5●仕事の幸福論 Feed

「ゲーム」としての仕事・「道」としての仕事

5.3.2



いまではすっかり過去の横綱となった朝青龍関。能力・成績においては大横綱といってよいほどの存在だったが、引退の引き金となった横綱品格問題は、世間を二分するほどの話題となった。角界のしきたりを守らない奔放な言動に、街の声は、「真剣に反省していないんじゃないの。横綱として問題あり」というものと、「やっぱり強い横綱がいればこそ場所が盛り上がる」というものとで、良くも悪くも相撲への注目は高まった。

私個人の中でも、やはり横綱たる者、相応の品格を備えてほしいという思いと、多少破天荒で逸脱したキャラクターであっても、強くて魅力的な取組を観せてくれるならそれでよし、という思いが微妙に交錯した。これら2つの相反する思いにかられるのはなぜだろう。


◆求めるものが異なる「ゲーム」と「道」
それは、相撲という日本の伝統競技を

相撲スポーツ=「ゲーム」とみるか、
相撲道=「道」とみるか、

の観点で思いが違ってくるからではないか。
(*ここでの「ゲーム」とは、遊興としてのゲームよりももっと広い意味である)

「ゲーム」とは───
 ・他者と勝敗を決するための能力的(知能・技能)活動であり、
 ・そこには競争・比較・優劣がある
 ・最上の価値は「勝つこと・覇権を取ること」にある
  そして勝つことによって他者から賞賛を得たいと思う=成功の喜び 
 ・ルールの下で合理的、技巧的、戦略的なやり方を用い、
  客観的に定量化された得点を他者よりも多く取ったほうが勝者となる
  そのときの優越感、征服感がプレイヤーを満足させる

他方、「道」とは───
 ・真理会得のための全人的活動であり、
 ・そこには修養・鍛錬・覚知がある
 ・最上の価値は「技と観を得る」ことにある
  それは一人のなかでの喜びである(他者からの賞賛を必ずしも欲しない)=求道の喜び
 ・しきたりや慣わし・型・格・美を重んじ、
  真理を追究する過程における世俗超越性・深遠性が行者を引き込んでいく


 
このように、ゲームと道とは、どこか似通っていながら、実は両極のものであるようにも思える。朝青龍関をめぐる二分する思いも、「ゲームとしての相撲」からすると、強いプレイヤーの存在→ガンバレ!となるし、「道としての相撲」観点からすると、横綱失格→残念・けしからんとなるわけである。

ところでその一方、朝青龍と並んで、毎度の場所でひときわ人気を集めていたのは角番大関・魁皇であった。相撲ファンが魁皇関を応援するのは、もう勝ち負けということより、カラダがボロボロになってもひたむきに相撲「道」を求めようとするその姿であった。

ボロぞうきんになるまで現役にこだわり続ける。それは、三浦カズ、桑田真澄、野茂英雄もそうだった。彼らはすでに肉体的なピークを過ぎ、ゲームプレイヤーとしての最上価値である「勝つこと」からはどんどん遠ざかりつつも、サッカー道、野球道を求めてやまない。そんな姿は、多くの日本人の心のヒダに染み入ってくるものがある。


◆「よい仕事」とは?
「ゲーム」なのか、それとも「道」なのか……それは組織が行う「事業」や、個人が行う「仕事」にもいえる。

私はかつて出版社でビジネス雑誌の編集をやっていたころ、年間で100人近い経営者やビジネスパーソン、フリーランス、職人たちにインタビューをしていた。そこで感じたのは、企業のなかでビジネスをしている人たちは、事業や仕事を「ゲーム」(=利益獲得競技)ととらえる場合がとても多いということだった。そのために彼らはよく戦略・戦術の用語をよく使う。一方、フリーランスや職人になると、事業や仕事を「道」ととらえる割合が多くなる。もちろん一人の心の中で、事業・仕事は道かゲームかというのは、白か黒かという立て分けではなく、あいまいなグレー模様でとらえるわけであるが。

