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「ゲーム」としての仕事・「道」としての仕事

5.3.2



いまではすっかり過去の横綱となった朝青龍関。能力・成績においては大横綱といってよいほどの存在だったが、引退の引き金となった横綱品格問題は、世間を二分するほどの話題となった。角界のしきたりを守らない奔放な言動に、街の声は、「真剣に反省していないんじゃないの。横綱として問題あり」というものと、「やっぱり強い横綱がいればこそ場所が盛り上がる」というものとで、良くも悪くも相撲への注目は高まった。

私個人の中でも、やはり横綱たる者、相応の品格を備えてほしいという思いと、多少破天荒で逸脱したキャラクターであっても、強くて魅力的な取組を観せてくれるならそれでよし、という思いが微妙に交錯した。これら2つの相反する思いにかられるのはなぜだろう。


◆求めるものが異なる「ゲーム」と「道」
それは、相撲という日本の伝統競技を

相撲スポーツ=「ゲーム」とみるか、
相撲道=「道」とみるか、

の観点で思いが違ってくるからではないか。
(*ここでの「ゲーム」とは、遊興としてのゲームよりももっと広い意味である)

「ゲーム」とは───
 ・他者と勝敗を決するための能力的(知能・技能)活動であり、
 ・そこには競争・比較・優劣がある
 ・最上の価値は「勝つこと・覇権を取ること」にある
  そして勝つことによって他者から賞賛を得たいと思う=成功の喜び 
 ・ルールの下で合理的、技巧的、戦略的なやり方を用い、
  客観的に定量化された得点を他者よりも多く取ったほうが勝者となる
  そのときの優越感、征服感がプレイヤーを満足させる

他方、「道」とは───
 ・真理会得のための全人的活動であり、
 ・そこには修養・鍛錬・覚知がある
 ・最上の価値は「技と観を得る」ことにある
  それは一人のなかでの喜びである(他者からの賞賛を必ずしも欲しない)=求道の喜び
 ・しきたりや慣わし・型・格・美を重んじ、
  真理を追究する過程における世俗超越性・深遠性が行者を引き込んでいく


 
このように、ゲームと道とは、どこか似通っていながら、実は両極のものであるようにも思える。朝青龍関をめぐる二分する思いも、「ゲームとしての相撲」からすると、強いプレイヤーの存在→ガンバレ!となるし、「道としての相撲」観点からすると、横綱失格→残念・けしからんとなるわけである。

ところでその一方、朝青龍と並んで、毎度の場所でひときわ人気を集めていたのは角番大関・魁皇であった。相撲ファンが魁皇関を応援するのは、もう勝ち負けということより、カラダがボロボロになってもひたむきに相撲「道」を求めようとするその姿であった。

ボロぞうきんになるまで現役にこだわり続ける。それは、三浦カズ、桑田真澄、野茂英雄もそうだった。彼らはすでに肉体的なピークを過ぎ、ゲームプレイヤーとしての最上価値である「勝つこと」からはどんどん遠ざかりつつも、サッカー道、野球道を求めてやまない。そんな姿は、多くの日本人の心のヒダに染み入ってくるものがある。


◆「よい仕事」とは?
「ゲーム」なのか、それとも「道」なのか……それは組織が行う「事業」や、個人が行う「仕事」にもいえる。

私はかつて出版社でビジネス雑誌の編集をやっていたころ、年間で100人近い経営者やビジネスパーソン、フリーランス、職人たちにインタビューをしていた。そこで感じたのは、企業のなかでビジネスをしている人たちは、事業や仕事を「ゲーム」(=利益獲得競技)ととらえる場合がとても多いということだった。そのために彼らはよく戦略・戦術の用語をよく使う。一方、フリーランスや職人になると、事業や仕事を「道」ととらえる割合が多くなる。もちろん一人の心の中で、事業・仕事は道かゲームかというのは、白か黒かという立て分けではなく、あいまいなグレー模様でとらえるわけであるが。

「よい事業・よい仕事」とは、どんなものだろうか? この問いの答えは、千差万別に出てくるだろう。それは、「よい横綱」とはどんな横綱かと問うのと同じように。

「事業・仕事はゲームである」という観点に立てば、戦略・戦術的な思考に立ち、競争相手をつねに意識し、利益・年収といった得点をどんどん上げていく、そうした勝ち組になることがよいことになる。ただ、その成功欲が過ぎると、独りよがりになったり、手段を選ばずとなったり、つまりは品格の問題が出てくる。「ともかく強けりゃイイ」という朝青龍的行き方がここにあるわけだが、さて、あなたはこの行き方を選ぶかどうかだ。選ぶのも面白いと私は思うし、選ばないのも熟慮のひとつであると私は思う。どちらが正解であると決めつけはできない問題だ。

