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「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える〈上〉

8.11



◆ネット検索…「命」!
以前、大学4年生でまだ就職内定をもらっていない学生たちと話す機会があった。すでに就職戦のヤマ場は終わり、不安な気持ちで日々を送っていた彼らだった。いまやネット上で初期の選考プロセスが行われる時代である。ネットを通じての応募は手軽だが、そのために「50社申し込み/50社不戦敗」などという状況が簡単に起こる。

学生たちは、興味関心のあるワードで検索をかけて候補企業を見つける。検索ワードも、上位志望の選考から外れるにしたがって、だんだん自分の気持ちとは逸れはじめるが、もはや「拾ってくれるところならどこでも」という心境になる。就職課に相談に行っても、職員はていねいに話を聞いてくれるものの、自分のやりたいことなどいまだはっきりせず、「もっと発想を広く持って検索をかけてみれば」と促されるのみだ。そんなこんなで検索とネット申し込みを繰り返すうちに、2カ月が過ぎ、3カ月が過ぎ、やがて検索に引っ掛かってくる候補がゼロになる。
 
「毎日検索かけてるんですが、なかなかもう新しい案件が出てこないので……」とS君。夏以降、S君は実質休戦状態となった。

大学4年生の残りの期間を卒業研究をちょこちょことやり、アルバイトをやり、日々、検索を続けながらやるせない時間を過ごしているという。S君に限らず、候補とする企業が検索にかからなくなったら、もうそれ以降どうしてよいかが分からず、就活が即、どん詰まりになってしまう人は実際のところとても多い。

こうした状況を競争だからしょうがない、と済ませることはできない。そして同時に、「就活力」などという一種のスキルのあるなしの問題でとらえることも事を矮小化することになる。職を得る力は、一個一個の人間の「生きる力」の根本に関わる問題なのだ。そしてそれは国の趨勢に大きく影響していく。


◆職選びが「カタログショッピング」になった
いまの大学生にとって職業選択は、言ってみれば「カタログショッピング」のようなものになっている。つまり、ネット上のカタログには新卒者向けの「職業」という商品がたくさん掲載されていて、そこに検索をかけて絞り込み、「あれがよさそう、これがよさげ」と物選びをする感覚だ。まさに、ネット通販サイトでお気に入りの雑貨を探し当て、買い物するのと同じ。

サラリーマン就職するとは、ある見方をすれば、自分の能力と時間を資金として、会社員という職業を買いにいく行為だと言ってもいい。で、その「お仕事カタログ」に記載された商品はいずれも在庫数が僅少で、欲しいと思った人全員が購入できる状況ではないのだ。

運よく商品を購入できた人は「やれやれ」だが、商品を購入できなかった人は、代替品を求め、条件をゆるくして検索を繰り返す。どこの商品も「完売」となり、検索をかけてももはや該当商品が出てこなくなったらカタログショッパーとしてはお手上げ、買い物を中止するしかない。

ショッピングなら、たとえ物が買えなかったとしても済ませられるかもしれない。しかし、就職においては、自立するための職業が得られないのだ。これは重大問題だ。人は職業を得てはじめて、生活を立てられ、家族を持てる。そしてその職業を通して自己の可能性も開発できる。衣食住・医の根本は、職を保つことによって可能になる。一個一個の人間がきちんと職を保つことは、地域・国の和を保つためにも欠かせない。

学生の内定率がどう変化しているかという表面の問題でなく、私が危惧するのはもっと奥に進行する問題だ。大事な職業選択をカタログショッピング的にやることしかできない、検索でかからなくなったからもうどうしたらいいか分からない、そうして漂流している学生が世の中のそこかしこに増え、蓄積し、層を形成し、歳をとっていく。当の学生本人たちは何もふざけているわけではない。彼らなりに真面目でさえある。だから問題は根深い。

文明の発達とともに、社会の平和とともに、生きる力が脆弱化するという指摘は、いまに始まったことではないし、日本だけの問題でもない(かく言う私だって、明治時代の同じ歳の人間に比べればひ弱もひ弱だ)。しかし、社会をあげて死守しなければならない生きる力のレベルというのもあるだろう。その死守すべきレベルがいよいよ侵されようとしているのだ。


