5●仕事の幸福論 Feed

「願い」が「怒り」に変じたら本物だ

5.5.3

真剣な願いは「叫び」になる。
真剣な望みは「祈り」になる。
真剣な想いは「誓い」になる。
そして、大きな夢や志は、ときに「怒り」によって成し遂げられた。



願望や想いは、それが真剣であればあるほど、
大きければ大きいほど、
開いていれば開いているほど、
叫びや祈り、誓いといったものに変容していく。
逆に、自分の内から湧いてくるものが、叫び・祈り・誓いになってくれば、それは本物だ。
すでに容易に砕けるものではなくなっている。

また、願望は怒りにも変じる。
それは感情的な怒りというより、理性の怒りだ。
例えばガンジーやキング牧師といった人たちがあれらのことを成し遂げた底流には、
静かで透明でとてつもなく大きな怒りがあったのではないか。

それはあからさまに自分に向けられる抵抗や妨害、嫉妬、誤解、無視などへの怒り。
どこからともなく現れてきて重く漂う無気力や冷笑、あきらめ、恐怖、保身主義などへの怒りだ。
この怒りは正義を断じて行わねばならいという気持ちの裏返しでもある。

仏像にも「忿怒(ふんぬ)の形相」をしたものを多く見かける。
あれは悪鬼を追い払い、
弱い衆生の心を叱咤激励するための慈悲の次元から発せられる怒りの相だ。

本当に真剣に事の成就のために闘おうとすれば、ときに怒らねばならない。
岡本太郎は「怒り」についてこう書いている。

「眼にふれ、手にさわる、すべてに猛烈に働きかけ、体当たりする。
ひろく、積極的な人間像を自分自身につかむために。
純粋な衝動である。
そんな情熱が激しく噴出するとき、それは憤りの相を呈する。
だから、私は怒る。また、大いに怒らねばならないと思っているのだ。

私は今日、憤るという純粋さを失い、怒るべきときに怒らないことによって、
すくみ合い、妥協し、堕落している一般的なずるさと倦怠が腹立たしい。
世の中が怒りを失っていることに、憤りを感じるのだ。

ところで、私は怒りといったが、早のみこみしてもらいたくない。
同じ怒りといってもさまざまな質、広さ、その段階があるからだ。
たいていの場合は、日常のウップンだ。
足をふまれたとか、あいつ変なことを言いやがったとか、目つきがわるいなど……たわいない。
そして自分の小ささや弱みにふれられたときなど、インにこもる。
だがそういう個人の、腹の虫の問題ではない。
人間として、人間に対する憤り。
もっと壮烈で、ひろくて、純粋なヤツを私はけしかけるのだ」。

───『眼 美しく怒れ』より



人間の欲をめぐる悪神のささやき

5.7.3


〈悪神のささやき〉

「人生の幸福なんてもんは、“鈍感さ”で決まるのさ。
この世は鋭い人間ほど不幸を味わうように出来ているだろう。
だから幸せになりたかったら、ゆめゆめ鋭い人間にならないことだね。
幸福は絶対量じゃなく、充足度だからさ。

高いものを求めれば求めるほど、現実との差で苦しみが増す。
十の者が、殊勝にも百を求めるところから不幸は始まるんだ。
十の者が、六か七で満足していれば、それはもう幸福そのものさ。
野心にしても、向上心にしても、程々に留めておくのが賢い生き方ってもんだ」。



* * * * *

アリやミツバチ、そして人間の社会には、
『2:8(ニ・ハチ)の法則』なるものがあって、
真面目に働く者が2割・テキトーに働く者が8割で社会が回っていくらしい。
ちなみに、アリの巣から2割の働き蟻を取り除くとどうなるか?───
すると不思議なことに、
真面目な働き蟻がどこからか2割現れて巣全体が存続していくという。

……じゃ、いつまでもしぶとく、
テキトー組に居座っていたほうがラクに生きられる、そう考えたくもなる。

確かに、会社組織を見渡してみても、
問題意識が鋭敏で、仕事ができる人間にはどんどん仕事が集まってくる。
そのために、仕事で身体を壊すのは決まって、鋭敏なできる社員だ。
会社のテキトー族が過労で倒れることなど聞いたことがない。

組織内でヘタに向上意欲をもち、成長だ、変革だなとど責任感を背負って頑張るより、
叱られない程度・クビにならない程度に鈍くテキトーに立ち回る側にいたほうが
シアワセなサラリーマンライフを送れる───
これが組織の中の処世術なのかもしれない。

“テキトー”という言葉が悪ければ、”ホドホド(程々)”という表現でもいいのだが、
いずれにせよ「ホドホドは身を助ける」という生き方が勝利を得ている現象を
私たちは少なからず目にする。

しかし、実際のところ、
「あいつは適当にやっていつもラクをする人間だ」とか
「うちの部長は保身的で何もせず、ただ部下を厳しく働かせるだけの上司だ」とか、
他人にそういうレッテルを貼って、人と自分を分断させることはあまり建設的ではない。
むしろ、これは「己心の対話」としてとらえたい。

