3●マインド・価値観 Feed

創造的に逸脱する力 ~『Kind of Blue』ライナーノーツから

3.7.6


376_md_kob_01CD棚からマイルス・デイビスの名盤『Kind of Blue』(1959年)を取り出し久しぶりに聴いている。アルバムの中に入っているライナーノーツに、ピアノで参加しているビル・エヴァンスが小文を書いている。

いま、この“IMPROVISATION IN JAZZ”(ジャズにおける即興性)と題された小文を読むと、何とも響いてくる。エヴァンスの言っていることに対し、ようやく私の受信機レベルが受け入れ可能状態になったのだろう。名文や名著の類は、受信側の心に準備ができたときはじめて、行間から光が射してくるものである。

エヴァンスの書き出しはこうだ……

“There is a Japanese visual art in which the artist is forced to be spontaneous. He must paint on a thin stretched parchment with a special brush and black water paint in such a way that an unnatural or interrupted stroke will destroy the line or break through the parchment. Erasures or changes are impossible. These artists must practice a particular discipline, that of allowing the idea to express itself in communication with their hands in such a direct way that deliberation cannot interfere.

The resulting pictures lack the complex composition and textures of ordinary painting, but it is said that those who see well find something captured that escapes explanation. ”

376_md_kob_02「芸術家が自発的にならざるを得ない日本の視覚芸術がある。芸術家は薄く伸ばした羊皮紙に特別な筆と黒い水彩絵の具を使い描かなければならない。その際、動作が不自然になったり中断されたりすると、線や羊皮紙が台無しになってしまう。線を消したり変えたりすることは許されない。芸術家は熟考が介入することのできない直接的な手法を用いて、手とのコミュニケーションによりアイデアにそれ自体を表現させるという特別な訓練を受けなければならない。

その結果生まれる絵は通常の絵画と比べて複雑な構成や質感を欠くが、見る人が見れば、説明の要らない何かを捉えていることが分かるという」。  (訳:安江幸子)



エヴァンスは紙という二次空間に筆を打ちつけていく書と、
時間という流れの中に旋律を放っていくジャズ音楽と、
どちらも後戻りのできない即興性に、その芸術的な妙味を見出している。

即興とは、適当や出鱈目(でたらめ)とは違う。
「創造的逸脱による個の表現」であって、そこには

 1)創造を司る基本技術の習熟
 2)逸脱の勇気
 3)そして何度やってもそこに貫通する個のスタイル

がある―――それが即興だ。

私は「キャリアとは何か・働くとは何か」を教える職業に就いてから
「キャリア形成はジャズ音楽に似ている」と言ってきたが、
その角度で読むと、このエヴァンスの小文はじんじんと響いてくる。

ジャズ音楽や書を「単発・即興性」の芸術とするなら、
クラシックの交響曲演奏や油絵は「反復・重層性」の芸術と言っていいかもしれない。

前者は原則、一筆書きで作品を仕上げ、やり直しがきかない。一発勝負の世界だ。
逆に後者は、入念に何度もリハーサルをやったり、下書きを描いたりし、
音を重ね、色を重ね、筆を重ね作品を組み立ててゆく。
時間と空間を往ったり来たりできるので大作も可能になる。その意味で反復・重層的なのだ。
これはどちらが良い・悪いという問題ではない。
どちらを意志的に選んで作品づくりをするかという問題だ。

人生やキャリアも言ってみれば、
“生き様・働き様”という一つの壮大な作品づくりであるが、
その創作過程は、「ジャズ・書」的にやるか、「交響曲・油絵」的にやるかの選択だといえる。

会社員として組織の中で働き、ある程度軌道に乗った事業の下で担当仕事を任されるのは、
「交響曲・油絵」的である。
指揮者に相当する中心者がいて、各自が役割を負い、各自が大小の業務を重ねていって、
漸進的に事業を競争力のあるものにしていく。このとき多少の失敗も許容される。

しかし、私のように個人で独立して新規に事業を始めると、そうはいかない。
自分の一挙手一投足が、即、事業に影響する。
下手をやっても後からの重ね修正はできないし、組織が守ってくれるわけでもない。
私にとっては、一回一回の研修プログラム、
一度一度のコンサルティング、一冊一冊の著作、一片一片の記事が勝負作品になる。
そこで評価されないと、次はない。

五年後にきちんと事業を安定化できているのか、それはわからない。
一年後、この商売を無事続けていられるかさえもわからない。
(無計画に事業・キャリアを進めているというわけではなく)

しかし、常に一瞬先の未知で白紙の空間に、
自分の信ずるところのサービスを打ちつけていく―――それしか仕事がない。
そういった意味で、いまの自分のキャリアは「ジャズ・書」的である。
自身がそういう状況にあるからこそ、
余計にジャズ音楽に惹かれ、エヴァンスの文面に過剰に反応してしまうのだとも思う。

再び彼の文章を引用すると……

“Group improvisation is a further challenge. Aside from the weighty technical problem of collective coherent thinking, there is the very human, even social need for sympathy from all members to bend for the common result. This most difficult problem, I think, is beautifully met and solved on this recording.”

