3●マインド・価値観 Feed

プロスポーツ選手と会社員 ~強い個についての自問

3.7.7



◆日本人選手に決定力がないと批評はできるが……
この原稿を書いているのは2015年7月初旬。FIFA女子ワールドカップ2015カナダ大会を見事、準優勝で終えた日本チーム。佐々木則夫監督は帰国直後の記者会見で、今後の日本代表の最重要の課題について「個の質と個の判断を上げていかないと」と語っていました。

サッカーに限らず、スポーツの世界では、日本は組織力は高いが、個人の力となるといまひとつぜい弱で、大事なところで勝ちを逃すというようなことがよく言われます。負けた試合の翌日ともなれば、私たちの少なからずが批評者となり、「なんであそこでシュートせずにパスに逃げたのかね」とか「やっぱり個で突破できる選手がいないんだな」とか、「相変わらず日本は決定力がない」とか……。

そうコメントすることも場合によっては、日本代表選手への愛余ってのことかもしれませんが、きょう、この記事では、ひるがって自分自身がどれだけ「個として強い職業人」であるのかを自問してみたいと思います。自問のポイントは次の4つです。

1□自分は「仕事人」か「会社人」か
2□しびれるほどのリスクを背負って何か仕掛けたことがあるか  
3□万年レギュラーポジションのダレは出ていないか    
4□定年が35歳だとしたら……  

 

◆自分は「仕事人」か「会社人」か
あなたは、自分を一職業人として社外で自己紹介するとき、次のXとYのどちらのニュアンスにより近いでしょうか───

 【Xタイプ】
 〇「私は〈 勤務会社 〉 に勤めており、
   〈  職種・仕事内容  〉を担当しております」。

 【Yタイプ】
 〇「私は〈 職種・仕事内容 〉の仕事をしており、(今はたまたま)
   〈 勤務会社 〉に勤めております」。

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Xタイプは「会社人(かいしゃじん)」の自己紹介ニュアンスです。職業人であるあなたを言い表すものとして、まず勤務先があり、次に任された職種・仕事内容がきます。他方、Yタイプは「仕事人(しごとじん)」のものです。仕事人はまず職種・仕事内容で自己を言い表します。そしてその次に勤めている組織がきます。

仕事人の典型はプロスポーツ選手といっていいでしょう。たとえば、米メジャーリーガーのイチロー選手の場合、どうなるかといえば、「私は〈プロ野球選手〉の仕事をしており、今はたまたま〈マイアミ・マーリンズ〉に勤めております」です。去年であれば、後半部分は「今はたまたま〈ニューヨーク・ヤンキーズ〉に勤めております」でした。

野球にせよ、サッカーにせよ、プロスポーツ選手たちは、仕事の内容によって自己を定義します。彼らは「組織のなかで食っている」のではなく、「自らの仕事を直接社会に売って生きている」からです。彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなり、その道を究めること、その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、組織はそのための舞台、手段になる。そういう意識ですから、世話になったチームを出て、他のチームに移っていくことも当然のプロセスとしてとらえます。ただ、それは組織への裏切りではありません。“卒業”であり、“全体プロセスの一部”なのです。いずれにせよ仕事人の働く意識は次のようなものになります。

【仕事人の意識】
・自分の職業・仕事に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはヨコ(パートナー:協働者)の関係
・仕事が要求する能力を身につけ、仕事を通じて自分を表現する
・自分の能力・人脈で仕事を取ってくる
・自分の目的に向かって働く
・組織(会社)は舞台。自分が一番輝ける舞台を求める。舞台に感謝する
・世に出る、業界で一目置かれることを志向する
・自分が労働市場でどれほどの人材価値を持つかについてよく考え、
 実際その評価によって得られる仕事のレベルが決まってくる
・自由だが、来年も仕事にありついているかどうかわからないというプレッシャー
・コスモポリタン(世界市民)的な世界観
・「一職懸命」


