「自分探し」ではない。「自分試し」をせよ
3.6.2
ある家庭での笑い話である。───
子供が学校の部活から帰ってきて、おなかがペコペコだ。子供は、てっきり母親が晩ご飯のおかずを作り置きしてくれているものと思い、テーブルの上や冷蔵庫の中を見回って探す。しかし、どこにも見つからない。
しかたがないので、子供は自分で簡単な玉子焼きを作り、ご飯と一緒に食べた。そうこうするうちに母親が帰ってきた。子供が口を尖らせて、「母さん、晩ご飯のおかずどこだったのぉ?」ときくと、母親は、「ごめーん、作っとくの忘れてたわ」・・・。
◆「自分探し」は「ないもの探し」に陥る
これはどこの家庭でもよく起きそうな話である。結局、子供は、そもそもないものを探し回っていたわけだ。しかし、最後は自分で作って、お腹を満たした。
よく「自分のやりたいことがわからない」、「目指すものが見当たらない」、だから「自分探しをしています」という人がいる。私はこの表現に少し違和感を持っている。なぜなら、探すということは、暗黙のうちに、いまどこかに求めるものが存在している、正解値があるということを期待するニュアンスだからだ。
はたして夢や志、そしてほんとうの自分は、既製品としてどこかに存在するものだろうか?―――そんなものはないだろう。それらは未知の中に“つくっていく”ものととらえるのが実は確実な近道である。つまるところ、先ほどの子供が最終的に自分で玉子焼きをこしらえたように、職業人生の目的や目標は自分自身でつくり出さなければ、どこまでも存在しないものである。
私は、7年間、ビジネス雑誌の記者をやって、実に数多くの人物を取材した。そのなかで、自分が納得のいく仕事に出合い、嬉々として働いている職業人を何人も見てきた。彼らは例外なく、その仕事やその環境を“つくり出した”人たちである。既製品の何かがあって、それを探したというわけではない。
◆「自分試し」は着実な「自分づくり」
やるべきは「自分探し」ではなく、「自分試し」である。
最初は小さな興味や関心からでもいい、おっくうな自分を乗り越えて、ちょっとやってみる。そして、修正したり強化したりして、また試す。それを繰り返すうちに、これならもっと突っ込んでやってみたいな、この人たちとなら長く一緒に仕事をしたいなと思えてくる仕事分野や人間関係が、薄ぼんやりした中から次第に見えてくる。
そしてまた、次の仕掛けを飽きずに試す。そうして“もがく”先に確信と覚悟が芽生え、結果的に夢だったり志だったり、天職だったりを手にすることができる。「自分試し」は、行動で繰り返すことで、知らずのうちに着実に「自分づくり」となっているのだ。
自分探しというふんわりした気分で、漫然と出合いを求めて現状から逃げても、十中八九、手応えあるものはつかめない。逆に、ますます漂流する回路に自分がつかまる危険性が高い。
要は、何かに興味関心を抱いてそこに行動で仕掛けていこうという心持ちが大切である。つまらないと決めつけている現職の環境でも、興味を湧かせて「自分試し」できる可能性は十分ある。そうやって、あるはずだと能動的に構えることが、現状をよい方向に変えていくきっかけとなるものだ。
夢や志など人生のおおいなる目的をつかんだ人は、誰しもそれを漫然とつかんだわけではない。実は、能動・主体的に辛抱強く、行動で仕掛け続けた結果の“ごほうび”としてそれを受け取っているのだ。
「青い鳥」を探すのではなく、まず、目の前にある土を掘り起こして、種を一粒でも二粒でも蒔くことから始めたい。やがて、その芽を吹いた植物が樹となり森をつくり、自分が没頭できる場を提供してくれるだろう。そのとき初めて、その森に「青い鳥」だってやってくるのだ。
<Keep in Mind>
「探す」のではない。
「試す」ことの連続によって見えるものが見えてくる。