「グループ・インプロヴィゼーションは更なる難問である。全体における重要な技術的な問題とは別に、全メンバーが共通の結果を目指すべく心を一つにしなければならないという、非常に人間的で社会的ですらある必要性がある。この最も難しい問題は、思うに、この作品においては非常に美しく対応され、解決されている」。



一人のアーティストの即興創作ですら容易ではないのに
それが複数のアーティストの協働となると難度が増すことは明らかだ。

このアルバムに限って言えば、参加アーティストが
マイルスにエヴァンス、そしてコルトレーンにキャノンボール・アダレイである。
それはいいものが出来るに決まっていると思われるかもしれない。
しかし、そういった超一級のタレントが集まったときほど簡単にまとまるものではない。

そういえばその昔、『WiLL』という共同ブランドプロジェクトがあった。
トヨタ自動車や花王、アサヒビール、松下電器産業(現パナソニック)、近畿日本ツーリストなど
錚々たる企業が取り組んだが、案の定、うまくいかなかった。
(取り組みには敬意を表したいが、ビジネスにおける協働は、いかんせん損得勘定や立場の違いが壁となる)

結局のところ、複数の手による即興芸術の要は、
エヴァンスの指摘するように
the common result(共通の結果)」に対する「sympathy(共感)」なのだ。
しかし、そのsympathyという言葉の美しさとは対照的に、
実際メンバーたちがやっていることは“殴り合い”である。

というのも、例えば『Kind of Blue』の演奏収録において、指揮者はいない。
もちろんマイルスはリーダー的な存在だが、
いざ演奏が始まれば彼はトランペットの演奏に集中するだけで、
他のプレイヤーにどうやれこうやれとは指図などしない。他も同じだ。
あるのは、音が現在進行形で弾き出されていく中で、
各プレイヤーが、ときにキーやコードを“創造的に逸脱”して、
他のプレイヤーに仕掛けたり呼び込んだり、その研ぎ澄まされた感性と技の殴り合いなのだ。

しかもマイルスは、何を演奏するかを示唆した“草案(sketches)”を
本番収録の数時間前に持参しただけである。
どの曲もいまだかつて完奏されたことがないものだ。
そこには事前の熟考や擦り合わせ、事後の塗り重ねなどない。出たとこ勝負の掛け合いである。

ジャズや書は言ってみれば「ハイリスク・ハイリターン」の創作である。
神がかり的な名作が生まれ出る一方、駄作も山積みされる。
それに対し交響曲演奏や油絵は「ローリスク・シュア(手堅い)リターン」かもしれない。
リハーサル練習や下書きなどによって失敗のリスクを減らし、完成状態に目途をつけ、創作がスタートする。

* * * * *

いま日本の働き手、特にプロフェッショナルを意識する人に強く求められるのは、
ジャズ的な即興的創造の力ではないか。
即興的創造の力で重要になってくるのは、次の3つである。

1)創造を司る基本技術の習熟
2)逸脱の勇気
3)個のスタイルを貫通させる意志

日本人が主としてやっている働き方は、
「組織の力で没個性的に、型にはめて、枠の中で、根回しをして、中心者に従いながら」である。
それは、ジャズ的な即興創造とは反対のものばかりである。

例えばプロスポーツのサッカーにおいて、ほんとうに強いチームというのは、
ブラジルとかイタリアとか、あるいは組織的と言われるドイツでさえも、
このジャズ的な即興的創造の力によって、最終的に勝利をつかみ取る。

現代サッカーは、戦略・戦術の研究、データの分析などによって
相手のよいところを消し、守備的にはどこも互角に戦えるようにはなってきている。
しかし、最後、試合に勝つためには誰かが球をゴールに突き刺さねばならない。

