8●「働くこと」つれづれ Feed

人生で一度は「事業主」をやりなさい! ~メンドリの参加と豚のコミット

8.10


アメリカンジョークをひとつ;

In ham and egg, the hen is only participating, but the pig is really committed.

ハム&エッグにおいて、
メンドリ(雌鶏)は参加しているだけだが、ブタはガチでコミットしている。




いつごろからか、ある種の「飲み会」が面白くない。
ある種の飲み会とは、
サラリーマン率の多い飲み会である。

酒席での話題はおおかた仕事や組織の話になる。
 「給料が出て当然」
 「交通費が支給されて当然」
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然」
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・」
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・」
彼らの愚痴やら持論は、こうしたマインドベースがあって出てくる。

それを聞かされる私のマインドベースは、
 「給料が出るのは当然ではない」
 「交通費が支給されるのは当然ではない」
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然ではない。自腹で買う」
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・と自分の事業を責めてもしょうがない」
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・そもそも私に愚痴を言う上司はいない」

独立して自分の事業を起こした私(事業主)のベースと
雇われ身である彼らとのベースは根本的に違うのだ。

一方、私にとってベンチャー起業者や独立事業者の集まりは面白い。
皆、リスクを一身に背負っている。
会社員を「ビジネス兵士」と呼ぶなら、こちらは「事業侍」だ。

侍同士が持ち合う、世を渡る緊張感や、孤独感、スピンアウト意識、
妙な美意識や誇り、アウトロー感覚、賭博的な人生感覚、無常観……。

私はここでサラリーマンを揶揄するつもりはまったくない。
(むしろ私も、サラリーマン時代にいろいろなことを勉強させてもらったからこそ
今日の自分がある。独立において、サラリーマンというプロセスは重要なものだ)

しかし、サラリーマンという生き方と、事業主という生き方の間には、
いやおうなしに大きな溝がある。

サラリーマンはどこまでいっても、やはり、事業は組織のものであり、
リスク(特に資金的なリスク)は組織が抱えてくれるものであり、
その関わり度合いは「メンドリ的」なのだ。

一方、事業主は、自分の事業に自分のすべてを賭して「ブタ的」に関わる。

両者の仕事に対する必死さ・緊迫感に違いが出るのは当然と言えば当然かもしれない。
それにしても事業主になってみて、
よく見えてくること、強くなれることがたくさんある。

私が従業員を雇う場合、
「大企業で働いてきました。これこれこういう実績があります」という人と、
「いったん独立しましたが、うまくいかずここで再起を図りたいです」という人と、
どちらに魅力を感じるか?―――いわずもがな、後者である。
自らの事業を自らのリスクで動かそうと試みた人間は、
他人には言いきれない多くのことを内に刻んでいる。

だが実際このとき、私は彼を従業員にはしないだろう。
事業主として彼を留まらせ、業務委託という形で彼に仕事を渡す。
彼とは労使の関係ではなく、協業パートナーとして結び付きたいからだ。
彼が事業主として仕事を再び軌道に乗せることができ、
今度は私にプロジェクトをもってきてくれるまでになったらとてもうれしい。

* * *

冗談半分に言わせてもらえば、
日本で45歳以上のサラリーマンを認めない法律をつくったらどうかと思う。
もしくは、40代での退職金が最も高くなるよう制度を直すべきかもしれない。
そして、20代30代にはもっと給料を出す。
加えて、高校生までは授業料を無料化する。
40代後半からは、皆が事業主になる社会をつくりだすのだ。

サラリーマンを卒業して、もちろん会社を立ち上げてもいいし、
個人自営業者・インディペンデント・コントラクター(独立請負業者)として
自らの得意とする能力を売ってもいい。
大きくやる必要はない。身の丈サイズの事業をとつとつと回していくのだ。

要は、組織の中で安穏とぶら下がりを考えるのでなくて、
自らの能力と意志でつくりだす商品・サービスを世間様に買っていただけるよう
全人的に仕事に取り組む職業人(=事業侍・ブタのコミットメント)に万人がなっていく社会だ。
そうした潔くたくましい大人が増えればこの国は壮健になる。

自分の事業を持つ。事業主になる。―――
これは誰しも人生に一度は経験すべきものだと声高に言いたい。

官僚の天下りがなくならない。
サラリーマンにしがみつく年寄りの保身姿は醜い。

いや、有能な人間ならそのポストに就いてもいっこうにかまわない。
就くのであれば、独立事業者として、コンサルタントにでも何にでもなって、
受託契約を1年1年きちんと市場価格で結んでいけばよい。

