結果と過程[2]~過程はウソをつかない
第2章〈成長〉 #06
〈じっと考える材料〉
浩之(ひろゆき)はひじょうに落ち込んでいる。高校受験で、第一志望校に合格できなかったのだ。
浩之は懸命に勉強をし、自分がやってきた準備に自信もあった。模試の結果でも合格確率は高く、担任の先生も「ほぼ大丈夫でしょう」と言ってくれていた。ところが試験前日から風邪をひいてしまい、実力が出せなかった。クラスのなかには、「たまたまヤマが当たっちゃって、合格できたよ」と触れ回る生徒もいて、浩之は「運で合格が決まるなら、努力っていったいなんなんだ」とさらに落ち込んだ……。
人生には予想できないことがいろいろ起こるもので、過程をいいかげんにやっていても、よい結果が出てしまうことはあります。また、過程をていねいに懸命にやったとしてもよい結果が出ないこともあります。
きちんと努力したことがきちんと報われないとき、わたしたちは「じゃ努力っていったいなんなんだ」とつい思ってしまいます。大事な一発勝負に負けたときほど、運命の神様とやらに文句のひとつも言いたくなります。
が、そこで心に留めておきたいことがあります。
それは「結果はウソをつくときがあるが、過程はウソをつかない」ということです。
「まぐれ当たり」でよい結果が出てしまった場合、その人は「自分はすごい。能力があるんだ」と錯覚(さっかく)してしまいます。ですが実際は、過程をおろそかにしていて能力がきちんと身についていません。そのために、うまくいったことを「もう1回成功させてみなさい」と言われても、その後できるかどうかわかりません。たまたま出た結果にウソをつかれたからです。
ウソの結果に慢心(まんしん)してしまうと、その人はかえってその先で大きな失敗をする危険性があります。
ところが、過程できちんと努力を積んだ人は、一度は失敗しても、どこを直して、どこを補強すればよいかがわかるので、その次からうまく結果が出せる確率がぐんと高くなります。さらには、失敗から立ちあがることで精神的にも強くなる。過程にかける努力は、長い目でみると、確実に自分にプラスの材料として蓄積されます。その意味で、過程にはウソがないのです。
結果の「果」という字は「木の実」ということです。
豊かな木の実を得るにはどうすればよいか。それは言うまでもなく、日ごろからていねいに木に水をやり、土に肥料を与え、葉や枝を適切に刈ってやるという過程をきちんとやることです。そうすれば木の実はちゃんとついてきます。
人生は長い期間の勝負です。相撲は一日一番勝負ですが、トータルでは十五番の勝負です。もっと言えば、一年六場所でほんとうの実力が決まります。短期でみれば、努力もせずにたまたま一番勝てることがあるかもしれません。でも、それはほんとうの自分の力を反映しないウソの結果です。中期・長期で勝ち越すことは難しいでしょう。しかし、きちんと努力を積んだ過程というものは、短期で一番か二番負けることはあっても、最終的には勝ち越しにつながっていく。その意味で、努力にウソはありません。
ですから浩之は、今回の受験で結果が出なかったからといって、自分がやってきた過程をすべて否定することはありません。ましてや、この先の人生に絶望する必要もありません。たしかにどの学校に入学するかは人生の大きな出来事です。しかし、それよりも大きな出来事に浩之は今後いくつも遭遇(そうぐう)するでしょう。そのときにこそよい結果を出せるよう、今回の不合格から立ちなおり強い自分になっておくことが、当面の大事な作業といえます。
悩み、迷い、マイナスからプラスへ自分を引き上げる努力過程は、必ず未来の浩之をよりよい方向へ導いてくれるにちがいありません。それこそ「過程はウソをつかない」ことを自分自身で証明する絶好の機会になります。
また、失敗や挫折の状態にあるときほど、文学などの芸術を深く味わうことができ、人間や社会を深く見つめることができます。簡単に成功してしまうよりずっと豊かなものを手にするチャンスでもあるのです。
さあ、きょうも、自分の才能という樹に、水をやろう、栄養を与えよう。その地道な過程があれば、その樹は必ず豊かな果実をつける。
[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]
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