「よい事業・よい仕事」とは、どんなものだろうか? この問いの答えは、千差万別に出てくるだろう。それは、「よい横綱」とはどんな横綱かと問うのと同じように。

「事業・仕事はゲームである」という観点に立てば、戦略・戦術的な思考に立ち、競争相手をつねに意識し、利益・年収といった得点をどんどん上げていく、そうした勝ち組になることがよいことになる。ただ、その成功欲が過ぎると、独りよがりになったり、手段を選ばずとなったり、つまりは品格の問題が出てくる。「ともかく強けりゃイイ」という朝青龍的行き方がここにあるわけだが、さて、あなたはこの行き方を選ぶかどうかだ。選ぶのも面白いと私は思うし、選ばないのも熟慮のひとつであると私は思う。どちらが正解であると決めつけはできない問題だ。

私はビジネス雑誌の取材を通し、中小企業の経営者、そして独立自営の建築家やデザイナー、また工芸品職人などともよく話をした。そこには確かに、金儲けはヘタかもしれないけれど、堅気に自分の信念を貫き、時代の荒波のなかで生業を継続させている人たちがいた。彼らは「道」としての事業・仕事を一所懸命にやっている。そこにもまたひとつの「よい事業・よい仕事」の姿がある。


◆事業・仕事が過度にゲーム化する現代
マックス・ヴェーバーは、1904-1905年の著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、「資本主義の初期においては、仕事の目標は神の恩寵の証しにあった。しかし、アメリカでは富の追求はその宗教的、倫理的意味を失いはじめ、営利活動は、いまや世俗的情熱と結合してスポーツの性格を帯びている」と指摘した。それからおよそ110年が経ち、ビジネスは完全にグローバルな市場を舞台とした利益獲得競技になったといえる。そしてそれを取り仕切る経営者たちの一部には、利己的な拝金主義に陥る姿もある。

加えて、そうした経営の内実を問わず、結果的に儲けた経営者をビジネスヒーローとして簡単にあおるメディアの軽さも目に付く。メディアもまた、そうした大衆に受ける記事を売ることで部数獲得ゲームに勝とうとする心理があるからだ。

さらには、投資家・株主も経営者に対して間断なきプレッシャーをかける。経営者に品格があろうとなかろうと、ともかくゲームに勝て、株価を上げろ、配当を上げろ、のプレッシャーである。問題が複雑であるのは、その投資家・株主の一部が、いまや株を購入する一般のサラリーパーソンたちであることだ。彼らは株主の立場で、企業が儲けることにプレッシャーを与える側に回ると同時に、働く現場では経営層から「もっと利益が出るように働け」とプレッシャーを受ける側でもあるのだ。

資本主義経済という一大システムが織り成すゲームは、実に複雑で巧妙である。だからこそ事業経営というゲームは面白くてたまらない。勝てば勝つほどに、富が手に入り、その富は(このシステム下では)また富を生む。富はさまざまな欲望も満たしてくれる。逆に言えば、貧はますます貧を呼ぶ。資本主義下のゲームは、その意味で“中毒的で暴力的”ともいえる。ゆえに、事業経営には一方で「道」というものがいる。


◆求道というそのプロセスにすでに幸福がある
経営者のみならず、一人の働く人間にとっても自らの仕事人生がこのゲーム回路に過度にはまり込まないよう、自分の仕事を「道」としてとらえる意識が必要になる。

ただ、企業のなかで働くサラリーパーソンにとって、自分の業務に対し、「道」の意識を持てるかどうか、それは実質的にひじょうに難しい問題ではある。分業化され、目標数値が与えられ、やらされ感のある仕事に、どう求道心を燃やし、何を極めていけというのか、という人は大勢いるだろう。

本項では、仕事をゲームか道かという二項で考察しているが、実際のビジネス現場では、ゲームとしての仕事の面白さを感じることもなく、道としての仕事の奥深さも得ることなく、むしろ、仕事は「生活のために我慢してやるもの」という冷めた意識が大多数だったりする。そうした問題の深掘りは別の箇所でやるとして、ここで私が言いたいのは、仕事をある部分でも道としてとらえることができるなら、その人は働くことの幸福を手に入れているということだ。

