8●「働くこと」つれづれ Feed

「キレの思考」と「コクの思考」

8.13


◆「思考の3軸」がつくる球状空間
思考を3軸でとらえたのが「思考球域〈Thought Sphere〉」である。「大きな問い」を発し、「大きな答え」をつかむためには、「キレ」と「コク」の領域を大きく往復することが欠かせない。

私たちはこれまで、思考というものについて、論理法や発想法といったアプローチからさまざまに分類をしたり、全体像を描いたり、またそこに命名をしてきた。「帰納法/演繹法」「水平思考/垂直思考」「右脳思考/左脳思考」、また「ロジカルシンキング」や「フレームワーク思考」「(川喜田二郎氏による)KJ法」など……人間の思考は、まさに思考を尽くして捉えようとしてもその奥深さはきりがなく、そのテーマを取り扱おうとする者に無数の切り口を与えてくれる。
そこで私は今回、次の3つの軸で思考というものをとらえようと試みる。

〈1〉思考の上下軸───「抽象的/具象的」
〈2〉思考の左右軸───「論理的/イメージ的」
〈3〉思考の前後軸───「主観的/客観的」



つまり思考には、

○物事を抽象化して本質をつかみにいくか、それとも、具象化に寄っていって個別の実態を見ようとするかといった「上下方向」があり、

○論理的に分解し組み立てて理解するか、それとも、直観的なイメージで把握するかといった「左右方向」があり、

○主観的・意志的に考えを前面に押し出していくか、それとも、一歩引いて、客観的・説明的に物事を見つめるかといった「前後方向」の3方向があると思えるからだ。
この3軸で形成される空間を球体に見立てたのが下図である。



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これを私は「思考球域」と名づけている。英語で造語表記をするなら「Thought Sphere」(ソート・スフィア)となるだろうか。
「Sphere」とは、球形のもの、作用や活動が及ぶ範囲、天空を意味する単語である。私が抱く思考の概念イメージは、まさにこの「Sphere」がぴったりだと感じている。作用・活動の領域が球状に広がり、しかも外縁部には定かな境界線がなく、その先はもっと大きな空間につながっているというまさに天空的なものを想像するからである。


◆「キレ」の思考・「コク」の思考

さらにここで私は、対照的な2つの思考に特別な名づけをしたい。一つは、「具象×論理×客観」領域を基地とする思考を『キレの思考』と名づける。これは、典型的にはサイエンスの人びとが行っているものと考えればわかりやすいだろう。そしてもう一つは、「抽象×イメージ×主観」領域を基地とする思考を『コクの思考』と名づける。これは、典型的にはアートの人びとが行っているものである(下図)。

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「キレ・コク」は、ご存じのように、ビールやコーヒーなどの味を評価する言葉としてよく用いられる。「キレ(切れ)」は、辛いや酸っぱいなど舌の上での刺激が明瞭で、その後、すっと味が消えていくことをいう。他方、「コク」は、複雑に入り混じった味が余韻をもって舌や喉、口内に留まることをいう。
私は、思考にも「キレ」と「コク」という性質の転用が可能だと思う。「キレの思考」と「コクの思考」の特徴をまとめると次のようになる。

【キレの思考】
・「具象×論理×客観」領域を基地とする思考活動
・「シャープ&ソリッド」な思考
(sharp=鋭い・明快な、solid=固形の・硬い・実線の)
・具象性に根付きながら明示するように考える
・tangible(触れられる)、explicit(系統立てられた)、establish(立証する)
・不確実性や曖昧さを排除する
・実践や実利を求める
・客観的事実を積み上げていく
・物事を細かに分解し調べて理解しようとする(還元論的)
・分析的、収束的
・直線的に、連続的に
・「理知の人」、事象を測量し証明する
・形態〈form〉寄り
・その思考をする者の能力に関わる

【コクの思考】
・「抽象×イメージ×S」領域を基地とする思考活動
・「リッチ&ファジィ」な思考
(rich=豊かな・濃厚な・味わいのある、fuzzy=ぼやけた・曖昧な・不明瞭な)
・抽象的に、輪郭を描かず、示唆化するように考える
・intangible(触れられない)、tacit(暗黙の)、metaphor(隠喩)
・不確実性や曖昧さを受け入れる
・観念的でよしとする  
・主観的解釈で仮説を立てる
・物事をまるごと包み込んでとらえようとする(全体論的)
・綜合的、拡張的
・非直線的に、非連続的に
・「智慧の人」、意味・価値を物語る
・本質〈essence〉寄り
・その思考をする者の存在に関わる



◆鋭く明瞭に考え×豊かに曖昧さをもって考えよ
私たちは誰しも、運動量に差こそあれ、ときに「キレ」でもって科学者のように考え、ときに「コク」をもって芸術家のように考える。

