3●マインド・価値観 Feed

出でよ「コスモポリタン的仕事人」!

3.7.4


1994年シカゴ在住当時、
私はシカゴ交響楽団のシンフォニーセンターに足繁く通った。

街の誰もが音楽監督のダニエル・バレンボイムがすごいといい、
シカゴ交響楽団はすばらしいという。
しかし、より正確には、
楽団員一人一人の音づくりがすごいのだ。
彼らは各々が独立して一個の音楽家であり、
みずからのパートのみならず、演奏曲全体を自分なりにそしゃくして
最初の音符から最後の音符まで全身全霊を傾ける。

彼らのうち、その後もシカゴ交響楽団に残った人もいるだろう。
また、他の楽団に移ってさらに音楽の道を深めた人もいるだろう。
あるいはみずから楽団をつくったり、指導者になったり。
また、一線を退き住む町で音楽振興活動に身を入れるようになったかもしれない。
彼らは場所を選ばず、一人の音楽家を生きるのだ。




◆愛すべき仕事は「プロジェクト」!
1998年秋、MIT(米国・マサチューセッツ工科大学)スローンスクールのトーマス・マローン教授が『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌に論文を発表した。その中の印象的な一文はこうである。

「来るべき経済の基本的単位は、会社ではなく、個人になる。仕事は一連の固定化した管理プロセスによって与えられ、コントロールされるのではなく、独立した個人事業主たちによって自律的に遂行される。電子で結びついたフリーランサー、すなわちEランサーが、流動的に臨時の連帯チームをつくり、製品やサービスを生産し、販売する。仕事が終われば(それらは1日仕事か1カ月仕事か、あるいは1年かもしれないが)、連帯チームを解散して、再び個人事業主にもどる。そして次の仕事(アサイン)を探しに出る」。

───トーマス・マローン/ロバート・ローバッカー「Eランス経済の夜明け」



この論文が含む重要な観点は、
1)「自律した個として強いプロフェッショナル」が台頭してくる
2)仕事はますますプロジェクト化され、「個」の集合離散によって遂行されていく

これからのビジネスの現場では、主要な業務が、事の大小、期間の長短はあれ、「プロジェクト」化されていく。その都度に最適の人財が社内外から組み合わせられ、チームとして成就を目指す形になっていく。一方、プロジェクト化されない業務はルーチンワークとして社外の働き手にアウトソースされる。

そんな時代においては、仕事人としての成長は、いかにチャレンジングで実り多いプロジェクトに関わり続けられるかにかかっているといってもよい。数多くのプロジェクトを連戦練磨することによって、プロフェッショナルとしての実力と価値を増していくことができる。プロジェクトは、さまざまな形で創造的思考、判断、行動を要請してくる。それらはこのうえない学習体験の場となり、啓発的なタレント仲間が集う場となる。期間限定という“張り”があり、成就すればもちろん、仮に失敗したとしても、ひと皮もふた皮もむけさせてくれる道場なのである。


◆「就社」→「就職」→「就プロジェクト」
いま転職したいという20代、30代の人たちにその理由をヒアリングしていくと、「ルーチン化した仕事が続いて、自分の成長がストップしていることに不安である」「(異動希望を出せる仕組みはあるが)社内に魅力的な異動場所がない」「あの(転職候補の)企業には、面白そうなプロジェクトがありそう。そこで自分を試してみたい」といった心理が少なからず出てくる。つまり、自分の成長期待を満たしてくれそうな仕事機会のあるなしが大きな関心事になっている。

ひところ前までは、日本人の就職は、ともかくいい会社に入り、与えられた配属の中で自分の居場所を見つけるといった「就社」だと揶揄されることが多かった。実際はまだそういう意識が大多数ではあるものの、一部には「就社」意識が薄らいできている。昨今では、自分のプロフェッショナル分野を打ち立てたいという「就職」意識、さらにはそれを築くための舞台(=プロジェクト)を得るために、会社を移ることをいとわない「就プロジェクト」意識の高まりがしっかりとある。