私は、サッカーにおいて(特に)攻撃は、ジャズセッションだと思っている。
球のゆくえによって状況が刻々と変わる時空間で、複数のプレイヤーが、
瞬間瞬間に予測をし、判断をし、肉体を操り、筋書きのない即興的創造を行っているのだ。

球を保持しているプレイヤーは次の仕掛けを閃光のごとく考える。
球を保持していないプレイヤーはスペースに走り込む気配を放ってパスを呼び込む。
彼らは感覚と肉体を研ぎ澄ませて目に見えない殴り合いを(味方同士で)やっている。
“the common result”である「勝利」という栄光に「sympathy」を持ちながら。

私もサッカー少年だったのでよくわかるのだが、
守備の固い敵陣のペナルティーエリア近辺から、独り切り込んで局面をつくることは
ほんとうに難しいことだし、何よりも怖い。

茶の間のファンが、
「なんでそこでパスするんだよ」とか「逃げるな、シュートを打て」とか、
「だから日本は決定力がないんだ」とか、そうコメントすることは簡単だ。
しかし、そう批評する個人も、例えば自分の職場で難しい状況に遭遇したときに、
独り勇気をもって局面を打開する創造力があるだろうか。

創造的な逸脱をするには相当な勇気が要る。
勇気だけではダメで、そもそもの基本ができていなくてはならない。
そして、最後まで自分の信ずるスタイルを依怙地なまでに貫くことも大事だ。

スポーツにせよ、ビジネスにせよ、私生活にせよ、
先行きの予測できない不安定な状況に身を置いても自分をしっかりと保ち、
流れの中から状況を、しかも個の表現としてつくりだす、そしてそれを面白がる
―――そんなたくましきマインドがいまの日本人(特に若い世代)にもっともっとほしい。

日本人は古来、形式を重んじ、型や枠に沿って行動するところに美意識を見出してきた。
しかし、伝統芸能の世界で口にされる「守・破・離」という言葉が示すように、
「守」は修行のほんの第一段階でしかない。
師は弟子たちに、あくまで「破り離れよ」と教えているのだ。
「破・離」とは、予定調和の創造的破壊、既定路線からの創造的逸脱にほかならない。

創造的に逸脱するたくましさを涵養するために、
社会ができること、家庭ができること、学校ができること、職場ができることは何だろう?
―――たぶんその答えもまた型どおりの教育方法ではだめなのだろう。
そのために、教育サービスづくりを生業とする私も創造的逸脱を楽しみながら
アイデアを生み出し実行していきたいと思っている。



高台に「もう一人の自分」をこしらえよ

3.7.5


現実の自分は何かと迷い、悩み、揺らぐものである。
そうしたとき、自分を導いてくれるのはほかならぬ理想の自分、目的を覚知した自分、
全体を冷静に俯瞰する自分である。
心理学ではそれを「メタ認知」といい、世阿弥は「離見の見」といった。


* * * * *

◆ボールから遠いときに何をしているか
故・長沼健さんは、往年のサッカーファンなら誰しも知る日本代表選手であり、日本サッカー協会会長としてもご活躍された方である。その長沼さんが書かれた『十一人のなかの一人~サッカーに学ぶ集団の論理』(日本生産性本部)の中に、「ボールから一番遠いとき、何を考え何をしているか」という一節がある。―――

「一試合で一人の選手がボールに直接関係している時間は、合計してもわずか二分か三分といわれている。一試合が90分だから、ボールに関係していない時間が87分から88分という計算になる。

ボールに直接関係しているときは、世界のトップ・クラスの選手も、小学校のチビッコ選手も同じように緊張し集中している。技術の上下はあっても、真剣であることに変わりはない。ボールに直接関係していない時間の集中力が、トップ・クラスの連中はすごいのだ。逆にいえば、ボールに直接関係していないときの集中力のおかげで、いざボールに関係するときの優位を占めることができるし、もっている技術や体力が光を帯びることになるわけである。

サッカー選手の質の良否を見分ける方法は比較的簡単だ。ボールから遠い位置にいるとき、何を考え、どういう行動をとるかを見れば、ほぼその選手の能力は判断できる」。



◆「メタ認知」「離見の見」
ところで、心理学の研究テーマのひとつに「メタ認知」がある。メタ認知とは、自分が認知していることを認知することで、いわば、現実に考え行動している自分を、もう一人の自分が一段高いところから観察することをいう。