たとえば俳句を詠もうとするとき、詠み人はまず目の前にしている自然を細々と観察する。雲の動きがどうなっているか、風がどう吹いているか。何の植物があり、どんな色の花を咲かせているか。それは言ってみれば、自然を個別に具象的に観ていき、句の材料になるものが何かないかを鋭敏に探している姿勢である。そこでは「キレの思考」をしているわけだ。と、次の刹那に詠み人は、いまここにある自然の本質的な存在要素は何であるか、自分は何をモチーフとして描くか、といったものを抽出する。それは「コクの思考」である。そこは曖昧さという霧のなかであり、直観というサーチライトで“何か”をつかみにいく作業となる。……そして彼は、蛙(カエル)や蝉(セミ)といったモチーフに出合う。


すると今度は瞬時に頭が切り替わって、「五・七・五」という言葉の成形に入る。どんな語彙、どんな構成、どんな韻が効果的であるか、客観的、論理的に考える。ここは、自身が感受したものをいかに「キレ」よく、文字というナイフを使って表現できるか、の思考になる。

しかし、次に彼はそこを超え、あえて「キレ」を隠そうとする。静けさを表すのに、あからさまに「静かだ」と言ってしまわない。あるいは、静けさを、音の賑やかさから逆説的に伝えようとする。明瞭ではなく、あえて不明瞭に。鮮明に切り落とすのではなく、じんわりとにじませるように。なぜなら彼は、「コクの思考」の住人だからだ。ご存じ、俳人・松尾芭蕉の名句───

古池や蛙飛びこむ水の音

閑さや岩にしみ入る蝉の声


この2句は、「キレ」と「コク」の2つの思考を高速かつ大きく往復したことによって生まれた。このことは、俳句のような表現作品であれ、科学的な分析論文であれ、あるいはビジネス戦略であれ、同じである。両思考のダイナミズムがアウトプットの出来栄えを左右するのである。


◆論理・客観に留まるほど没個性に陥る

キレとコクの思考は端的には次のようにまとめられる。

○「キレの思考」=具象的×論理的×客観的をベースとして〈鋭く考える〉
○「コクの思考」=抽象的×イメージ的×主観的をベースとして〈豊かに考える〉



昨今のビジネス現場では、科学的な手法や考え方がどんどん入り込んできている。それ自体は悪いことではないし、むしろそれをうまく見方につけなければイノベーションは起こらない。だが、超一級の科学者たちは、論理だけ、客観だけで物事を鋭く考えることの限界を知っている。

1981年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一氏は次のように言う。

───「結局、突拍子もないようなところから生まれた新しい学問というのは、結論をある事柄から論理的に導けるという性質のものではないのです。では、何をもって新しい理論が生まれてくるのか。それは直観です。まず、直観が働き、そこから論理が構築されていく。(中略)だれでも導ける結論であれば、すでにだれかの手で引き出されていてもおかしくはありません。逆に、論理によらない直観的な選択によって出された結論というのは、だれにも真似ができない」 (『哲学の創造』PHP研究所)。



論理で「キレ」を出すのは確かに大事だが、論理力という刃物をいくら研いたところで、そもそも「切ろうとする対象物」を創造することはできない。創造のためには、滋養豊かな思考の大地あるいは濃厚なスープが必要である。それこそがまさに、もう一方の「コクの思考」の役割なのである。


私たちの日ごろの職場には、分析されたデータは豊富にあるし、定型化された戦略フレームシートに文字をぎっしり埋めることも上手になった。また、ロジカルシンキング手法に則った批評は会議でも行き交っている。だが、そのために、明瞭ではあるが独自性の弱い、もっともではあるがブレークスルーを起こすほどの力をもたない思考が増えている。論理や客観はそこに留まれば留まるほど、没個性に陥るという罠があるのだ。



◆「インテリの弱さ」を指摘する松下幸之助
松下幸之助は「インテリの弱さ」という表現を使い、この点につき言及している。

───「『それは社長、無理ですよ、できません。理論上から考えても無理です』ということが多い。特にすぐれた技術の持ち主ほど、そうした傾向が強く、困ったものだと(ヘンリー・フォードは)述懐している。私は、このフォードの言葉について、これはこれで一つの真理をついていると思います。(中略)なぜインテリが弱いといわれるのでしょうか。私は、それは結局、その人が、もっている知識にとらわれている場合にそうなるのだと思います」(『松下幸之助 成功の金言365』PHP研究所)。


別の箇所で、松下はこうも述べる。

───「単なる知識、学問ではいけないのだ、それを超えた強いものを心の根底に培って、はじめて諸君が習った知識なり学問が生きてくるのだ、その根底なくしては学問、知識はむしろじゃまになるのだ」。「私は昔から、非常な夢の持ち主である。だから早くいえば、仕事もいっさい夢から出ているわけだ。よく人から『あんたの趣味は何ですか』と聞かれるが、私は『私には趣味はないですな。まあ、しいていえば、夢が趣味ということになりますかな』と、答えるようにしている」。


日本のモノづくりが弱くなった原因のひとつは、経済合理性という大潮流の中で、日本のモノづくり思想が相対的に薄まっていったことだ。他方、故・ステーブ・ジョブズ氏がコテコテの主観や想いを前面に出し、それを巧みに形にしてきたアップルは勢いが止まらない。