となると、組織側はいかに組織内に魅力的なプロジェクトを継続的に創出できるかが大事になってくる。やりがいのあるプロジェクトを継続的に、数多く打ち立てることのできない組織は、組織内の逸材を引き留めておくことが難しくなるのと同時に、組織外からも優秀な人財を呼び込むことができない。自律的に個として強いプロフェッショナルを志向する人たちは、「組織に生きる」から「プロジェクトに生きる」という価値観に意識をぐっとシフトさせているのだ。

トム・ピーターズは、そのあたりの心境を次のように表現している。

「A job for life.」→「A life full of jobs.」

「生計のためにしがみつかねばならないひとつの仕事」
        →「面白いプロジェクトが次々テンコ盛りの人生へ」。



こうしたいわば血の気の多い個たちを“組能”(多種多様なタレントを組織化する)していく力が組織側には求められている。


◆組織「依存」人に陥ることが問題
最近、「エンプロイアビリティ」(employability)という言葉をよく耳にするようになってきた。これは働き手本人の「雇用されうる能力」のことをいう。会社の業績が危機に陥ると、ある人数の働き手たちがリストラ対象となり、失職や配置転換を余儀なくされる。彼らの多くは、組織人として真面目に働いてきた人たちだが、組織人の何が問題だったのだろう。

組織人の意識を持つこと自体に大きな問題はない。私自身、現在は独立して事業を行なっているが、会社勤めのサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこその独立である。会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、会社のお金で研修もさまざまに受けた。組織人であることのメリットを感じながら、それを最大限活かしていく意識は、むしろ奨励されるべきことである。

問題なのは、組織人的な意識が、依存心と結びついた場合である。

組織人的な就労観では、忠誠心と能力の向け先は組織だった。働き手は、その対価として、雇用保障という安心感と給与・退職金を手にする。仕事はたまたま組織が与えてくれるものを受け止めてこなしていく格好である。そこでは仕事の目標や役割認識が働き手個人から強く生まれ出されることはなく、たいていは組織からの指示・命令に委ねられていた。雇用側も、右肩上がりの経済の中では、そうした組織に従順な労働力を安定的に確保することにメリットを感じていた。そんな労使双方の蜜月時代が長く続いた結果、組織人はいつの間にか、エンプロイアビリティの低い組織依存人に成り下がってしまったのである。

転職の面接現場で「あなたは何ができますか」と質問されて、「はい、カチョー(課長)ができます」と答えたというジョークがある。労働市場においては、組織人として捧げてきた忠誠心はどこも買ってくれない。「主任」「課長」「マネジャー」といった役職自体には値段はつかない。組織に紐づいた形でしか自分を語れない人は、いったん社外労働市場に放り出されるや、厳しい現実が待ち構えている。もはや組織依存人に安穏の場所は少なくなってきている。


◆「個」として立つ仕事自律人
そうした中、組織に依存せず、「個」として自律する働き手も存在する。彼らにとっての忠誠心と能力の向け先は、自分が没頭できる仕事であり、プロジェクトである。そこから得られる達成感や成長に喜びや価値を感じている。仕事こそ自分なりの働きがいを見出せる目的(WHAT/WHY)であり、会社はその仕事やプロジェクトを与えてくれる舞台提供者、達成への手助けをしてくれる手段(HOW)としてとらえる。

仕事が意識の中心軸だといっても、彼らは組織を軽視するわけではない。むしろ組織がよき仕事機会、プロジェクト舞台を用意してくれることに感謝をする。組織と協調して目的をつくりだそうとし、その達成に向けて全力を傾ける。組織が繁栄すれば自分の仕事舞台もまた広がることをよく知っているからだ。

彼らは、ときに、組織外に転職をしていくが、元の組織とは、古巣や母校に似た心情を抱いており、その後も長く、いろいろな形で元の組織と協業をする。組織依存人は組織に従属的な忠誠心を持つが、仕事自律人は組織とは相互に独立的なパートナーシップ意識を持ち合う。それはたとえば、プロ野球の選手と球団との関係であり、個人の役者と劇団の関係にも似ている。

