結果と過程[1]~結果を出すことが「勝ち」か?

第2章〈成長〉 #05


〈じっと考えてみよう〉

あなたはいま、剣道部のキャプテンをやっていると仮定しよう。
あなたの学校の剣道部には強い伝統があり、毎年の県大会ではベスト4をはずしたことがない。そのためにあなたの学校にはシード権があり、県大会では予選の第1戦と第2戦を免除されている(これは体力を温存するためにも有利な条件だ)。

さて、今年1年間、あなたはキャプテンとしてチームを引っ張ってきた。その成果を示す県大会がもうすぐある。毎日の練習に工夫をこらし、メンバーを励まし、同時に、自分自身も選手として稽古(けいこ)を重ねてきた。

いよいよ、県大会本番。 自分の調子はよかったものの、主力選手の調子が悪かったり、ケガ人が出たりして、チームとしての実力が十分に発揮されなかった。結果はベスト8にも残れない惨敗だった。おおぜいの人が応援にかけつけてくれたが、期待にこたえることができなかった。

今回のチーム成績によって、来年からシード権がなくなり、後輩たちは県大会の予選第1戦から戦わなくてはならなくなった。



□さて、このとき、あなたの気持ちは次のどちらに近いだろう?


【気持ち1】
結果が出なかったことはしょうがない。そのときの運もある。
毎日やってきた厳しい練習は正しかったと思うし、
自分もチームもいい思い出になった。

【気持ち2】
結果は出さなければ意味がない。
運がなかったという理由にすべきでない。
よい結果を出すことで、努力した日々がほんとうによい思い出に変わる。  

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わたしたちは生活のなかでいろいろ目標を立てて、それを達成しようとがんばります。今度の試験で何点以上を取ろうとか、今度の試合で入賞をめざそうとか、受験で第一志望校に合格しようとか。それで達成できれば「結果を出せた!」とよろびますし、達成できなければ「結果を出せなかった」と落ちこむことになります。

「結果」に対して「過程」(英語ではプロセス)という言葉があります。過程とは、結果を出すために、どんな準備や努力をしてきたかということです。さて、設問をみてみましょう。あなたはどちらの気持ちに近かったでしょう。

〈気持ち1〉は、過程を重視しています。過程において一生懸命努力したんだからそれで悔いはない。結果はその時の運もあるからしょうがない、というとらえ方です。

それに対し、〈気持ち2〉は、結果重視です。いくら過程においてすばらしい努力をしても、結果を出せなければ自分の力を証明できたことにはならない。運のなさを理由にしてはいけない。応援してくれた人にも申し訳ない、というとらえ方です。

実は、「結果と過程、どちらを重視するか」というのは、大人でもおおいに悩む問題です。たとえば勝ち負けを仕事にしているプロスポーツ選手を想像してみてください。野球選手の場合、ヒット率やホームラン数、勝ち星という結果を出さなければ、レギュラーとして試合に出られなくなるので、職業としての野球を続けることはできません。家族もやしなっていけません。彼らは「結果を出すこと」に生活がかかっているのです。だから必死になる。必死になるから感動的なプレーが生まれるわけです。

プロスポーツ選手ほど厳しくはありませんが、一般の会社員や自営で商売をしている人たちも、やはり結果にこだわらなくてはいけないと感じています。仕事でよい成績を上げたり、商売で利益を上げたりという結果なしには、給料がもらえないし、商売が続いていかないからです。

けれど、そうして「結果、結果を出さねば」とあせっても、結果は過程をきちんとつくっておかないと出ません。よい計画を立て、よい準備をし、心と体と能力を目標達成に向けていかねばなりません。そこをなまけてよい結果を望もうとするのは、都合のいい話です。そのように、大人たちは「結果が大事」と「過程が大事」との間で揺れ動きながら働いています。

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設問にあげた〈気持ち1〉〈気持ち2〉は、どちらがよいわるいというものではありません。人それぞれに傾向性があります。しかし、次のようなことを留意すべきでしょう。

「練習をきちんとやっていればよい」「準備はちゃんとしたので」という態度、すなわち過程重視の態度は、往々にして、結果を出せなかったときの言いわけになります。やはり挑戦するからには「結果を出してみせるぞ」という執念がないと、過程があまくなるし、挑戦がいいかげんなものになります。また、成し遂げようとする真剣な気迫のなかでこそほんとうによいアイデアが生まれるものです。

