連続的な成長/非連続的な成長
5.1.2
「連続的・非連続的」という概念は、イノベーション(技術開発などによる革新)のプロセスを研究する現場で注目された。つまり革新には、地続き的に徐々に進化していく場合と、飛び地的に一気に飛躍する場合と2種類あるという分析である。著名なイノベーション研究者であるヨーゼフ・シュンペーターは、非連続的なイノベーションを次のように喩えた―――「いくら郵便馬車を列ねても、それによって決して鉄道を得ることはできなかった」と。
私たちの成長にも、「連続的/非連続的」(もしくは「地続き的/飛び地的」)といった2つの場合がありそうだ。
【連続的(地続き的)成長】
一つの業務分野、職種、会社で、日々、知識・技能を習得し、経験を重ね、人脈を広げていくと、次第に職業人としての進化・深化がなされていく。そしてキャリアの幅が広がっていく。そうした一歩一歩連続する成長をいう。
【非連続的(飛び地的)成長】
私は米国に留学したことがあるので経験済みであるが、例えば英語学習の場合、やはり現地で生活してみるとヒアリング(聞き取り)に難を覚える(試験英語で鍛えたヒアリング力ではまったく不十分なのだ)。当初2ヵ月くらいまではよく聞き取れない。ところが、あるタイミングを過ぎると、突然、ウソのようにすーっと耳に入ってきて聞き取れるようになる。これが非連続成長である。
また、キャリア形成においても非連続的なステージ変化というものが起こる。ある日突然、何かの出会いやチャンスと巡り合い、これまでとは全く異なる世界で仕事を始め、飛躍していく成長がそれだ。例えば、企業で長年、営業マンとして働いた人が小説家としてデビューし、いい味の作品をこしらえるとか、公務員だった人が農業経営者に転身して全国でも話題の商品を生み出したとか、そんな事例である。
さらに、働く意識の非連続的成長もある。次のピーター・ドラッカーの言葉が象徴的にそれを表している。
「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。
そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。
これが成長である。
仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。
───『プロフェッショナルの条件』
人は仕事に大きな意味を見出したとき、それに向き合う意識ががらっと変わる。それこそがまさに、心が非連続的な跳躍をしたときだ。
連続的成長と非連続的成長のうち、基本として大事なのは言うまでもなく連続的成長のほうだ。日々の地道な進化・深化の気持ちと積み重ねがあってこそ、やがて非連続的成長の引き金が引かれるからである。漫然と「なんか、いいことないかなー」と過ごしている人には、自分を跳躍させてくれるチャンスが巡ってこない。より正確に言うなら、チャンスをチャンスとして気づくことができない。意識が鋭敏になっていないし、チャンスを生かす実力の蓄積がないからだ。
◆「消費される仕事」から「消費されない仕事」への跳躍
私自身が経験した非連続的成長の話をさせていただくと、私は20代から30代にかけて、7年間、ビジネスジャーナリズムの世界に身を置いた。ビジネス雑誌の編集は、ある意味、刺激に溢れ面白い仕事だった。しかし経済のバブルが増長中であれば、経済をあおる記事を書き、バブルがはじければ、誰が悪いんだと犯人探しの評論記事を書く。そんな、メディア業界の性質にネガティブな思いがどんどん大きくなっていった。また結局、雑誌のトレンド記事は、書いても書いても“消費される”だけで、自分の中に積み上がっていく何かがない。
このまま「“消費される仕事”を毎号毎号、続けていくのか? でも、“消費されない仕事”って何だ?」という問いが自分に大きくのしかかってきはじめた。齢33を過ぎたそんな折、次のような中国のことわざを目にしたのである。
「一年の繁栄を願わば、穀物を育てよ。
十年の繁栄を願わば、樹を育てよ。
百年の繁栄を願わば、人を育てよ」。
そのとき「まさに消費されない仕事とは、人を育てる仕事ではないか!」と直感的に確信した。そして、私は教育系の出版社に転職した。物理的にはビジネスジャーナリズムから教育の分野に身を移し、心理的には「消費される情報の仕事」から「消費されない人を育てる仕事」へと跳躍したのである。
たぶん、何かを求めようとしていた意識が鋭敏になっていたからこそ、あの中国のことわざが目に入ったのだと思う。意識が鈍になっていたら、見過ごしていたに違いないのだ。
〈Keep in Mind〉
地道の上に、ある日、跳躍は訪れる。