私たちがいま再認識せねばならないのは、イメージや主観、抽象といった、曖昧だが、その人の色、クセ(癖)、アク(灰汁)、味わいといったものを醸し出す力だ。それはコクの思考の作業領域になる。そこを強く持って「自分の奥底から湧き起こる何か」をつかみ取り、キレの思考との間を往復する。そして「これしかない!」という表現で打ち出す。この力強い思考運動こそが、個々のビジネスパーソンに求められるものだ。




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*本稿のテーマをさらに詳しく知りたい方は拙著をご覧ください。



「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える 〈下〉

8.12



◆キャリアを形成する5つの要素:CROSS
人はどういう意識で職業を選び、どう仕事を発展させ、実績を生み、何を目指して進んで、キャリアを形成していくのだろうか。それにつきひとつの考察を試みたのが図1である。

私はキャリア形成の要素として次の5つをあげる。

1)能力を豊かにする〈CAPABILITY〉
2)ロールモデルを持つ〈ROLE MODEL〉
3)機会を見出す〈OPPOURTUNITY〉
4)意義を与える〈SIGNIFICANCE〉
5)1~4を統合する〈SYNTHESIZE〉


この5つの要素を交差させるところで、私たちは職業選択をし、仕事を発展させ、実績をつくり、方向性を決めてキャリア形成を進めていく。

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次に図2はその5要素を詳しく示したものである。1~4の要素はそれぞれに段階がある。この段階を経て統合されているほどその人は強いキャリア形成を行っていることになる。

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〈1〉能力〈CAPABILITY〉の形成要素
誰しも「能力がある」「適性がある」という分野で職業選択をし、仕事したいと思う。これは第一段階として当然のことだ。しかし、キャリアをつくっていく上でもっと重要なことは、図に第二段階として示してある「能力の展開」が行えるかどうかだ。

これはつまり、環境が変わっても自分の能力を応用展開させて、きちんと成果が出せるかどうかをいう。会社組織で働いていると、人事異動や転勤はつきものだ。そして市場環境の変化にも直面する。そうしたときに、自分のベース能力を変形させる力を持っていないとすぐに行き詰まる。行き詰まったときに、「これは人事配置のミスだ」とか「適性の向かない環境に回されてモチベーションが上がらない」とか不満を漏らして、くさるか、短気を起こして転職するか、これはキャリアを切り拓く力の弱い人の姿である。

また、大学生の就職活動にしても、何かと適性、適性と言う。適性診断やら自己分析やらで被験者の適性をタイプ分けし、そこから選択すべき職業・職種を教える。これは一面、「占い師」の宣告になる危険性があり、学生の思考をいたずらに呪縛するもので、必ずしも有益だとはかぎらない。

以前、元の会社の後輩社員から相談を受けたことがある。彼は大学時代に広告研究会で活躍していた人間である。そのクリエイティブ能力から、長年、広告部に配属されていたのだが、組織の大異動で営業部隊の最前線へ。くさりかけていた彼に私は「営業だから非クリエイティブと決めつけないで、クリエイティブのレンズを通して営業を見たら存外面白いかもしれないよ」と伝えた。

その後1年半ほどして、彼は営業部隊でPOPやリーフレットを作成したり、納入取引先のウェブサイトのデザインを支援したりするクリエイティブチームを起こし、そこのリーダーにおさまったとの連絡を受けた。彼はたくましく新境地を拓いたのだ。

能力は大事だし、適性も大事だ。しかし、キャリア形成にとってもっと大事なことは、能力を展開する力である。

環境への不満を言い出したらきりがない。「自分の居場所はここじゃない」とすぐに逃げ出す人はキャリアを拓けない。そもそも自分に100%フィットする仕事環境などないと心得るべきなのだ。そしてまた、自分の潜在能力や本当の適性はどこにあるか本人も気づいていないときは意外に多い。環境・状況に応じて、能力を変形させる、あるいは自分を変える、逆に、環境や状況を好ましいように変えていく―――そういった意識を上司も組織も、大学の就職支援カウンセラーも伝えていくべきなのだ。


〈2〉ロールモデル〈ROLE MODEL〉の形成要素
私たちはよりよく働くため、そして力強くキャリアを進んでいくために方向性が要る。方向性を持つことの最初のきっかけは「あの人のような仕事がしたい」という模範やあこがれを持つことである。「学ぶ(まなぶ)」という語は、「真似る(まねる)」から来ていると言われるとおり、人を真似ようとすることから方向性が出てくるのである。

強くキャリアを歩んでいる人は、意識するしないに関わらず、必ずどこかの時点で模範やあこがれの人物に出会っていて、その人物の働き方・働き様(ざま)・生き様(ざま)から理想のイメージをつくり出している。

その理想のイメージは、強烈な1人の人間から得ている場合もあれば、複数の人間の合成の場合もある。そしてその理想イメージが十分大きく堅固になったとき、それは「夢・志」と呼ぶべきものになる。