ところが「結果を出すこと」が絶対化すると問題も起こります。人を蹴落とそうとしたり、不正をやったり、手段を選ばない心が出てしまいます。

スポーツの世界でよく話題になるドーピング(不正な薬物使用)、議員選挙でたびたび起こるわいろ(投票者に不正に贈り物をすること)、企業の間で行われるカルテル(製品の価格や生産数量を秘密で決めあうこと)などはその典型です。勝利、当選、利益という結果を絶対出さねばならないという気持ちから不正をしてしまうわけです。みぢかな例で言えば、試験でいい点が取りたいあまり、カンニングする誘惑にかられるのと同じです。

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プロ野球界で数々の記録を打ち立てるイチロー(本名:鈴木一朗)選手は次のように語っています―――

「結果とプロセス(過程)は優劣つけられるものではない。
結果が大事というのはこの野球を続けるのに必要だから。
プロセスが必要なのは野球選手としてではなく、
人間をつくるうえで必要と思う」。 

(『イチロー262のメッセージ』より)

一野球人として結果が大事。一人間としては過程が大事。これはイチロー選手が長年かけてたどりついたひとつの哲学でしょう。最後に、古くからの言葉も紹介しておきます。それは―――「人事(じんじ)をつくして天命を待つ」。自分ができるすべてのことをやりきって、結果は天の意思に任せなさい、という意味です。

人生において、よい結果を出すことが必ずしも「勝ち」とはかぎりません。そのことに「挑戦したこと」がすでに勝ちなのです。なにかに挑戦して、よい結果が出たなら、それは天からのごほうびとして、よろこんで受け取る。わるい結果が出たなら、もう1回挑戦してみなさいという天からの激励ととらえる。そういういさぎよい心でものごとに取り組んでいく人が、おそらく、長い時間をかけて自分の思いどおりの人生を築いていく人なのでしょう。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

 


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目標と目的~坂の上に太陽をのぼらせよ

第2章〈成長〉 #04

〈じっと考える材料〉

高校2年生になった由佳(ゆか)は、勉強への興味をなくしはじめていた。

勉強はもともと好きなほうだが、「勉強って、結局、頭のゲームみたいなものかしら。試験のやり方を覚えて、いい点を取る。いい高校に合格し、次はいい大学をねらう。そんな繰り返し。いい成績を取れば、それは気持ちいいし、親や先生にもほめられる。でも、それが勉強をやる理由? 勉強ってほんとうはなんのためにやるの?……」と思うようになってきたのだ。

由佳は、夏休みのボランティアプログラムに参加した。「フェアトレードを体験しよう」という活動だった。フェアトレード(公平貿易)とは、発展途上国の人たちが作ったものを適正な価格で継続的に取引することで、彼らが適正な収入を手にし、生活の自立ができるよう助ける仕組みである。彼らに一方的に寄付金を与えるような形では、彼らがいつまでたっても自立できないおそれがあるからだ。

その会場には、ある発展途上国から1人の社長Gさんが来ていた。

Gさんは自国で綿製バッグを製造する会社を経営している。40人の作業員を雇い、手製で1つ1つバッグを作って日本に輸出している。独特な民族調のデザインと素朴な味わいが人気だ。そのバッグが日本で安定的に売れると、40人の作業員は安定的に収入を得ることができ、家族を養い、子どもを学校に行かせることができる。また、バッグが1個売れるごとに、地元の学校に図書が1冊増えることにもなっている。

由佳たちのボランティア作業は、日本の高校生や若者が気に入るバッグのデザインやアイデアをまとめて、Gさんに英語でプレゼンテーションするというものだった。Gさんは自国に戻り、それらのアイデアをヒントにして、さらに日本で人気の出るバッグを作るのだ。由佳はどんどんアイデアを出した。

由佳はこの日のボランティアに活動して、国際語である英語の未熟さを痛感した。また、経済の仕組みやデザインにも興味を持った。さらに、自分が教科書で習っている世界史は、Gさんの国の立場からながめるとまったく違う世界史になるだろうなとも思った。

