2●知識・能力 Feed

言葉という感性の「メッシュ」

2.2.2


中学生のときのことだ。
詳しくは思い出せないのだが、何か作文の宿題が出されていたと記憶する。
冬の夕暮れ。
部活を終えての帰り道。
田んぼのなかの無舗装の一本道を歩いていくときの、
空の色の変化をその作文で描写したいと思っていた。

私は西の空の夕焼け色も素晴らしいと思うが、
それ以上に、
すでに闇が覆いかぶさりはじめている中天から東にかけての
無限のグラデーションで広がっていく紫から紺、黒の世界が好きだ。

で、その色をうまく表したいのだが、自分の知っている語彙は、紫、紺、黒しかない。
しかし、目に映っているのは、紫ではあるが紫ではない。
紺といえば紺だが、紺では物足りない。
黒なんだけれど、単純に黒と書いては気持ちが落ち着かない。

多分、紫、紺、黒と書いて作文しても、人には通じるだろうとは思った。
しかし、何だか自分の気が済まない。
「このモヤモヤした表現欲求を鎮めてくれる言葉はないのか」───
そんな思いにかられていたのだろう。
私は、翌日、市の図書館に行って「色の事典」を手にしていた。

「日本の伝統色」の事典だったと思うが、そこには目くるめく言葉の世界があった。
私が言いたかったのは、
二藍(ふたあい)であり、
瑠璃紺(るりこん)であり、
鉄紺色(てっこんいろ)であり、
褐色(かちいろ)であったのだ。

私はこうした語彙を手にしたとき、
胸のつかえが下りたというか、
ピンボケ景色を見ていたのが、
すっとレンズの焦点が合って画像がシャープに見えたというか、そんな気分だった。

* * * * *

松居直さんは、児童文学者、絵本編集者、元福音館書店社長として知られる方だ。
著書『絵本のよろこび』に次のような素敵なくだりがある。

まったくの個人的な体験ですが、十歳のころ、ちょうど梅雨のさなかで、学校から帰宅しても外へ出られず、縁側に座ってただぼんやりとガラス戸越しに庭を見るともなしに眺めていました。放心状態でした。外には見えるか見えないかほどの霧雨、小糠雨が降っていました。そのとき背後から不意に母のひとり言が聞こえました。

「絹漉しの雨やネ」

母の声にびっくりすると同時に、我にかえった私は「キヌゴシノアメか?」と思いました。私は“絹漉し”という言葉は意識して聴いた覚えがありません。わが家では父親の好みで、豆腐は木綿漉ししか食べません。しかし私には眼の前の雨の降る様と“絹漉し”という言葉がぴたっと結びついて、その言葉が感じとれたのです。


……「絹漉しの雨」。
松居さんもこの後に言及されているが、この表現は一般的ではなく、辞書にも載っていない。
おそらくお母様の独自の言い回しだったのだろう。
けれど、多感な少年は何ともすばらしい言葉を授かったものだし、
こうした「絹漉しの雨」が降るたびに、それを言葉で噛みしめられる感性も得た。

私たちは一人一人同じ景色を見ていても、感じ方はそれぞれに異なる。
その差は、持っている言葉の差でもあるかもしれない。

雨を見るとき、
「大雨」「小雨」「通り雨」「夕立」「冷たい雨」「どしゃ降り」───
程度の語彙しか持ち合わせていない人は、
景色を受け取る感性のメッシュ(網の目)もその程度に粗くなりがちだ。

他方、自分のなかに、

「霧雨(きりさめ)」
「小糠雨(こぬかあめ)」
「時雨(しぐれ)」
「涙雨(なみだあめ)」
「五月雨(さみだれ)」
「狐の嫁入り(きつねのよめいり)」
「氷雨(ひさめ)」
「翠雨(すいう)」
「卯の花腐し(うのはなくたし)」
「地雨(じあめ)」
「外待雨(ほまちあめ)」
「篠突く雨(しのつくあめ)」


……などの語彙を持っている人は、
感性のメッシュが細かで、その分、豊かに景色を受け取ることができる。

ただし、これらの語彙を受験勉強のように覚えれば感性が鋭敏になるということでもない。
実際、言葉を持たなかった古代人の感性が鈍いかといえば、まったくその逆である。

222


結局のところ、見えているものを、
もっと感じ入りたい、もっとシャープに像を結んで外に押し出したい、
そういった詩心が溢れてくると、
人はいやがうえにも言葉という道具を探したくなる。

古代人のなかには、
言葉がなく、自分の詩心を表現できずに苦悶した人もたくさんいたにちがいない。
そういった意味で、現代の私たちは何とも幸せだ。
日本語という素晴らしい道具があり、
自分の表現を分かち合えるメディアを幅広く手軽に持っているのだから。



「モデル化」して考えるとはどういうことか?