「メンドリの参加」程度で、割高年俸と退職金の二重取り三重取りは許されない。
潔く、社会良識をもった対価で、「豚のコミットをせよ」と言いたい。




類推できる人はよく学べる人

8.09


◆1冊の本の「再読・再々読」は栄養吸収がよい
2月はプロ野球の世界ではキャンプシーズン。選手は身体をいろいろいじめて鍛えたり、基本の動作を念入りに練習したりする。私も毎年2月は春キャンプという位置づけで、仕事の基本である読書を集中的にやる。ここでいう読書とは、情報収集のための“軽い”読書ではない。プロ野球選手が身体をいじめるのと同様、私もアタマをいじめて鍛えるために、分野違いの、内容の詰まった本を読む。

読書は、新しく開拓する読書ばかりではない。むしろ最も自分の身になるのは、再読、再々読する本である。再び紙面を開く本は、たいていの内容が頭に入っているので、先に何が書いてあるんだろうという“せかされ感”が起こらず、ゆったりとした気持ちで文字を追える。以前読んだ時に引いたマーカーのところを中心に読んでいき、「なぜこのとき自分はここをマークしたんだろう」といったようなことを思い返しながら内容を反芻する。その反芻で染みてくることこそが自分にとって大事な内容になる。

たいていの場合、以前読んだ時より、どの箇所も読みやすくなっている。それはそれだけ自分が成長したということの証でもある。そして今度は、その読み返す箇所に新しい意味を付加する余裕も出てくる。


◆『谷川俊太郎 詩選集』を再読する
例えば、私はきょう本棚から『谷川俊太郎 詩選集1~3』(集英社文庫:3巻)を取り出して、2年ぶりに再読している。私はそこで再読する詩に新しい解釈を与えてみたり、自分の仕事に引き当てて考えてみたりすることで、いろいろな知恵やエネルギーを湧かせることができる。

◇いちばのうた (部分の抜粋)

うるんならいちえんでもたかくうる
かうんならいちえんでもやすくかう
けちでずるくてぬけめがなくて
じぶんでじぶんにあきれてる
だけどじぶんがいちばんだいじ
よくばりよくぼけがりがりもうじゃ
たにんをふんづけつきとばし
いちばはきょうもひとのうず


……谷川さんの目はたぶん市場の高いところにあって、下々(しもじも)の人間の売り買いを神の目で眺めているような気がする。ビジネス社会の現場にいると、しゃかりきになって、ギスギス、キリキリと戦わねばならない。しかし、そんなときにも、この詩のように、どこか高台に上がって人間のやっていることは“可笑しい”ものだと達観できる心持ちになれれば、もっと日々の仕事に余裕をもって構えられると思う。

◇大人の時間

子供は一週間たてば
一週間分利口になる
子供は一週間のうちに
新しいことばを五十おぼえる
子供は一週間で
自分を変えることができる
大人は一週間たっても
もとのまま
大人は一週間のあいだ
同じ週刊誌をひっくり返し
大人は一週間かかって
子供を叱ることができるだけ


……これも再読してどきっとした。相変わらず自分は1週間という時間単位をぞんざいに使っていないか、と。1週間という時間単位はこわいものだ。私たちは1日1日を忙しく過ごしている。ダイヤリーも時間刻みでスケジュールが埋まっている。電車が5分遅れただけでもイライラする。しかし、1週間という単位で、いったい自分は何が変わったのだろう……?

◇六十二のソネット (41より部分を抜粋)

陽は絶えず豪華に捨てている

夜になっても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない


……「拾うだけに忙しい」人生は避けたいと思う。「太陽のように豪華に捨てる」ことを仕事でしたいと思う。豪華に捨てるとは、give & takeなどというケチくさいことではなくて、give & give、give & forgotということだろう。大いに与えて、そして、悠然と休む。それが苦もなくできる境地にはやく入りたい。

◇夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった (7より部分を抜粋)

真相はつまりその中間
言いかえれば普通なんだがそれが曲者(くせもの)さ
普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で


……「フツウに妥協したくない!」と大見得を切って、普通のサラリーマン生活から独立してはみたものの、才覚は普通より多少上くらいに過ぎなかったことを悟り、稼業への苦労は絶えない。しかし、鉛の希望が黄金の希望に変わったことは確かである。

◇質問集続 (部分の抜粋)

金管楽器群の和声に支えられた一本のフルートの旋律、
その音はどこから来るのですか、

笛の内部の空気から、奏者の肺と口腔から、すでに死んだ作曲者の魂から、
それともそれらすべてを遠く距(へだた)ったどこかから?