いずれにしても、由佳のなかではなにか大きな変化が起きていた。「勉強はなんのためか?」という疑問にかすかな光が見えたようでもあった。

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きょうは2つのことを考えてみましょう。

 □ 目標と目的の違い
 □ 坂の上に太陽をのぼらせること

目標と目的は同じような意味に思えますが、厳密に考えるとちがいがあります。

まず目標とは、めざすべき数量・状態・しるしをいいます。たとえば、「練習目標は1日20kmの走りこみです」「○○検定で1級合格するのが目標」「今週の目標は参考書の50ぺージまで終えること」など。

それに対し、目的とは、目標の先にある最終的にめざすことがらで、かつ、なぜそれをめざすのかという意味を含んだものです。簡単にまとめると───

〈目標〉=めざすべき数量・状態・しるし
〈目的〉=目標の先にある最終的に目めざすことがら+意味(~のためにそれをやる)

先の例でみてみましょう。1日20kmの走りこみを〈目標〉にしてがんばっている人の〈目的〉はなんでしょう。半年後のマラソン大会で優勝して、自分の能力を証明するためかもしれません。また、○○検定で2級合格するのが〈目標〉という人はどうでしょう。その資格を取って、将来なにかの職業につくためというのが〈目的〉かもしれません。

あるいは、ある体操選手の例で説明してみましょう。彼は国内の大会で優勝したとき、インタビューで「いえ、この先がまだありますから」と答えました。彼にとって、国内優勝は〈目標〉の1つであって通過点にすぎない。さらなる大きな〈目標〉は世界選手権で優勝することです。彼にとって、そうした国内外での優勝の先にある〈目的〉とはなにか。それは4年に1度のオリンピックで金メダルを取り、みなに感動を与えるアスリートになりたいということです。

 

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このように力強く自分の道を進んでいく人は、めざすべき状態を目標1、目標2、目標3と段階に分けて設け、その先に目的をすえています。逆に見れば、大きな目的を抱き、そのもとに目標を段階的に置いているとも言えます。

目的とは繰り返しますが、「~のために」という意味を含んだものです。自分がめざすことに意味を感じているというのは、とても大事なことです。なぜなら、人間は意味からエネルギーを湧かす動物だからです。

たとえば、あなたのクラスが、5日間、学校近くの川岸の空き缶拾いをすることになりました。クラス全体で1キログラムの缶を集めることが目標で、その量に達すれば1日の作業を終えることができます。このとき、最初の1、2日はがんばれるかもしれません。しかし、なんのためにその作業をするのかという意味を感じなければ、みな続けるのがいやになるでしょう。ところが、その空き缶の収益が学校の設備充実に使われたり、近隣の人たちがきれいな川岸になってよろこんでいるという事実を知ったりすれば、やる気が出てきます。その作業に意味を感じる、つまり目的を持つようになったからです。

このように、目標と目的の両方がそろうと、人は具体的に、そして持続的にがんばることができます。

しかし現実は、とりあえず目標に向かってがんばるけれど、とくに目的はないという場合が多いものです。そうすると、「結局、自分はなにをやりたい人間なんだ?」という根本的な問題がわいてきます。自分の努力はなんのためということがわからないので、迷いが出てくるのです。由佳はおそらくその状態に迷い込んでいたのでしょう。これまで試験ごとに目標を決め、それをクリアすべく真面目に勉強してきた。ところが、勉強の目的、つまり勉強をする意味が見あたらないので、それへの意欲がなえていたわけです。

もちろん、勉強はその人を豊かにしていくのでそれ自体が目的となりえます。けれど、人は学んだことをなにかの役に立てたいと願うものです。自分がいま努力して勉強していることがどこにつながっているのか。それがわかると意欲がぐっとわいてきます。

そこにきて、由佳はボランティア活動に参加し、フェアトレードに強い関心を持ちました。彼女はフェアトレードのような仕事を通して社会に役立つことが、自分の人生のひとつの目的になりえるのではないかと感じたからです。そしてその目的を成しとげるには、英語や世界史をもっと学ばなければならない。こうした目的意識が心のなかに芽生えたことで、由佳は、がぜん、勉強に対しやる気が出てきました。