すなわち、道としての仕事を行っている人は、求道というそのプロセスにおいて全人的に没頭することができ、その時点ですでに幸福を味わっているのである。その点、ゲームとしての仕事を行っている人は、得点による勝利を得ないかぎり満足感は湧いてこないし、いったん勝ったとしても次の敗北におびえなくてはならない日々が続く。彼らの勝利や成功は消費されるからである。だからゲームに生きる人間は、次の勝利、次の成功へと間断なく心身を駆り立てられることになる。ゲームが中毒的であるとはこのことだ。

私自身、30代半ばまではゲームとしての仕事を楽しんできたように思う。しかし次第に、そのゲームが追う勝利や成功といったものに疲れたり、疑問を持ったりした。いまでは道としての仕事を追い求める行き方に完全に変わった。成功を欲するのではなく、道を欲する。すると気がつけば(結果的に)「あぁ、この仕事をやっていて幸せなんだな」と思えるようになった。40代前半にしてようやくである。

朝青龍関(本名:ドルゴルスレン・ダグワドルジ)は相撲を引退して、次は何の「ゲーム」の成功を目指すのだろう? それとも、何かの「道」を見つけるだろうか?







「請求書的」祈り・「領収書的」祈り

5.3.3



年始に原稿に向かっている。きょうは「祈り」というテーマで書きたい。正月3が日のテレビニュースの定番といえば初詣。世の中や生活が平和であれば益々の安泰を願い、不景気で不安定であれば、よりよくなることを願う。人びとの心の中から祈りが消えることはない。しかし、私個人は、この年始イベントとしての初詣風景を、少し距離を置いて見ている。一つには、一部の寺社に商業主義めいたものが目に付くこと。そしてもう一つには、参拝客の「祈りの姿勢」にある。

もちろん商業主義に走らないまっとうな寺社もあるし、真摯な信仰心で詣でる人はたくさんいる。私自身も信仰心が篤いほうだが、私は近所の多摩川に出て、昇りゆく太陽に一人静かに祈りを立てるだけのスタイルでやっている。


◆請求書的祈り・領収書的祈り

仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには2つの種類があることをうまく表現している。

「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、私は『請求書的祈り』と名付けていますが、本物の宗教心というのは、“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という『領収書的祈り』なんです」。
―――『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より



私が一億総初詣に「どうもなぁ」と思ってしまうのは、その多くが『請求書的祈り』になっていやしないかと思うからだ。そこには賽銭(さいせん)も飛び交う。これで本当に願いがかなってしまうのなら、私はその神仏や信仰心(?)は、逆に、あやういものだと思う。


◆職人の心底に湧く「痛み」

そんなことを前置きとしながら、ここからは「仕事・働くこと」の要素も含めながら「祈り」を考えていきたい。「祈り」について、私が著書でよく引用するのが次のお二人の言葉である。西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った知る人ぞ知る宮大工の棟梁である。彼は言う―――

「五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向かって一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないんです。おんぼろになって建っているというんやないんですからな。
しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ。・・・生きてきただけの耐用年数に木を生かして使うというのは、自然に対する人間の当然の義務でっせ」。 
 ―――『木のいのち木のこころ 天』より



もう一人は染織作家で人間国宝の志村ふくみさん。淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮をはいで樹液を採るのだが、春の時期のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、あのピンク色は出ないのだという。秋のころの桜の木ではダメなのだ。

「その植物のもっている生命の、まあいいましたら出自、生まれてくるところですね。桜の花ですとやはり花の咲く前に、花びらにいく色を木が蓄えてもっていた、その時期に切って染めれば色が出る。
・・・結局、花へいくいのちを私がいただいている、であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、いただいたということのあかしが、、、。

自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、私がいただくんだから、やはり私の中で裂(きれ)の中で桜が咲いてほしいっていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。 
 ―――梅原猛対談集『芸術の世界 上』より




◆いかなる仕事も自分一人ではできない

仕事という価値創造活動の入り口と出口には、インプットとアウトプットがある。ものづくりの場合であれば、必ず、入り口には原材料となるモノがくる。そして、その原材料が植物や動物など生きものであれば、その命をもらわなければならない。