……とても含意に富んでいる。この詩にぴんと響いた人は、“大いなる何か”と感応して仕事をした経験のある人であろう。ほんとうに深い仕事をしたとき、人はよく「何かが降りてきた」とか「何か大きな力に動かされた」と口にする。物理的には、道具によって、自分の身体・技術によってそれがなされるわけだが、ほんとうのところは“大いなる何か”と自分との協働なのである。仕事をするうえで、道具は大事だ。身体・技術も大事だ。しかしその次元から突き抜けて“大いなる何か”とつながれるかどうか、ここは実に重大な一点である。

◇夢の中の設計図 (部分の抜粋)

祈りもなく

何を夢見ることができよう
どんなに固い
石の道も
私たちの夢の迷路から
生まれるのだ
どんなに高い
尖塔も
私たちの夢の闇に
試されるのだ


……私たちは、日常、ありとあらゆる工業製品や建造物に囲まれている。例えば、コップや鉛筆、パソコン、自転車、家屋、ビル、道路、看板など。これらはもれなく、誰かが製造の意図を持ち、誰かが形や寸法・デザインを起こし、誰かがつくったものである。そして、これらの間には明らかに出来不出来の差が生じている。陳腐な椅子と、いつまでも使い続けたい椅子。せわしなく変わってきた貧相な街並みと、時の風雪にも耐えてきた味わい深い街並み。この差はどこから生じるのか?コストだろうか、作り手の技術だろうか。―――私はそれこそが、祈りであり、夢であると思うのだ。

世の中に次々と出回ってくるものの多くは、あまりに機械的に、功利的に、短縮期間でつくられてくるために、そして何よりカイシャインたちによる“流し仕事”の気持ちでつくられてくるために、祈りをくぐらせていない製品、夢の迷路のふるいにかかっていない事業、夢の闇の試練を経ていない建造物が多くなる。だから、陳腐で貧相で、次々と容易に消えてゆく。サラリーマンであれ、私のような自営業であれ、一人でも多くのものの作り手が、せめて自分の仕事は、自分の祈りや夢の“ろ過”を経て、世に送り出してやる!ということになれば、世の中のものは一変するに違いない。

◇メランコリーの川下り (部分を抜粋)

子等(こら)の合唱の声は日なたの匂いがして

あっという間に空気に溶けてしまう

残っているのは旋律ではない
……なまあたたかい息だ
おとなたちの目の前に浮かび上がる
決して触れることの出来ない感情のホログラム……


……私が事業として売っているのは研修プログラムで、例えば、1日間研修を終えたときに、受講者の前で締めの一礼をして、一応拍手をいただいて退場するわけだが、そのときに、上のような「手に触れることのできないホログラム」的な何かを残すことができているのだろうか―――この詩の一節はそんなことをふと考えさせた。

ビジネスパーソンへの研修プログラム(セミナーや講演含む)という商品は、もちろん仕事に関する知識や技能、考え方、在り方を学習体験に変換して売っているわけであるが、終了直後の受講者に対し、それ以上の何かを差し上げられているのかが、私にとって一番気になるところだ。
私の研修サービスは、キャリア教育やプロフェッショナルとしての基盤意識醸成に的を絞っていて、かっこよく言えば「明日からの働くことに対し、“光と力”を与えたい」という想いでプログラム開発をしている。研修を終えておじぎをしたときに、受講者一人一人にとって内側に光が見えてきたか、力が湧いてきたか、もし、そうであるなら、それこそが教育者冥利に尽きる喜びである。

私たちはそれぞれに売っているものがある。トマトを売っている、カメラを売っている、クルマを売っている、建物を売っている、生命保険を売っている、料理を売っている。それら商品を通して売っているのは、必ずしも便益や機能だけではないはずだ。その商品・サービスを送り届けたときに、「手に触れることのできないホログラム」的な何かがお客様の内に立ち上がること―――それがひとつのプロフェッショナルの仕事であるように思う。