キャリア形成の力が弱い人は、全般的に他の人間の働き様への関心が薄く、そこから何か自分なりの理想イメージを引き出す力も弱い。漫然とイメージ無しに働き過ごしている。せいぜいあこがれるとすれば、「○○の仕事は儲かっていいなぁ」くらいだ。

「働くことを切り拓く力」を養うために私たち大人ができることは何か。それはロールモデルをたくさん見せることだ。自らの夢や信念に生きた姿をどんどん後進世代に語っていくことだ。ロールモデルならそこかしこにある。図書館には過去の偉人たちの自伝がいくらでも並べてある。

成人になってから再度、野口英世やキュリー夫人、二宮尊徳など学級文庫にラインナップされた人たちの本を読んでみると、子供のころとはまったく違った気づきがあるだろう。そうした気づきを大人は子どもたちにどんどん語るべきだ。難しい話はいらない。―――
「すごいねぇ、こういう生き方」、
「お父さん(お母さん)は、こんな生き方が美しいと思うな」、
「信念を持ち続けることが大事なんだね」、
「こういう状態になったら、あなたならどうしたかな?」
……そんな語りかけでよいと思う。

また、そうした偉人でなくとも、テレビのヒューマンドキュメンタリー番組では、一つの仕事に献身するさまさまな働く姿が紹介されている。新聞や雑誌にもそうした記事はたくさんある。そんなときに「表に見えないところにはこんな仕事もあるんだね、面白いねぇ」、「さすが、第一級のプロの仕事は違うね。感動するね」などと会話を持ちかけてほしい。

親や学校の先生がこうした語りかけをすることこそ、最良のキャリア教育であると思う。「働くことを切り拓く力」を養うのに何か特別な理論やメソドロジーが要るわけではない。働き方、働き様、生き様は、結局のところ、人の生きる姿からしか学べないのだ。

企業組織における人財育成においても同じである。ロールモデルたるべき人物の仕事ぶりから、個々の社員が有形無形に何かを引き出し、組織文化や組織のDNAを継承させていくことに成功しているのが本田技研工業である。

同社の社史『語り継ぎたいこと~チャレンジの50年』(ウェブ上に公開されている)は、会社創業期からの群像物語である。ここには、本田宗一郎や藤沢武夫はもちろんだが、一課長や一技術者の話までふんだんに紹介されている。この社史が社員にとって非常に有益なのは、会社の歴史的出来事が書かれているからではない。スーパーカブの発売にせよ、マン島レースでの優勝にせよ、CVCCエンジンの開発にせよ、そこに関わった人物がどう考え、どう失敗し、どう決断し、どう振舞ったかが肉声を交えて書かれているから有益なのである。

この項目の冒頭で、ロールモデルから得るものは、“方向性”であると書いたが、もうひとつ忘れてならないものがある。―――それは“熱”である。

キャリアをたくましく切り拓いていくためには、心に熱を帯びていなくてはならないのだ。方向性を持ち、熱を帯びたとき、ようやくその先に夢や志は見えはじめてくる。


〈3〉機会〈OPPOURTUNITY〉の形成要素
私たちは環境と時代の中に生きている。だから自分を大きく活かしていくためには、環境が自分に求めるものは何か、時代が要請するものは何かということに常にアンテナを張っておく必要がある。

環境とは、広くは社会全般であり、具体的には自分が働く組織、関わる業界や市場である。時代には、過去はどうなってきた、現在にどんな課題がある、そして未来をどうすべきかという3つのフェーズがある。私たちは、環境や時代に合わせるのが精一杯なところがある。あるいは環境と時代の中に自分の居場所を確保することで満足してしまうこともある。しかしそれはまだ「働くことを切り拓く」姿ではない。

環境や時代といった文脈を感受し順応することから、一歩踏み込んで、「だから次に、ここにはこういうチャンスがあるはずだ!」と、あるリスクを負って未来を自分の意志の方向にもっていくような挑戦姿勢、それこそが切り拓くというキャリア形成のあり方だ。

そうした果敢に機会を創造する精神はどうやれば涵養できるのだろう。私はこれに関しても特別な教育メソドロジーや訓練は必要ないと思っている。これはいわば“精神の習慣”の問題なのだ。精神の習慣は日ごろの積み重ねからつくられる。さきほどロールモデルの箇所で触れたとおり、偉人や第一級の生き方をしている人びとについて、家庭で学校で組織で語り合えばよい。彼(彼女)は、その人生の大きな分岐点に立ったとき、どんな勇気ある行動をしたかを。

また、マスメディアは往々にして、何か突飛で話題性のある結果を出した人をヒーローとしておもしろオカシク紹介するだけであるが、もっと真摯に社会的に意義のある仕事をする人びとの、地味だが腹応えのある奮闘プロセスを(視聴率・閲読率を失わないような)上等な方法を考え紹介する努力もしてほしい。

リスクを取って未知の世界に踏み込み、チャンスをつくり出そうとする生き方がそこかしこで語られ、賞賛され、奨励されること―――これが日常の中で普通になったとき、日本人の「働くことを切り拓く力」は強められ、それが精神の習慣として定着する。