『2:8の法則』の
「2」の方に回る生き方か、
「8」に回る生き方か。

「鋭く・上を目指して」の行動を起こすのか
「鈍く・テキトーに」の行動で流すのか───。

私たち一人一人は、
心の内で常にその綱引きをしながら一瞬一瞬、一日一日、一年一年を生きている。
私たちは誰しも、「強い自分」と「弱い自分」、
「打ち勝とうする心」と「流される心」の2つをもっている。

この両者の綱引きが、10年、20年という時間を経て、
各々の人生コース・生き方の独自模様として固まっていく。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

〈続・悪神のささやき〉

「ほぅ、程々の生き方じゃ駄目だってことかい。
しかし、“もっともっと”っていうお盛んな欲をもった人間が
成果を一人占めしようとして、世の中の差別と蔑みを生んでるんじゃないのかい。

いったいぜんたい、おまえさんは
『2:8』の「2」の人間が、富の8割を押さえている世の中をどう思う?
我々はいまこそ古人の言葉に耳を傾けるときではないのかね。
───“足るを知れ”と」。



* * * * *

正義を行いたいとする欲望は、
いつしか独善を強いる欲望へと変わるときがある。
愛したいという気持ちは、
知らぬ間に憎んでやるという気持ちへ変じる可能性がある。
「お金をもっと稼ぎたい」という欲求が健全に仕事と生活を進める場合もあれば、
それで身を持ち崩す場合もある。

自分に湧いてくる欲望に「善」「悪」のラベルが付いているわけではない。
また、どこまでが「OK」で、
どこを超えると「OKでない」かの線引きがあるわけでもない。

だから、人間の欲望は促進すべきなのか、それとも抑制すべきなのか、
これは簡単に答えを出せる問題ではない。
欲望には、「陽の面」と「陰の面」があって、
人間を育てもするし、惑わしもする。
社会を進歩させもするし、混乱させもするのだ。

大事なことは、欲望の底にある心持ちがどうであるかだ。
もし、その欲望が、自分だけに閉じた(つまり小我的)感情で、
他と不調和的な心持ちから起こっているなら、「陰の面」が出てしまうだろう。
こんなときは、他人をかえりみず「欲を貪(むさぼ)る」
もっと成長できるにもかかわらず「欲を怠(おこた)る」という状態が起こる。

逆に、その欲望が、社会に開いた(つまり大我的)意志で、
他と調和的な心持ちから起こっているなら、「陽の面」が出るだろう。
そのときは、健全に「欲を制する」
自分の可能性を縦横無尽に伸ばせるよう「欲を開く」という状態になる。

ここでの悪神のささやきにはトリックがある。
悪神は「足るを知る」という玉条をもって、
欲をすべて一絡げにして“程々にせよ”と耳打ちする。
富の偏りをあげて、欲の強さを一緒くたに金欲に結びつける。

私たちが自身に求めるべきは、
欲を押し並べて“程々”にすることではない。
その欲を自己以外に開いていくことだ。
そうすれば自然と大きな智慧が湧いてきて、
貪欲でいいときと、抑制すべきときの見境がきっちりできるようになる。

賢く強く生きるために、私たちは己の欲望の主人になることだ。




「へこみ」は「うつわ」 

5.5.2


打ちのめされたり、傷ついたり、落ち込んだりした状態を
俗に「凹(へこ)む」という。

凹んだ部分は器になる。
その器でなにかをすくうことも、なにかを受け容れることもできる。


* * * * *

ブッダやイエスの教えが、なぜ千年単位の時空を超えて人びとを抱擁するのか。
それは彼らが偉大な苦しみのなかに身を置き、光を発したからだ。

ガンジーやキング牧師の言葉が、なぜ力をもって私たちの胸に入り込んでくるのか。
それは彼らが深い深い闇の底から叫んだからだ。

ドストエフスキーが狂気的なまでに善と悪について書けたのは、
彼があるときは流刑の身となり、兵士となり、
またあるときは、てんかんを患い、賭博に明け暮れ、まさに狂気の淵でものを考えたからだ。

正岡子規があれほど鋭く堅牢な写実の詩を詠めたのは、
病苦に悶絶し、命の火も絶え絶えになるなかにあって、
魂で触れることのできる堅い何かを欲したからだ。

東山魁夷はこう書いた───

「最も深い悲しみを担う者のみが、人々の悲しみを受け入れ慰めてくれるのであろうか」。     (『泉に聴く』より)


ヒルティは『幸福論』のなかでこう記す───

「ある新興宗教の創始者が、自分の教義の体系を詳しく述べて、これをもってキリスト教にかえたいというので、彼(タレーラン侯)の賛成をもとめた。

すると、タレーランはこう言った、しごく結構であるが、新しい教義が徹底的な成功をおさめるにはなお一事が欠けているようだ、『キリスト教の創始者はその教えのために十字架についたが、あなたもぜひそうなさるようにおすすめする』と」。



人は、苦しんだ深さの分だけ喜びを感受できる。
また、ほんとうに悲しんだ人は、
ほんとうに悲しんでいる人と、ほんとうの明るさを共有できる。

生きることの分厚さや豊かさといったものは、
こうした苦や悲といったネガティブにえぐられることによって獲得できる。
宗教が慈悲や愛を基底にしているのはこのことと無関係ではない。

いずれにせよ、
負を正に転換できる人間の力はすばらしい。

ほんとうの喜びは、ほんとうに苦しんだ人が手にできるのだ。




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