世阿弥は約600年前に「離見の見」(りけんのけん)・「目前心後」(もくぜんしんご)と言った。つまり、能をうまく舞うためには、舞台を俯瞰できる場所に(想像上の)視点を置き、自分自身の舞いを客観的に眺めよ、目は前を見ているが、心は後ろに構えておけ、と指南するのだ。優れた舞いは、現実に舞っている自分と、それを監視し冷静にコントロールするもう一人の自分との共同でなされるという奥義である。世阿弥の伝えたことが、今日の心理学でいうメタ認知にほかならない。

メタ認知は、実は日ごろの仕事現場にも不可欠な能力である。例えば、会議や商談などで「空気を読んで」適切な発言をすること。これができるには、その場の状況の流れを客観的な位置から感じ取るメタ認知能力が必要になる。

また、何か悪い出来事やストレス負荷のかかる状況に接したとき、それをネガティブな思考回路にくぐらせず、ポジティブな解釈で対処するのもメタ認知レベルの作業である。

さらには、他社の成功事例から学ぶケーススタディは、その本質の部分を抽出して、自社に応用するという抽象化思考を行っているわけだが、これもメタ認知活動のひとつである。同様に、いま流行のクリティカル・シンキング(批判的思考)も、視点を一段上げ、そこから情報の矛盾や真偽を明らかにしていくという点でメタ認知的である。

私はみずから行っているキャリア教育プログラムの中で、「セルフ・リーダーシップ」というセクションを設けている。セルフ・リーダーシップとは、みずからがみずからを導くことであるが、これを説明するのに私は、「現実の世界で迷い、悩み、揺らぐ自分を、大いなる目的を覚知したもう一人の自分が導く状態」としてきた。これはまさに、セルフ・リーダーシップのためにはメタ認知能力が不可欠であることを言っている。

◆高台にいかに「もう一人の自分」をこしらえるか
さて、冒頭の長沼さんの言葉。彼は結局、優れたプレーヤーというのは、ボールが自分のところに回ってきたときだけ、局所的・分業的に高度な技術を発揮できればよいと考える人間ではなく、ボールがどこにあろうが、ピッチ全体を見渡す視点からゲームを眺め、大局的な判断から献身的に、ときに犠牲的に動き回る人間のことだと言っているのだ。やはりこれも、高台にいる想像上のもう一人の自分が、ピッチでプレーする現実の自分と常に高速でやりとりをしながら、瞬間瞬間にベストと考えるプレーを行うというメタ認知能力を駆使している姿である。

スポーツにせよ、芸術にせよ、そしてビジネス現場の仕事にせよ、高台から自分を見つめるもう一人の自分をこしらえることは、きわめて重要な能力となる。では、その高台のもう一人の自分をこしらえるためには、具体的にどんなことが必要になるのか―――それは次の3つのことがあげられる。

1つめに、飽くなき向上心をもって理想の自分像を思い描くこと。
2つめに、関わるプロジェクトに関し、
大きな目的(何を目指すのか×なぜそれをやるのか)を持つこと。
3つめに、たとえ部分的に関わっていることでも、
全体の責任を担うという責任者意識、当事者意識、オーナー意識を持つこと。


―――これら3つを意識したもう一人の自分をこしらえたなら、現実の自分を高台から叱咤激励し、きっと自分が予想もしなかった高みに引き上げてくれるにちがいない。




提供価値宣言;「私は~を売っています」

3.4.3


343_2

このシートは、私が研修でやっているワークのひとつである。さて、あなたはこの空欄にどんな言葉を入れるだろうか―――? (これに関する解説は本記事の後半部分で)


* * * * *

◆「還元論」と「全体論」
「還元論」と「全体論」という考え方が科学の世界にある。還元論は、物事を基本的な1単位まで細かく分けていってそれを分析し、物事をとらえるやりかたである。人間を含め、自然界のものはすべて、部分の組み合わせから全体ができあがっているとみる。例えば西洋医学などは基本的にこのアプローチで発展してきた。胃や腸などの臓器を徹底的に分析し、部分を治療することで全体を回復させる。

他方、胃や腸など臓器や細胞をどれだけ巧妙に組み合わせても、一人の人間はつくることはできない全体はそれ一つとして、意味のある単位としてとらえるべきだというのが全体論である。東洋医学は主にこのアプローチをとる。

この2つの立場は、どちらがよいわるいというものではない。適宜双方を取り入れて扱っていくのが賢明なやり方となる。しかし、現代文明は何かと還元論に偏重してきている。何事も論理的に分解をして、分析的に、定量的に、デジタル的に、科学的に考えるのが何か先進的で、合理性に満ちたアタマのよいやり方だという認識が広がっている。私たちはビジネス現場ではもちろん、日常生活でもそうした還元論的な思考に引っ張られている。