ちなみに本稿では主に、組織に雇われる身での仕事自律人について述べているが、仕事人×自律意識の最右翼は、組織を飛び出して、起業・独立をしようとする人たちである。そうした自分の専門能力と度胸で勝負する人や、雇われない生き方を志向する人は、雇用組織という保護膜なしに、「個」として世の中に突き出ていくので、非常に高エネルギーで活動している。「転石苔(こけ)むさず」との諺のとおり、彼らにとっては、まさに依存心という苔を身に生やす暇はないのである。

ともかくも、平成ニッポンの働き手の様子はこうである。

「依存」したがる組織人は依然多い。
しかし、「自律」する仕事人も少なからず現われてきた。

組織依存人は、「群れ」の中で居場所を見つけようとし、
仕事自律人は、「個」として立とうとする。

組織依存人は、組織に「働き口」を求める。
仕事自律人は、世の中に「働く舞台」を探り出す。

自律の人は、「何を(WHAT)」「なぜ(WHY)」やるかといった目的を
自分で必死に見出しているから、
それを「どうやるか(HOW)」の知恵もエネルギーも湧く。
依存の人は、「どうやればいいか」に専念するだけ。
みずからの目的がないから、不安と愚痴がにじみ出てくる。



◆故郷・寄留地・実家・母校としての会社

「別れた女房は恨めしいが、卒業した母校は懐かしい」。

───ひとつの関係性が区切りを迎えたとき、この2つでどうもこう気持ちが違うのだろう。人と人、あるいは、人と組織の関係において2つのタイプがあるように思える。それは、「永遠(とわ)の誓い」関係と、「一時(いっとき)の目的共有」関係である。

世の中、誰しも結婚や就職においてはその両者の関係が長く堅固に続けばいいと願っている。だが、現実はそううまくいかないときも多いようで、夫婦関係において離婚話を持ち出すとき、人は罪悪感を覚える。また、会社勤めに関しても、「辞めます」と一度上司に言ったが最後、会社内での立場はとたんにぎくしゃくし始める。これらは、両者が暗黙のうちに「永遠の誓い」にも似た関係性を前提にするところに理由がある。両者の関係性がいったん途切れる、つまりそれは誓いを破るとみなされるわけで、その後の関係修復や継続は難しいものになる。愛憎紙一重のところで成り立っている関係はかくしてこういうものだ。

ところが私たちの卒業した学校はどうだろう。学校において、中学、高校なら3年間、大学なら原則4年間という通学期間が決まっていて、卒業式がくれば、誰しもその学び舎での思い出を懐かしみ、「有難うございました」といってそこを出てくる。送り出す先生方も涙の別れである。悪童ほど温かく見送りされもする。

個人と学校の関係性は、いったんそこで解消されるわけだが、私たちはなんの気まずさやうしろめたさも感じない。むしろ先生は恩師としてより慕われるようになり、学校は母校としてその後の人生において心の支えになる。これは、個人と学校が互いを「一時の目的共有」的な関係として暗黙のうちにとらえているからではないだろうか。在学期間という一時のうちで、生徒側と学校側は教育というひとつの目的を共有し、時間と場を過ごす。その目的を修了すれば、互いは別れていく。ある意味「一期一会」的な関係でもあるので、別れ際にとやかく言う人はいない。


◆「出世」とは何か?
働く個が自律し、ヒトが流動化する時代にあっては、個人と組織の間の関係は、当然、「永遠の誓い」関係から「一時の目的共有」的な色合いに変わっていくことになる。

雇用組織は学校と同じく、人生の一時に目的を共有する場としてとらえられ、働き手はプロジェクトという仕事単位で履修を重ねることになる。生涯一社で、さまざまに履修を繰り返して過ごす人もいれば、そこを卒業して別の会社へ転職する人も出てくる。その場合、巣立った会社は母校ならぬ母社となり、その個人にとっていつでも気兼ねなく帰っていける場所になるのが理想である。当然、帰るだけでなく、その会社からのプロジェクトを社員時代とは異なった立場から請け負う場合もあるだろう。ちょうど大学のOBOGが、第一線の企業人となって、母校で講演を行うように。

電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章でこう書いている。

自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、それは間違いなく「世に出る」ことであり、「出世」なのです。そこで肝心なことは、「世に出る」と言ったときの「世」は、自分の勤めている会社ではないということです。
(中略)
自分の選んだ会社を「寄留地」として、そこを足場として初めて「世に出る」のです。
(中略)
「寄留地」を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、もっともっと広い社会と関わっていくということが「世に出る」ということなのです。




