春に咲く桜は、日本人の多くが美しいと感じるものです。しかし「桜は美しい」といっても、その「美しい」は人によってさまざまです。また、同じ人のなかでも、人生のときどきによって感じ方がちがってきます。では設問文でみていきましょう。

玲子は桜の花の色を見ています。目に入ってくる薄いピンク色が、景色をぱっと明るくしてきれいだと言っています。夏穂も花の色がきれいだと言っています。けれど彼女は同時に、花の色が一見か弱そうに見えながら、実は桜は肌寒いなかでしっかりと咲く生命力を内に秘めているところにも美しさを感じています。

この2人の違いはなにを意味しているのでしょう。それは美には、目に見えやすい「外面的な美」と、目に見えにくい「内奥的な美」の2つがあるということです。玲子はおもに、花の色という外側に現れる部分で美しいと感じている。夏穂はおもに、桜の木の内側からわいてくる生命力を見つめ、その力強さを美しいと感じています。

次に、玲子の祖母は桜をどう見ていたのでしょう。おそらく彼女は、自分の死期が近いことを知っていて、散りゆく桜に自分の状況を重ね合わせていたのではないでしょうか。さまざまな生命が生まれては死に、生まれては死ぬ無常の世界で、桜の花が短い間で一途(いちず)に咲こうとするけなげさとか、生命がどこからやってきて、どこへ消えていくのかという不思議さを考えていたのではないでしょうか。彼女は桜を見つめるとともに、自分のこれまでの一生を見つめ、目の前の桜から深い美しさを引き出していたのでしょう。

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こうした散っていく桜の美しさは、子どものころはあまり感じられないもので、大人になるにつれ、ましてや死を意識すればなおさら強く感じ取れるようになるものです。これは言ってみれば「大人が見る美」です。ここでいう大人とは、「人生経験や知識を積んだ」という意味です。世の中には人生経験や知識を積むことによって見えてくる美があるのです。

たとえば寺社建築や仏像を思い起こしてください。あなたたちは学校の社会見学や修学旅行でお寺に行き、仏像を見たことがあるでしょう。多くの学生は、ああいったものをまだ「美しい」とは思えないかもしれません。思えたとしても、「なんとなく威厳があって、存在感がある」くらいではないでしょうか。

ところが歳を重ねて、日本の古いものに何度も触れ、忙しい毎日を送り、また歴史や伝統に関する知識が増してくると、お寺の造りがとても優れたものであり、そこがとても安らぐ空間であり、仏像彫刻が奥深いものであることに、ふと気づくときがきます。これらの美しさは、「渋い」とか「粋(いき)である」とか、「慈悲に満ちた」「わび・さび」といった種類に属するものです。これらを味わうためには、どうしても見る人の成熟が必要になってきます。建築物や伝統工芸品、芸術作品などは「大人が見る美」の典型です。

しかし一方で、大人になるにつれ見えなくなる美もあります。それをここでは「子どもが見る美」と名づけましょう。たとえば、昆虫を手に取って、その体のつくりとか動きのしなやかさを食い入るように見つめるとき。あるいは、野原で花をつんで、その繊細な模様に目をこらし、においをかいでいるとき。おそらく、あなたは好奇心に満ちて全神経をそこに集中させ、自然と一体になっています。それはまちがいなく美を感じている瞬間で、子どもにしか感じることのできないものです。多くの大人は成長するにしたがい、そうした好奇心をなくしていき、純粋無垢(じゅんすいむく)にものごとを見つめられなくなるのです。

さて、再び設問にもどって、翔太は桜をどう見ていたのでしょう。残念ながら翔太はそのとき、桜の美しさを味わっている心の余裕がありませんでした。もし、サッカーの試合での失敗がなければ、彼は玲子や夏穂といっしょになって、桜をめでていたでしょう。

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このように、同じ桜の花に対して、これだけ違った「美しい」の受け取りがある。桜は人間がそれを美しいとか美しくないとか言うのとは無関係に、ただ咲いているだけです。となると、美はいったいどこにあるのでしょうか。

もちろん「美しい」のもとになる性質は桜が持っています。桜が地に根を張り、冬の寒さをじっと耐えて、一生懸命に繊細な色合いの花を咲かせようとしている。それは良いことに通じ、生きる力の根源に近い性質です。ただ、その性質がそのまま「美しい」ということではありません。「美しい」というのは、あくまで人間が見い出し、感じるものなのです。そのため、いくら桜がすばらしく咲いていても、そこに人間がいて、「美しい」と感じてやらなければ、そこに美しい桜はなく、単に桜が咲いているだけなのです。したがって、美はどこにあるかといえば、それは最終的には、「美しい」と感じた人の心のなかにあるといえます。

[文:村山 昇|イラスト:サカイシヤスシ]


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「美しい」について[2]~個別の美と普遍の美

第3章〈価値〉#05



〈じっと考える材料〉

前回に引き続き、玲子(れいこ)、夏穂(なお)、翔太(しょうた)の3人が会話をしています

玲子:
MIKAKOはいつ見てもきれいだなぁ、美しすぎる。見てよこの写真。この洋服のコーディネート最高だと思わない。バッグのデザインもおしゃれだわ。今年はピンクが流行するのかしら。目元のメイクやヘアスタイルも完璧ね。


翔太:
(写真を見ながら)こんな派手なファッションがきれいだって、とんでもない。ごちゃごちゃしすぎだよ。そもそもぼくはこのピンクって色が好きじゃない。


玲子:
翔太は好き嫌いでファッションを見てるだけよ。美しいものを見分けるセンスってものがないのよ。じゃ、あなたはどんな服装がカッコイイと思うの。


翔太:
そうだな、たとえばこれだよ(持っていたサッカー雑誌を見せる。有名なプロサッカー選手のふだん着の写真がのっている)。ジーンズにTシャツ、シンプルでカッコイイだろ。ファッションは派手な色やデザインにごまかされちゃダメなんだ。着こなしが大事なのさ。


玲子:
そんなヨレヨレのジーンズ、趣味が悪いし、ぜんぜん着こなせていないわ。この服装がカッコよく見えるのは、翔太がこの選手をカッコイイと思っているからよ。この選手が着るものなら、あなたは何でもカッコイイって言うわ。ところで夏穂、あなたはどんな服がいいと思う?


