5●仕事の幸福論 Feed

王国一賢い男か・王国一ハンサムな男か

5.3.5


「王国一賢い男になるよりも、王国一ハンサムな男になるほうが魅力的だ。
なぜなら、知性を理解する洞察力を持っている人間よりも、
目を持っている人間の方がはるかに多いからである」。



ウィリアム・ハズリット(19世紀英国の批評家)が吐いたこの警句には、思わずにんまりと肯定させられる。

道を究めれば究めるほど、そこは細く深い世界になっていく。
必然、その世界を評価できる人間は少なくなる。

道を究めようとする者の最大の誘惑は、
「多くの人間に認められたい」という欲求かもしれない。

しかし、そうした欲求を満たしたいなら、道を究めるよりほかの術をとったほうがいい。
「大衆から人気を得る」というのは、少し別のところの才能なのだ。

* * * * *

江戸時代の文人、大田南畝(おおた・なんぼ)は、『浮世絵類考』の中で、
浮世絵師、東洲斎写楽についてこんな記述をしている。

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「あまりに真を画かんとて
あらぬさまにかきなせしかば
長く世に行われず 
一両年にして止む」


……あまりに本質を描こうと、あってはならないように描いたので、
長く活動できずに、1、2年でやめてしまった、と。

東洲斎写楽。寛政6年(1794)、豪華な雲母摺りの「役者大首絵28枚」を出版して、
浮世絵界に衝撃デビューした彼は、翌年までに140点を超える浮世絵版画を制作したものの、
その後、忽然と姿を消した。

東洲斎写楽のあの大胆な構図の「役者大首絵」は、現代でこそ、
高い美術的価値が付いている(残念ながら最初に高い価値を与えたのは海外の国であるが)

ご存じのように、写楽の絵は、描き方がいびつ(歪)で、
あまりに歌舞伎役者の特徴をとらえすぎていた。
このことは、歌舞伎興行側・役者側からすれば好ましくないことだった。

彼らは「大スターのブロマイドなんだから、もっと忠実に、もっと恰好よく」を望んだ。
同時に、観客である庶民からもその絵は人気が出なかった。
お気に入りの役者のデフォルメされた絵など買いたいと思わなかったからだ。

版元の蔦屋重三郎は才能の目利きだったかもしれないが、
版元も商売でやっている以上、当然、多く売れるように仕向ける。
写楽に「もっと写実的に描けないか」と圧力をかけたことは容易に想像できる。

事実、「役者大首絵28枚」以降の写楽の絵はごく普通のものとなり、
明らかに生気を失くし、陳腐なものに堕していく。

写楽は非凡なる絵の才能を持ち、非凡なる絵を描いた。
無念なるかな、同時代の大衆はそれを評価できなかった。

写楽ほどの才能をもってすれば、
大衆好みのわかりやすい絵をちょこちょこと描いて、食っていくこともできたかもしれない。
しかし、それは自分をだますことになるという気持ちが強かったのだろう。

写楽のその後の人生は詳しくわかっていない。
一説には、人知れず画業の道を貫き生涯を終えたとも。

* * * * *

アメリカの音楽産業は1960年代からオーディオ製品の普及に伴って、一気に拡大を見せる。
音楽レコードはもはや一部の金持ちの趣味品ではなくなり、大衆商品になりつつあった。
その起爆剤になったのが、ロック音楽の台頭である。
1940年代からジャズ音楽界入りし、円熟の技が冴えるマイルス・デイビスもその渦中にいた。

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以下は、『マイルス・デイビス自叙伝〈2〉』
 (マイルス・デイビス/クインシー・トループ著、中山康樹訳、宝島社文庫)
からの抜粋である。


1969年は、ロックやファンクのレコードが飛ぶように売れた年で、
そのすべてが、40万人が集まったウッドストックに象徴されていた。
一つのコンサートにあんなに人が集まると誰だっておかしくなるが、
レコード会社やプロデューサーは特にそうだった。

