美はそれを見つめる瞳の中にある
2.2.1
“Beauty is in the eye of the beholder.”
美はそれを見つめる瞳の中にある。
春に爛漫と咲く桜は美しい。白銀の冠を戴き雄大にそびえる富士の山は美しい。
これらは万人にわかりやすい美だ。
それと同じように、近所の雑木林を歩いて見上げる冬の木々の、
魔女の手の甲に走る血管のような枝々も私は美しいと思う。
そして、地面に落ちもはや脱色しカラカラに朽ちた葉っぱも美しいと思う。
美は、“属性”(事物が有する性質)ではない。
美は、他がそれを美しいと感受してはじめて美になるのだ。
ゴッホの絵は美しいだろうか?……彼の生前は美しくなかったが、死後、美しくなった。
美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。
とすると、「美の生涯享受量」(LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、
個人個人で天地ほどの差があるにちがいない。
私が興味を覚えるのは、
同時代の個人を比べて誰がLGPBが多いか少ないかということではない。小林秀雄が、
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」 (『無常という事』より)
と言ったように、現代人のLGPBは、はたして過去の人びとに比べてどうなのかという点だ。
21世紀に生きる私たちは、科学技術の発達によって、
うんと絵を見、うんと音を聞き、うんと移動して旅をし、うんと豊かにものを食している。
しかしそれでもなお、私が異国のリゾートホテルで見る月は、
鎌倉時代の女房がふと庭木越しに拝んだ月ほどに味わい深いものだろうか。
ひょっとすると日本人のLGPB曲線は、ある時代をピークとして現在では逓減カーブを描いているのではないか。
美を感受し、咀嚼し、創造する瞳が弱ってくることは、美をつくる側をも弱める。
音楽にせよ、絵画、映画、小説にせよ、現在では大作が生まれず、
作品が小粒になったとそこかしこで言われる。
それは、つくり手が小粒になったというより前に、受け手が小粒になったからなのだろう。
いつの時代も「偉大な聴衆が、偉大な音楽家を育てる」のだ。
優れた芸術家を殺すことは訳のないことである───みんなが鈍感になりさえすればよい。
その時代がどんな美を生み出すか、
そして自分自身が一生の間にどれだけの美を享受できるかは、
ひとえに私たち一人一人の瞳の磨き具合によっている。
アンリ・マティスは言った―――
「花はいつもどこにでもある。それを見たいと欲する気持ちさえあれば」と。
通勤途中に見過ごす街路樹の木肌が力強いぬくもりを持っていることや、
古本屋のワゴンで手に取ったすっかり紙焼けした古典詩集のなかに感じ入る一行を見つけること、
そして市民農園で育てた大根を味噌汁に入れて食べるときのおいしさには、
何か大きなものにつながっている美がある。
日々のなかに、そうやっていったん立ち止まり、
心を深くにもぐらせる暇(いとま)をつくることが大事なのだろう。
表層の刺激ばかりに反応する生活は、瞳を疲れさせるだけになる。
瞳を閉じてこそ、美はすっとにじんで立ち現われてくる。