他方、Yタイプは「会社人」の自己紹介で次のような意識になりやすい。

【会社人の意識】
・雇用される組織(会社)に忠誠を尽くす
・会社とはタテ(主従)の関係
・会社が要求する能力を身につけ、会社が要求する成果を出す
・会社の信頼で仕事ができる
・会社の目的の下で働く
・会社は船。沈没したら困る。下船させられても困る
・会社内での居場所・存在意義を見つけることに敏感
・みずからの人材価値についてあまり考えないし、
 何か大きな問題を起こさないかぎり雇われ続ける
・自由が制限されるストレス
・会社ローカル的な世界観
・「一社懸命」

377b

会社員という生き方を選ぶことが悪いとかそういうことではありません。問題は、どっぷりと会社人意識に浸かってしまって、雇われ根性・他律性が染みついていないかという点です。会社員であっても、ある割合、野性的な「仕事人」意識を自分の中に保っている人は、個として戦える力を持っている人です。

◆しびれるほどのリスクを背負って何か仕掛けたことがあるか  
私自身、サッカー少年だったのでよくわかりますが、ボールを持って敵陣のペナルティーエリア内に侵入するときほど怖いものはありません。一気にディフェンスプレーヤーたちが自分をつぶそうと当たってきます。チャンスがありながらも勇気がなく、シュートを打てずじまいになることはよくありました。シュートを打つのは怖いものなんです。

さて、あなたは担当の仕事で、これまでにしびれるほどのリスクを背負って、単独で何かを仕掛けたことはありますか? または、大勢から猛反対を受けながら、何かを主張し、行動に移したことはありますか(結果はどうあれ)? サッカーで言えば、ともかく不格好でもいいからシュートで終わったかということです。

え?まだ平社員だから、そんな権限持って何かをさせてもらえない?……実はその考え方自体が、すでに上で触れた「会社人」意識にどっぷり陥っている姿かもしれません。

◆万年レギュラーポジションのダレは出ていないか    
プロスポーツのレギュラーポジション争いは厳しい。野球なら9人、サッカーなら11人。その枠を狙って常に選手たちがしのぎを削る。スターティングメンバーに起用されなかった選手でも、試合中、ピッチの脇で監督に「オレを使え」と無言のアピールをする。

ひるがえって、会社員はどうでしょう。いつもなにかしら担当を任され、自分の仕事がなくなることはありません。むしろ人手不足の昨今は仕事が増えるばかりです。これはいわば、「万年レギュラー」の立場が保障されている状態です。もちろん安定的に長期雇用されることは望ましいことです。しかし、そこに甘えると保身にこもる悪い面が出てきます。安穏とした環境が強い個を生まなくなる大きな理由です。

◆定年が35歳だとしたら……   
プロスポーツ選手が第一線で活躍できる期間はとても短い。30代後半で現役を続けられる人はごくまれです。それと同じように、もし、いまのあなたの会社が35歳定年制だとしたらどうでしょう。おそらく、緊張感をもって1日1日仕事に向かうでしょう。定年後も食っていくための準備を必死になってやるはずです。人間、終わりがわかっていれば、意識が覚醒するものです。

おりしも先日、日本経済新聞のインタビュー記事(2015年7月9日付朝刊)でイタリア・プロサッカーチームACミランに所属する本田圭佑選手は次のように語っていました───

「もう29歳になりましたから。恐ろしいですね。ええ。日経新聞を読んでる方には“若いくせに何を言っている”といわれそうですが、サッカー選手として、29歳はキャリアの先が見えてくる年齢なわけで。そのせいもあってか、時間に対する考え方、1年の重みをすごい感じるようになって」。



たとえば、会社員であるあなたは、「35歳でFA(フリーエージェント)宣言する!」と心に決めてみてはどうでしょう。そのタイミングで起業するもよし、転職するもよし、あるいはFA宣言したものの結果的に現在の会社に残留するというのもよし。個としていやがうえにも牙(きば)が出てくると思います。

◆ムラ社会の中でそこそこ安住していくことを「美しい」とするか
私自身は遅ればせながら、38歳のときに独立を決意し、40歳で実行しました。サラリーマン生活最後の2年間というものは、ほんとうに感覚が鋭敏になった期間でした。これまで雇われサラリーマンのルーチンワークとしてうんざりぎみの交通費の伝票書きひとつにしても、それがどんな書式になっているのか、それがどんな処理プロセスに乗っているのか、それらを在職中にくまなくみておかねばなりません。この先、自営業を始める私にとってはそれもこれも自分で把握すべき管理の仕組みになるのですから。