彼らの頭にあるのは、どうしたら常にこれだけの人にレコードが売れるか、
これまで売っていなかったとしたら、
どうやったら売れるようになるかだけだった。

オレの新しいレコードは、出るたびに6万枚くらい売れていた。
それは以前なら十分な数字だったが、この新しい状況となっては、
オレに支払いを続けるには十分なものじゃないと思われていた。

1970年に『フィルモア・イースト』で、
スティーブ・ミラーというお粗末な野郎の前座をしたことがあった。
オレは、くだらないレコードを1、2枚出してヒットさせたというだけで、
オレ達が前座をやらされることにむかっ腹を立てていた。
だから、わざと遅れて行って、奴が最初に出なければならないようにしてやった。
で、オレ達が演奏する段になったら、会場全体を大ノリにさせてやった。


『フィルモア』に出ていたころ、ロックのミュージシャンのほとんどが、
音楽についてまったく知らないことに気づいた。
勉強したわけでもなく、他のスタイルじゃ演奏できず、楽譜を読むなんて問題外だった。
そのくせ大衆が聴きたがっている、ある種のサウンドを持っているのは確かで、
人気もあればレコードの売り上げもすごかった。
自分達が何をしているのか理解していなくても、
彼らはこれだけたくさんの人々に訴えかけて、レコードを大量に売っている。
だから、オレにできないわけがないし、
オレならもっとうまくできなきゃおかしいと考えはじめた。


オレには創造的な時期ってものが、いつだってあるんだ。
「イン・ア・サイレント・ウェイ」から始まった数年間は、
1枚1枚のレコードで、まったく違うことをやっていた。
どの音楽も、すべて前よりも変わっていたし、誰も聴いたことがないことをやっていた。

だから、ほとんどの批評家連中が手を焼いたわけだ。
連中は分類するのが好きで、わかりやすいように、
自分の頭のどこか決まった場所に押し込んでしまう。
だからしょっちゅう変化するものは嫌われるんだ。
何が起きているのか一所懸命理解しなきゃならないし、
そんなこと連中はしたがらない。

オレがどんどん変化しはじめると、やってることがわからなくて、
連中はこき下ろしはじめやがった。
だがオレには、批評家が重要だったことなんか一度もない。

やり続けてきたことを、そのままかまわずにやり続けるだけだった。
今だってオレの関心は、ミュージシャンとして成長すること以外にないんだ。


1971年には、ダウンビート誌でジャズマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれて、
バンドもグループ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
オレはトランペット部門でも1位になった。

オレだって賞をもらってうれしいのは事実だが、
特別大喜びするような類のものじゃないってことも確かだ。
音楽の中味と賞は、関係ない。


(1986年に)オレはホンダのバイクコマーシャルにも出たが、
そのたった一つのコマーシャルが、オレの名前を広めるという意味では
今までにやったどんなことよりも大きな効果があった。

黒人も白人もプエルトルコ人もアジア人も子供も、
オレが何をやってきたかをまったく知らない、オレの名前すら聞いたこともなかった連中が、
通りで話しかけてくるようになった。
チクショー、なんてこった! これだけの音楽をやり、たくさんの人々を喜ばせて、
世界中に知られた後に、オレを人々の心に一番強く印象づけたのが、
たった一つのコマーシャルだったなんて、クソッ。

今この国でやるべきことは、テレビに出ることだ。
そうすれば、すばらしい絵画を描いたり、
すばらしい音楽を作ったり、すばらしい本を書いたり、
すばらしいダンサーである誰よりも、広く知られて尊敬されるんだからな。

あの経験は、才能もなく、たいしたこともできない奴が、
テレビや映画に出ているというだけで、
スクリーンに現れない天才よりも、はるかに称えられ尊敬されるってことを教えてくれた。


* * * * *

純粋に己の創造を追求する者にとって、
心の奥の悪神はたびたびこうささやく───

「道を究めるなんていう高尚な生き方もなるほどけっこうだ。
しかし、賢くたって、深い世界を知ったところで、食えなきゃしょうがない。
食えなきゃ敗者だ。
大衆にモテることさ。食うのがラクになるってもんだ。