〈4〉意義〈SIGNIFICANCE〉の構成要素
何かに興味・関心を抱く。そして興味・関心を強めた分野で職業を持つ。これは職業選択において大前提だ。興味・関心のない職をやることは不幸である。興味・関心は職を得る前から自然発生的に抱く場合もあるだろうし、後付けで興味・関心を湧き起こす場合もあるだろう。

それは男女の結婚と同じである。結婚前から恋愛しているときもあれば、見合いによって互いを知り、事後的に恋愛感情が芽生えて結婚に至るときがあるように。いずれにしても「~が好き」「~に興味がある」というのは必要条件である。しかし、このことで十分であるとは言えない。

よく「好きを仕事にしなさい」と言われる。私はそこには落とし穴があると思っている。なぜなら「好き」は、いとも簡単に「飽きた」「嫌になった」に変化するからである。

好きを仕事にということで趣味の分野で独立起業したものの、実際は、そのことが好きであるという愛好者の目線と、それを商売としてやる経営者の目線はかなり違っているために、うまくいかなかったという事例を私は多く知っている。情熱(一時の熱病のこともある)や思い込みで突っ走るというのは、実は不安定な状態であるのだ。―――では、どんな状態が一番良いのか?

それは、「~が好き×~のため」を仕事にすることである。

「~のため」というのは、その仕事に意味・意義を与えることをいう。例えば、家族を養うためとか、この技術を発展させるためとか、社会からこの病気をなくすためとか、そういった仕事の理由である。「好き」にこうした理由が掛け合わさるとき、その仕事は安定度を増す。

そしてもちろん、その「~のため」が内から湧いて外に開いていればいるほど、つまり内発的で利他的な理由であるほど自分の仕事・キャリアは力強く、スケールを増して動いていく。


〈5〉統合〈SYNTHESIS〉の形成要素
そして最後の5つめの要素は、以上述べてきた〈1〉~〈4〉を統合することである。この統合して考える、そして行動に変えることが、キャリアをたくましく拓くために最も重要な作業となる。

子供たちに仕事というものに具体的関心を持たせるために、『キッザニア』(キッズシティージャパン運営)という仕事体験テーマパークや『13歳のハローワーク』(村上龍著、幻冬舎)などの職業カタログ本がある。いずれもすばらしく練られた内容であるが、これを子供に見せて、あとは子供本人の興味に任せるままでは、彼らの内に「働くことを切り拓く力」を育むことにはつながっていかない。

例えば、子どもが上のような体験パークや書籍で「消防士」という仕事に関心を持ったとしよう。子どもの好奇心は純粋で強いので、こうしたメディアのインパクトによって「消防士が絶対いい!」と熱望することはよく起こる(誰しもこういう経験はあったはず)。しかし、たいていこれは熱病のようなもので、中学校に上がり、高校生になり、大学で就活をするころになると、「消防士」になりたかったことを懐かしく思うようになる。

しかし、ごく限られた中に、子供のころのそうした想いを実現させる例もある。それはその後本人が、「消防士が好き」というフェーズから、消防士という仕事にはどんな社会的役割があって、だから「~のために消防士になりたい」という心理フェーズに移行したり、消防士になるにはどんな能力や適性が必要かを学び、そのための準備を怠りなくしたり、実際の消防士の人の具体的な働き方を見聞して、それを自分の将来の姿に重ねたり、消防士という仕事の可能性やチャンスを頭の中で大きく巡らせたり、とそうした統合作業を継続させ、ついにはほんとうにその職業を手に入れてしまうのである。

この統合は、あいまいな思考や思索を具体的な志向や行動に変えていくという受験勉強で正解を当てるという類の作業とはまったく異なるものである。しかし、この統合をやり始めると、統合の過程の中から、どんどんエネルギーが湧いてきて、そのエネルギーがさらに統合を進め深めるという善循環が起こる。そうすると「働くことを切り拓く力」がどんどんついてくる。もちろん、その統合の作業をうまくやらせるためには、本人以外、家族や先生、その他の人の支援や刺激が不可欠なのだ。

職業の種類をいろいろ見せて、「さぁ、興味あるものを見つけなさい」というのは、最初の取っ掛かりとしては大事であるものの、それのみで終えてはいけない。

また、診断ツールか何かで「あなたに向いているのはデザイナーです」とか、ポンと答えを与えるのは、有害である。この即便性こそ、子どもの考える作業を省き、統合から遠ざけ、拓く力を弱めている。しかし現実は、人びとの受けがいいので、事業者はこういう即便なサービスを巧みに商業化する。そして、ますます人びとはそれに乗っかってくる―――問題解決は簡単ではない。

以上説明してきたように、私自身は、キャリアを形成する要素としてこの5つ「CROSS」をあげる。なお、「CROSS-ing」モデルと「ing」を付けてあるのは、5つの要素の交差点でキャリアは形成されていくわけだが、それは刻々に変化していく、絶え間ない努力による“進行形の所産”であることを表したかったからだ。