◆意欲をどう湧かせたらよいか分からない人間を生む社会
T君は、マーケティング専攻で、卒業研究はネット通販事業に関するテーマだという。ネット通販会社はもちろん、eマーケティング関連やITシステム関連の会社などを数十社受けたがまったくダメで、その後、小売業、ホームページ制作会社などにも範囲を広げていったが結局内定は取れなかった。

「マーケティングのどこが面白い?」
「ネット通販事業ってどんな可能性がある?」
「例えば第一志望のR社に入社できたら何がしたかった? 
逆にいまの楽天に課題があるとすればどこだと思ってる?」
「ウェブサイトの制作スキルがあるって言ってたけど、
どんな会社のウェブサイトがすごい?」―――などをT君に穏やかに訊いてみる。

いずれも明快な返答は返ってこない。声もまったく小さい。確かに、ここでよい返答ができているなら、どこかで内定を得ていただろう。

T君はまったく素直な子である。挨拶もできる。こちらの言うことに集中もしているようだ。私のカップにお茶も注いでくれる。しかし、「何をやりたいか」「なぜやりたいか」「どうしたいか」という問いに対しては、頭がモヤモヤするだけで、返答が言語になって出てこない。

「じゃ、休みの日は何してるの?」……
友達としゃべってるとか、映画とかゲームとか、そんな返答だった。
「最近観た映画の中で面白かったのは何?」……
少しの間、考えているようではあるのだが、これと言って特に、と彼は口ごもってしまう。

話を切り替えて、「映画やゲームなどもどんどんネット上で売られていくね。そうしたコンテンツだってネット通販の時代になるね。関心はあるのかな?」……と訊くと、は、はぁ、とうなずくだけである。

T君は内定がとれない場合、卒業を延期して再度、新卒予定者として就活するという。ただし、親からの経済的支援が十分に得られないため、東京のアパートを引き上げ、実家の京都に戻っての就活となるらしい。地元のハンバーガーチェーンでアルバイトでもしながら、というT君に私は、

「京都に帰るのなら、農業だって選択肢のひとつかもしれないよ。
農業と言っても、それを支える仕事の種類はたくさんある。
君のところは京都でも栗や黒豆で有名な場所だし、志ある生産者はたくさんいるはず。
そんな生産者の人たちに産直通販用のウェブサイトを作ってあげたらどう? 
例えば地元のJA(農協)とかに、マーケティングのお手伝いさせてください!
って手紙を書いて売り込むのも1つの手なんだよ。
JAは表立って求人を出していないかもしれないけれど、
ネット検索にかかる仕事だけが、この世の中の仕事じゃないんだ。
選ぶ選択肢がなくなったんなら、選択肢をつくり出すことを考えなきゃね。
アルバイトをやるにしても、マーケティング経験と仕事の実績ができるわけだから
そっちのほうがずっといいんじゃないかな。正職員の道だって開けるかもしれないし」。
……T君は、やはり、は、はぁ、とうなずくだけである。

T君の発想を刺激したり、考えを掘り起こすのを手伝ったりしようと私はいろいろと話しかけてはみるのだが、どうも反応が薄く弱い。T君は不真面目でも、怠け者でもない。ただただ、自分の考えをどう起こしていいのか途方に暮れるのである。自分の想いというものを湧き立たせることができず口ごもるのである。

そんな自分に対しT君は、「くそー、じゃぁこうやってやる!」と発奮するのではなく、「考えがいつまでたってもうやむやで情けない」と自己嫌悪になるのである。私は何か不思議な生き物と遭遇している気分になった。厳しい言い方だが、経営者の目線に立ったとき、私自身、彼らを雇いたいとは思わなかった。

こういうことをつらつらと書いて、私は彼らをおとしめる意図はまったくない。伝えたいのは、意欲をどう湧かせたらいいかがわからない生き物を平成ニッポンは社会全体としてつくりだしている事実である。

意図して怠けている者に対し、意欲を湧かせるのはむしろ簡単なことかもしれない。いま問題なのは、素直で従順で、できれば頑張りたいと思っているのだが、どう意欲を湧かせていいか分からない人間に対し、意欲を湧かせることなのだ。きちんと職に就いて働きたいと真面目に思っているのだが、何をどう真面目に自己を活かして働くことができるか分からない人間に、職を与えなければならないことなのだ。