独立して無我夢中で走ってきたら、いつのまにか干支が1周りしていました。20代、30代は自分なりにとがって仕事をしていたと思っていました。しかしいま振り返ると、それはただ表面的にギザギザしていただけでした。ですが、独立後の40代はいやがうえにも自分の内側から牙が出てきました。そして50代。個の職業人としてやりたいことは山ほどあります。その牙で彫刻作品をいくつも仕上げていきたい。ようやく職業人として、リスクを怖がらず、シュートを何本も打ってやるという状態になりました。

日本の場合、強い個を生み出さない組織・文化というのが問題として取り上げられますが、実は、「強い個になんてなりたくないよ」という個が多いのも事実。私が本稿で言いたい「強い個」とは、必ずしも仕事をがむしゃらにがんばって成り上がる強さとか、そういう外面的でマッチョなタフネスではないのですが。いずれにしても、基本的にムラ社会の中でそこそこの居場所を見つけて安住しているのがラクなのはラクです。でも、そんなだましだましの安住を願う仕事人生を「美しい」と思えるかどうか。最終的には、自分の哲学や美意識に投げかけていく問題なのだと思います。

「個として強い」働き方・生き方をすることを自分は選ぶか───あわただしい生活のさなかでときどき自問したテーマです。









モラルジレンマ~「Aは正しい/Bも正しい」の間で

3.5.2


◆5人を殺さないために1人を殺してよいか

あなたは鉄道列車の運転手だとしよう。いま、高速で列車を走らせている。ところが、ふと前方を見ると、5人の作業員が線路上で工事をしている。電車を止めようとするが、ブレーキがきかない。このまま進めば5人をはねてしまうのは確実な状況である。しかし、その手前に右側へとそれる待避線が目に入った。そこにも作業員がいる。だが、1人だけだ。あなたは列車を待避線に進めることもできる。……このとき、あなたはどうすべきだろう?


───ご存じ、ハーバード大学で政治哲学の「白熱授業」を行うマイケル・サンデル教授が提示する問いの一つだ。

「Aは正しい/Bは正しくない」と判断できるときの選択は簡単だ。悩むことなく行動できる。しかし、状況が「Aは正しい/Bも正しい」といったとき、あるいは、「Aは正しくない/Bも正しくない(が、どちらかを選ばなくてはならない)」といったときの判断は悩ましげだ。

こうした2つの対立する「正しいこと(あるいは、正しくないこと)」の間で自分はどういう判断をするか。その苦悶が「モラルジレンマ(道徳的価値の葛藤)」である。

米国の哲学者ジョン・デューイは『倫理学』のなかで、道徳的判断とは「自我を形成し、自我を現し、自我を検証する(form, reveal, and test the self)」ことであると述べている。直面する問題が、意味や価値といった次元に深く複雑に入り込むほど、私たちは自我と対話せざるをえなくなる。「自分は何者であるのか/何者でありたいのか」ということを。その意味で、モラルジレンマの状況は、自分が核に持っている価値がどのようなものであるかを考えさせてくれる恰好の機会となる。

次にあげるケース(事例)演習は、私が研修で使用しているもので、実際の市場で起きていることを一部取り込みながら創作したものである。ケースを読んで、後の問いについて考えてほしい。


◆演習:ボックス・ティッシュ開発

 □□□ケース□□□

あなたは製紙会社A社に勤めていて、ボックス(箱入り)・ティッシュの商品開発を担当しています。A社は、スーパーやドラッグストアなどでよく見かけるボックス・ティッシュ「5箱パック」製品で業界トップシェアの位置を確保しています。ところが、最近B社が急速に売り上げを伸ばし、A社を追い抜く勢いになってきました。
なぜかというと、B社の低価格戦略品が消費者の支持を集め、急速にシェアを拡大しているからです。現在、店頭では次のような状況で2社の製品が並んでいます。