◆人財を「輩出」すれば人財は「流入」する
私は「自律した個として強いプロフェッショナル」を育むための意識醸成研修を企業に売っている。そのときに一部の人材育成担当者はこう心配する───「ヘタに自律心を目覚めさせてしまったら、うちの会社を辞めてしまう人が増えるのではないか」と。

この心配は的外れである。一つには、働き手の自律心が強まれば、安易な転職が減る現象が起こるからだ。「現状が停滞しているので転職してみるかな」というなんとなくの気分は、自律心を強めることによって、「足下の仕事をもう少し掘り起こしてみるか」という意志に変わるのである。そしてもう一つには、確かにほんとうに力のある自律した個は、他に移ったり、独立したりする場合がある。しかし、実際のところ、気前よく人財を世に送り出す企業ほど、それを補う以上に人財が集まってくるという逆説的な循環が起こるのである。

たとえば、IBMやリクルート、マッキンゼーといった企業は、人財輩出企業として有名である。そうした企業では、そこを巣立った人たちが、散らばったそこかしこで自分を育ててくれた会社での経験や恩義を語る。それが古巣会社の価値を高め、自律意識の強い人財を引き寄せる作用としてはたらくのだ。

自律する個にとって、出世の舞台は組織内というより組織外を意識する。その際、雇用組織はその出世を助ける「母性」のような懐の深さを持つことができれば、その組織は人財輩出組織といわれるだろう。そうした組織では、ヒトが次々組織外へ巣立って行きつつも、ヒトが育つ組織として、同時にまたヒトが入ってくる。むしろ企業が留意すべきは、組織に依存的に居つく人間を増やさないことだ。IBMの伝説的な経営者であるトーマス・ワトソン・Jr.が言ったように「野ガモを飼いならして」はいけないのだ(末尾コラム参照)。

私は「自律した個として強いプロフェッショナル」を、「コスモポリタン的仕事人」とも呼んでいる。コスモポリタンとは世界市民の意味である。境界を越えていくオープンマインドを持ち、独立的な気概のもとに、他と幅広く協調的に関わっていく、そんな仕事人である。日本の会社はまだまだ社内ローカルで通用する組織人をつくりすぎるし、働き手のほうも組織人として安住したがる。私は研修プログラムを通してこう叫んでいる───「出でよビジネス・コスモポリタン!」と。


*   * * * * * *

「野ガモを飼いならすな」

この寓話は、デンマークの哲学者キルケゴールが説く教訓である。
ジーランドの海岸には毎年秋、南に渡る野ガモの巨大な群れがあった。
ある男は親切心から、野ガモたちに餌をやるようになった。
すると、一部のカモは南へ渡るのが面倒になり、デンマークで冬を越すようになった。
3、4年も経つとそれらのカモたちは怠けて太ってしまい、
気づいたときにはまったく飛べなくなっていた。

IBMの伝説的な経営者であるトーマス・ワトソン・Jr.はこう言う。
「野ガモを飼いならすことはできるが、
飼いならされたカモを野生に戻すことは決してできない。(中略)
私たちは、どんなビジネスにも野ガモが必要なことを確信している。
そのためにIBMでは、野ガモを飼いならさないようにしている」と。

───『IBMを世界的企業にしたワトソンJr.の言葉』(英治出版、朝尾直太訳)より




「能動・主体の人」 vs 「受動・反応の人」

3.4.2


◆自分と環境・運命は「因果の環」にある
私たちは経験で「自分が変われば環境・運命が変わる」ことを知っているし、
また「環境・運命が変わることで自分が変わる」ことも知っている。

つまり、
自分の意志や行動は、環境や運命に影響を与える。
そして同時に、環境や運命は自分にも影響を与えてくる。
―――それを簡単に示したのが下図だ。

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自分と環境・運命は、図のように
ニワトリが先かタマゴが先かという後先のつかない関係になっていて
互いに因果の連鎖でぐるぐる回っている。
このとき、「自分→環境・運命」の影響方向を強く意識するか、
それとも「環境・運命→自分」の方向を強く意識するか―――
これはどちらが正解/不正解というものではないが、
どちらを主にして腹に据えるかは、長い人生を送るにあたって極めて重要な一点である。