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私たちは坂の上に立っています。坂の傾斜は、人生における試練や挑戦といった負荷です。私たちはその坂の途中にいろいろと目標を立てます。けれど、目標をただこえていくだけではしんどいので長続きしません。そこになにが必要か―――それが「坂の上の太陽」です。

「坂の上の太陽」とは目的であり、それをなぜやるかという意味です。太陽は坂道を照らし、エネルギーをくれます。フェアトレードに参加した由佳の心に生じた大きな変化は、実はこの太陽がのぼったことでした。坂の上にどんな太陽をのぼらせるか―――これは生きるうえでけっこう大きな問題です。

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

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目標[2]~健やかに・高く・遠くまで

第2章〈成長〉 #03



〈S君からの相談〉
僕はなにか目標とか計画みたいなことに縛られるのがいやです。もちろん、学校で出された宿題はやるし、親から頼まれた手伝いもやります。でも、それ以外は自由にのんびり過ごしていたいです。ゲームをしたり、音楽を聴いたり、友達とスマホでおしゃべりをしたり、毎日の自由時間はそれなりに楽しいです。母親からは「なにかに打ち込みなさい」とよく言われますが、いま、特に打ち込んでいることとか、目指していることはありません。だいいち、自分がなにに打ち込めばいいかが思い浮かびません。こうやって過ごしていてはダメなんでしょうか?

〈Rさんからの相談〉
わたしは成績がごく普通の生徒です。がんばって勉強しても、平均点を取るのがせいぜいです。なので、人に言えるような立派な目標は立てられないし、立ててもできなければ自信をなくすことになるので、目標はなるべく立てないようにしています。目標って生きるために必要なものですか? そして、こういう考え方をするわたしはよくないですか?

前回に続き、S君とRさんの相談から「目標」について考えましょう。今回は次の3点について書きます。

 □ 越えるべきもっとも高い壁は「心の壁」
 □ 小さな目標の積み重ねが、自分を「健やかに・高く・遠くまで」行かせる
 □「目標をもたない生き方」を自分が美しいと思うかどうか


なにか目標をかかげようとするとき、そしてその達成に向かうとき、わたしたちの前に壁が現れます。やる気をなえさせる壁です。この壁には4つの種類があります。それは───


 1)能力の壁
 2)財力の壁
 3)環境の壁
 4)心の壁   です。

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1つめは「いまの自分にはそれをやる能力がない」という壁。2つめは「お金がないから難しい」という壁。3つめは「自分の置かれた環境が不利だ(たとえば、不便な地域に住んでいるとか、親が教育熱心でないなど)」という壁。そして4つめは「失敗がこわい、めんどうくさい、なんとなく不安だ」という壁です。

なにかに挑戦しようとするとき、能力がない、お金がない、環境がよくない、といった理由は、たしかに自分のやる気をしぼませます。しかし、歴史上の偉人の本を読んでみてもわかるとおり、彼らにとって、そうした能力的・物理的困難は最終的な障害物にはなっていません。挑戦するにあたって、こえるべきもっとも高い壁は、実は自分のなかにつくってしまう心の壁です。おそらくRさんも、この壁が気持ちを消極的にさせているのでしょう。

Rさんは立派な目標は立てられないと言います。そもそも目標は立派でなければならないと思うから、心の壁も大きくなるのです。目標は小さなことでかまいません。小さくとも自分で目標を立てて取り組んでいく。それを繰り返す「心の習慣」をつくることが、いまいちばん大事です。

あなたのまわりには「難度10」の目標をどんと打ち立てて派手にやってしまえる人がいるかもしれません。しかし、自分はそうはできない。ならば、「難度1とか2」の目標を立てて、それを何回も積み上げていく。それでよいと思います。むしろ、それをやれる人が最終的には、健やかに、高く、遠くへ到達することになります。

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プロ野球の世界で活躍するイチロー(本名:鈴木一朗)選手は、数々の大記録を打ち立てています。たとえば、米国メジャーリーグシーズン最多安打262本(2004年に記録)、日米通算4000本安打(2013年時点)など。これらは今後、他の選手が容易に追いつける数字ではありません。それほどまでに、イチロー選手は高く、遠くまでのぼっていったのです。