もう一度訊こう。
おまえさんは、“王国一賢い男”にも、“王国一ハンサムな男”にもなれる。
さぁ、どちらを選ぶかね?」と。



「道」をめぐる三人の言葉

5.6.4


「道に迷うこともあったが、
それはある人びとにとっては、
もともと本道というものが存在していないからのことだった」。

        ───トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』(実吉捷郎訳、岩波文庫)



『トニオ・クレエゲル』は、ドイツの文豪トーマス・マン(1929年ノーベル文学賞受賞)の若き日の自画像小説です。

主人公トニオ(若き日のマン)は2つの気質を合わせ持っている。それは彼の出自が両極端な二つの方向から来たことによる。一方には、領事を務める父から受け継ぐ北ドイツの堅気な市民精神があり、もう一方には、イタリアで生まれた母から授かった開放的な芸術家気質がある。トニオは芸術家として立つことを決意するものの、鷹揚さや官能が支配する芸術の世界にどっぷり浸ろうとしても父方の血がそれを嫌悪して許さない。はたまた、ただ誠実に凡庸に生きるという市民的な生活に安住することにも、母方の血が黙ってはいない。この二つの気質の相克のなかで、何にもなりきれないでいる自らを「道に迷った俗人」と呼んだトニオの人生は、されど続いていく……。

人生にもともと“本道”なんてものはない。───トニオが吐露したこの言葉をどう受け止めるか、ここは読者にとって重要な箇所です。

小説の中でマンはこの後に、(本道というものがないのだから)どんな道を行くのも可能と思えるし、同時に、どんな道を行くのも不可能に思える、というような表現を加えています。私たちは人生において、さまよっているときは往々にして(特に芸術家はそうですが)、強気にポジティブになるとき(躁の状態)と、弱気でネガティブになるとき(鬱の状態)が交互にやってくるものです。『トニオ・クレエゲル』は、まさに主人公がこの躁鬱の振り子を大きく往ったり来たりする日々を繊細に描いた小説です。若きマンが、その躁鬱の苦悶から安らぎを得るためにたどり着いた一種の諦観──「人生において道に迷うことは必然なのだ」──それが冒頭の言葉です。

ゲーテも『ファウスト』の中で、「人は努めている間は迷うものだ」と書いています。おそらくマンもこの一文には触れていて、心のひだで共振していたのではないでしょうか。

私は仕事のうえでキャリア形成理論をかじっています。今日の学術的考察においては、「キャリア(職業人生)というものは偶発性に左右されることが無視できない。むしろその偶発性を意図的に呼び込むなかで選択肢を拡げ、キャリアをたくましく形成していくのがよろしい」と指摘する。この分野では有名な『計画された偶発性理論』」(Planned Happenstance Theory)です。同理論を提唱する米国スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授は次のように言います。───「キャリアは予測できるものだという迷信に苦しむ人は少なくありません。“唯一無二の正しい仕事”を見つけなくてはならないと考え、それをあらかじめ知る術があるはずだと考えるから、先が見えないことへの不安にうちのめされてしまうのです」。(『その幸運は偶然ではないんです!』より)

確かにこの理論は、私も自身の20余年のキャリアを振り返ってみても、じゅうぶん理解できるものではあります。ただ、学術的知見として、観念として分かっても、やはり人生の悩みは人生の悩み。現実の自分をどこへ持っていくかは、人生の具体的課題として依然大きく眼前に横たわります。しかし、自分の歩むべき道を容易に定めることができない、その難しさこそが人生を深く、味わい深いものにしているものでもあります。

* * * * *

「道」という言葉を耳にするとき、私は反射的に、東山魁夷の描いた作品『道』を思い浮かべます。ただ一本の道が続いていく、それを清澄な空気のなかに情感豊かに描いたあの名作です。東山はこの作品についてこう語っています。

「人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、私はこの本のはじめの章に書いている。その考え方はいまも変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の据え方、その方向というものが、かなりはっきりと定まってきた気がする。

しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々(たんたん)として、在るがままに在る、ひとすじの道であった」。   (東山魁夷『風景との対話』。以下の引用も同著より)