◆日常のすぐそこにある誰しものキャリア教育
「働くことを切り拓く力」が弱いとは、つまり、「CROSS-ing」が“やせて”いるということだ。下図は、前々記事で紹介したネット通販会社を志望する大学生T君の例を示したものである。

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図を見てわかるとおり、すべての形成要素が“か細い”。シューカツテクニックをにわか仕込みでやったとしても多少の見た目は改善されるかもしれないが、肝腎な部分は強くならないだろう。切り拓くという精神の習慣ができていないからである。

働き様・生き様といったファジー(あいまいで形式化されないもの)なものをファジーなまま受け取り、咀嚼し、感動し、具体的な自分の行動に変換することを奨励されてこなかったからである(これは本人にも、周囲にも、社会にも原因がある)。では、「CROSS-ing」を“豊かに強く”とはどんな状態か。その一例を下に示した。

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こうしたたくましい「CROSS-ing」ができる精神の習慣をつくることこそ、キャリア教育の役割である。念のために添えるが、私はここでこの「CROSS-ing」なる概念モデルを誇示したいわけではない。働くことを切り拓くためには全人的な統合力を必要とすることをたまたま5つの要素で示しただけである。いずれにせよ、働くことを教えていくのは、キャリア教育事業者だけに任せればよいということではなく、親がやり、先生がやり、上司がやり、経営者がやり、メディアがやり、社会がやらなくてはならない。

働くことって面白いなと嬉々と語ること、
仕事を通して夢に向かう真剣な目を見せること、
未知の世界に挑戦する人を讃えること、
成功・失敗という結果でなく、努力のプロセスに関心を寄せること、
あらめて偉人伝を読んでみること、そして彼らの生き方について対話すること、
自分はなぜこの職業を選び、続けるのかを言葉にし、発すること、
―――そうしたことが世の中のそこかしこに満ちていくことが、何よりのキャリア教育になる。

私たちは、受験に勝てる子、業務をうまく処理できる社員をつくることには躍起だが、「働くことを切り拓ける」人間を育むことはおろそかなままである。しかし中長期にみて、個人に、家庭に、組織に、社会に重い影響を与えてくるのは、「働くことを切り拓く力」のほうである。そんなことを大人たちは真正面から向き合って考えたい。



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「働くことを切り拓く力」の脆弱化を考える〈上〉

8.11



◆ネット検索…「命」!
以前、大学4年生でまだ就職内定をもらっていない学生たちと話す機会があった。すでに就職戦のヤマ場は終わり、不安な気持ちで日々を送っていた彼らだった。いまやネット上で初期の選考プロセスが行われる時代である。ネットを通じての応募は手軽だが、そのために「50社申し込み/50社不戦敗」などという状況が簡単に起こる。

学生たちは、興味関心のあるワードで検索をかけて候補企業を見つける。検索ワードも、上位志望の選考から外れるにしたがって、だんだん自分の気持ちとは逸れはじめるが、もはや「拾ってくれるところならどこでも」という心境になる。就職課に相談に行っても、職員はていねいに話を聞いてくれるものの、自分のやりたいことなどいまだはっきりせず、「もっと発想を広く持って検索をかけてみれば」と促されるのみだ。そんなこんなで検索とネット申し込みを繰り返すうちに、2カ月が過ぎ、3カ月が過ぎ、やがて検索に引っ掛かってくる候補がゼロになる。
 
「毎日検索かけてるんですが、なかなかもう新しい案件が出てこないので……」とS君。夏以降、S君は実質休戦状態となった。

大学4年生の残りの期間を卒業研究をちょこちょことやり、アルバイトをやり、日々、検索を続けながらやるせない時間を過ごしているという。S君に限らず、候補とする企業が検索にかからなくなったら、もうそれ以降どうしてよいかが分からず、就活が即、どん詰まりになってしまう人は実際のところとても多い。

こうした状況を競争だからしょうがない、と済ませることはできない。そして同時に、「就活力」などという一種のスキルのあるなしの問題でとらえることも事を矮小化することになる。職を得る力は、一個一個の人間の「生きる力」の根本に関わる問題なのだ。そしてそれは国の趨勢に大きく影響していく。


◆職選びが「カタログショッピング」になった
いまの大学生にとって職業選択は、言ってみれば「カタログショッピング」のようなものになっている。つまり、ネット上のカタログには新卒者向けの「職業」という商品がたくさん掲載されていて、そこに検索をかけて絞り込み、「あれがよさそう、これがよさげ」と物選びをする感覚だ。まさに、ネット通販サイトでお気に入りの雑貨を探し当て、買い物するのと同じ。

サラリーマン就職するとは、ある見方をすれば、自分の能力と時間を資金として、会社員という職業を買いにいく行為だと言ってもいい。で、その「お仕事カタログ」に記載された商品はいずれも在庫数が僅少で、欲しいと思った人全員が購入できる状況ではないのだ。

