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提供価値宣言;「私は~を売っています」

3.4.3


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このシートは、私が研修でやっているワークのひとつである。さて、あなたはこの空欄にどんな言葉を入れるだろうか―――? (これに関する解説は本記事の後半部分で)


* * * * *

◆「還元論」と「全体論」
「還元論」と「全体論」という考え方が科学の世界にある。還元論は、物事を基本的な1単位まで細かく分けていってそれを分析し、物事をとらえるやりかたである。人間を含め、自然界のものはすべて、部分の組み合わせから全体ができあがっているとみる。例えば西洋医学などは基本的にこのアプローチで発展してきた。胃や腸などの臓器を徹底的に分析し、部分を治療することで全体を回復させる。

他方、胃や腸など臓器や細胞をどれだけ巧妙に組み合わせても、一人の人間はつくることはできない全体はそれ一つとして、意味のある単位としてとらえるべきだというのが全体論である。東洋医学は主にこのアプローチをとる。

この2つの立場は、どちらがよいわるいというものではない。適宜双方を取り入れて扱っていくのが賢明なやり方となる。しかし、現代文明は何かと還元論に偏重してきている。何事も論理的に分解をして、分析的に、定量的に、デジタル的に、科学的に考えるのが何か先進的で、合理性に満ちたアタマのよいやり方だという認識が広がっている。私たちはビジネス現場ではもちろん、日常生活でもそうした還元論的な思考に引っ張られている。

しかし、直感(直観)的に統合をして、俯瞰的に、定性的に、アナログ的に、信念的に考え行動することも同じように大事なことであり、必要なことではないか(たとえ、合理的でなく、非効率であり、ときに不格好であったとしても)。


◆「還元論的人材観」~ヒトを“スペック”で切り分けてみる
さて、私が携わっている人事・組織・人財教育の世界の話に入る。昨今の事業組織が、そしてビジネス世界がどんどん煩雑化するにしたがって、一人一人の働き手たちは、自分を、そしてキャリア(仕事人生)をたくましくひらくことができず、ますます狭いほうへ狭いほうへ追いやられていく―――そんな状況が生まれているように思う。その大きな理由として、「還元論」的な価値観に基づく方法論の偏重があるのではないかと、私はみる。

例えば、私たちは優秀な人材をとらえる場合に全人的にとらえようとせず、部分的な知識や技能の集合体としてとらえるようになっている。つまり、「人材スペック」なるものをこしらえ、細かな知識要件、技能要件を設定して、どのレベルでどれくらいの項目数をクリアしているかによって、その人物を評価し管理しようとする。また、MBO(目標管理制度)×成果主義の普及も、一人の働き手を分解的に定量的に行動させる促進剤としてはたらいている。

その結果、働き手は、その人材スペックの要求項目にみずからをはめ込み、その枠組みに合わせて成長すればいいという考え方になる。そんな中では、一職業人として伸び伸びと何か一角(ひとかど)の人物になろうなどというおおらかな心持ちで我が道をゆく人間はどんどん少なくなるわけである。

また会社側は、若手従業員に対し、「5年後どうなっていたいか?」とか「この先10年間のキャリアプランは?」などと問い詰めたりする。従業員が答えられるとすれば、せいぜい「人材スペックのマトリックス表にあるとおり、3等級の要件a、要件d、要件fの、レベル2+をクリアして、課長になることです」―――そんな程度の成長目標くらいしか描けない頭になる。


◆キャリアパスの整備がかえって自律を弱めていないか
「キャリアパス」というのは、そんな中から生まれてきた概念だ。組織がこのキャリアパスを細かに整備すればするほど、従業員の自律心はひ弱になる。組織側が、働き手のキャリアの進路パターンをいくつか用意してやって、その中から道筋(パス)を適当に選んで、上がっていきなさい―――そういう仕組みの中では、「スゴロク」をうまく渡っていく処世術のようなものが養われるにすぎないのではないか。

しかし、こうしたキャリアパスを用意してやるやり方さえ、すでに行き詰ってきた。30歳半ばを超えてくる働き手にはこれまで管理職というポストを与えて、なんとか彼らの居場所と道筋を確保できていたが、昨今は、

・管理職のポストが用意できない(組織が右肩上がりで成長していないから)
・そもそも彼らが管理職になりたがらない
・彼らは専門職として等級(そして給料)を上げていきたがっている
・しかし、あまりに細分化された専門職に対し、
 組織はそれほど多様なポストやパスを用意できない
・人材スペックの枠組みを離れ、既成のキャリアパスなどに頼らないぞという
 たくましくキャリアをひらく意識習慣ができていない働き手はオドオドするばかり


という状況が顕在化しているのだ。映画『モダンタイムス』(1936年)の中で、チャップリン扮する労働者が、機械の歯車の中にぐねぐねと流し込まれてしまうシーンがある。工場労働者が単純作業にまで分解された仕事を黙々とこなし、生産機械の一部になっていくことを痛烈に批判したものだ。これは平成ニッポンのホワイトカラーに対しても本質的に変わらないメッセージを発しているように思う。単純な肉体労働が、多少複雑な知的労働に置き換わっただけの違いであって、一人の働き手が、大きな利益創出装置の中で「歯車」化されていることには変わりがないからだ。