2.3.2


「モデル(model)」という言葉は、最近いろいろな場面で使われる言葉である。大本の意味は「型」ということで、そこから派生して、プラモデルやファッションモデル、ビジネスモデル、ロールモデルなどに広がり、すでに日本語の中に溶け込んでいる。本項では、そんな中でも「概念モデル」を扱う。

概念モデルとは、
「物事の仕組みを単純化して表したもの」
「概念のとらえ方を示すひな型」と言っていいだろう。


概念モデルとして秀逸なものの中で、次の2つを紹介したい。1つめに、エッセイスト・画家・ワイナリーオーナーとして活躍される玉村豊男さんの「料理の四面体」図だ。


232_a


料理という概念を理解するのに、「煮る」とか「焼く」とかいった加工方法で分類するアプローチは、特段独創性のあるものではない。玉村さんの発想の優れた点は、加工方法の観点からさらに一段抽象度を上げて、その根源となる4つの要素「火・空気・水・油」を“発見した”こと。そしてさらにもう一段の抽象化、それら4要素の関係性を三角錐(四面体)の構造で表現したことである。

玉村さんは火を頂点にして、空気・水・油へと伸びる稜線をそれぞれ「焼きものライン=火に空気の働きが介在してできる料理」「煮ものライン=火に水の働きが介在してできる料理」「揚げものライン=火に油の働きが介在してできる料理」と名づけた。こうすることで、煮物とか、炒めものとか、グリル、くんせい、干物、生ものがすべて意味をもって構造の中に配置される。
このモデル図をいったん見てしまえば、私たちは「あぁ、ナルホド、ナルホド。確かに料理ってこういうとらえ方ができるな」と思える。もちろん、これは1つの切り口からの整理にすぎないが、それでも直観的に料理という概念の全体構造を把握できる。

もう1つ。哲学者・九鬼周造が1930(昭和5)年に著した『「いき」の構造』(岩波文庫)で提示したモデルである。「粋」などという、まさに曖昧きわまりない概念をよくぞこのような姿で示せたものだと感服する。九鬼は図化を積極的にやる哲学者で、他にも、偶然性と必然性の論理を図に表して分析している。

232_b


九鬼は、粋の構成要素として8つの趣味(渋味・野暮・甘味・意気・地味・下品・派手・上品)を抽出し、「対自的/対他的」「有価値的/反価値的」「積極的/消極的」など彼独自の対立項を用いて、直六面体の構造に表現した。九鬼は、8つの頂点に配置された趣味以外のものも、この直六面体のなかで捉えられると説明している。
例えば───「“さび”とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」「“雅”は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである」「“きざ”は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している」といった具合である。

九鬼の場合、こうした風流をめぐる美的価値を1つ1つ言葉上で定義するのではなく、直六面体のモデル上に相対的な位置関係で示すというアイデア自体が、優れて独創的である。概念モデルを図に落とし込む作業は、ある意味、アート作品をこしらえる作業にも通じるところがあって、その表現は、もちろん理解しやすいということが必須要件だが、美しいことも大事な要件である。

* * * * *

ところで、なぜ物事をモデル化してとらえることが大事なのか。

───それは、物事を個別具体的にとらえるレベルに留まっていると、
永遠に個別具体的に処置することに追われるからである。

それを簡単なモデルを使って説明しよう。次に並べたのは英語の問題である。それぞれの下線部には前置詞が入る。1つ1つ答えよ。

・a fly        the ceiling  (天井に止まったハエ)

・a crack        the wall  (壁に入ったひび割れ)

・a village        the border  (国境沿いの町)

・a ring       one’s little finger  (小指にはめた指輪)

・a dog        a leash  (紐につながれた犬)



……さて、どうだろう。

正解は、すべて「on」だ。ところで、私たちは前置詞「on」を「~の上に」と習ってきた。習ってきたというか、暗記してきた。そうした暗記的なやり方で英語と接してきた人は、「天井にさかさまに止まった」とか「壁に入った」とか、「国境沿いの」などの言い表しに思考が発展しないので、それぞれの問題に戸惑ったことだろう。そうして正解を見て、また1つ1つ、「on」の使い方を丸暗記していくことになる。

これに対し、いま私の手元にある一冊の英和辞典『Eゲイト英和辞典』(ベネッセコーポレーション)の帯には、こんなコピーが記載されている───

    「on=『上に』ではない」と。

さっそく、この辞書で「on」を引いてみる。すると、そこに載っていたのは、下のような図だった。

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「on」は本来、縦横・上下を問わず「何かに接触している」ことを示す前置詞だという。確かにこの図をイメージとして持っておくと、さまざまに「on」使いの展開がきく。この辞典は、その単語の持つ中核的な意味や機能を「コア」と呼び、それをイラストに書き起こして紙面に多数掲載している。10個の末梢の意味を覚えるより、1つの「コア・イメージ」を頭に定着させたほうがよいというのが、この辞書づくりのコンセプトなのだ。