運よく商品を購入できた人は「やれやれ」だが、商品を購入できなかった人は、代替品を求め、条件をゆるくして検索を繰り返す。どこの商品も「完売」となり、検索をかけてももはや該当商品が出てこなくなったらカタログショッパーとしてはお手上げ、買い物を中止するしかない。

ショッピングなら、たとえ物が買えなかったとしても済ませられるかもしれない。しかし、就職においては、自立するための職業が得られないのだ。これは重大問題だ。人は職業を得てはじめて、生活を立てられ、家族を持てる。そしてその職業を通して自己の可能性も開発できる。衣食住・医の根本は、職を保つことによって可能になる。一個一個の人間がきちんと職を保つことは、地域・国の和を保つためにも欠かせない。

学生の内定率がどう変化しているかという表面の問題でなく、私が危惧するのはもっと奥に進行する問題だ。大事な職業選択をカタログショッピング的にやることしかできない、検索でかからなくなったからもうどうしたらいいか分からない、そうして漂流している学生が世の中のそこかしこに増え、蓄積し、層を形成し、歳をとっていく。当の学生本人たちは何もふざけているわけではない。彼らなりに真面目でさえある。だから問題は根深い。

文明の発達とともに、社会の平和とともに、生きる力が脆弱化するという指摘は、いまに始まったことではないし、日本だけの問題でもない(かく言う私だって、明治時代の同じ歳の人間に比べればひ弱もひ弱だ)。しかし、社会をあげて死守しなければならない生きる力のレベルというのもあるだろう。その死守すべきレベルがいよいよ侵されようとしているのだ。


◆意欲をどう湧かせたらよいか分からない人間を生む社会
T君は、マーケティング専攻で、卒業研究はネット通販事業に関するテーマだという。ネット通販会社はもちろん、eマーケティング関連やITシステム関連の会社などを数十社受けたがまったくダメで、その後、小売業、ホームページ制作会社などにも範囲を広げていったが結局内定は取れなかった。

「マーケティングのどこが面白い?」
「ネット通販事業ってどんな可能性がある?」
「例えば第一志望のR社に入社できたら何がしたかった? 
逆にいまの楽天に課題があるとすればどこだと思ってる?」
「ウェブサイトの制作スキルがあるって言ってたけど、
どんな会社のウェブサイトがすごい?」―――などをT君に穏やかに訊いてみる。

いずれも明快な返答は返ってこない。声もまったく小さい。確かに、ここでよい返答ができているなら、どこかで内定を得ていただろう。

T君はまったく素直な子である。挨拶もできる。こちらの言うことに集中もしているようだ。私のカップにお茶も注いでくれる。しかし、「何をやりたいか」「なぜやりたいか」「どうしたいか」という問いに対しては、頭がモヤモヤするだけで、返答が言語になって出てこない。

「じゃ、休みの日は何してるの?」……
友達としゃべってるとか、映画とかゲームとか、そんな返答だった。
「最近観た映画の中で面白かったのは何?」……
少しの間、考えているようではあるのだが、これと言って特に、と彼は口ごもってしまう。

話を切り替えて、「映画やゲームなどもどんどんネット上で売られていくね。そうしたコンテンツだってネット通販の時代になるね。関心はあるのかな?」……と訊くと、は、はぁ、とうなずくだけである。

T君は内定がとれない場合、卒業を延期して再度、新卒予定者として就活するという。ただし、親からの経済的支援が十分に得られないため、東京のアパートを引き上げ、実家の京都に戻っての就活となるらしい。地元のハンバーガーチェーンでアルバイトでもしながら、というT君に私は、

「京都に帰るのなら、農業だって選択肢のひとつかもしれないよ。
農業と言っても、それを支える仕事の種類はたくさんある。
君のところは京都でも栗や黒豆で有名な場所だし、志ある生産者はたくさんいるはず。
そんな生産者の人たちに産直通販用のウェブサイトを作ってあげたらどう? 
例えば地元のJA(農協)とかに、マーケティングのお手伝いさせてください!
って手紙を書いて売り込むのも1つの手なんだよ。
JAは表立って求人を出していないかもしれないけれど、
ネット検索にかかる仕事だけが、この世の中の仕事じゃないんだ。
選ぶ選択肢がなくなったんなら、選択肢をつくり出すことを考えなきゃね。
アルバイトをやるにしても、マーケティング経験と仕事の実績ができるわけだから
そっちのほうがずっといいんじゃないかな。正職員の道だって開けるかもしれないし」。
……T君は、やはり、は、はぁ、とうなずくだけである。

T君の発想を刺激したり、考えを掘り起こすのを手伝ったりしようと私はいろいろと話しかけてはみるのだが、どうも反応が薄く弱い。T君は不真面目でも、怠け者でもない。ただただ、自分の考えをどう起こしていいのか途方に暮れるのである。自分の想いというものを湧き立たせることができず口ごもるのである。

そんな自分に対しT君は、「くそー、じゃぁこうやってやる!」と発奮するのではなく、「考えがいつまでたってもうやむやで情けない」と自己嫌悪になるのである。私は何か不思議な生き物と遭遇している気分になった。厳しい言い方だが、経営者の目線に立ったとき、私自身、彼らを雇いたいとは思わなかった。