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東山はこのひとすじの道は、自分自身がこれから歩いていく方向の道を描いたと言っています。そしてその道は、“他力”によって見えてきたのだと。彼が言う「他力」は、「他力本願」といった場合に使われるような受け身で依存的な他力ではありません。そうしたひ弱な他力ではなく、死にもの狂いの自力で努力して努力して、そこを超えたところで出合う「おおいなる何か」という意味での他力です。

2つの世界大戦をまたぐ東山の幼少期、青年期の苦労話は割愛しますが、ともかくも彼は画家として目立った成果をあげられないまま昭和20年を迎えます。そしてこの年の7月(つまり終戦の1カ月前)、よもや37歳の東山まで召集令状を受け、直ちに熊本の部隊に配属されます。そこでは爆弾を身体に巻き付け、上陸してくる米軍戦車を想定した突撃訓練が行われていました。そんな訓練が続くある日、東山は熊本城の天守閣跡に登りました。そしてその日、そこからみた眺望がその後の運命の分岐点となりました。東山はこのように書いています。

「私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を――。(中略)これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに――歓喜と悔恨がこみ上げてきた。

あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない」。


結局、東山はそのまま終戦を迎え、すんでのところで戦場行きを免れました。その魂を震撼させられた体験から2年後、『残照』が日展の特選となり、政府買い上げの作品となりました。私たちが知る日本を代表する風景画家、東山魁夷の誕生はここからといってもよいでしょう。実に遅咲きでした。

『道』を描いたのはそれから3年後の昭和25年、42歳のときです。『残照』で高い評価を得、それで有頂天になるわけでもなく、かといって、戦後の激動社会の中で画家としてやっていくことに不安や悲観に支配されるわけでもなく――そこを東山は「明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく」と表現しているわけですが――、ともかくもただ無心で眼前に現れた道を一歩一歩進んでいきたい、その心象が『道』なのです。つまり東山が言う「早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道」です。

人生の道というものを考えるとき、東山はこう表現します。

「いま、考えて見ても私は風景画家になるという方向に、だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。

(中略:人生の旅の中にはいくつもの岐路があるが)私自身の意志よりも、もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが――」。


「生かされている」や「他力によって」などの言い回しは、私個人、若い頃は受け付けませんでした。「人生を動かすのはあくまで自分の能力・努力である。運を引き付けるのも実力があってこそ。自分は自らの意志で生きている」のだと、豊かな時代に育った血気盛んな青臭いちっぽけな自信家はそう思っていました。ところがそれは本当の苦労知らず、本当の自力・他力知らずの感覚だったことを、ようやく40代も半ばを過ぎたあたりから肚でわかるようになりました。

私も仕事柄、さまざまなキャリア・働き様の人びとを観察しています。そして自分自身もそれなりの歳月を生きてきました。そこから感じることは、

自力が弱い人は、他力をあてにする。
自力が強い人は、他力を軽視する。
自力が突き抜けた人は、“おおいなる他力”と出合う。
そして真摯な気持ちをもった人は、その“おおいなる他力”に抱かれながら、
“おおいなる自力”を発揮するようになる。

『民藝』運動を起こした柳宗悦も“他力”ということについて次のように言及しています。

「実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にかかる法則が働いているためであります。これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を超えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡(すべ)てかかる大きな他力であります。

かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。

                                                            (柳宗悦『手仕事の日本』)


「欲求5段階説」で知られる心理学者のアブラハム・マスローは、その5番目にある欲求を「自己実現欲求」としました。彼もまた、この自己実現に関し、“おおいなる他力”に通底するものを指摘します。

「自己実現の達成は、逆説的に、自己や自己意識、利己主義の超越を一層可能にする。それは、人がホモノモスになる(同化する)こと、つまり、自分よりも一段と大きい全体の一部として、自己を投入することを容易にするのである」。

                                                (アブラハム・マスロー『完全なる人間』)


「他力に任せきる」、「自分よりも一段と大きい全体に自己を投入する」───過去の哲人たちがこう言い示すように、虚心坦懐に一つの物事に努力を積み重ねていけば、やがて“他力”的なる何かを感得する境地に達するのでしょう。そこで見えてくる進むべき道は、確かな道にちがいありません。こういう話をすると何か宗教臭さを感じる人もいるでしょうが、この精神性は誰もが本然的に持っているものだと思います。

