楽観主義は身を救う ~仕事を労役にしないために
3.4.4
私たちは自分の「仕事」が「労役」化してしまう引力に常にさらされている。
そうならないための根本の処方箋は、力強い楽観主義を持ち、仕事を大きくとらえることである。
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「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」
―――仏哲学者・アラン
私は日ごろ、主に企業に勤めるビジネスパーソンたちと研修現場で接している。彼らの少なからずが「仕事がツライ」と口にする。この「ツライ」には千差万別ある。
能力レベルと仕事の要求がミスマッチでツライ場合もあれば、嫌でしょうがない仕事を任されてツライという場合もある。目標達成がツライけれど、仕事に面白みを感じているのでかろうじて頑張れている場合もあれば、まったくの怠け根性でただツライツライと愚痴っている場合もある。また、世の中には不運にも非正規雇用を余儀なくされ、本当にツライ3K仕事をして糧をつないでいる人もいるだろう。
私はこの「仕事のツライ」に対して個人ができうる根本の処方箋は、強い楽観主義を持つことだと思っている。もちろん、社会や企業が制度面で労働環境をよくしようとする努力は複合的に必要だし、楽観主義で構えるだけで何も建設的なことを行動しないようでは根本の解決はない。
「つまらない」「生きるためにしょうがない」「どうせ俺の人生はこんなもの」「しょせん世間や会社はそんなもの」といった悲観主義を分母にしたツライは、早晩自分の心身を痛めていく。一方、「そこに何か面白みを見つけてみよう」「働くことでいろんなことが勉強できる」「この方向で頑張れば何かが見えてくるはず」「この仕事には意味を感じているから」など楽観主義を分母にしたツライは、自分を成長回路に乗せてくれる。
ちなみに私がここで言う楽観主義とは、状況を気楽に構えながらも「最終的にはこうする」という意志を含んだ姿勢のことである。その点で、楽天主義とは異なる。楽天主義とは、意志のない気楽さである。根拠のない安逸と言ってもいいかもしれない(別名:能天気)。
いずれにせよ、悲観主義をベースにするか、楽観主義をベースにするかで、仕事のツライは、天地雲泥の差が出る。5年後、10年後、20年後の差は決定的である。
楽観主義と悲観主義の分岐点はどこにあるか―――。
それは冒頭のアランの言葉にもあるとおり、目の前の状況を意志的にとらえるか、それとも、感情で流されるか、にある。自分に言い訳をつくって、他に責任を転嫁して、感情に流されるのは簡単なことだ。自己嫌悪というのは、逆説的にではあるが、自己への甘えの一種である。しかし、ツライ状況をあえて、未来的な意志の下に状況をポジティブに建設的に解釈しなおしていく。そして行動していく。この微妙な心持ちの差が、一刻一刻、一日一日、一年一年と積み重なって、結果的に悲喜こもごもの人生模様が織られる。
◆仕事は「ゲーム」「学び機会」「趣味・アート」である
ものごとを楽観的に構えるとは、いろいろな方法や思考法があるだろう。私は次のように、仕事というものに対して意識を拡げてみてはどうかと言っている。
○例えば、仕事は「ゲーム」だと考えてみる。
ゲームはある種の勝負事だが、遊び心をもって楽しんでやるものだ。現在、仕事上で目の前に抱えるトラブルや困難は、ゲームを面白くするためにゲームメーカーが仕組んだ障害物だととらえてみる。テレビゲームを1面1面クリアしていくように、1つ1つの問題を解決して、「よーし、次の面はどんな面だ」と待ち受けることができれば、仕事のストレスは軽減され、質さえ変わる。
○また、仕事は「絶好の学び機会」だと解釈してみる。
仕事はさまざまに私たちに“解”を出せと求めてくる。しかし、そこにあらかじめの「正解値」はない。それは逆に言えば、「自分なりの解を創造してよろしい」ということだ。だからこそ、その解を創造するまでの過程は無上の学習機会になる。学習は成長でもある。給料をもらいながら、こうした学習と成長ができるのである。有り難い話ではないか。
○さらに、仕事は「趣味・アート」だととらえてみる。
いまは一個人の趣味活動やスタイルが消費者の心をつかまえて、そのままビジネスになりうる時代である。自分の興味・テイスト・スタイル・凝った技能を仕事に付加してみる。好奇心をエネルギーに変えて、「こんなこと考えてみました」とか「こんなふうにつくってみました」と、自分表現のアウトプットを上司や組織に提案してみる。思わぬところから、「お、それいいね」と反応が起こり、一気に仕事が面白くなるかもしれない。
「趣味ゴコロ? 自分のスタイルを付加する? そんな努力したって所詮ムダ」とシラけて何もしない状態こそ、悲観主義者の姿だ。楽観主義者は、そこでこそやってみる人なのである。確かにそんなヘタなことをしてみても、容易に周囲が称賛してくれるわけでもないだろう。しかし、誰か一人でも反応してくれれば、そこから何かが開けることは十分にあることなのだ。人生の転機とは実際そのような些細な一点から生じるものである。
◆私たちは傾斜に立っている
下の図は、私たち一人一人が常に傾斜に立っていることを示したものである。私たちは生きていくうえで、つねに、下向きの力を受けている。それは物理的にも精神的にもエントロピー(乱雑さ)を増大させる力である。私たちは気を緩めれば、いつでも下に転がるような摂理の中に身を置いている。
この傾斜という負荷に対し、抵抗をやめることは基本的にラクだ。しかし、そのラクの先に天国は決してない。逆に、私たちは「仕事」という傾斜を上っていく努力をする限り、何らかの成長や喜びを得ることができる。しかし、その努力の先に天国が簡単に待っているわけでもない。これがこの世が仕組む奥深さである。しかし、傾斜を上ろうとするその過程こそが幸福であると私は思う。
仕事という傾斜に対し抵抗をやめれば、そこには「労役」という別の世界が待ち受けている。この世界に入り込んでしまうと、ほんとうにツライ。ネガティブ回路が増幅して脱出も難しくなる。昨今、社会問題として大きく取り上げられるワーキングプアの問題などは、この労役の回路から抜け出せない人びとの問題でもある。(これは個々人の意識・努力の要因だけでなく、社会制度の要因も考えねばならない)
その仕事を労役にしないために、そして現状の仕事をよりよい仕事にするために、私たちは力強い意志的な楽観主義というものを持ちたい。もちろんそれだけで、難しく入り組んだ個々の仕事問題が解決できるわけではない。が、楽観的意志を持つことがすべての始まりとなる。
労役への引力に身を任せるな、楽観的意志で抵抗せよ。