しかし、直感(直観)的に統合をして、俯瞰的に、定性的に、アナログ的に、信念的に考え行動することも同じように大事なことであり、必要なことではないか(たとえ、合理的でなく、非効率であり、ときに不格好であったとしても)。


◆「還元論的人材観」~ヒトを“スペック”で切り分けてみる
さて、私が携わっている人事・組織・人財教育の世界の話に入る。昨今の事業組織が、そしてビジネス世界がどんどん煩雑化するにしたがって、一人一人の働き手たちは、自分を、そしてキャリア(仕事人生)をたくましくひらくことができず、ますます狭いほうへ狭いほうへ追いやられていく―――そんな状況が生まれているように思う。その大きな理由として、「還元論」的な価値観に基づく方法論の偏重があるのではないかと、私はみる。

例えば、私たちは優秀な人材をとらえる場合に全人的にとらえようとせず、部分的な知識や技能の集合体としてとらえるようになっている。つまり、「人材スペック」なるものをこしらえ、細かな知識要件、技能要件を設定して、どのレベルでどれくらいの項目数をクリアしているかによって、その人物を評価し管理しようとする。また、MBO(目標管理制度)×成果主義の普及も、一人の働き手を分解的に定量的に行動させる促進剤としてはたらいている。

その結果、働き手は、その人材スペックの要求項目にみずからをはめ込み、その枠組みに合わせて成長すればいいという考え方になる。そんな中では、一職業人として伸び伸びと何か一角(ひとかど)の人物になろうなどというおおらかな心持ちで我が道をゆく人間はどんどん少なくなるわけである。

また会社側は、若手従業員に対し、「5年後どうなっていたいか?」とか「この先10年間のキャリアプランは?」などと問い詰めたりする。従業員が答えられるとすれば、せいぜい「人材スペックのマトリックス表にあるとおり、3等級の要件a、要件d、要件fの、レベル2+をクリアして、課長になることです」―――そんな程度の成長目標くらいしか描けない頭になる。


◆キャリアパスの整備がかえって自律を弱めていないか
「キャリアパス」というのは、そんな中から生まれてきた概念だ。組織がこのキャリアパスを細かに整備すればするほど、従業員の自律心はひ弱になる。組織側が、働き手のキャリアの進路パターンをいくつか用意してやって、その中から道筋(パス)を適当に選んで、上がっていきなさい―――そういう仕組みの中では、「スゴロク」をうまく渡っていく処世術のようなものが養われるにすぎないのではないか。

しかし、こうしたキャリアパスを用意してやるやり方さえ、すでに行き詰ってきた。30歳半ばを超えてくる働き手にはこれまで管理職というポストを与えて、なんとか彼らの居場所と道筋を確保できていたが、昨今は、

・管理職のポストが用意できない(組織が右肩上がりで成長していないから)
・そもそも彼らが管理職になりたがらない
・彼らは専門職として等級(そして給料)を上げていきたがっている
・しかし、あまりに細分化された専門職に対し、
 組織はそれほど多様なポストやパスを用意できない
・人材スペックの枠組みを離れ、既成のキャリアパスなどに頼らないぞという
 たくましくキャリアをひらく意識習慣ができていない働き手はオドオドするばかり


という状況が顕在化しているのだ。映画『モダンタイムス』(1936年)の中で、チャップリン扮する労働者が、機械の歯車の中にぐねぐねと流し込まれてしまうシーンがある。工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したものだ。これは平成ニッポンのホワイトカラーに対しても本質的に変わらないメッセージを発しているように思う。単純な肉体労働が、多少複雑な知的労働に置き換わっただけの違いであって、一人の働き手が、大きな利益創出装置の中で「歯車」化されていることには変わりがないからだ。

資本主義が悪いとか、労働者が搾取され人間疎外になっているとか、そういう論点ではない。一人の人間が、まるごとの自分を使って何をやりたいか、その観点から働く喜びを見出さないかぎり、個人も組織もうまく回っていかない―――そういう論議を働く現場ではもっとせねばならないと感じるのである。


◆全人的に献身できる価値は何かを言語化する
で、冒頭のワークに戻ろう。さて、あなたはこの空欄に何という言葉を入れるだろう。

自分は自動車メーカーに勤めているから、
『私は 「クルマ」 を売っています』

自分は介護事業会社に勤めているから
『私は 「介護サービス」 を売っています』


というような答えを求めているわけではない。右上に「私の提供価値宣言」としているところがミソで、この空欄には、自分が仕事を通じて提供したい「価値」を考えて書いてほしいのだ。この「提供価値」を考えることが、職業人としてのアイデンティティを確認し、それを基軸にしてキャリアをひらいていくという原点になる。これは全人的な自己を意識した「宣言」なのである。