いずれにせよ東山の描いた『道』をいま一度画集で見ると、迷いがなくどっしりと、清らかに澄んだひとすじの道です。とても静かな絵ですが、東山の決心が横溢と迫ってきます。

* * * * *

最後にもう一つ、「道」をめぐる言葉───

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」。

                                (高村光太郎『道程』より)


東山は他力によって、眼前に進むべき一本の道を見ました。そして高村はこれと視点が逆で、自分の後方に道を見ます(それは自らがつくった道であるわけですが)。この有名な一行においては、高村は力強い“自力”を書いているように感じます。ですが詩の全体を読むと、「自然」や「父」という語で自分を育み慈しむ“おおいなる他力”の存在を書いています。高村もまた、他力のもとの自力を覚知していたのです。

前に見えてくるものであろうと、後に出来てくるものであろうと、「道」とは、その人の決心や覚悟といったものの表れです。おのれの道を潔く真剣に歩んでいる人を、私たちは美しいと思う。




創造する心

5.3.4



◆以前と創造の感じが変わった
ここ数年、私は好んで詩の本を手に取ることが多くなった。もちろんひとつには仕事上の能力向上のためというのがある。あいまいな概念をうまく言葉として結晶化させ、受け手(=お客様)に咀嚼しやすい形で差し出すことは教育のプロとして磨かねばならない能力のひとつだ。だが、その理由以上に感じるのは、自分自身の仕事における創造や創造する心が、詩作や詩人の心とずいぶん近くなってきたからではないか―――ということである。

例えば、いま新川和江の『詩が生まれるとき』(みすず書房)と『詩の履歴書~「いのち」の詩学』(思潮社)の2冊を読んでいる。彼女は詩の生まれ出るときの様子をこう書いている―――

あ、このひと、息をしていない―――と自分で気づく一瞬が、
私にはしばしばある。われにかえり、深く息を吸いこむのだが、
多くの場合、ひとつの思いを凝(こご)らせようとしている時で、
周りの空気に少しでも漣(さざなみ)が立つと、
ゼリー状に固まりかけていた想念が、それでご破算になる。
高邁な思想や深い哲学性をもつ詩の種子でもないのだけれど、
ひと様から見ればとるに足りない小品も、そうしたいじましい時間を経て、
やっとやっと、発芽するのである。



また、「詩作」と題された詩は―――

はじめに混沌(どろどろ)があった
それから光がきた
古い書物は世のはじまりをそう記している
光がくるまで
どれほどの闇が必要であったか
混沌は混沌であることのせつなさに
どれほど耐えねばならなかったか
そのようにして詩の第一行が
わたくしの中の混沌にも
射してくる一瞬がある

それからは
風がきた 小鳥がきた
川が流れ出し 銀鱗がはねた
刳(く)り船がきた ひげ男がきた はだしの女がきた

(中略)

それが済むと
またしても天と地は
けじめもなく闇の中に溶け込み
はじまりの混沌にもどる
だから 光がやってくる最初のものがたりは
千度繙(ひもと)いても 詩を書くわたくしに
日々あたらしい



私は自らのビジネスにおいて、詩ほど純粋無垢な創造活動をやっているわけではないが、それでも、彼女の言い表そうとするこの微妙で繊細で、それでいてどこか壮大な感覚を持つことがしばしばある。だから、この文章に接したときに額のすぐ奥のほうの細胞がぴんと反応したのだ。しかし、「創造」という作業は仕事で昔から嫌というほど恒常的にやってきたはずなのに、昔はあまりこういう感覚にはならなかった。

それはなぜだろうと、少し考えを巡らせてみる……。

企業勤めをやっていたころの創造は、マスの顧客に受けようとする企てや仕掛け、あるいは、何かゲームに勝つことの戦略や目論見のような類のもので、そこでうまく創造ができると、「してやったり!」といった痛快さを得るものであった。