* * * * *

◆学ぶ力のひとつは類推力
さて、このように1冊の本を再読すると、改めてさまざまな気づきが起こる。再読は心に余裕があるので、こうした気づきが起こりやすい。何より大事なことは、分野違いの本でも、自分のいまの仕事に当てはめるとどうなるか、いまの自分に状況に引き戻すとどうなるかという「類推」をすることである。類推(アナロジー)とは、「似たところをもととして他の事も同じだろうと考えること」(広辞苑)。

この類推が豊かな人は、世の中のさまざまなことから多くを学び取ることができる。逆に言えば、学び力の強い人は類推力が強い。隣の一を観察して、自分の十に応用展開できるのだ。

いたずらに手を広げて多読するばかりが学びではない。いまそこの本棚にある一度読んだ本を手に取って再読する。そして類推を利かせる。「再読×類推」―――自己の観を耕すために大事な作業である。



* * * *
【関連記事】
「抽象的に考える力~喩え話をどう現実に展開するか」




「ソリッド思考」と「ファジー思考」

8.08 


 Sl-fz 00 


◆曖昧なことを曖昧に考える力

  「考える人間の最も美しい幸福は、
  究め得るものを究めてしまい、
  究め得ないものを静かに崇めることである」。

       ────ゲーテ『格言と反省』 (高橋健二訳『ゲーテ格言集』より)


ドイツの文豪ゲーテが、同時に優れた自然科学者であったことはあまり知られていない。
形態学の創始や色相環の発明など、その合理的、論理的、客観的な思考によって
科学の面でも人類に数多くの貢献を残している。

そのゲーテにとって、やはり「この宇宙とは何か?」「人間とは何か?」
そして「神とは何か?」は、生涯を懸けて取り組んだ“大いなる問い”であった。
その問いに対し、ゲーテは、
“大いなる合理的・論理的・客観的思考”をもって解明をしようとしたが、
ついに答えは出せなかった。
出せなかったというか、最終的には「不可知である」という結論にたどり着いた。

彼は不可知であるという謙虚な前提に立ち、今度は“大いなる曖昧な思考”でもって
この宇宙をとらえ、人間をとらえ、神をとらえた。
そして、大いなる示唆・暗示に富む戯曲『ファウスト』を書き上げた。
この歴史的名作は、以降、
“読める人が読めば”無尽蔵にその深遠さを与えてくれる文学として光彩を放っている。

今日私たちがこの『ファウスト』を読むことに困難を覚える理由として、
キリスト教の観念・知識が乏しいから、昔の外国の文章だから、
あるいは高尚すぎるから、といったことをあげるかもしれない。
それらは一部の理由としてあるだろう。
しかし私は、本質的な理由はそこにあらずと思っている。
真の理由は、端的に言ってしまえば、「曖昧に考える力」を失くしたからである。

現代の私たちは、あまりに、
物質還元論的な科学万能主義と、
ビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、
曖昧さを悪とし、不明瞭を避け、揺らぎに不安を感じ、目に見えるものに固執し、
論理的客観的に考えることを賢いとし、具体的に記述することを奨励するようになった。
これらは決して悪いことではないが、その偏向が大きくなるにしたがって、私たちは、
曖昧さを肯定し、不明瞭を受容し、揺らぎを意図的に呼び込み、目に見えないものを求め、
直観的主観的に考えることを賢いとし、示唆的に表現をする、ことが弱くなった。

つまり、日常生活や人生、社会には、科学がどれだけ発達しようと、
依然、曖昧な問いだらけであるのだが、現代の私たちは、
それに対し、曖昧さで強く考え、曖昧な強い答えを持ち、
曖昧にどんと構えることができなくなってしまっているのである。

その代わりに、やたら情報を集めることで安心する、
書物に載っている知識を得ることで答えを知った気になる、
論理的な分析手法といわれるものに傾倒し、その行為に自己満足する、
他人の書いた成功法則・上達マニュアルなどを鵜呑みにして実践する───
といった見かけは具体的で合理的そうでありながら、
その実、中身が詰まっていない思考で曖昧さから逃げることが増えた。

そんなところから、きょうは、曖昧に考えることを肯定する記事である。
そして、世の中あげて具体的に形式化して考えることをよしとする趨勢が、
実は私たちの思考力を弱くしている現状を見つめ直す記事でもある。


◆「ソリッド思考」と「ファジー思考」
さて、本記事では、
人間の思考を「ソリッド思考」と「ファジー思考」の2つに分けて考える。

「ソリッド思考」とは、次のような要素を特徴とする。
 ・solid=固形の・硬い・実線の
 ・具体的に、定義して、明示して、形式化するように考えること
 ・関連語:tangible(触れられる)、explicit(系統立てられた)、logical(論理にかなった)、
  description(記述)