A社製品=5箱パック:358円
B社製品=5箱パック:298円

両社の製品は外箱のデザインこそ違え、5個パックの大きさはほぼ同じ。消費者はティッシュ自体の品質に大きな差を感じていません。となれば、そこに付けられた値札の差額は、デフレ・不景気下の消費者にとってみれば、歴然と大きなものです。「5箱パックが300円を切った!」ということで、消費者は一気にB社製品に手を伸ばしているわけです。

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しかし、ここにはからくりがあります。B社が投入してきた戦略品は、同じ「5箱パック」としながら、1箱に詰めるティッシュの枚数を減らし、紙の品質をわずかに落とし、そこで低価格を実現させているのです。
従来、業界では標準として、2枚を1組のティッシュとして、1箱に200組400枚を詰めていました。それをB社は、160組320枚にしたのです。1箱に何枚のティッシュが入っているかという表示は、箱の裏面に小さく表示があるだけで、多くの消費者はその点に気づかないのが現実です。つまり、実際はこういう比較数値になります───

A社=5箱パック:358円
(1箱400枚入り×5箱=総計2000枚:1枚あたり0.1790円)

B社=5箱パック:298円
(1箱320枚入り×5箱=総計1600枚:1枚あたり0.1863円)・紙品質やや劣

そうこうしているうちに、B社は次の策を打ってきました。今月発売した新商品のパッケージには「エコ×エコ」とデザインされた目立つシールが貼ってあります。説明表示を読むと、「箱の高さを数ミリ小さくし、外箱に使う紙資源を少なくしました!」とあります。
さて、客観的に考えて、ほんとうに「エコ×エコ」=経済的で省資源なのはどちらでしょうか? 確かに店頭価格はB社のほうが安い。しかし、ティッシュ1枚あたりで考えると、A社のほうが安いのです。しかも品質的にも上です。経済的なのはA社です。

次に、ほんとうに省資源なのはどちらでしょうか。B社が小さくしたという箱の高さはわずか数ミリです。その分の資源の節約は実際に効果的なものなのでしょうか。
A社が調査したところ、外箱を数ミリ薄くしただけでは、箱用紙、印刷インク、物流コストについて大きな節約効果は出ません。もし、同じ1600枚の販売で考えるなら、「1箱320枚×5箱」より「1箱400枚×4箱」で販売するほうが、節約効果が大きいとの結果です。

結局、B社がやっていることは、1箱に400枚詰められる技術があるにもかかわらず320枚に留め、A社と見た目のボリューム感はほぼ同じにしながら、分かりにくいように中身の質と量を落とし、低価格で訴える戦術です。しかも、そこにもっともらしい社会性のある宣伝文句を加えるというしたたかさ。

こうしたB社の猛追を受けて、A社の1位陥落は時間の問題となってきました。もちろん、A社内では盛んに議論が交わされています。「うちも枚数と品質を落とした低価格品で対抗すべきだ」という声もあれば、「業界のトップ企業として、そしてもっとも信頼される上位ブランドとして、安易に見せかけのエコ競争・低価格競争に走ってはならない。多少の割高感が出たとしても、何がほんとうに経済的か、省資源的かを訴え、自分たちの理念を軸にした商品開発を堅持すべきだ」という声もあります。
また、ネット上の口コミサイトを探ると、ほんとうに経済的で省資源的であるのは、「1箱400枚入り」のものだという消費者の意見が少しずつではあるが増えている気配もあります。しかし、おおかたの口コミは、「5箱パックで298円!」だとか「無名ブランド品で198円ものが出た!」など、もっぱら安売り情報が主となっています。


□問1:
自社(A社)は、ボックス・ティッシュ5箱パック分野において、B社と同じような仕様(枚数減・品質低)で競合品を出すべきでしょうか? 

□問2:
問1についての判断をした理由は何ですか?
(自分がどんな視点・価値的判断軸を持って考えたか、もしそれが複数あった場合は、どんな優先順位で考えたかなどを説明してください)

□問3:
もしあなたが、製紙業界とはまったく関係のない一消費者・一市民だとしたら、問1の判断を支持しますか?