古い言葉で言えば「殺生」である。

そのときに、アウトプットとして生み出すモノはどういうものでなくてはならないか、そこにある種の痛みや祈り、感謝の念を抱いて仕事に取り組む人の姿をこの二人を通して感じることができる。

毎日の自分の仕事のインプットは、決して自分一人で得られるものではなく、他からのいろいろな生命、秩序、努力によって供給されている。例えば、いま私はこうして原稿を書いているが、まずは過去の賢人たちが著した書物が私に知恵を与えてくれている。また、この原稿をネットにアップしようとすれば、ネット回線の維持・保守が必要であり、ブログサイトをきちんと運営してくれる人の労力がいる。

さらに、こうして考えるためには、私の頭と身体に栄養が必要で、昼に食べた雑煮(そこには出汁にとった昆布や鶏肉、そして餅の原料となるコメ)がその供給をしてくれている。それら、昆布やら鶏やらコメの命と引き換えに、この原稿の一文字一文字が生まれている。だからこそ、古人たちは、食事の前後に「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

そんなこんなを思い含んでいけば、自分が生きること、そして自分が働くことで何かを生み出す場合、他への恩返し、ありがとうの気持ちが自然と湧いてくる―――これこそが祈りの原点だと思う。


◆「よい仕事」とは?

物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが、何かとビジネス社会では尊ばれるが、これらは「よい仕事」というよりも「長けた仕事」というべきだろう。「よい仕事」とは、真摯でまっとうな倫理観、礼節、ヒューマニズムに根ざした「祈り」の入った仕事をいうのだと思う。

私たちは、いつの間にか、生きることにも働くことにも、効率やスピード(即席)、利益ばかりに目がくらんで、大事な祈りを忘れている。ましてや、祈りにも効率や即席を求めるようになった。普段の仕事現場で、自然の感覚から仕事の中に「祈り=ありがとう、そしてその恩返し」を込められる人は、おそらく「よい仕事」をしている人で、幸福な仕事時間を持っている人である。これらをないがしろにして、「さ、正月だ、初詣だ、賽銭だ、儲かりますように(柏手:パンパン)」ということに、私は閉口する。


◆祈りの三段階

宗教学者の岸本英夫氏は『宗教学』の中で、信仰への姿勢を3段階に分けている。すなわち、「請願態」、「希求態」、「諦住態」である。

1番めの請願態とは、先の請求書的祈りと同じく、神や仏、天、運といったものに何かご利益を期待する信仰の姿勢である。2番めの希求態は、信仰の根本となる聖典に示されているような生活を実践して、真理を得ようとする求道の姿勢である。そして3番めの諦住態とは、信仰上の究極的価値を見出し、その次元にどっしりと心を置きながら、普段の生活を営んでいく姿勢をいう。

振り返ると私たちは、自分たちの祈りがついつい請求書的になっていないだろうか───
 「もっと給料を上げてほしい(これだけ頑張ってんだから)」、
 「もっと自分を評価してほしい(この会社の評価システムはおかしいんじゃないか)」、
 「上司が変わればいいのに(まったくもう、やりにくくてしょうがない)」、
 「宝くじが当たりますように(会社を辞めてもいいように)」など。

こうした祈りは、自分の中にエネルギーを湧かせることはなく、むしろエネルギーを消耗させるものである。祈りの質を、本来のものに戻していかなければならない。信仰も仕事も一つの道と考えれば、大事な姿勢というのは2番目の希求態と3番目の諦住態である。

その2つのエッセンスを一言で表現すれば、「覚悟」ではないか。ほんとうの祈りとは、「他からこうしてほしい」とおねだりすることを超えて、「自分は自分が見出した意味のもとに何があってもこうする!」という覚悟であるべきなのだ。「誓願」といってもいいかもしれない。まず誓いがあって、そのもとでの願いである。祈りがそうした覚悟にまで昇華したとき、おそらくその人は、嬉々として、たくましく、いかなる困難が伴ったとしても強く動けるはずだ。