けれどイチロー選手とて、この大きな数字をいきなり目標にしていたわけではありません。「次の目標は、次のヒットです」と本人が言うように、あくまで1本、また1本という目標達成の積み上げによって、偉業はなされたのです。彼はこうも言います───「ちいさいことをかさねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」と。

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ですから、Rさんは小さな目標を立てるところから始めたらどうでしょう。それをだれが見ていようと見ていまいと地道に続けていくことです。それを「心の習慣」にしてしまえば、負担に思うことはなくなります。そして何年か経ったときに、ふと振り返ってみてください。自分が結果的にとても大きな壁を乗りこえたほどの位置に来ていることに気づくはずです。「心の習慣」がそうやってふつうの人を、健やかに、高く、遠くまで行かせたのです。目標を立てることを避けてきた人やサボって来た人には、もうとうてい到達できないようなところまで行ってしまえるのです。

最後に3点め。S君もRさんも、目標をもたない過ごし方はよくないかどうかを気にしている様子です。これは他人によいわるいをきく問題ではありません。自分が決める問題です。目標を立てずに過ごしていく生き方をあなた自身は、美しいと思うか、思わないか、です。あるいはこう考えてみるのもひとつです───なにかの病気であと1年しか生きられない状況になったとしましょう。そのときあなたは、なにかをめざさずにだらりと1年を過ごすでしょうか?

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

 

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目標[1]~「目標を立てる」って必要なこと?

第2章〈成長〉 #02

 

〈S君からの相談〉
僕はなにか目標とか計画みたいなことに縛られるのがいやです。もちろん、学校で出された宿題はやるし、親から頼まれた手伝いもやります。でも、それ以外は自由にのんびり過ごしていたいです。ゲームをしたり、音楽を聴いたり、友達とスマホでおしゃべりをしたり、毎日の自由時間はそれなりに楽しいです。母親からは「なにかに打ち込みなさい」とよく言われますが、いま、特に打ち込んでいることとか、目指していることはありません。だいいち、自分がなにに打ち込めばいいかが思い浮かびません。こうやって過ごしていてはダメなんでしょうか?

〈Rさんからの相談〉
わたしは成績がごく普通の生徒です。がんばって勉強しても、平均点を取るのがせいぜいです。なので、人に言えるような立派な目標は立てられないし、立ててもできなければ自信をなくすことになるので、目標はなるべく立てないようにしています。目標って生きるために必要なものですか? そして、こういう考え方をするわたしはよくないですか?

わたしたちは日ごろ、いろいろと目標を立てます。───「今度の試験では●点以上取る」「次の大会では●位以上を目指す」「毎月本を●冊以上読む」「●●校の入学試験に合格する」「●●検定2級の資格を取る」「将来、●●の職業につく」など。目標とは「なにを・いつまでに・どの程度までやるか」という自分への約束です。

その約束は、言ってみれば、坂道をのぼり、ある地点をこえようとする負荷(ふか)です。当然、それはからだにもしんどいし、心にもしんどい。けれども、そのしんどさと引きかえに、得られることもたくさんあります。逆に、目標など立てず、過ごしたいように過ごすことは、坂をくだっていくのと同じでラクです。でも、くだっていく先で得られることは少ない。

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さて、S君から目標についての相談がありました。きょうは次の2つの点から書きます。

 □ 目標がないと人は怠(なま)けてしまう
 □ 目標を自分でかかげ、達成していこうという「心の習慣」をつけよう


まず1点めについて。フランスの哲学者モンテーニュは次のように書いています───

「どんなに豊かな土地でも、遊ばせておくとそこにいろんな種類の無益(むえき)な雑草がたくさんはえてくる。・・・精神はなにかに没頭(ぼっとう)させられないと、あっちこっちと、ただぼーっとした想像の野原にだらしなく迷ってしまう。・・・確固たる目的をもたない精神は自分を失う・・・無為(むい)はつねにさまよう精神を生む」。 ───『エセー』より

一人一人の人間は、無限の可能性を秘めています。ただ、それは漫然(まんぜん)と過ごしてひらかれるものではありません。人類が月に行けたのはなぜでしょう。それは、月に宇宙船を着陸させるという目標を持ったからです。なんとなく科学を研究しているうちに実現したのではありません。同様に、「富士山に登ってやるぞ!」という目標をもたなければ、あなたはけっして富士山の頂上に立つことはありません。ちょっと散歩に出ますと言って、富士山に登った人はいないのです。