他方、「ファジー思考」とは、次のような要素を特徴とする。
 ・fuzzy=ぼやけた・曖昧な・不明瞭な
 ・抽象的に、輪郭を描かず、暗示して、示唆化するように考えること
 ・関連語:intangible(触れられない)、tacit(暗黙の)、intuitional(直観の)、
  metaphor(比喩)


「ソリッド思考/ファジー思考」という軸に加え、
もう1軸「中身が詰まった思考/中身の詰まっていない思考」を加えると下図になる。
私たちはこの4象限をうろちょろしながら物事を考える。


 Sl-fz 01

上の4象限の説明を簡単にしておくと、
ソリッド思考の陽面である「ダイヤモンドの彫刻刀」は、
クリスタルクリアな明晰さで物事を鮮明に切り出し、造形することのできる思考である。
逆に陰面である「糸吊り人形」は、
具体的・形式的に考えようとするのだが、
実際は他人の受け売りや流行の方法を真似るだけで、
思考が自分のものになっておらず、ギスギスとやせている状態をいう。
頭でっかちで目がぎょろっとしていて、身体は骨ばった恰好、
しかも実際は自分で動くのではなく、
人から操られてぎこちなく動くだけという糸吊り人形から想起している。

他方、ファジー思考の陽面「濃厚な滋養スープ」は、
どろどろと知識やら智慧やら洞察やら悟りやらが混然一体となり、
形のない液状として柔軟に豊かな思考がなされていくことを言い表している。
また、陰面の「霧の中のボート」は、
何をどう見てよいか、どう進んでよいかがわからずにプカプカと漂流している小船、
そのような思考状態を想像していただければよいだろう。


◆「ソリッド」と「ファジー」のコミュニケーションモデル
さて、私たちは外界・他者から情報をさまざまに受信して思考を行う。
その際にコミュニケーションが発生するわけだが、その原理を表したのが下図だ。
(J.B.ベンジャミン著『コミュニケーション』二瓶社からヒントを得て筆者が独自に作成)


Sl-fz 02 

漏斗(じょうご)を2つ横にして合わせたような図は、
送り手が送りたい内容を何らかの表現に変換して、情報として発信し、
受け手がその情報を受信して、読解作業を通し理解することを示している。

この基本図をさらに詳しく考察していこう。
図3はこの一連のコミュニケーションの詳細を描いたものだ。


Sl-fz 03 

送り手が送りたいことというのは、実は図に示したように、
色がはっきりしている部分とぼやけてにじんだ部分とがある。
前者は、送り手が具体的に考え明示できる、いわば「ソリッドな内容」であり、
後者は、曖昧に考え明示できない、暗示に任せたい、「ファジーな内容」である。

それに伴って、表現される情報も
実線部分(ソリッドな情報)と、にじみ部分(ファジーな情報)ができる。

そして受け手は、この情報を受信して読解するわけだが、
受け手が理解することもまた、色がはっきりする部分とにじむ部分とに分かれる。
前者は、送り手の情報を逐語訳的・具体的に把握する「ソリッドな理解」であり、
後者は、受け手自らが創造的・観照的に情報を解釈する「ファジーな理解」である。

では、このコミュニケーションモデルを実例で考えてみたい。
図4の受信例〈1〉は、ソリッド情報のみが伝達されるケースだ。
『JR時刻表』は、送り手から受け手に対し、羅列した数値情報を届けるもので、
曖昧さを許さないソリッドな内容→ソリッドな情報→ソリッドな理解を実現するものとなる。

Sl-fz 04 


受信例〈2〉は、そこにファジーな要素が入ってくるケースである。
松尾芭蕉は「古池や 蛙跳び込む 水の音」と詠んだ。
この句を詠んだとき、芭蕉は眼前に広がる自然を具体的に描写しようとした。
それが図の色が明確に塗ってある部分=ソリッドな内容である。
しかし、実際のところ、芭蕉が眼前に観ていたのは、具象的な景色だけではない。
むしろ直接目に見えない多くのことを感じ、それを伝えたいと思った。
それは図の色がにじんだ部分=ファジーな内容である。