それに対し、いまの仕事での創造は(主には教育プログラムをつくることであるが)、何か自分から滲み出た(絞り出したといったほうが適切だろうか)作品を売っているそんなような類のものになった。うまく創造ができると「そうか、自分はこんなものをつくりたかったんだ」という驚きがある。このように、以前の創造といまの創造は何か別のものになった。


◆創造することの広がり図
そこできょうは、「創造」あるいは「創造する心」について整理してみたい。まず、創造することにつき、次の4つの創造の軸を考える。
 
  ・「真」を求める創造
  ・「美」を求める創造
  ・「利」を求める創造
  ・「理」を求める創造

これら4つの軸で図を描くと下のようになる。

534



〈1〉真/美を求める「芸術」的創造
創造といえば、大本命はここである。言葉を紡ぐ、物語を編む、句を詠む、曲を書く、音を奏でる、歌を歌う、絵を描く、形を彫る、器を焼く、書を認める、舞いを舞う、茶を立てる……。これら美を追求する創造は、それ自体が目的となり、よいものが出来たことこそが最大の報いとなる。

もちろんここでいう芸術的創造は芸術家の作品だけにかぎらない。暮れ泥(なず)む光の中で普段の道を歩き、ふと季節の変わり目の風を感じたとき、その驚きを何か手帳に書き留めておきたい、そうした詩心による作文も立派な創造である。また子供が白い画用紙に無心で描きなぐる絵も、浜辺で夢中でこしらえる砂のお城も芸術的創造だ。

芸術的創造は、表現を極めていけばいくほど、それは求道となり、その先に見えてきそうな真なるものを見出したいという想いへと昇華していく。その昇華の過程では、創造は感性的な表現という優雅なニュアンスではなくなり情念の噴出を形として留める闘いに変容する。

〈2〉美/利を求める「生活」的創造
生活の中では実にいろいろな知恵が起こる。これは日常を美しく生きたい、便利に暮らしたいという気持ちから起こる創造である。例えば家電製品や生活雑貨の商品開発においては、ユーザーの使い勝手がいいように機能や形状を考えに考える。これはこの生活的創造の次元に立った作業である。

〈3〉利/理を求める「戦略」的創造
武力戦争にせよ、ビジネス戦争にせよ、戦いの場では勝利・生き残りをかけて、創造が活発に起こる。それは覇権を握るための仕組みづくりであったり、競争優位に立つための改良・改善であったり、相手を陥れるための謀(はかりごと)や実利を得るための駆け引きであったりする。ここでは、データを分析し、ロジックに考え、勝てる確率を客観的に上げていくという創造が行われる。

〈4〉理/真を求める「研究」的創造
20世紀、アインシュタインが残した世界最大級の創造は、E=mc2という数式。自然科学の世界の創造とは、物事を理で突き詰めていき、「多を一で説明ができる」法則を発見することだ。科学者の研究にせよ、学童の自然観察にせよ、その創造の源泉は、万人の心の中にある好奇心である。「なぜだろう?」「なんだろう、これ?」―――この単純な問いかけこそこの宇宙を貫く“大いなる何か”への入り口なのだ。

このように創造と言ってもさまざまに広がりがあり、私たちはその広がりの中のさまざまな地点で創造を行っている。

で、先ほど、私自身の仕事上の創造を振り返り、以前の創造といまの創造はどこか別物になったような気がする、書いた。その“別ものになった”をよくよく考えていくと、実はこの図でいう創造の地点が変わったからではないか、ということに行き着いた。

つまり、以前の仕事では自分の創造(あるいは、創造する心)が主に、利×理を求める「戦略」象限でなされていたのに対し、現在の仕事では、真×美を求める「芸術」象限、より正確に言うと、「芸術」象限の中でも、真×理を求める「研究」象限との境に近いところ、でなされるようになった。私は日々、ビジネスを真剣にやってはいるものの、いまの創造は、競争戦略のための創造というより、詩作に近い創造なのだ。だから詩人の言葉に響くのだと思う。


◆「うわべの理×利得」の創造に偏っていないか
もとより創造は人間に備わった素晴らしい能力である。図の4象限のうちのどんな位置で行われる創造であっても、創造は価値あるものだし、創造はやっている本人に面白みも、充実感も与えてくれる。