◆問題の根っこは「働くことを切り拓く力」の脆弱化
昨今、学校現場においても企業現場においても、「キャリア教育」の重要性への認識が拡大しはじめている。もちろん新しい教育分野なので、あちこちでまだまだ試行錯誤が続いている(私もその一人だ)。

現状をながめるに、多くのものがどうも対症療法的なアプローチであったり、表面的で形式的であったり、商業ベースに乗りやすい形のサービスが先行するのはいたしかたないにしても、ものによっては、問題をさらに深刻化させているものもある。

問題解決は、「シューカツ」テクニックを磨かせて限られた求人椅子を奪い取れということではない。自己診断ツールで自分の適性をタイプ分けし、この職種を狙えと指南することでもない。問題の根っこは、「働くことを切り拓く力」の急速な脆弱化にあるのだ。「働くことを切り拓く力」とは―――

働くことについて関心を持つこと、
具体的な職業について意欲を起こすこと、
職業を得ること、そして生計を立て家族をきちんと持つこと、
仕事で直面する失敗や成功を通して自分を成長させていくこと、
正解のない問いに対し答えをつくり出していくこと、
選択肢が与えられるのを待つのではなく、選択肢そのものをつくり出していくこと、
職業をまっとうすることで人生の基盤をつくり今生の思い出を残していくこと、
夢を描くこと、志を立てること―――
などについて自律的に力を湧かせることだ。
「働くことを切り拓く力」とは、ほぼ「生きることを切り拓く力」に等しい。

戦後間もない昭和の人びとには、まだこの切り拓くたくましさが十分にあった。町のそこかしこにある古くからの個人商店の多くは、戦後、職がなくてやむにやまれず開業した人たちの生業の姿である。実のところ、サラリーマンという就労形態は人類の歴史上とても日が浅い(『オーガニゼーション・マン』というW.H.ホワイトの名著を読むと面白い)。サラリーマンに就くことが大多数ではなかった終戦後、ともかく「俺は八百屋をやる」「自分は床屋だ」「保険の外交員だ」とたくましく自分の商売を始め、不器用ながら人生を切り拓いてきた人は多い。


◆「安定した勤め人になることが目的」になった
現在の日本では、大多数が「勤め人」(=組織に雇われるサラリーパーソン)を選ぶ。選びたがる。そして、自営業で苦労した親たちも子供を勤め人にさせたがる。いまや大多数の就職意識が「安定した勤め人になることが目的」になっていて、その他の選択肢を考えず、求めなくなった(リタイヤ後、さらに天下って組織にぶら下がり続けようとする醜い大人もいる)。

そして現れてきた現象が、ネットに上げられた求人情報をカタログショッピング的に選び、採用が得られなければ、次の求人情報が上がるまで受動的に待つしかない、という姿だ。目に見える選択肢、ネット検索にかかる求人情報だけからしか職選びの発想や行動ができない……そうして大事な20代、30代が過ぎてゆく。少なからずが、「就職できないのは社会のせいだ」「雇用を増やさない企業が悪い」といった勘違いな不満を溜めながら。

私はここで勤め人という選択肢が悪い、ネットで求人を探すことが悪いと言いたいわけではない。それはあくまで手段なのだ。働くという人生の一大事において、多くの人間が手段の中にどんどんと自分たちを矮小化させている、そしてそこに商業主義のビジネスが入り込む、そうしてすべてのことが「働くことを切り拓く力」の脆弱化の流れを加速させている、そのことを指摘したいのだ。

米国もまたサラリーパーソンが大多数を占める国になった。しかし、米国にはまだ「アメリカンドリーム」という伝統的スピリットが息づいていて、個々の「働くことを切り拓く力」はかろうじて芯の強さを保っている。日本には残念ながらそういうたくましき精神的なレガシーはない。勤勉であることも、手先が器用であることも、「働くことを切り拓く力」の脆弱化という大きな潮流の中ではいかにも非力である。

私が言うキャリア教育とは、「働くことを切り拓く力」を養う啓育にほかならないが、これは社会全体で多面的・多重的に手をかけていかねばならない問題である。親が、学校が、職場が、そして教育者が、メディアが、きちんと意識的に取り組んではじめて、潮流を変えることができる。

→〈下〉に続く





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