夏穂:
わたしはユニフォーム姿の人にあこがれるな。キャビンアテンダント(旅客機の客室乗務員)とかホテルの人たちとか。ああいう働く服のきりっとした雰囲気が美しいと思う。あ、そうだ、きりっとしたという意味では、和服も好き。特に無地で落ち着いた色のもの。それを着ながら凜(りん)と歩いている女性って素敵だと思わない?


翔太:
それにしても夏穂は好みが大人だね。でも、地味だけどカッコイイということはあるような気がする。たとえばサッカーで、デフェンスがしぶとく相手にまとわりついてボールを奪うプレー。地味だけどカッコイイ。特にぼくはデフェンスやってるからよくわかるんだ。



□ この3人の会話では、美しい(あるいはカッコイイ、きれい、素敵)と感じるファッションについて、いろいろな意見が出ています。ファッションのように、美しいと感じるものが個人によってばらばらになるものをほかにもあげてみましょう。

□ では逆に、多くの人のあいだであまり意見のちがいがなく、だれもが美しいと感じるものをあげてみましょう。

□ 自分が美しいと感じたものに対し、ほかの人が「美しくない」と言ったとしましょう。その場合、その人の感じ方がまちがっているのでしょうか? それとも自分の感じ方がまちがっているのでしょうか? それとも、「まちがっている/まちがっていない」とは別の問題でしょうか?

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「どんなファッションをおしゃれと感じるか」「どんな顔がきれいか」ほど、人によって答えがちがうものはないかもしれません。ある人が「あの服装、センスいいね」と感じても、別の人は「えー、全然そう思わないけど」という場合はよくあります。また、ある人が「あの男優はハンサムね」と言っても、別の人は「あの男優のどこがハンサムなの?」と返す場合もよく起こります。

その他たとえば、「どんな自動車がカッコイイか」「どんな音楽が素敵か」なども意見が分かれるものです。ある人がほれぼれするようなロックギターの音色は、ある人にとっては耳ざわりな雑音にしか聞こえません。これらのことは、自分には自分の美しいがあり、他人には他人の美しいがあることを示しています。つまり「人が個別に感じる美」です。 

ところが、多くの人が共通して美しいなと言う「みなが感じる美」のようなものもあります。たとえば、白い雪をいただいた雄大な富士山、青く透明に輝く海、夜空に打ち上がる花火など。これらのものを美しくないという人はいないでしょう。そこには普遍的な美があります。

人間は「美しい」を目で感じたり、耳で感じたり、心で感じたり、また頭で思ったりします。その意味で、人間はからだ全体が「美の受信機」になっています。ただ、その受信能力は人それぞれです。ものごとに接して、そこからなにか「美の波長」のようなものを受信する感度、受信する傾向性(クセと言ってもいいでしょう)は一人一人ちがっているのです。

翔太が見せたサッカー選手のファッションが翔太には美しく見えて、玲子には美しく見えないことが起こるのはなぜでしょう。その理由は、そのファッションの発する「美の波長」が、翔太の「美の受信機」にはピーンと合うけれど、玲子の「美の受信機」には合わないからです。

その一方で、白い雪をいただく雄大な富士山が発する「美の波長」は、だれの受信機にも容易に合うので、だれもが美しいと感じるわけです。

わたしたちは「美しい」の奥に、なにか良いこと、すぐれていること、善いこと、生きる力の根源に近いことを感じとっていると前回触れました。ものごとがどういう具合に、良いか、すぐれているか、善いか、生きる根源に近いかによって、そのものごとが発する「美の波長」は変わってきます。

雄大な富士山の景色は、とても強く、わかりやすく「良いこと」「生きる力の根源に近いこと」に通じているので、その「美の波長」は広く受信されやすいのです。ところが、流行ファッションのように先鋭化してどんどん変わっていくものは、それがどれくらい良いのか、ほんとうに良いのかがわかりにくい。そのためにその「美の波長」はだれもが受け取るものではなくなってきます。ですからファッションについては、人によって「美しい」がばらばらになりやすいと考えられます。

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こうしてみると、「美しい」にはどうやら2つのことが関係しているようです。1つは、ものごとが発する「美の波長」がどうか。もう1つは、感じる側である人間の「美の受信機」がどうか。この2つが互いに合ってはじめて「美しい」は生じる。そして「美しい」の感じ方が人それぞれにちがうのは、2番目の各人の「美の受信機」のちがいによる。

「美の受信機」は難しい言葉で「審美眼」とも言います。人はそれぞれの顔や体形がちがうように、審美眼も違います。だから、他人の「美しい」が、自分の「美しい」とちがうからといって、それをけなしたりするのではなく、認め合うことが大事です。また、自分が美しいと感じるものを他人に紹介することはできても、押しつけることはできません。人は自分の受信能力によってしか「美しい」を感じられないからです。しかし、逆に考えれば、人それぞれに「美しい」があるからこそ、世の中にさまざまな美が生まれるともいえます。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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