私はビジネス雑誌の取材を通し、中小企業の経営者、そして独立自営の建築家やデザイナー、また工芸品職人などともよく話をした。そこには確かに、金儲けはヘタかもしれないけれど、堅気に自分の信念を貫き、時代の荒波のなかで生業を継続させている人たちがいた。彼らは「道」としての事業・仕事を一所懸命にやっている。そこにもまたひとつの「よい事業・よい仕事」の姿がある。


◆事業・仕事が過度にゲーム化する現代
マックス・ヴェーバーは、1904-1905年の著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、「資本主義の初期においては、仕事の目標は神の恩寵の証しにあった。しかし、アメリカでは富の追求はその宗教的、倫理的意味を失いはじめ、営利活動は、いまや世俗的情熱と結合してスポーツの性格を帯びている」と指摘した。それからおよそ110年が経ち、ビジネスは完全にグローバルな市場を舞台とした利益獲得競技になったといえる。そしてそれを取り仕切る経営者たちの一部には、利己的な拝金主義に陥る姿もある。

加えて、そうした経営の内実を問わず、結果的に儲けた経営者をビジネスヒーローとして簡単にあおるメディアの軽さも目に付く。メディアもまた、そうした大衆に受ける記事を売ることで部数獲得ゲームに勝とうとする心理があるからだ。

さらには、投資家・株主も経営者に対して間断なきプレッシャーをかける。経営者に品格があろうとなかろうと、ともかくゲームに勝て、株価を上げろ、配当を上げろ、のプレッシャーである。問題が複雑であるのは、その投資家・株主の一部が、いまや株を購入する一般のサラリーパーソンたちであることだ。彼らは株主の立場で、企業が儲けることにプレッシャーを与える側に回ると同時に、働く現場では経営層から「もっと利益が出るように働け」とプレッシャーを受ける側でもあるのだ。

資本主義経済という一大システムが織り成すゲームは、実に複雑で巧妙である。だからこそ事業経営というゲームは面白くてたまらない。勝てば勝つほどに、富が手に入り、その富は(このシステム下では)また富を生む。富はさまざまな欲望も満たしてくれる。逆に言えば、貧はますます貧を呼ぶ。資本主義下のゲームは、その意味で“中毒的で暴力的”ともいえる。ゆえに、事業経営には一方で「道」というものがいる。


◆求道というそのプロセスにすでに幸福がある
経営者のみならず、一人の働く人間にとっても自らの仕事人生がこのゲーム回路に過度にはまり込まないよう、自分の仕事を「道」としてとらえる意識が必要になる。

ただ、企業のなかで働くサラリーパーソンにとって、自分の業務に対し、「道」の意識を持てるかどうか、それは実質的にひじょうに難しい問題ではある。分業化され、目標数値が与えられ、やらされ感のある仕事に、どう求道心を燃やし、何を極めていけというのか、という人は大勢いるだろう。

本項では、仕事をゲームか道かという二項で考察しているが、実際のビジネス現場では、ゲームとしての仕事の面白さを感じることもなく、道としての仕事の奥深さも得ることなく、むしろ、仕事は「生活のために我慢してやるもの」という冷めた意識が大多数だったりする。そうした問題の深掘りは別の箇所でやるとして、ここで私が言いたいのは、仕事をある部分でも道としてとらえることができるなら、その人は働くことの幸福を手に入れているということだ。

すなわち、道としての仕事を行っている人は、求道というそのプロセスにおいて全人的に没頭することができ、その時点ですでに幸福を味わっているのである。その点、ゲームとしての仕事を行っている人は、得点による勝利を得ないかぎり満足感は湧いてこないし、いったん勝ったとしても次の敗北におびえなくてはならない日々が続く。彼らの勝利や成功は消費されるからである。だからゲームに生きる人間は、次の勝利、次の成功へと間断なく心身を駆り立てられることになる。ゲームが中毒的であるとはこのことだ。

私自身、30代半ばまではゲームとしての仕事を楽しんできたように思う。しかし次第に、そのゲームが追う勝利や成功といったものに疲れたり、疑問を持ったりした。いまでは道としての仕事を追い求める行き方に完全に変わった。成功を欲するのではなく、道を欲する。すると気がつけば(結果的に)「あぁ、この仕事をやっていて幸せなんだな」と思えるようになった。40代前半にしてようやくである。

朝青龍関(本名:ドルゴルスレン・ダグワドルジ)は相撲を引退して、次は何の「ゲーム」の成功を目指すのだろう? それとも、何かの「道」を見つけるだろうか?







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