抽象的に考える力~喩え話をどう現実に展開するか
2.3.1
「抽象的」という言葉を私たちはどちらかというとネガティブなニュアンスでとらえていないだろうか。「その話は抽象的だね」というのは、「その話は曖昧でわかりにくいね」と言っているのと同じだ。しかし、「抽象的」というのは決してネガティブなものではない。抽象的に考えることがいかに高度で重要か。本項では、「比喩の展開」という切り口でそれをみていく。
◆共通性を見出して括(くく)る…それが抽象作業
まず、「抽象的に考える/抽象度を上げて考える」とはどういうことかを改めて押さえることから始めたい。抽象とは、物事のある性質を引き抜いて把握することをいう。抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことだ。
図1を見てほしい。横に「ヒト」「キリン」「カエル」「ミジンコ」「サクラ」と並んでいる。そこでまず「ヒト」と「キリン」を括る〈共通性①〉は何だろうか。次に「ヒト」と「カエル」を括る〈共通性②〉は何だろうか。そういう具合に〈共通性③〉〈共通性④〉に入る言葉を考えてほしい。
……正解の一例をあげると、順に「哺乳動物」「脊椎動物」「動物」「生き物」となる。このように複数の物事の間に何かしらの共通性を考えるとは、簡単に言えば、グループ分けをしてそこにラベル張りをする作業でもある。その作業をするとき、私たちは必然的に、そこに並んでいる物事の外観や性質から特徴的な要素を引き抜き、どんな括りで分類できそうかを考える。これがまさに抽象的に考えることにほかならない。
より多くの物事、より関係性の弱い物事を概念的に括ろうとすれば、そこに付けられるラベルはより多くの曖昧さを含むようになる。共通性①の「哺乳動物」と、共通性④の「生き物」とを比べてみてもわかるとおり、後者のほうが概念の範囲が広く、その分だけ曖昧さが増す。「抽象的」という言葉がときに「曖昧だ」という意味合いで使われるのは、このことによる。
◆「魔法使いの弟子」から何を学びとるか
抽象度を上げて考えることが巧みな人は「比喩の展開」も巧みである。「比喩の展開」とは、「比喩表現を他のものごとへ応用する」思考のことである。
『魔法使いの弟子』という寓話(教訓や諷刺を含んだ喩え話)をご存じだろうか? ドイツの文豪ゲーテは、この古い寓話を詩文に取り込み、それをフランスの作曲家ポール・デュカスは、1897年に交響詩として楽曲化した。そしてこの寓話は1940年、ディズニー製作のアニメーション映画『ファンタジア』によって幅広く知られることとなる。映像化されたシーンはこんな感じだ。
───ミッキーマウス扮する魔法使いの弟子は、師匠から水汲みを命ぜられ、両手に木桶を持って家の外と中を往復している。折しも師匠が出かけていなくなり、ミッキーはここぞとばかり、見よう見まねの呪文を箒(ほうき)にかける。すると箒は木桶を両手に持って歩き出し、自分の代わりに水汲みを始める。しめしめとミッキーは居眠りをする。しかしその間にも水はどんどん溜まり続け、ついには溢れ出す。
ミッキーは目を覚まし、あわてて箒を止めようとするが、箒にストップをかける呪文がわからない。ミッキーは斧を持ち出して、箒を切り刻んでしまう。ところが切られた破片がそれぞれ1本の箒となって蘇り、水汲みを始める始末。箒の数は幾何級数的に増えていき、ミッキーは洪水状態の家の中であっぷあっぷと溺れる……。
さて、この寓話からあなたは何を学び取るだろう。ある人は「怠け心は結局得にならない」と日常生活への知恵にするかもしれない。また、ある人は「技術は中途半端に用いると危険だ」と自分の仕事のことに当てはめて考えるかもしれない。さらには、これを現代文明への警鐘として受け止める人もいるかもしれない。
米国の評論家・歴史家であるルイス・マンフォードは、『現代文明を考える』(講談社、生田勉・山下泉訳)の中で、この寓話を取り上げ、こう書く───
「大量生産は過酷な新しい負担、すなわち絶えず消費し続ける義務を課します。(中略)『魔法使いの弟子』のそらおそろしい寓話は、写真から美術作品の複製、自動車から原子爆弾にいたる私たちのあらゆる活動にあてはまります。それはまるで、ブレーキもハンドルもなくアクセルしかついていない自動車を発明したようなもので、唯一の操作方式は機械を速く働かせることにあるのです」。
◆抽象的な物語に触れよ
1つの寓話から引き出す内容、当てはめる先は、人それぞれに異なる。それを描いたのが図2だ。このように、ある比喩を生活や仕事、社会といった他の物事に広げ応用していくのが「比喩の展開」である。
比喩の展開プロセスは、図に描いたとおり3ステップになる。───〈1〉抽象度を上げて考え、〈2〉そこから共通性を見出し、〈3〉当てはめる。この一連の流れを私は、その形から「π(パイ)の字」プロセスと呼んでいる。
なお、〈3〉番目の「当てはめる」作業は、抽象度を下げるという意味で、具体化するということでもある。すなわち、「πの字」プロセスとは、抽象化と具体化を往復する思考と考えてもよい。
「アリとキリギリス」「ウサギとカメ」「北風と太陽」など、世の中にはさまざまな寓話がある。寓話は子ども向けの話と済ませてはいけない。古典的な寓話は、人生のいつの時期に読んでも、そのときどきのとらえ方ができる。抽象度を高く上げて、その寓話が内包するエッセンスをつかみ、遠くのものごとに敷衍(ふえん)することは、大人の成熟した思考の姿でもあるのだ。
さらに言えば、寓話よりはるかに高度で複雑な物語として経典がある。キリスト教や仏教、イスラム教にはそれぞれ経典がある。これら経典もまた深遠な比喩の話によって編まれている。比喩に込められた教えを、個々の人間がどう解釈して受け止めるか。神や仏の言葉を信じるために人間は抽象的に考え、個別具体的に生きてきたのだ。ただ、宗教は人間の精神に偉大な薬ともなれば、危険な毒ともなる。薬と毒の分岐は、とりもなおさず比喩に満ちた教えをどう抽象化し具体化するか、その往復運動の善し悪しにかかっている。
企業の現場では、「マニュアル人間ばかりが増えて」という指摘があちこちから上がって久しい。大人や上司が若い世代をこう批評するのは簡単だ。具体的なハウツー情報に依存し、そればかり摂取していては、いっこうに抽象的に考える力は養われない。いろいろな見聞・読書をする。いろいろな生きざまを見る。そこから本質的に大事なものは何か、自分との共通点は何か、を抜き出すように対象を見つめるクセをつける。そうした豊かに考える作業が圧倒的に不足しているのだ。その機会を促すのが大人の責任であり、教育の課題である。
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