人間の欲をめぐる悪神のささやき
5.7.3
〈悪神のささやき〉
「人生の幸福なんてもんは、“鈍感さ”で決まるのさ。
この世は鋭い人間ほど不幸を味わうように出来ているだろう。
だから幸せになりたかったら、ゆめゆめ鋭い人間にならないことだね。
幸福は絶対量じゃなく、充足度だからさ。
高いものを求めれば求めるほど、現実との差で苦しみが増す。
十の者が、殊勝にも百を求めるところから不幸は始まるんだ。
十の者が、六か七で満足していれば、それはもう幸福そのものさ。
野心にしても、向上心にしても、程々に留めておくのが賢い生き方ってもんだ」。
* * * * *
アリやミツバチ、そして人間の社会には、
『2:8(ニ・ハチ)の法則』なるものがあって、
真面目に働く者が2割・テキトーに働く者が8割で社会が回っていくらしい。
ちなみに、アリの巣から2割の働き蟻を取り除くとどうなるか?───
すると不思議なことに、
真面目な働き蟻がどこからか2割現れて巣全体が存続していくという。
……じゃ、いつまでもしぶとく、
テキトー組に居座っていたほうがラクに生きられる、そう考えたくもなる。
確かに、会社組織を見渡してみても、
問題意識が鋭敏で、仕事ができる人間にはどんどん仕事が集まってくる。
そのために、仕事で身体を壊すのは決まって、鋭敏なできる社員だ。
会社のテキトー族が過労で倒れることなど聞いたことがない。
組織内でヘタに向上意欲をもち、成長だ、変革だなとど責任感を背負って頑張るより、
叱られない程度・クビにならない程度に鈍くテキトーに立ち回る側にいたほうが
シアワセなサラリーマンライフを送れる───
これが組織の中の処世術なのかもしれない。
“テキトー”という言葉が悪ければ、”ホドホド(程々)”という表現でもいいのだが、
いずれにせよ「ホドホドは身を助ける」という生き方が勝利を得ている現象を
私たちは少なからず目にする。
しかし、実際のところ、
「あいつは適当にやっていつもラクをする人間だ」とか
「うちの部長は保身的で何もせず、ただ部下を厳しく働かせるだけの上司だ」とか、
他人にそういうレッテルを貼って、人と自分を分断させることはあまり建設的ではない。
むしろ、これは「己心の対話」としてとらえたい。
『2:8の法則』の
「2」の方に回る生き方か、
「8」に回る生き方か。
「鋭く・上を目指して」の行動を起こすのか
「鈍く・テキトーに」の行動で流すのか───。
私たち一人一人は、
心の内で常にその綱引きをしながら一瞬一瞬、一日一日、一年一年を生きている。
私たちは誰しも、「強い自分」と「弱い自分」、
「打ち勝とうする心」と「流される心」の2つをもっている。
この両者の綱引きが、10年、20年という時間を経て、
各々の人生コース・生き方の独自模様として固まっていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
〈続・悪神のささやき〉
「ほぅ、程々の生き方じゃ駄目だってことかい。
しかし、“もっともっと”っていうお盛んな欲をもった人間が
成果を一人占めしようとして、世の中の差別と蔑みを生んでるんじゃないのかい。
いったいぜんたい、おまえさんは
『2:8』の「2」の人間が、富の8割を押さえている世の中をどう思う?
我々はいまこそ古人の言葉に耳を傾けるときではないのかね。
───“足るを知れ”と」。
* * * * *
正義を行いたいとする欲望は、
いつしか独善を強いる欲望へと変わるときがある。
愛したいという気持ちは、
知らぬ間に憎んでやるという気持ちへ変じる可能性がある。
「お金をもっと稼ぎたい」という欲求が健全に仕事と生活を進める場合もあれば、
それで身を持ち崩す場合もある。
自分に湧いてくる欲望に「善」「悪」のラベルが付いているわけではない。
また、どこまでが「OK」で、
どこを超えると「OKでない」かの線引きがあるわけでもない。
だから、人間の欲望は促進すべきなのか、それとも抑制すべきなのか、
これは簡単に答えを出せる問題ではない。
欲望には、「陽の面」と「陰の面」があって、
人間を育てもするし、惑わしもする。
社会を進歩させもするし、混乱させもするのだ。
大事なことは、欲望の底にある心持ちがどうであるかだ。
もし、その欲望が、自分だけに閉じた(つまり小我的)感情で、
他と不調和的な心持ちから起こっているなら、「陰の面」が出てしまうだろう。
こんなときは、他人をかえりみず「欲を貪(むさぼ)る」、
もっと成長できるにもかかわらず「欲を怠(おこた)る」という状態が起こる。
逆に、その欲望が、社会に開いた(つまり大我的)意志で、
他と調和的な心持ちから起こっているなら、「陽の面」が出るだろう。
そのときは、健全に「欲を制する」、
自分の可能性を縦横無尽に伸ばせるよう「欲を開く」という状態になる。
ここでの悪神のささやきにはトリックがある。
悪神は「足るを知る」という玉条をもって、
欲をすべて一絡げにして“程々にせよ”と耳打ちする。
富の偏りをあげて、欲の強さを一緒くたに金欲に結びつける。
私たちが自身に求めるべきは、
欲を押し並べて“程々”にすることではない。
その欲を自己以外に開いていくことだ。
そうすれば自然と大きな智慧が湧いてきて、
貪欲でいいときと、抑制すべきときの見境がきっちりできるようになる。
賢く強く生きるために、私たちは己の欲望の主人になることだ。