◆変化の起点を自分に置くか自分の外に置くか
因果の環において、「自分→環境・運命」の方向を強く意識することは、
言い換えれば、変化の起点を常に自分に置くことである。
逆に、「環境・運命→自分」の方向を強く意識することは、
変化の起点を自分の外に置くことだ。
この起点の置き方の違いは、人間を2種類に分ける。
前者を「能動・主体の人」と呼び、後者を「受動・反応の人」と呼ぶことにしよう。
具体的には―――

【能動・主体の人】
○状況はどうあれ他者や環境への働きかけはまず自分から起こすという意識を持つ。
○ゼロをイチにする仕掛けをやってみて、周りにどんな影響が出るかを待つ。
そして、周りから返ってきたものを刺激にして、またみずから仕掛けていく。
この繰り返しのなかで、自分の方向性を修正したり、確信を深めたりしていく。
○口グセは、「変わんなきゃ変わんない」、「ここまでやった自分に納得」、
「人事を尽くして天命を待つ」等々。

【受動・反応の人】
○自分が変わるきっかけをいつも他者や環境、運命といったものに期待する。
○いったん起きた出来事に対して一喜一憂し、どう反応すればいいかに気をもむ。
○口グセは、「環境がこんなだから」、「あの上司さえ代わってくれれば」、
「自分には運がないので」、「自分の居場所はこんなところじゃない」等々。

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◆「いま・ここの自分」がすべての出発点
「能動・主体の人」は、自分の過去がどうあれ、自分をどう活かすも、
また未来をどうつくるも、すべてその出発点は「いま・ここの自分」にあると考える。
その意識を見事に表したのが、
米プロ野球メジャーリーガー松井秀喜選手を育てた
星陵高校野球部の部室に貼ってあるという言葉である(山下智茂監督が貼ったという)。

「心が変われば行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる」。


これをイメージ化したのが下図である。

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この図は、自分を取り巻く環境や外界で起きるさまざまな出来事、
そして降りかかる運命は、「いま・ここの自分」の一念と地続きであることを示している。

しかし、たった今の自分の意志で、
現環境とか運命とかいった大きな流れを変えられるのだろうか―――?
これは誰しも何か遠い話、つながらない話のように聞こえる。
「今は毎日の仕事をこなすのでいっぱいいっぱいなのに、
環境を変える、運命を変えるなんて、そんな……」というのが実感ではないか。

だが、この言葉は、いきなり環境や運命が変えられるとは言っていない。
まずは自分の心を少し変えてみたらどうか、行動を変えてみたらどうかと言うのだ。
これならたった今から誰でもできる。
例えば、朝何時に起きる、すれ違った人には必ず挨拶をする、
月に何冊の読書をする、そしてその感想のブログを書く、など。
これら行動の蓄積や習慣は、中長期に必ずその人自身に影響を与えていく。
そして気づけば人生コースが変わっている―――山下監督が貼った言葉はこういう論法だ。

確かに振り返ってみればわかるとおり、
現時点での自分の環境や運命は、決して偶然そうなったわけではない。
これまでの過去において、意図するしないにかかわらず、
自分が何らかの選択や行動をしてきた蓄積結果として現れているものだ。
私たちは、実は瞬間瞬間に選択を重ねてきた。
「いや、特段心を決めて選択したわけでもない」と言う人もいるかもしれないが、
それは「心を決めずに事をやり過ごす」という選択をしたのだ。


◆人はしんどさの質を選べる
働いていくこと、生きていくことは、どのみちしんどいものだ。
しかし、人はそのしんどさの質を選ぶことができる。
「受動・反応的」に日々を送り過ごすことは、ある意味、ラクではあるが、
環境に振り回されるしんどさを味わう上に、
自分の行き先がどんどん流されていくという不安も背負い込む。
他方、「能動・主体的」に働きかけていくことは、行動を仕掛けるしんどさはあるが、
自分の方向がどんどん見えてくる面白さがある。