芭蕉は森に深く身を浸しながら、ソリッドに、そして、ファジーに思考を巡らせ、
「五・七・五」という文字形式にそれを結晶化させた。

そして受け手である句の鑑賞者は、その「五・七・五」を文字通りに解凍して、
芭蕉の目に映った(耳に聴こえたというべきか)景色を自らの心の中に再現する。
これがソリッドな理解となる。
しかし、鑑賞者も、その記述通りの景色の再現で終えるわけではない。
鑑賞者それぞれは、それぞれの想像力に応じて、
その「五・七・五」の行間を膨らませたり、
必ずしも芭蕉が感じた世界とは同じではない別の世界を感じたり、
そうしたファジーな理解を行うのである。
このように、一級の芸術作品は、作者側の優れたにじみ表現と
鑑賞者側の優れたにじみ理解の両方がなされてはじめて成り立つのである。

芸術作品より難解な哲学書を表したのが、受信例〈3〉である。
デカルトが『方法序説』を通じて読者に伝える内容は、
具体的明示の部分は少なく、抽象的暗示の部分が大きい。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉の結晶は形而上の示唆に富み過ぎていて、
私たち一般人が理解できるのはそのわずかしかない。

哲学書と同様(いやそれ以上に)、抽象的暗示に富んでいるのは、宗教の経典である。
キリスト教の『聖書』、仏教で例えば『法華経』、イスラム教の『コーラン』などは、
その文章を逐語訳的に理解したところで、その教えのごく一部分しか分からない。
その教義を理解するというのは、その大部分がファジーな思考・体験・確信によるのだ。

〈受信例4〉は、対自然の場合を表したもので、少し特殊である。
なぜなら、自然は、私たちに実にさまざまなメッセージを発しているが、
それらはいっさい形式化されないからだ。
すべてがファジーな情報(現象、雰囲気、アナログな変化)として発せられるのみである。
だから、そのメッセージを受け取るには、
道具を用いて観察値として検知するか(=ソリッド理解)、
個々の五感・第六感を研ぎ澄ませて感知するか(=ファジー理解)になる。
人間が自然の美しさを深く理解するのは、もちろん後者によってである。

このように私たちは、ソリッドとファジーの2つを複雑微妙に掛け合わせながら、
物事をとらえたり、伝えようとしたり、理解しようとしている。
大事なことは、物事が複雑になればなるほど、
ファジー、つまり不明瞭な“にじみ”の部分が大きくなってくることである。
このことは言い方を変えると、
世の中の複雑なことをとらえ、伝え、理解しようとするには、
ファジーに考える力をつけないとダメだということだ。

ソリッドに考えるということは、端的に言うと、
物事を単純化して目に見える形にしてしまうことである。
もちろんこういった思考も必要ではあるが、それに安易に偏向してしまうと、
往々にして、真理を含んだ“にじみ”の部分を捨ててしまう、
あるいは、曖昧の中に潜む本質を抽出できなくなってしまうことに陥る。
実はこれが、いまビジネス現場でも、世の中一般でも起こっている現象なのだ。


◆“にじみ”を省く思考がもたらすもの
私は企業研修とそれに関連するビジネス書の執筆を主たる生業としている。
顧客企業の要望に応え、潜在読者であるビジネスパーソンの要望を受けながら、
研修プログラムや書籍コンテンツをつくるのが仕事となる。
しかし、いつも研修担当者や出版社の編集者と綱引きをしている。
それはどんな綱引きかというと、
「なるべく具体的・実践実用的で分かりやすくしてください」という先方の要請と、
「多少、抽象論となっても、受け手に思索させる余白を入れましょう」という
私の意図との綱引きである。

企業の研修担当者は、業務処理に直結する研修内容を望む。
知識吸収や技能習得をさせて研修効果の見えやすいプログラムを望む。
そういったプログラムの方が、受講者からは何かと文句は出ないし、やりやすいのだ。
また、ビジネス書の企画・編集においてもそうだ。
ともかく内容を単純化し即効的なものにしたほうが売りやすいし、実際に売れていく。

受け手は簡便なソリッドな情報を欲しがり、理解に骨の折れるファジーな情報を敬遠する。
より正確に言えば、直接仕事の処理に結びつく情報には金を出して本を買うが、
直接的に実効のないものには、よいことが書かれているとは思いつつ、
金を出してまで難しい本を読みたくないというのが心情だ。
そのために中間にいる人たちは、戸惑いながら、しかし最終的に受け手におもねっている。
私は(自省を込めてだが)その傾向に抗わねばならないと思っている。