しかし、私が感じるのは、昨今の企業現場での創造が、あまりに経済的な「利」にとらわれ、同時に、あまりに「理」がうわべだけの知識使いになっていないか、そしてそのために創造が何かギリギリと尖り、ペラペラと薄くなっていないか―――そんな点だ。

マックス・ヴェーバーは『職業としての学問』でこう語る。

「情熱はいわゆる『霊感』を生み出す地盤であり、
そして『霊感』は学者にとって決定的なものである。
ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作成室で取り扱う
計算問題になってしまったかのうように考える。
ちょうど『工場で』なにかを製造するときのように、学問というものは、
もはや『全心』を傾ける必要はなく、
たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまった」。



この中の「学問」という単語を「仕事」に置き換えてもまったく有効である。言うまでもなく、ここでヴェーバーが使う「霊感」とは、単なるひらめきよりもずっと深い意味を込めている。ましてやオカルト的な怪しげなものを言っているのでもない。霊感とは、何か大いなるものとつながっている智慧の一種だ。

企業の現場では、ますます大量のデータを蓄積し、情報分析の手法を編み出し、こぞってロジカルシンキングを重視し、理知的に創造をさせようとする。そしてその創造は競争に勝ち残る、利益を獲得するという目的に向けられている。創造を「理×利」の方向に押し進めれば押し進めるほど、私たちは霊感(語感が重ければ“インスピレーション”と言ってもいい)による創造からどんどん遠ざかってしまう。

理知的に利益を求める創造が悪いと言っているのではない。「理×利」の創造は、果たして霊感から遠ざかることを補うに余りある創造を私たちにもたらしているのだろうか?―――その点を見つめたいのだ。

評論家の小林秀雄は、現代人の感受性・思考についてさまざまに指摘している。
(以下引用『人生の鍛錬』より)

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、
無常という事がわかっていない。
常なるものを見失ったからである」。

「古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ位鋭敏なものであった。
吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺戟を受けて
神経の分裂と錯雑とを持っているに過ぎない」。

「能率的に考える事が、
合理的に考える事だと思い違いをしているように思われるからだ。
当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)
考えれば考えるほどわからなくなるというのも、
物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。
だが、これは能率的に考えている人には異常な事だろう」。



私たちは知識や情報を駆使することで理知的に賢くなっている、そう思いがちだ。しかし、小林はむしろ現代人の退化を喝破する。その要因を心理学者の河合隼雄は次のように一言で表す。

「現代人は『信ずる』ことよりも、『知る』ことに重きをおこうとしている」。

                                            ───『生きるとは自分の物語をつくること』より



現代人は確かにさまざまに創造はしているけれども、ほんとうに深く大きな創造をしているのか。そして何よりも、創造のほんとうの喜びを得ているのか……。霊感や信ずることを排除してしまい、人間が古来持ってきた“何か大事な創造の心”を失いかけているいま、私たちは次の言葉を再度噛みしめたい。

「Wonder is the basis of worship.」
(不思議だという驚きは崇敬の地盤である)
        ―――トーマス・カーライル(英国の歴史家)

「ものをみるために、私は目を閉じるのです」。
        ―――ポール・ゴーギャン(フランスの画家)

「静に見れば、もの皆自得すと云へり」。
        ―――松尾芭蕉



ちなみに、松尾芭蕉のこの言葉について、日本画家の東山魁夷は、「自己の利害得失を離れて虚心にものを見れば、その時はじめて、天地の間に存在する万物がそれぞれの生命をもって十全とした姿を現す。そうした対象と自己とが深い所でつながったときの喜びを芭蕉は記したのではないか」と『風景との対話』の中で書いている。

ビジネスは生き残りをかけた戦争なんだから、そこに詩人の心を持ち込むのはお門違いである、あるいは、ナイーブすぎると反論があるかもしれない。そのとき私は言いたい―――目の前の仕事に詩的創造を加える人は、その仕事をほんとうに楽しめる人だ。そしてまた、詩心をもった人こそがビジネスをやることで、経済は地球的規模で変わっていく。



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