どのみちしんどいのであれば、あなたはどちらを選びますか―――?
その問いはすなわち「いま・ここの自分」をどう変えていきますか、
ということにほかならない。すべての人にとって、「いま・ここの自分」は、
その瞬間以降の人生の大きな分岐点であり、出発点となる。
常に一瞬一瞬を「能動・主体的」に生きる人は、
最終的に自分の想う方向にひらいていくことができ、生涯を通じて若い。

* * * * *

◆1人1人の思考と行動がこの世界をつくっている
さて、話をもう少し広げていく。
私たちは21世紀に入り、ますます、
一個人として制御のきかない社会に生きている感覚を強くしている。
しかし、そんな中でも、
「自分が変われば、環境が変わる」―――これは信ずるに値する原理だ。
つまり、自分が変われば家族が変わる、自分が変われば会社・組織が変わる、
自分が変われば地域・国・国際社会が変わる、
自分が変われば自然・地球が変わる、という原理だ。

この世界は、私たち1人1人の絶え間ない思考・言動の連続・集積体である。
英国の哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947年)の考え方を借りれば、
この世界は「関係性の森」である(仏教思想はこれを「縁起」と説く)。

私たち1人1人のどんな瞬間的な、どんな些細な思考や言動も
ことごとくこの「関係性の森」に通じ、この森に影響を与え、この森をつくっている。
ホワイトヘッドは『観念の冒険』の中でこう言い表す―――

「われわれは、どんな分子で身体が終わり、外の世界がはじまるのか、
いうことはできない。脳髄は身体と連続しており、
身体は自然の世界のほかの部分と連続しているというのが真理なのだ」と。

(参考文献:中村昇著『ホワイトヘッドの哲学』講談社)


この複雑な「関係性の森」の内では、無数の「こと」が相互に反応し合い、
新しい「こと」が生起し、その森自体の性質やら形やらを決めていく。
このとき、森の住人である私たち1人1人にとって重要なのは、この森を
楽観・意志に満ちたみずみずしい森にするのか、
それとも、悲観・感情が覆いかぶさる茫漠とした荒れ地にするのか、だ。


◆世に望む変化があるなら、まずあなた自身がその変化になりなさい
個人が、家族が、会社が、地域が、国が、世界がよりよくなっていくための答えは自明である。
マハトマ・ガンジーは次のように言った(そして事実そう行動した)。

“You must be the change you wish to see in the world.”
(この世の中に望む変化があるなら、あなた自身がその変化にならねばならない)



また寓話だが、ハチドリのクリキンディはこうした。

森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名の ハチドリだけは いったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て 「そんなことをして いったい何になるんだ」 といって笑います
クリキンディは こう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」。

(南米アンデスの先住民の話:出典『ハチドリのひとしずく』辻信一監修・光文社)


環境(家族、会社・組織、地域、国、国際社会)はどのみち変化していく。
そのとき、1人1人が「能動・主体の人」となり環境に働きかけをしていくなら、
環境は楽観と意志の方向に動いていく。決して一筋縄ではないが。
逆に、1人1人が「受動・反応の人」となり環境を傍観・放置すれば、
環境は悲観と感情の方向に漂流を始める。その結果は歴史の教えるところである。


◆中国からのメールマガジン
昨今、日中関係がぎくしゃくしている。
国家間の関係づくりもまた、一個人の想いや力は微細なものだと思える類のものだ。
今回の尖閣諸島での出来事で私が残念に思うのは、
両国ともマスメディアから流れる自国側のニュースによって
「やっぱり中国人は~」、「やっぱり日本人っていうのは~」という
ステレオタイプを貼りつけて、相互に不信と嫌悪を募らせている点である。

そんな折、現在、中国に長期滞在しているビジネスコンサルタントの知人から
メールマガジンを受け取った。その冒頭の一部を紹介させていただく。

=Tさんからのメールマガジン冒頭文=

「日中関係に緊張感がはしっている中、相変わらず中国に滞在しています。
テレビのニュースを見ると、中国の数々の圧力で両国の関係の悪化が報じられています。
家族や友人が心配してメールをくれたりします。
かくいう私も今回こうして長期で滞在する前は、
こうした国際的な摩擦があると、「ああ、中国だからね」と思っていました。
しかし、実際に接している中国人の方々はいたって親切なんですよね。
世話になっているサービスアパートメントの不動産屋さんは
全くの業務外のことでも困っていると助けてくれます。
タクシーの運転手さんは言葉が通じなくても一生懸命話しかけてきて、
私の下手くそな中国語の発音を笑いながら直してくれたりします。