私は、祈りの理想形を「ろうそく(蝋燭)モデル」としてとらえている。

つまり、ろうそくのろうの部分が「ありがとう」という感謝の念。ろうそくの芯の部分が、「自分の覚悟」。そして、そのろうと芯を燃やして「具体的行動・仕事」という炎を明々と灯す。炎がつくる明かりは世の中を照らすのみならず、自分が進んでいく前をも照らす。こうしたろうそくが1本2本……何百万本、何千万本と増えていくことが、世の中がほんとうに強く動いていくことだと思う。

「ありがとう」と「覚悟」から生まれる祈り───私は、働くことや生きることの中心にこれを据えていきたい。



仕事の最大の報酬は「次の仕事機会」

5.2.1


大地は耕作者にさまざまなものを与える。
春には耕作する希望、そして耕作の技術。
夏には作物が育つ喜び。
秋には収穫物を食すること。
冬には安らかな休息。
そして、忘れてならないのは、―――果実の中に忍び入れられた“種”。
この種によって、耕作者は来年もまた耕作が可能になる。



* * * * *

仕事をしたとき、それがもたらす報酬とは何だろう? 「報酬」という言葉を辞書で調べると「労働に対する謝礼のお金や品物」と出てくる。確かに、報酬の第一義はカネやモノである。しかし、仕事が、それを成し遂げた者に対して与えてくれるのは、そうした目に見えるものだけとはかぎらない。
仕事を成し遂げることによって、私たちは能力も上がるし、充実感も得る。それと同時に、いろいろな人とのネットワークも広がる。そう考えると、仕事の報酬には目に見えないものもさまざまありそうだ。ここでは、仕事の報酬にどのようなものがあるか考えてみたい。

◆目に見える報酬
【1:金銭】
金銭的な報酬として、給料・ボーナスがある。会社によってはストックオプションという株の購入権利もあるだろう。働く者にとって、お金は生計を立てるために不可欠なものであり、報酬として最重要なもののひとつである。

【2:昇進/昇格・名誉】
仕事をうまくこなしていけば、組織の中ではそれ相応の職位や立場が与えられる。職位が上がれば、自動的に仕事の権限が増し、仕事の範囲や自由度が広がる。昇給もあるので結果的には金銭報酬にも反映される。また、きわだった仕事成果を出せば表彰されたり、名誉を与えられたりする。

【3:仕事そのもの(行為・成果物)】
モノづくりにせよ、サービスにせよ、自分がいま行っているその仕事の行為自体を報酬と考えることもできる。たとえばプロスポーツ選手の場合、その試合に選出されプレーできること自体がすでに報酬である。また、自分の趣味を仕事にして生計を立てられる人は、その仕事自体がすでに報酬となっている。
さらに、仕事でみずからが生み出した成果物は、かけがえのない報酬である。たとえば私はいま、この原稿を一行一行書いているが、この原稿がネットに上がって読まれたり、印刷されて一冊の本となったりすることは、とても張り合いのある報酬である。

【4:人脈・他からの信頼・他からの感謝】
ひとつの仕事を終えた後には、協力しあった社内外の人たちのネットワークができる。もし、自分がよい仕事をすれば、彼らからの信頼も厚くなる。こうした関係構築はその後の貴重な財産になる。
また、よい仕事は他から感謝される。お客様から発せられる「ありがとう」の言葉はなによりもうれしいものである。

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◆目に見えない報酬
さて、以上の報酬は、自分の外側にあって目に見えやすいものである。しかし、報酬には目に見えにくい、自分の内面に蓄積されるものもある。

【5:能力習得・成長感・自信】
仕事は「学習の場」でもある。ひとつの仕事を達成する過程で私たちは実に多くのことを学ぶ。仕事達成の後には能力を体得した自分ができあがる。また、仕事を完成させて自分を振り返ると「ああ、大人になったな」とか「一皮むけたな」といった精神的成長を感じることができる。その仕事が困難であればあるほど、充実感や自信も大きくなる。こうした気持ちに値段がつけられるわけではないが、自己の成長として大変貴重なものとなる。考えてみれば、会社とは、給料をもらいながらこうした能力と成長を身につけられるわけだから、実にありがたい場所なのである。