そのように人間は、なにかを決意し、そこに自分を集中させていくことで突き抜けた能力を発揮し、ことを成しとげるわけです。同時にそこには、感動があり、思い出が残ります。けれど、自分をただ野放しにしているだけでは、じゅうぶんな成長も達成も、ましてや感動もえられずに終わる生き方になってしまうでしょう。モンテーニュは多くの人の様子を観察した結果、このような言葉に到達したのです。


人は目標がないと怠けてしまう性質を持っています。自由という名のもとに漫然と過ごすことは、漂流する危険性とつねにとなり合わせです。もちろん、S君が言うように自由にのんびり過ごす時間はとても大切です。その時間のなかで、いろいろなものに触れ、体験し、自分の興味を広げていくことがあるのですから。そこから将来なりたい道を見つけることだってあるかもしれません。だから思うぞんぶん、自由な時間を楽しんでよいのです。

けれど、そのとき頭のなかにつねに置いてほしいのは、自分は「自由という心地のよいソファ」で寝ころがっているだけなのか、それとも「自由という望遠鏡」でなにかを探しだし、「自由という刀」を持ってなにかを彫刻しているのだろうか、という自分への投げかけです。自由というのは2つの使い方があって、1つはただひたっているだけの「消極的自由」。もう1つは縦横無尽に生かす「積極的自由」です。

 

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次に2点めについて。目標というのは自分でかかげるところに大きな意味があります。あなたたちがいま、身につけるべきことのひとつは、なにかへの挑戦を自分に約束し、それをめざしていくことです。達成できれば次の目標を立てる。達成できなければ、目標を見なおして、まためざしていく。そういった「心の習慣」をつけることです。つまり、坂の上に目標となる旗を置き、それをこえていこうとする姿勢をとるのが、ごくふつうのことだと思えるようになることです。

S君は学校から出される宿題や親から言われる手伝いをきっちりやっています。これは基本として大事です。けれど、これらはいわば他人から「与えられた課題」です。やるべきことを自分で設けたものではありません。そのように「与えられた課題」をこなすことだけに慣れてしまうと、自発的に「自分がやりたいこと・めざしたい状態」を描く力が弱くなります。そういう人は、大人になって職業を持つようになっても、つねにやるべき仕事を他人から指示されないとできない状態になってしまいます。だから、もしS君が、言われたことはきちんとやっているのだから、それでじゅうぶんだと思っているのなら、実はじゅうぶんではないのです。


[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]


 
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ものごとのとらえ方[3] 信念に生きる・信念に死す

〈じっと考える材料〉

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師:1929-1968年)は、アフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者である。アメリカ合衆国における人種差別撤廃の運動に生涯を捧げた。「I Have a Dream.(私には夢がある)」の演説は、時を超えて人びとの心に訴えかけるものがある。1968年4月、遊説先のテネシー州メンフィスで暗殺された。

2001年9月11日、アメリカ合衆国ニューヨークにある世界貿易センタービルに2機の旅客機が突入し、爆発炎上した。「9・11アメリカ同時多発テロ事件」の発生である。その後の捜査によって、旅客機はハイジャックされた後に、犯人たちが機体を操縦し、ビルに突入させたことが判明した。



人は成長するにしたがって、なにかしら信念を持つようになります。信念とは、自分の心の奥に持つ「ものごとはこうあるべきだ・こうすべきだ」という考えの軸になるものです。

信念は、自分が受けた教育内容や育った環境(家庭や場所、時代)、読んだもの、見たもの、出会った人、体験したことなどに影響を受けながらつくられます。その意味で、あなたもいま、いろいろなところから影響を受け、じょじょに信念をつくりつつあります。よく、大人で「自分には信念のようなものはないよ」と言う人がいますが、信念のない人はいません。人間は強弱の差こそあれ、なにかしら信じることがあって、その方向に考えの軸が傾いていくものです。