一人ひとりの関係と、国益をめぐる国際関係は別物だと認識しました。
国益をめぐる関係と個人の人間関係は全く異なるものなので当たり前とは思いますが、
一人ひとりの集合体が組織(この場合は国家)であるはずなのに、
組織は個人とは異なる顔を見せるようです。

そんな国同士の諍いをしり目に、今日も中国人のメンバーと仕事をします。
時には議論しあい、時には冗談を飛ばしあいながら。
両国がもめているこんな時期だからこそ、
それはちょっぴり感動的で誇りに思える光景です」―――。



……この文章は、にわかにざわついていた私の心を穏やかにしてくれた。
このメールマガジンは1万4000人ほどに配信されているというから、
その中にも少なからず詰まった息をほっと吐けた人もいるのではないだろうか。

私個人もこの内容はよく理解できる。
米国留学時代や国内大学院時代に何人もの中国人学生と知り合ったが、
中国人といってもやはり千差万別の性格や考え方をもった人間たちなのである。
彼らの中には、繊細な人もいれば、金儲け欲より社会貢献欲のほうが強い人もいる。
尊敬できる人もいるし、歴史観を中立に持っている人もいる。
逆に、日本人でも粗暴な人はたくさんいるし、守銭奴のような人間も多く見かける。
尊敬できない輩もいるし、偏った歴史観で物事を決めつける人間もいる。

私たちはついつい物事を単純化したレッテルを貼ってとらえてしまいがちになる。
マスメディアから流れてくる報道(特に映像)はその恰好の材料となる。
十把一絡げでばっさりと裁断したほうが思考がラクだからだ。
しかし、それは「受動・反応の人」の行動である。悲観と感情が私たちを縛りはじめる。
そうなって得することは両国民と国家にとって、一切ない。

だから、こういうときこそ1人1人が「能動・主体の人」になることが求められる。
Tさんのように中国の人びとと直接的に交流できなくとも、
私たちは人間主義に立って、
「だから中国人は~だ」とか「やっぱり中国は~だ」といったばっさりとした思考を止め、
日中の友好はかなう、なぜならお互い人間同士だからだと思うこと―――
ここから1人1人の能動・主体がはじまる。
そういう楽観(能天気ということではない)と意志が底辺に満ちてこそ
政治や外交は建設的な成果を得られる。

中国に限らず、韓国にしても、ロシアにしても、
隣国への思いや考えは日本人の中にもさまざまある。政治的な利害の対立もある。
しかし国家間の友好関係は1人1人の願望からはじまり、民間交流でしか築けない。
それには長い時間と労力と忍耐を要する。
日本人はその時間と労力と忍耐を引き受ける成熟さをもっていると私は信じたい。

私たち1人1人は、一生活人、一働き人、一家族人、一国民、一地球人として生きる。
「環境が~だから、自分は~できない」と思うのではなく、
「自分が~すれば、環境は~に変わっていくだろう」と構えることで、
生活や職場、家庭、国、この地球はずいぶんとよい場所になるに違いない。



プロフェッショナルの原義~『ヒポクラテスの宣誓』

3.5.1



民間企業や公的機関における不正・不祥事のニュースは絶えることがない。犯罪的営利行為、非倫理的行為などの原因は組織ぐるみのものもあれば、一従業員や一管理者、一経営者によるものもある。しかし根っこは一職業人の中の職業倫理欠落(あるいは欠陥)によって引き起こされる。

倫理・道徳などというのは抹香くさいテーマで多くが敬遠したがるものだが、働くことを考えるうえではここを避けて通ってはいけない。特に自身を「プロフェッショナル」と自認する人にとっては、だ。なぜなら、「倫理を誓う」ことが「プロフェッショナル」の原義だからである。