◆私たちは「マルチロール」な存在である
このケースを考えるとき、個人の頭のなかでも、そして組織内の議論においても、さまざまな視点・価値的判断軸が出てくるだろう。たとえば、「安さを追求した商品を出すことが消費者のためである」「シェアを取る=数量を押さえることが事業の根幹である。シェアトップの座を奪われることは、組織の士気に影響する」「数量の論理・利益至上主義のみで進める事業は長続きしない」「地球環境を守ることは一地球市民としての義務である」「目先の競争のためにブランドイメージをゆがめてはならない」など。こうした多様にある価値的判断によって、「正しいこと」はいくつも存在する。

私たちはこうした正解値のない問題に対し、具体的な事実やデータを把握し、論理的に分析をし、客観的に対応法を考える。しかし、そうやって追いこんでいっても、切れ味よい答えがなかなか出てこない。それは、私たち個人が、「マルチロールな(複合的な役割を持つ)」人間だからだ。

たとえば、自分がどこかの会社に勤め、何か事業を企てている場合、私たちは「一企業人」としての側面を持つ。一企業人であるかぎり、事業の拡大を狙うし、組織が永続するために利益を追求する。競合会社を蹴落とすために手段を尽くすし、より多くの消費者を取り込もうとするだろう。一企業人としての自分は、行政・法律の制限、消費者団体の意見、メディアの批評、株主の圧力、取引先との関係性、地域・社会の動き、社内の目など、いろいろなものに囲まれている。これら外部の力と複雑にやりとりをしながら物事を動かしていく。

と同時に、私たちは「一人間」としても存在する。つまり、家に帰れば、誰かの親であり、あるいは子であり、市民であり、地球人であり、消費者であり、良識人である(図2)。

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ボックス・ティッシュのケースにおいて、もしあなたが「安さで太刀打ちできる製品を出して、何が何でもトップシェアを維持すべきだ」と考えるのは、一企業人としての価値的判断だ。しかし同時に、一人間としてのあなたの心の奥からはこのような声が聞こえてくるかもしれない───「資源のムダを知りながら、それを脇に置いて価格競争に明け暮れていいのか。子どもたちの世代に少しでもきれいで豊かな地球を引き渡してあげるのが、大人の責務ではないのか」と。ここにモラルジレンマ(道徳的価値の葛藤)が生じる。

チェスター・バーナードが『経営者の役割』のなかで、「組織のすべての参加者は、二重人格〈組織人格と個人人格〉をもつ」と記述したように、事業現場におけるモラルジレンマはこの二つの人格の間の揺れ動きにほかならない。組織の目的を優先させるのか、個人の動機に根ざすのか、その力学が複雑になればなるほど私たちは悩み悶える。


◆現実の自分を高台から見つめる「もう一人の自分」をつくれ
では、この「組織人格」と「個人人格」の葛藤を超えて答えを出すためにどうすればよいのか。それには、高台から現実の自分を見つめる「もう一人の自分」をつくることだ。その「もう一人の自分」は、単なる客観を超えたところで、「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な主観を持っている存在である。モラルジレンマに遭遇したとき、その彼(彼女)が現実の自分を導いていく───これが最善の形である(図3)。

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ちなみに、その自己超越的な「もう一人の自分」について、能楽の大成者である世阿弥は、『風姿花伝』のなかで「目前心後」という言葉で表している。世阿弥によれば、達者の舞いというのは、舞っている自分を別の視点から冷静に見つめてこそ可能になる。そのために、「目は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」と。つまり、前を向いている実際の目と、後ろにつけている心の目、この両方を巧みに使いこなすことが重要であるとの教えである。なお、世阿弥は同様のことを「離見の見」とも言い表している。

もちろん、「もう一人の自分」の導いた判断が、ビジネス的成功の観点からまずい結果に終わり、一企業人としては失敗者の烙印を押されることもあるかもしれない。だが、その判断は「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な次元から出てきたものだから、本人に悔いはないはずである。心身へのダメージは比較的軽く済むだろう。むしろ恐れるべきは、「高台のもう一人の自分」をつくることができず、二つの人格の間で、自己喪失したり、自己欺瞞に苦しんだりする日々を送ることだ。

バーナードが著した『経営者の役割』はすでに経営の古典的教科書の一つになっているもので、1938年の刊行である。同書が、経営者が直面すべき道徳性について少なからずの紙幅を割いているのは、担当する業務が経営のレベルに上がっていけばいくほど、個人は道徳的緊張と価値観の乱立にさらされることとなり、人格の崩壊や道徳観念の破滅が起こるリスクが高まるからだ。実際、当時から経営現場ではそれが数多く起こっていた。