資本主義が悪いとか、労働者が搾取され人間疎外になっているとか、そういう論点ではない。一人の人間が、まるごとの自分を使って何をやりたいか、その観点から働く喜びを見出さないかぎり、個人も組織もうまく回っていかない―――そういう論議を働く現場ではもっとせねばならないと感じるのである。


◆全人的に献身できる価値は何かを言語化する
で、冒頭のワークに戻ろう。さて、あなたはこの空欄に何という言葉を入れるだろう。

自分は自動車メーカーに勤めているから、
『私は 「クルマ」 を売っています』

自分は介護事業会社に勤めているから
『私は 「介護サービス」 を売っています』


というような答えを求めているわけではない。右上に「私の提供価値宣言」としているところがミソで、この空欄には、自分が仕事を通じて提供したい「価値」を考えて書いてほしいのだ。この「提供価値」を考えることが、職業人としてのアイデンティティを確認し、それを基軸にしてキャリアをひらいていくという原点になる。これは全人的な自己を意識した「宣言」なのである。

この宣言は、自分の言葉で噛み砕いた主観的な意志の造語をしなければならない。例えば、私は自分自身の提供価値を次のように考えている。

〇私は仕事を通し、「向上意欲を刺激する学びの場」 
  を売っています。
〇私は仕事を通し、「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる理解」 
  を売っています。
〇私はお客様に「働くことに対する光と力」 
  を届けるプロフェッショナルでありたい。


この問いを通して考えさせたいことは、私たち一人一人の働き手は、目に見えるものとして具体的な商品やサービスを売っているが、もっと根本を考えると、その商品やサービスの核にある「価値」を売っているということだ。

例えば、保険商品を売っているというのは、根本的には、「経済的リスクを回避する安心」を売っているとも言える。また、新薬の基礎研究であれば、その仕事を通して、「発見」を売っている、あるいは、「その病気のない社会」を売っているととらえることができる。財務担当者は、取締役に対し、「正確さ・緻密さ・迅速さによる経営の判断材料」を売っているのかもしれない。

スポーツ選手であれば、彼らは「筋書きのないドラマと感動」を売る人たちだろう。コンサルタントは「課題解決のための情報と知恵」を売っている。料理人なら、「舌鼓を打つ幸福の時間」だし、コメ作りの農家の人なら「生命の素」だ。

いずれにせよ、ここには主観的で意志的な言葉が入る。この言葉づくりを、時間をかけてじっくりやらせることが一人一人の働き手たちを全人的に目覚めさせる。


◆「提供価値」のもとに仕事・キャリアのあり方を見つめる
細分化された人材スペック項目に合わせて、そこに自分をはめ込んでいくアプローチとはまったく正反対のアプローチが、この提供価値宣言である。なぜなら、この宣言によって「自分は何者であるのか?(ありたいのか?)」、「丸ごとの自分を使って何の価値を世に提供したいのか!?」が打ち立てられる。で、そのために、いまの自分はどんな知識、能力を新規に習得せねばならないか、補強せねばならないか、あるいはどういうキャリアチャレンジを起こした方がよいか、などの思考順序になるからである。

その宣言をまっとうするために、いまの仕事のやり方・方向性でいいのか、いまの会社がいいのか、会社員でやっていたほうがいいのか、日本に住んでいた方がいいのか、業界を変えた方がいいのか・・・そんな発想がたくましく湧いてくる。そういう発想のもとでは、もはや会社側が用意する規定のキャリアパスなど意味をもたなくなる。白紙の未来カンバスに、まったく自由に絵を描かざるを得なくなる。で、もがいてもがいて切り拓いた道が、結果的に自分のキャリアパスになる―――そういうたくましい働き様、生き方に転換するのである。そういう独歩のマインドこそ、「自律心」というべきものである。


◆「私の存在価値宣言」~人生の最上位の目的を言葉にする

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最後に追加のワークをひとつ。次のシートの空欄にあなたはどんな言葉を入れるだろうか───?

これは先程の「提供価値宣言」の発展形である。自分の「存在価値宣言」を一言で表現するワークだ。私自身のサンプルを紹介するとこうなる。

〇私は「“働くとは何か!?”の翻訳人」として生きる。

このワークは言ってみれば、自分の現下の人生の「最上位の目的」をキャッチコピー的に表現することである。私は「“働くとは何か!?”の名翻訳人」になることを肚に決めた後、自営で独立した。それ以降、コンサルティングサービスの研究、ビジネス書の出版、教育心理学の勉強、研修プログラムの開発、人事(HR)業界での人脈づくり、など関連する知識習得や技能磨きをやってきた。

これらはすべて上の一大目的の下の手段であり、実現のための最適解と思われる行動だと思ったからである。私はいま、小説を一本書いているが、これもその目的を果たすために閃いたものだ。人は、全人的に投げ出したい人生のテーマを見出せば、部分でやるべきことはいかようにでも見えてくるし、やれるものである。大目的に対し情熱を燃やしているかぎり行き詰まりがない。

働く個人も組織も経営者も、偏重した「還元論」ではなく、「全体論」の視点に寄り戻しをかけて、働くこと・キャリアを今一度見つめなおしたい。



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