◆プロフェッショナルとは“宣誓する人”
「プロフェッショナル」という言葉は、現在では多義に拡大され、いささか大安売りされている感があるが、もともと「プロ」と呼べる職業はきわめて限定的だった。

ジョアン・キウーラ著『仕事の裏切り』(原題:The working Life)によると、プロフェッショナルという言葉は、もともと“profess”=宗教に入信する人の「宣誓」からきていて、やがてそこから、厳かな公約や誓いを伴うような職業をプロフェッショナルと呼ぶようになったという。

中世に存在した数少ないプロフェッショナルは、聖職者や学者、法律家、医者だった。彼らの仕事の特徴は、仕事における個人や組合・協会の自律性と、私欲のない社会奉仕精神・公約の精神だった。プロフェッショナルの仕事は無報酬を理想とし、お金を稼ぐために仕事をするのではなく、仕事をするために必要な経費だけを頂戴するという意識だった。

その意味から、社会学者のタルコット・パーソンズは50年前の著書で「(こうしたプロフェッショナルの厳格な定義に照らすと)企業管理者は決してプロになれない」と主張した。なぜなら企業におけるビジネスマンは、基本的に利己的な利益獲得行動に走らざるをえないからである。


◆我欲を排し利他を誓う『ヒポクラテスの宣誓』
欧米の医学会では、いまでも医師になるときに『ヒポクラテスの宣誓』を行なうしきたりを残すところがある。

ヒポクラテスは、紀元前400年ころに活躍した人で、ソクラテスやプラトンと同世代のギリシャの偉人の一人である。「人生は短く、学芸は永し。好機は過ぎ去りやすく、経験は過ち多く、決断は困難である」との有名な言葉は彼のものだ。ヒポクラテスは、当時の医術の発展に多大な貢献をしただけでなく、後世の医の倫理の礎を築いた。

彼は多くの著書を残し、そのなかの一つで「誓い」と題された短文がある。これが世に言う『ヒポクラテスの宣誓』である。彼はそこで医師の戒律・倫理を明言する。

『ヒポクラテスの宣誓』は、冒頭、医神であるアポロン、アスクレピオスらに誓いを立てる文面からはじまり、医を志す際の師弟の誓い、そして医師として患者第一とする利他的で我欲を排する誓いをする内容である。

こうしたみずからが進んで利他の精神を誓い、みずからの能力を社会奉仕に使うことを喜びとする専門職業人こそが、本来の意味での「プロフェッショナル」なのである。その観点からすると、現在、どれほどのプロ自認者が厳密にプロと呼べるのだろう。


◆精神のない専門人と心情のない享楽人
利益追求や利己主義は一方的に悪いことではない。むしろそういう動機があってこそ現代の資本主義経済は回るようにできているし、さまざまな創造や革新も起こる。欲は善にも悪にもなりうえるのだ。

マックス・ヴェーバーはいまから100年以上も前に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)の末尾において、資本主義の興隆で跋扈し、うぬぼれるのは「精神のない専門人と心情のない享楽人」であると予見している。

精神のない専門人が、プロフェッショナルとして多量になりすぎると、ビジネスは単なる「利益追求ゲーム」へと成り下がり、その果ては、「圧倒的な富を得る1%の勝者」と「十分な富を得られない99%の敗者」をつくりだす社会にしてしまう危険性をはらんでいる。そこでは、経済が本来、“経世済民”として持っている「民を救う」という使命・目的が喪失されることになる。

欲望をエンジンとして回り続ける自由資本主義というシステムを、今後も持続可能にするためには、欲望の自制とそれを賢明に活かす英知が不可欠となる。そのとき、『ヒポクラテスの宣誓』は新しい光をもって多くのプロフェッショナルたちに見直されるべきものになるだろう。

「プロフェッショナル」の原義は、“profess”(=神に誓う)である。プロが誓いをなくしたとき、それは単なる「○○屋」でしかない。





【参考文献】
・ジョアン・キウーラ『仕事の裏切り』(中嶋愛訳・金井壽宏監修)翔泳社
・ヒポクラテス『ヒポクラテス全集 第1巻』(大槻真一郎編集・翻訳責任)エンタプライズ




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