まさにここで出てきた「コア・イメージ」に基づく学習が、概念をモデル化して押さえることにほかならない。

私たちは、物事の抽象度を上げて大本の「一(いち)」をイメージなりモデルなりでとらえることができれば、それを10個にも100種類にも具体的に展開応用することができる。逆に言えば、モデル化によって「一」をとらえなければ、いつまでたっても末梢の10個を丸暗記することに努力し、100種類に振り回されることになる。1000にも種類が広がったら、もうお手上げだろう。

「一」をつかんだ者は、1000個だろうが、1000種類だろうが、原理原則を押さえているのでそれに対応がきく。そして、その「一」から落とし込んだ1000種類の応用は、具体的な末梢を必死になって丸暗記したときの1000種類とはまったく異なったものになるだろう。真に新しい発想というのは、必ずと言っていいほど、抽象思考の川をさかのぼり、本質の「一」に触れて、再度、具体思考の川を下るというプロセスを経ているものである。

“抽象的”という言葉は、何かネガティブなニュアンスで使われることが増えた。しかし抽象的に考えることはとても大事なことで、物事の余計な部分をそぎ落とし、その奥にある本質は何か、原理原則は何かと考えるのが抽象化能力なのだ。概念をモデル化するのも、まさにこの抽象化能力をフル稼働させて表現に落とす作業である。

私たちは、日ごろから意識して、モデル化して物事を把握することが大事になる。日本人ほど断片の知識や情報を多量に得ている国民はない。しかし、物事の知識量を増やすことを超えて、物事の仕組みをつくる能力が弱いために、グローバルビジネスでは胴元的な存在になれず、仕組みの中の一機能に置かれることが多い。逆に考えれば、物を売ることを超えて、物を売る仕組み(ビジネスモデル)をつくることができるようになれば、そもそもは「おもてなし」のような繊細な心と技を持つ国民性だから、独自で力強い販売様式を打ち立てることもできる。





美はそれを見つめる瞳の中にある

2.2.1


 “Beauty is in the eye of the beholder.”
美はそれを見つめる瞳の中にある。



春に爛漫と咲く桜は美しい。白銀の冠を戴き雄大にそびえる富士の山は美しい。
これらは万人にわかりやすい美だ。
それと同じように、近所の雑木林を歩いて見上げる冬の木々の、
魔女の手の甲に走る血管のような枝々も私は美しいと思う。
そして、地面に落ちもはや脱色しカラカラに朽ちた葉っぱも美しいと思う。

美は、“属性”(事物が有する性質)ではない。
美は、他がそれを美しいと感受してはじめて美になるのだ。
ゴッホの絵は美しいだろうか?……彼の生前は美しくなかったが、死後、美しくなった。

美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。
とすると、「美の生涯享受量」(LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、
個人個人で天地ほどの差があるにちがいない。

私が興味を覚えるのは、
同時代の個人を比べて誰がLGPBが多いか少ないかということではない。小林秀雄が、

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」 (『無常という事』より)


と言ったように、現代人のLGPBは、はたして過去の人びとに比べてどうなのかという点だ。

21世紀に生きる私たちは、科学技術の発達によって、
うんと絵を見、うんと音を聞き、うんと移動して旅をし、うんと豊かにものを食している。
しかしそれでもなお、私が異国のリゾートホテルで見る月は、
鎌倉時代の女房がふと庭木越しに拝んだ月ほどに味わい深いものだろうか。
ひょっとすると日本人のLGPB曲線は、ある時代をピークとして現在では逓減カーブを描いているのではないか。

美を感受し、咀嚼し、創造する瞳が弱ってくることは、美をつくる側をも弱める。
音楽にせよ、絵画、映画、小説にせよ、現在では大作が生まれず、
作品が小粒になったとそこかしこで言われる。
それは、つくり手が小粒になったというより前に、受け手が小粒になったからなのだろう。
いつの時代も「偉大な聴衆が、偉大な音楽家を育てる」のだ。
優れた芸術家を殺すことは訳のないことである───みんなが鈍感になりさえすればよい。

その時代がどんな美を生み出すか、
そして自分自身が一生の間にどれだけの美を享受できるかは、
ひとえに私たち一人一人の瞳の磨き具合によっている。
アンリ・マティスは言った―――

「花はいつもどこにでもある。それを見たいと欲する気持ちさえあれば」と。


通勤途中に見過ごす街路樹の木肌が力強いぬくもりを持っていることや、
古本屋のワゴンで手に取ったすっかり紙焼けした古典詩集のなかに感じ入る一行を見つけること、
そして市民農園で育てた大根を味噌汁に入れて食べるときのおいしさには、
何か大きなものにつながっている美がある。
日々のなかに、そうやっていったん立ち止まり、
心を深くにもぐらせる暇(いとま)をつくることが大事なのだろう。
表層の刺激ばかりに反応する生活は、瞳を疲れさせるだけになる。
瞳を閉じてこそ、美はすっとにじんで立ち現われてくる。




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