昨今の職場でも、メンタルを病む人間が増えていることが社会問題化している。実は、聡明な思考ができる人間ほどそのリスクが高くなる。物事が客観的に見えすぎるがゆえに、自分の論理が、事態収拾のためにどんどん捻じ曲げられ、破綻していくことに精神が耐えられなくなるのだ。

また、企業の不正事件もあとを絶たない。高度な専門能力をもった担当者が、巧妙な手口で組織に利益を誘い込む。その担当者は、自分のなかの「組織人格」が肥大化し、組織の論理・組織の都合だけで違法な手段を実行してしまう。それはもはや一市民・一良識人としての「個人人格」の制御が失われ、組織の僕(しもべ)と化した知能ロボットのように見える。

私たちはマルチロールな(複合的な役割の)存在である。もし、モノロールな(単一的な役割の)存在であれば、物事の思考はラクになる。が、その分、判断も経験も人生も薄っぺらになるだろう。幸いなるかな、私たちは多重的に複雑な役割を担った存在である。そのときに大事なことは、「自分は何者であるか/ありたいか」の主観的意志を持つことである。ただ、この主観的意志は客観を超えたところの主観である。世阿弥が言うところの「我見」ではなく「離見の見」である。さて、あなたはこのボックス・ティッシュ開発においてどんな意思決定をするだろうか───?




*モラルジレンマ・ケース演習に関しては、拙著『キレの思考・コクの思考』 (東洋経済新報社)をご覧ください





楽観主義は身を救う ~仕事を労役にしないために

3.4.4


私たちは自分の「仕事」が「労役」化してしまう引力に常にさらされている。
そうならないための根本の処方箋は、力強い楽観主義を持ち、仕事を大きくとらえることである。

* * * * *

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」

―――仏哲学者・アラン



私は日ごろ、主に企業に勤めるビジネスパーソンたちと研修現場で接している。彼らの少なからずが「仕事がツライ」と口にする。この「ツライ」には千差万別ある。

能力レベルと仕事の要求がミスマッチでツライ場合もあれば、嫌でしょうがない仕事を任されてツライという場合もある。目標達成がツライけれど、仕事に面白みを感じているのでかろうじて頑張れている場合もあれば、まったくの怠け根性でただツライツライと愚痴っている場合もある。また、世の中には不運にも非正規雇用を余儀なくされ、本当にツライ3K仕事をして糧をつないでいる人もいるだろう。

私はこの「仕事のツライ」に対して個人ができうる根本の処方箋は、強い楽観主義を持つことだと思っている。もちろん、社会や企業が制度面で労働環境をよくしようとする努力は複合的に必要だし、楽観主義で構えるだけで何も建設的なことを行動しないようでは根本の解決はない。

「つまらない」「生きるためにしょうがない」「どうせ俺の人生はこんなもの」「しょせん世間や会社はそんなもの」といった悲観主義を分母にしたツライは、早晩自分の心身を痛めていく。一方、「そこに何か面白みを見つけてみよう」「働くことでいろんなことが勉強できる」「この方向で頑張れば何かが見えてくるはず」「この仕事には意味を感じているから」など楽観主義を分母にしたツライは、自分を成長回路に乗せてくれる。

ちなみに私がここで言う楽観主義とは、状況を気楽に構えながらも「最終的にはこうする」という意志を含んだ姿勢のことである。その点で、楽天主義とは異なる。楽天主義とは、意志のない気楽さである。根拠のない安逸と言ってもいいかもしれない(別名:能天気)。

いずれにせよ、悲観主義をベースにするか、楽観主義をベースにするかで、仕事のツライは、天地雲泥の差が出る。5年後、10年後、20年後の差は決定的である。

楽観主義と悲観主義の分岐点はどこにあるか―――。

それは冒頭のアランの言葉にもあるとおり、目の前の状況を意志的にとらえるか、それとも、感情で流されるか、にある。自分に言い訳をつくって、他に責任を転嫁して、感情に流されるのは簡単なことだ。自己嫌悪というのは、逆説的にではあるが、自己への甘えの一種である。しかし、ツライ状況をあえて、未来的な意志の下に状況をポジティブに建設的に解釈しなおしていく。そして行動していく。この微妙な心持ちの差が、一刻一刻、一日一日、一年一年と積み重なって、結果的に悲喜こもごもの人生模様が織られる。