その理由を図5、図6を使って説明しよう。図5は、
書店によく並んでいる『○○に成功する25の鉄則』といった実用書のモデルである。
著者は、具体的で分かりやすい即効性のある本のほうが売れるだろうと思って、
そして出版社のそうした意向もあるので、思い切って内容を単純化する。
そして、にじみ情報を省いて、「成功する25の鉄則」という本をまとめる。


Sl-fz 05 


この本は、いわば簡便に内容が具体化され、整理されたソリッド情報の本である。
読者はにじみ部分の情報がないので、とても読みやすい。
読者は成功を信じて、25の鉄則をマニュアル的に実践すればよいだけだ。
読者はことさら行間を読み、
自分なりに内容を膨らませて理解しようという刺激を受けない。
こうした類の情報摂取・情報理解が習慣化してくると、
ファジーに考える力が衰えていくのは明らかだ。

にじみを省いた情報が好まれ、同時に、ファジーな思考力が衰えるとどうなるか
───図6を見てほしい。
いま、「成功する25の鉄則」を読んだ受け手Aは、
この本のことを他者(受け手a)に伝えようと思っているのだが、
本にはにじみの部分が削ぎ落とされている上に、
みずからもファジーに考える力が弱いので、自分なりににじみを加えられない。
すると、送り手Aが発信できるのは、
本を読んで具体的に理解できた箇所の要約か、
コピペ(コピー&ペースト)でまるまるの写しかになる。
そうして理解容易なソリッド情報だけが、縮小再生産されて伝わっていく。


Sl-fz 06 


私は研修の作り手、本の書き手として、
できるだけ分かりやすくプログラムやコンテンツをこしらえる努力は、当然する。
しかし、受け手が安易さから所望する「簡便で具体的で、考える手間を省略した」情報を
与えることは拒みたい。
たとえ売りづらくとも、ファジーな思索を要求する仕掛けを盛りたいのだ。

曖昧に考えることは大事なことだ。
曖昧さを受け入れて、曖昧さとともに思考ができない人は、実は思考力の弱い人である。
具体的な情報、具体的な方法は、効率・実用・功利に結びつきやすい。
大衆的な人気も起こりやすい。だからそこに商売も集まっていく。
しかし、そこに傾倒していけばいくほど、私たちは思考力を弱めていくという罠がある。

思考力は行動の源泉でもあるために、曖昧な思考力の脆弱化は、
仕事を具体的に指示されなければできない社員、
みずからの仕事をみずからつくり出せない社員が増えることと決して無関係ではない。
その点を十分に感じ取っている問題意識の高い人事担当者や編集者は少なからずいる。
しかし、昨今のビジネス現場に吹き荒れる実利・即効主義の明解で強い風の前では、
曖昧に考える力を育もうなどという、まさにファジーな意見(親心?)は、
その灯を消さずにいるのがやっとのことである。


◆ファジー思考とは「干しこんぶ」である
思考力を鍛えるということでロジカルシンキング流行りである。
しかし、その方法論をマニュアル的にいくら巧みに習得したところで、
曖昧なテーマを曖昧に考える力をそもそも欠いていては、
大元のところで行き詰まってしまい、
物事をロジカルに分解し、因果づけし、系統立てるという川下のプロセスに移ることはできない。
大きく複雑な問題であればあるほど、曖昧に考える力がまず必要で、
その上でのロジカルシンキングなのだ。

曖昧に考える力を身につけると、今度は逆に、
世の中の形式化された知識がどんどん生きてくる。
先ほど例に出したような「成功する25の鉄則」を読んでも、
曖昧に考える力を持った読者なら、その羅列された25項目の行間を膨らませたり、
あるいはそこに自分なりの批評と創造を加えて、発展的な理解を得ることができる。
つまり、形式的に固形化された情報を崩し、そこにみずからのにじみを加えて、
ふくよかに考えることができるのである。

ちなみに私はこれを「干しこんぶ思考」と呼んでいる。
―――干して乾燥させたこんぶ(昆布)はカリカリに固く縮こまっているが、
水の中に入れて浸すと、どんどんと大きく柔らかに形が戻ってくる。
そして、こんぶの表面にはぬるぬるした厚い粘液状の膜ができる。
その膜は昆布のエキスをたっぷり含んで、栄養価も高いらしい。
まさに曖昧な思考とは、この“昆布の水戻し”のようにしなやかに膨らみ、
豊かな“含み”をつくり出す思考なのだ。