こういうことをつらつらと書いて、私は彼らをおとしめる意図はまったくない。伝えたいのは、意欲をどう湧かせたらいいかがわからない生き物を平成ニッポンは社会全体としてつくりだしている事実である。

意図して怠けている者に対し、意欲を湧かせるのはむしろ簡単なことかもしれない。いま問題なのは、素直で従順で、できれば頑張りたいと思っているのだが、どう意欲を湧かせていいか分からない人間に対し、意欲を湧かせることなのだ。きちんと職に就いて働きたいと真面目に思っているのだが、何をどう真面目に自己を活かして働くことができるか分からない人間に、職を与えなければならないことなのだ。


◆問題の根っこは「働くことを切り拓く力」の脆弱化
昨今、学校現場においても企業現場においても、「キャリア教育」の重要性への認識が拡大しはじめている。もちろん新しい教育分野なので、あちこちでまだまだ試行錯誤が続いている(私もその一人だ)。

現状をながめるに、多くのものがどうも対症療法的なアプローチであったり、表面的で形式的であったり、商業ベースに乗りやすい形のサービスが先行するのはいたしかたないにしても、ものによっては、問題をさらに深刻化させているものもある。

問題解決は、「シューカツ」テクニックを磨かせて限られた求人椅子を奪い取れということではない。自己診断ツールで自分の適性をタイプ分けし、この職種を狙えと指南することでもない。問題の根っこは、「働くことを切り拓く力」の急速な脆弱化にあるのだ。「働くことを切り拓く力」とは―――

働くことについて関心を持つこと、
具体的な職業について意欲を起こすこと、
職業を得ること、そして生計を立て家族をきちんと持つこと、
仕事で直面する失敗や成功を通して自分を成長させていくこと、
正解のない問いに対し答えをつくり出していくこと、
選択肢が与えられるのを待つのではなく、選択肢そのものをつくり出していくこと、
職業をまっとうすることで人生の基盤をつくり今生の思い出を残していくこと、
夢を描くこと、志を立てること―――
などについて自律的に力を湧かせることだ。
「働くことを切り拓く力」とは、ほぼ「生きることを切り拓く力」に等しい。

戦後間もない昭和の人びとには、まだこの切り拓くたくましさが十分にあった。町のそこかしこにある古くからの個人商店の多くは、戦後、職がなくてやむにやまれず開業した人たちの生業の姿である。実のところ、サラリーマンという就労形態は人類の歴史上とても日が浅い(『オーガニゼーション・マン』というW.H.ホワイトの名著を読むと面白い)。サラリーマンに就くことが大多数ではなかった終戦後、ともかく「俺は八百屋をやる」「自分は床屋だ」「保険の外交員だ」とたくましく自分の商売を始め、不器用ながら人生を切り拓いてきた人は多い。


◆「安定した勤め人になることが目的」になった
現在の日本では、大多数が「勤め人」(=組織に雇われるサラリーパーソン)を選ぶ。選びたがる。そして、自営業で苦労した親たちも子供を勤め人にさせたがる。いまや大多数の就職意識が「安定した勤め人になることが目的」になっていて、その他の選択肢を考えず、求めなくなった(リタイヤ後、さらに天下って組織にぶら下がり続けようとする醜い大人もいる)。

そして現れてきた現象が、ネットに上げられた求人情報をカタログショッピング的に選び、採用が得られなければ、次の求人情報が上がるまで受動的に待つしかない、という姿だ。目に見える選択肢、ネット検索にかかる求人情報だけからしか職選びの発想や行動ができない……そうして大事な20代、30代が過ぎてゆく。少なからずが、「就職できないのは社会のせいだ」「雇用を増やさない企業が悪い」といった勘違いな不満を溜めながら。

私はここで勤め人という選択肢が悪い、ネットで求人を探すことが悪いと言いたいわけではない。それはあくまで手段なのだ。働くという人生の一大事において、多くの人間が手段の中にどんどんと自分たちを矮小化させている、そしてそこに商業主義のビジネスが入り込む、そうしてすべてのことが「働くことを切り拓く力」の脆弱化の流れを加速させている、そのことを指摘したいのだ。

米国もまたサラリーパーソンが大多数を占める国になった。しかし、米国にはまだ「アメリカンドリーム」という伝統的スピリットが息づいていて、個々の「働くことを切り拓く力」はかろうじて芯の強さを保っている。日本には残念ながらそういうたくましき精神的なレガシーはない。勤勉であることも、手先が器用であることも、「働くことを切り拓く力」の脆弱化という大きな潮流の中ではいかにも非力である。

私が言うキャリア教育とは、「働くことを切り拓く力」を養う啓育にほかならないが、これは社会全体で多面的・多重的に手をかけていかねばならない問題である。親が、学校が、職場が、そして教育者が、メディアが、きちんと意識的に取り組んではじめて、潮流を変えることができる。

→〈下〉に続く





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