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「行動主義」の幸福~アラン『幸福論』より

5.8.3



私がこれまでの著作や執筆原稿、研修講義の中でもっとも引用が多いのが、フランスの哲学者アランの『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫版)である。

「幸福」というと、すでにいろいろに手垢のついた言葉になってしまった気がするが、アランの記す「幸福」は、ああ、幸福とはそういうことだったんだなという原点をシンプルに力強く思い戻させてくれるものである。彼の言葉を拾ってみよう───

「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。(#44)

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」。(#77)

「外套ぐらいにしかわたしたちにかかわりのない種類の幸福がある。遺産を相続するとか、富くじに当たるとかいう幸福がそうである。名誉もまたそうだ。(中略)古代の賢者は、難破から逃れて、すっぱだかで陸に上がり、『わたしは自分の全財産を身につけている』と言った」。(#89)

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。(中略)あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである」。(#93)

(*カッコ内の数字は、『幸福論』のなかの節番号)


私がこの本で教わったきわめて重要なことは、「幸福とは、静的な状態ではなく、動的な行いそのもの」ということだ。アランの言う幸福は、徹底的に行動主義なのである。

上に挙げた「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」という行動主義的幸福は、いろいろなことに敷衍(ふえん)して考えることができる。

つまり、
平和などない。だから、平和を成すのだ。
正義などない。だから、正義を行なうのだ。
自由などない。だから、自由を活かすのだ。
愛などない。だから、愛するのだ。
健康などない。だから、健康をつくるのだ。


ある幸せな状態、もしくは、ある心地よい状態があって、そこに自分が身をうずめて、いい気分でいるというのは、真の幸福ではない。

むしろ、自身の置かれた状況が苦しくとも、厳しくとも、何らかの理想に向かっているそのプロセス自体が、実は本当の幸福である。その結果として得られたものは、ごほうびに過ぎない。

――――私はアランの助けを借りて、幸福をこう咀嚼したことで、自分自身、随分、頭がすっきりし、腹が落ち着いた。




【補足】
アランは哲学者ということですが、この本は、いわゆる哲学書の類ではありません。幸福論と「論」の字が付いていますが、原題は、『幸福に関する語録』となっており、短いエッセイ集(全部で93節)のようなものです。
最初は取っ付きにくいかもしれません。彼独自のレトリックがそうさせるのかもしれません。私は図書館に行って、まず、アランの『幸福論』についての解説本をいくつか読んでからこの本をじっくり読みました。そうしたほうが、読み方のツボがわかっていいかもしれません。



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