信念は強くなると、主義や思想、信仰といった形になって表れてきます。たとえば、「世の中は結局、お金がものを言う。だからできるだけ多く金もうけしたほうがいい」と考える人は、その信念が強くなると拝金主義に傾いていきます。また、「世の中は結局、人びとの信頼や愛情によって成り立っている。だから争いをなくして仲良く暮らそう」と考える人は、その信念が強くなると、博愛思想を持つようになります。また、「科学で説明がつかないことは迷信である。だから神や霊魂のような存在は信じない」と考える人は、その信念が強くなるにつれ、科学的合理主義で世界をみようとします。「いや、科学ではとらえきれない超越した法則がこの宇宙にはある。だから私は神や仏を信じ、祈りを捧げたい」と考える人は、その信念が強くなると、なにか信仰を求めるかもしれません。

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信念は、よくもわるくも、あなたの考え方や行動に方向性を与えます。それはあたかも地球には目に見えない磁力の軸があって、どんな場所に方位磁石を置いても、針を南北方向に動かすことに似ています。

信念が与えるこの方向性はあなたの個性であり、能力をその方向へ集中させる重要なはたらきをします。その意味で、信念が明確で強い人ほど、なにかを成し遂げる可能性は高いといえます。逆に信念があいまいで弱い人は、ほどほどのことしかできないかもしれません。言い方を変えると、なにかを成し遂げようとすれば、いやがうえにもそこに懸ける信念は強くなるということです。信念が強いことと、夢や志を抱きやすいこととは無関係ではありません。

さて、〈考える材料〉に移りましょう。この2つの例は、信念というものが起こす力の大きさを示しています。

キング牧師は黒人の解放運動に身を捧げました。彼には巌(いわお)のごとき信念があった。「生まれつきの肌の色の違いだけでこのような差別がこの世界にあってはならない」と。彼の信念の叫びは、「I Have a Dream.」の演説となって表れ、人道主義・非暴力の運動となって表れました。こうした革命的な指導者はだれでもそうですが、命の保障はありません。そしてそのとおり、キング牧師は暗殺されました。

そしてもう一方のテロ事件の例。ハイジャック犯たちは、最初から自分の命を捨てて航空機ごとビルに突っ込む計画でした。彼らにとって、それは「聖戦」と呼ばれるもので、みずからが信ずる宗教の原理を貫くための行為でした。彼らは信念のために死ぬことをまったくいとわなかったのです。

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これらの事例は、かたや黒人解放に捧げた崇高な生き方の話であり、かたや無惨きわまりない大量殺人の話(しかし犯人たちにとっては、これは罪などではなく、むしろ崇高な戦いであると思っているところが問題の複雑なところ)です。この2つはまったく対照的な話のように思われますが、ある点ではまったく共通しています。それは、「きわめて強い信念が、きわめて強い行動を生み出す」ということ。そして「人は信念に生き、信念のために死ねる動物である」こと。

こう聞くと、信念は怖いものだと思うかもしれません。だから、信念はゆるいものにしておこうと思うかもしれません。しかし、そういうことではありません。人間の歴史を振り返って、いかに強い信念が夢や志となって大きなことを成就させてきたか。また、いかに多様な主義や思想がこの世の中を進展させてきたか。いかに深い信仰が多くの人の心を癒やし、高めてきたか。そうした揺るぎない事実は無視できません。ほんとうに満足のいく人生は信念とともにあり、ほんとうに豊かな社会は個々の信念の融合で生まれます。

ただ問題は、信念はよい思い込みになる場合もあれば、わるい思い込みになる場合もあることです。すなわち、強い信念は気高い使命感へとつながってもいくし、同時に、危険な狂信にもつながっていく。信念は「考えの軸」です。その軸をどこに向けるかが、人間に投げかけられる重要な問題なのです。

さて、あなた自身はこれからの人生で信念をどうつくっていくでしょう。あなたは信念を強く鋭く持つことも、ほどほどに鈍く持つこともできます。また、信念を360度どの方向に向けることもできます。それと同時に、他の人の信念をどう見守り、応援し、ときには拒否するか、これも自由です。

信念をどう扱うかは、すべてがあなたに任されています。世の中は、自分を含む人びとの信念と行動の綱引きによって、どんどん動いていく。信念がぶつかり合って戦争が起こるときもある。しかし、戦争など起こさずに別の方法で解決していこうとみなで話し合う。そうさせるのもまた信念の力です。

[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]

  

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