◆仕事は「ゲーム」「学び機会」「趣味・アート」である
ものごとを楽観的に構えるとは、いろいろな方法や思考法があるだろう。私は次のように、仕事というものに対して意識を拡げてみてはどうかと言っている。

○例えば、仕事は「ゲーム」だと考えてみる。
ゲームはある種の勝負事だが、遊び心をもって楽しんでやるものだ。現在、仕事上で目の前に抱えるトラブルや困難は、ゲームを面白くするためにゲームメーカーが仕組んだ障害物だととらえてみる。テレビゲームを1面1面クリアしていくように、1つ1つの問題を解決して、「よーし、次の面はどんな面だ」と待ち受けることができれば、仕事のストレスは軽減され、質さえ変わる。

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○また、仕事は「絶好の学び機会」だと解釈してみる。
仕事はさまざまに私たちに“解”を出せと求めてくる。しかし、そこにあらかじめの「正解値」はない。それは逆に言えば、「自分なりの解を創造してよろしい」ということだ。だからこそ、その解を創造するまでの過程は無上の学習機会になる。学習は成長でもある。給料をもらいながら、こうした学習と成長ができるのである。有り難い話ではないか。

○さらに、仕事は「趣味・アート」だととらえてみる。
いまは一個人の趣味活動やスタイルが消費者の心をつかまえて、そのままビジネスになりうる時代である。自分の興味・テイスト・スタイル・凝った技能を仕事に付加してみる。好奇心をエネルギーに変えて、「こんなこと考えてみました」とか「こんなふうにつくってみました」と、自分表現のアウトプットを上司や組織に提案してみる。思わぬところから、「お、それいいね」と反応が起こり、一気に仕事が面白くなるかもしれない。

「趣味ゴコロ? 自分のスタイルを付加する? そんな努力したって所詮ムダ」とシラけて何もしない状態こそ、悲観主義者の姿だ。楽観主義者は、そこでこそやってみる人なのである。確かにそんなヘタなことをしてみても、容易に周囲が称賛してくれるわけでもないだろう。しかし、誰か一人でも反応してくれれば、そこから何かが開けることは十分にあることなのだ。人生の転機とは実際そのような些細な一点から生じるものである。


◆私たちは傾斜に立っている
下の図は、私たち一人一人が常に傾斜に立っていることを示したものである。私たちは生きていくうえで、つねに、下向きの力を受けている。それは物理的にも精神的にもエントロピー(乱雑さ)を増大させる力である。私たちは気を緩めれば、いつでも下に転がるような摂理の中に身を置いている。

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この傾斜という負荷に対し、抵抗をやめることは基本的にラクだ。しかし、そのラクの先に天国は決してない。逆に、私たちは「仕事」という傾斜を上っていく努力をする限り、何らかの成長や喜びを得ることができる。しかし、その努力の先に天国が簡単に待っているわけでもない。これがこの世が仕組む奥深さである。しかし、傾斜を上ろうとするその過程こそが幸福であると私は思う。

仕事という傾斜に対し抵抗をやめれば、そこには「労役」という別の世界が待ち受けている。この世界に入り込んでしまうと、ほんとうにツライ。ネガティブ回路が増幅して脱出も難しくなる。昨今、社会問題として大きく取り上げられるワーキングプアの問題などは、この労役の回路から抜け出せない人びとの問題でもある。(これは個々人の意識・努力の要因だけでなく、社会制度の要因も考えねばならない)

その仕事を労役にしないために、そして現状の仕事をよりよい仕事にするために、私たちは力強い意志的な楽観主義というものを持ちたい。もちろんそれだけで、難しく入り組んだ個々の仕事問題が解決できるわけではない。が、楽観的意志を持つことがすべての始まりとなる。

労役への引力に身を任せるな、楽観的意志で抵抗せよ。

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