【6:安心感・深い休息・希望・思い出】
人はこの世で何もしていないと不安になる。人は、社会と何らかの形でつながり、帰属し、貢献をしたいと願うものである。米国の心理学者アブラハム・マズローが「社会的欲求」という言葉で表現したとおりである。人は仕事をすること自体で安心感を得ることができる。
また、仕事をやりきった後の休息は心地よいものである。そして、仕事は未来には希望を与え、過去には思い出を残してくれる。

【7:機会】
さて、仕事の報酬として6つを挙げたが、忘れてはならない報酬がもう1つある。
―――それは「次の仕事の機会」である。

次の仕事の機会という報酬は、上の2~6番めの報酬(つまり金銭を除く報酬)が組み合わさって生まれ出てくるものだ。機会は非常に大事である。なぜなら、次の仕事を得れば、またそこからさまざまな報酬が得られるからである。そしてまた、次の機会が得られる……。つまり、機会という報酬は、未来の自分をつくってくれる拡大再生産回路の“元手”あるいは“種”になるものである。「仕事」は、次の「仕事」を生み出す仕組みを本質的に内在している。
報酬としてのお金は生活維持のためには大事だ。しかし、金のみあっても能力や成長、人脈を“買う”ことはできないし、ましてや次の仕事機会を買うこともできない。そうした意味で、金は1回きりのものである。


◆「よい回路」と「わるい回路」
キャリア形成と年収において、「よい回路」に入っている人と、「わるい回路」に入っている人と2種類あるように思う。

「よい回路」に入っている人は、目の前の仕事(それがたとえつまらなそうな内容であっても)に自分なりの意義を付加し、そこから成長なり、人脈なり、信頼なりを獲得できるよう仕事にはたらきかけをし、仕事の掘り起こしをやり、仕事をやりきることを習慣にしている。言ってみれば、仕事を「よい仕事」につくり変えているのだ。そして周囲からの信頼を得、「よい仕事機会」(=チャレンジングなプロジェクト)を手にしていく。その「よい仕事機会」には、「よい仲間」も集まってくる。そうしてさまざまに自分を発展させていくのだ。あるとき気づいたら納得のいく年収が得られていた───これが「よい回路」だ。

ところが一方、現職を「給料が安いからダメだ」とか、「年収が上がる転職はないか」とか、そういった金銭的な単一尺度で、仕事や会社をみている人は「わるい回路」に陥る。年収の多寡を最優先に置く人ほど、仕事を労役と考え、足下の仕事をつくり変えたり、掘り起こしたりしようとはしない。ともかく給料はつらい労働の対価なんだから、せめていい金額をもらえないとやっていられないという心境で仕事に向かっている。だから、もっと割のいい金銭的報酬をくれるところはないかと、つねに目がをうろちょろさせる───これが「わるい回路」だ。

もちろん、不当に安い給料で我慢することはない。労働者の権利として正当な報酬は手にすべきである。ここで主張したいのは、キャリアの発展は金を追うことからは始まらないということだ。仕事そのものに手をかけ、周囲の信頼を得、そして機会をつくり出していくこと。志に満ちた仲間のなかに入っていくこと(あるいは引き寄せていくこと)。これこそが自分の仕事人生を膨らませ、充実したものにしていくための確実な道である。

最後に、仕事の報酬について、ジョシュア・ハルバースタム著『仕事と幸福そして人生について』から言葉を抜いておく。

○「お金はムチと同じで、人を“働かせる”ことならできるが、“働きたい”と思わせることはできない。仕事の内容そのものだけが、内なるやる気を呼び覚ます」。

○「迷路の中のネズミは、エサに至る道を見つけると、もう他の道を探そうとしなくなる。このネズミと同じようにただ(金銭的)報酬だけを求めて働いている人は、自分がしなければならないことだけをする。

○「創造性は、それ自体が報酬であり、それ自体が動機である」。





                       

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