ただ、私が結論として言いたいのは、
曖昧に考える(ファジー思考)力だけでなく、
やはり具体的に考える(ソリッド思考)力も同様に重要であるということだ。
この2つは車の両輪であって、2つがうまく掛け合う状態が最良である。

例えば、MBA(経営学修士)課程でよく用いられるケーススタディ学習を取り上げよう。
学習者は、まずケース文を読む。このケース文には、ばらばらと
ファクト(その事業に関連して起こった出来事やデータなど)が書かれているだけである。
このケース文は、いわば必要最小限度のソリッド情報と、
行間にたっぷりとにじみを含んだファジー情報の混合素材である。
学習者はこれを読んで、大いに想像をはたらかさねばならない。
事業はどんな状況に置かれていたか、経営者はどんな心境だったか、
こういう手を打てば競合他社はどういう反応をするか……
これらは曖昧さの中で行うファジーな思考である。
にじみを大きく膨らませて、そこでさまざまにシミュレーションを試みる作業となる。

そして次に、学習者は、その事業がなぜ成功したか、失敗したかの要点を整理する。
それは5つの要因にまとめられるかもしれないし、1つの図に表現できるかもしれない。
これは、曖昧さを固形化させる作業であり、ソリッド思考が求められる箇所だ。

そして、それら成果物をもとに、クラスでディスカッションを行う。
これはまた、ファジー思考とソリッド思考の往復になるだろう。
そしてそのケースで得た自分なりの結論を、今度は自分が直面する事業に応用する。
そこでもさらに、ファジーに考え、ソリッドに考える往復が待っている。
ただし、昨今、そこかしこでやられているケーススタディは、
事例をお決まりのフレームワークに流し込んで、
それで何かを学んだように錯覚しているところが問題である。
「4P」やら「SWOT」やら「5Forces」に流し込むのが学習の目的ではない。

理想は下図のような位置で、2つの思考が相乗的に回転することだ。
切れ味鋭いダイヤモンドの刀を持ち、
みずからが考えるものを明快に切り出し、造形する力を磨くとともに、
内には豊かな知識・叡智を湛え、
ひとたび稲妻が走るや否や、新しい何かを生み出す力を持つ───その両回転だ。
そのために大事なことは、物事を究めたいという意志を強く湧かせることだろう。
そして、借り物でない中身の詰まった自分自身の思考をすることだ。

理を尽くして考えて考えて、曖昧さにたどり着くことは自然に起こる。
(ゲーテが不可知論にたどり着いたように)
合理性と曖昧さは相反しない。
ただ、ラクをして考えたい効率性や功利主義の人間にとっては嫌うべきものなのだろう。
理を尽くして考え持った曖昧さは、そのままその人の考える力になる。
強い思考力を持った人は、内に相当の曖昧さを保持した人なのだ。


Sl-fz 07 



◆輪郭線で写実するのではない。内から精神的内容で満たすのである〈ロダン〉
最後に、彫刻芸術の巨人オーギュスト・ロダンの言葉を書き留めておく。
(いずれも『ロダンの言葉』高村光太郎編集、講談社より)
これらの言葉の行間には、にじみが溢れている。
そのにじみを大いに曖昧に味わってほしい。


  「良い彫刻家が人間の胴体を作る時、彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。
  其は筋肉を活動させる生命です。
  われわれが輪郭線を写し出す時は、内に包まれている精神的内容で其を豊富にするのです」。  

  「凡庸な人間が自然を模写しても決して藝術品にはなりません。
  それは彼が“見”ないで眺めるからです」。

  「肉づけする時、決して表面(スルファス)で考えるな。
  凹凸(ルリーフ)で考えなさい。
  君達の精神がすべての上面にあるものは皆其を後ろから押している量の一端だと
  見做す様になれと思う。形は君達に向かって突き出たものだと思いなさい。
  一切の生は一つの中心から湧き起る。
  やがて芽ぐみそして内から外へと咲き開く。
  同じ様に、美しい彫刻には、いつでも一つの強い内の衝動を感じる。
  此が古代藝術の秘訣です」。 



*本記事からさらに考察を進め、「ソリッド思考」を「キレの思考」へ、そして「ファジー思考」を「コクの思考」へと概念を発展させ、2012年12月『キレの思考・コクの思考』(東洋経済新報社)として単行本を刊行いたしました。


 

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