この宣言は、自分の言葉で噛み砕いた主観的な意志の造語をしなければならない。例えば、私は自分自身の提供価値を次のように考えている。

〇私は仕事を通し、「向上意欲を刺激する学びの場」 
  を売っています。
〇私は仕事を通し、「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解」 
  を売っています。
〇私はお客様に「働くことに対する光と力」 
  を届けるプロフェッショナルでありたい。


この問いを通して考えさせたいことは、私たち一人一人の働き手は、目に見えるものとして具体的な商品やサービスを売っているが、もっと根本を考えると、その商品やサービスの核にある「価値」を売っているということだ。

例えば、保険商品を売っているというのは、根本的には、「経済的リスクを回避する安心」を売っているとも言える。また、新薬の基礎研究であれば、その仕事を通して、「発見」を売っている、あるいは、「その病気のない社会」を売っているととらえることができる。財務担当者は、取締役に対し、「正確さ・緻密さ・迅速さによる経営の判断材料」を売っているのかもしれない。

スポーツ選手であれば、彼らは「筋書きのないドラマと感動」を売る人たちだろう。コンサルタントは「課題解決のための情報と知恵」を売っている。料理人なら、「舌鼓を打つ幸福の時間」だし、コメ作りの農家の人なら「生命の素」だ。

いずれにせよ、ここには主観的で意志的な言葉が入る。この言葉づくりを、時間をかけてじっくりやらせることが一人一人の働き手たちを全人的に目覚めさせる。


◆「提供価値」のもとに仕事・キャリアのあり方を見つめる
細分化された人材スペック項目に合わせて、そこに自分をはめ込んでいくアプローチとはまったく正反対のアプローチが、この提供価値宣言である。なぜなら、この宣言によって「自分は何者であるのか?(ありたいのか?)」、「丸ごとの自分を使って何の価値を世に提供したいのか!?」が打ち立てられる。で、そのために、いまの自分はどんな知識、能力を新規に習得せねばならないか、補強せねばならないか、あるいはどういうキャリアチャレンジを起こした方がよいか、などの思考順序になるからである。

その宣言をまっとうするために、いまの仕事のやり方・方向性でいいのか、いまの会社がいいのか、会社員でやっていたほうがいいのか、日本に住んでいた方がいいのか、業界を変えた方がいいのか・・・そんな発想がたくましく湧いてくる。そういう発想のもとでは、もはや会社側が用意する規定のキャリアパスなど意味をもたなくなる。白紙の未来カンバスに、まったく自由に絵を描かざるを得なくなる。で、もがいてもがいて切り拓いた道が、結果的に自分のキャリアパスになる―――そういうたくましい働き様、生き方に転換するのである。そういう独歩のマインドこそ、「自律心」というべきものである。


◆「私の存在価値宣言」~人生の最上位の目的を言葉にする

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最後に追加のワークをひとつ。次のシートの空欄にあなたはどんな言葉を入れるだろうか───?

これは先程の「提供価値宣言」の発展形である。自分の「存在価値宣言」を一言で表現するワークだ。私自身のサンプルを紹介するとこうなる。

〇私は「“働くとは何か!?”の翻訳人」として生きる。

このワークは言ってみれば、自分の現下の人生の「最上位の目的」をキャッチコピー的に表現することである。私は「“働くとは何か!?”の名翻訳人」になることを肚に決めた後、自営で独立した。それ以降、コンサルティングサービスの研究、ビジネス書の出版、教育心理学の勉強、研修プログラムの開発、人事(HR)業界での人脈づくり、など関連する知識習得や技能磨きをやってきた。

これらはすべて上の一大目的の下の手段であり、実現のための最適解と思われる行動だと思ったからである。私はいま、小説を一本書いているが、これもその目的を果たすために閃いたものだ。人は、全人的に投げ出したい人生のテーマを見出せば、部分でやるべきことはいかようにでも見えてくるし、やれるものである。大目的に対し情熱を燃やしているかぎり行き詰まりがない。

働く個人も組織も経営者も、偏重した「還元論」ではなく、「全体論」の視点に寄り戻しをかけて、働くこと・キャリアを今一度見つめなおしたい。



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