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ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』を読んで

8.02


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ロバート・B・ライシュ『暴走する資本主義』
〈原題:“Supercapitalism”〉
雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社








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◆不特定多数のなかの加害者と被害者
本稿を書きはじめた折、テレビのニュースでは、ある事故について報じていた。それは、兵庫県明石市で2001年7月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」である。市民花火大会に集まった見物客がJR朝霧駅南側の歩道橋で異常な混雑となり、「群衆雪崩」が発生。11人が死亡、247人が負傷した事故だ。

私には、この事故と、きょう紹介する『暴走する資本主義』とが、ある部分重なって見える。以降の論点に沿って、明石事故を分解してみると、この事故には着目する点が3つある。

1点目に、安全面での警備体制・規制がなされていなかったこと。例年、人がごった返し、かねてから安全面での問題が指摘されていたにもかかわらず、混雑を規制する計画も、当日の警察官出動もなかったという。

2点目に、被害者は主に過度の圧迫による死傷だったこと。歩道橋に溢れた人びとの一人一人は、もちろん事故を起こす意図などない。ましてや誰かを圧死させようなどという殺意があるわけでない。第一、一人の人間は他人を圧死させるような強い力を持ち合わせていない。しかし、物理的には、歩道橋にいた一人一人の自己防衛の行動が重なり合わさって、ある箇所に力として集中し、たまたまそこにいた個人が圧迫被害を受けた。

3点目に、したがって、当時、あの歩道橋にいた一人一人が知らず知らずのうちに(物理的な意味での)事故の加害者となり、かつ、誰もが被害者になりえた状況にあったこと。

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◆資本主義の暴走を荷担しているのは私たち一人一人
さて、そんなことを頭に置きながら、ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』の内容に触れたい。

「1970年代以降、資本主義が暴走を始めたのはなぜか?」―――著者はこの問いを置くことからスタートする。著者は、資本主義を暴走させたのは、根本的な意味で、強欲な企業・経営者、あるいは巨額の資金を運用する数々のファンドやマネーディーラーたちではないと言う。では誰か?―――それは、「消費者」「投資家」として力を持った一般の私たち一人一人なのだ。これが著者の主張する重要な観点である。

つまり、一人一人の力は小さいかもしれないが、「もっと安いものを!」「もっとリターンの高い投資を!」という欲望が束となって巨大な力を生み、資本主義を歪な形に走らせるプレッシャーをかけている。例えば、ウォルマートは今日、米国で最大規模の収益を上げ、最多の従業員を雇用し、日々、何千万人という消費者を招き寄せる圧倒的に強い小売企業となった。そしてここ数十年間、目覚ましい勢いで株価を押し上げ、株主に報いてきてもいる。それを可能にしているのは、ウォルマートのサプライヤーに対する過酷で非情な交渉力である。ウォルマートは「1セントでも安く買いたい」という個々の消費者の購買意思を集結させ、あたかもその消費者団体の代表として仕入れ先と値引きの交渉を行うのだ。

ウォルマートが収益を上げるためにやっている過酷なことは、外側だけに限らない。内側に対してもギリギリまで削りに削る。詳細の数値は本書に出ているので省くが、ウォルマートの従業員・パートタイマーの労働待遇(給料や福利厚生や年金保障、健康保険手当など)は厳しい。しかしだからといって、ウォルマートのCEOは、非情だとか残酷だとかのレッテルを張られる筋合いのものではない。彼は、ビジネスという競争ゲームのルールに従って、最大限の成果(収益獲得)を出そうと本人の能力を発揮し努力しているに過ぎないのだから。

仮に、サプライヤーや従業員に温情をかけてウォルマートの値引き率が鈍ってしまえば、1セントでも安く買い回る消費者は、そそくさと他のチェーン店に移ってしまうだろう。そして、収益が悪化傾向をみせるやいなや、株価が下がり始め、少なからずの投資家たちがワンクリックで株を売り払う流れが強まる。そして、株の下落は加速する。四半期ごとの成績を厳しく問われるCEOは、交代を迫られるはめになる。

そうした背後でプレッシャーをかける投資家とは誰なのか? 直接的にはもちろん、その株を保有する株主である。そして間接的には、年金ファンドや保険商品、投資信託商品を通じて、薄く広く「あなた」自身も、そこに関わる当事者の一人である可能性が高いのである。


◆強い「消費者・投資家」としての私 vs 弱い「労働者・市民」としての私
私たち一人一人には、多面性がある。「消費者」であり、(広い意味での)「投資家」でもある。そしてまた同時に、「労働者」であり、「市民」でもある。

70年代以降、「消費者としての私」、「投資家としての私」は、飛躍的にその立場が強まった。より有利な(=得をする)選択肢を求めて、動ける方法が格段に多くなったのだ。しかし、その「消費者」「投資家」としての利得欲望が増せば増すほど、「労働者」「市民」としての私たち一人一人は、逆に富を享受できない方向へと押しやられていく皮肉な現象を起こしているのが昨今の状況なのである。

そうした資本主義の歪みを矯正するのが、民主主義・政治の役割なのだが、もはや暴走する資本主義にのみ込まれてしまって機能不全に陥っている。著者は、ワシントン(=米国の政治)が、いまや企業という利益団体から雇われるやり手のロビイストたちで動かされている現状を具体的に書き連ねている。公益や社会の真に重要な問題を訴える市民団体や非営利組織などは、団結力や資金力に乏しいので、その訴えがワシントン上層部に届く前に雲散霧消していく場合がほとんどだと言及する。

「消費者」や「投資家」としての私たちは、ネットショッピングやネットの株取引、ネットの検索などを利用して、ワンクリックで自分の意思を即座に完結させることができる手段を持った。そして、それらはグローバルにつながり統合されることで、巨大なパワーとなる。

その一方で、「労働者」「市民」としての私たちは、意思を世の中に伝える手段はきわめて限られており、脆弱なままだ。一労働者・一市民として、「このままじゃいけないので反対しよう」「何か役立つことをしたい」と思ったところで、それを実行し、ましてや同じ考えの人びとを束ねて大きな運動にするには気の遠くなるような努力と時間が必要になる。

ライシュ氏は、序章でこう書いている。

「私たちは、“消費者”や“投資家”だけでいられるのではない。日々の生活の糧を得るために汗する“労働者”でもあり、そして、よりよき社会を作っていく責務を担う“市民”でもある。現在進行している超資本主義では、市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。

私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。そして“消費者としての私たち”、“投資家としての私たち”の利益が減ずることになろうとも、それを決断していかねばならない。その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない」。



著者は、序章でこうした結論を述べた後、残りの300ページ超にわたり事実を一つ一つ積み上げながら、資本主義が暴走を始める根本のメカニズムを書き解いていく。もちろん、その列挙する事実が偏向的だとか、決め付けだとかの声は出てくるだろうが、それにしてもこの本の主張には、力強い一本の背骨が入っている。文章表現や解釈というのはいやおうなしにその人の人格やら思考の性質を顕してしまうもので、ここにはロバート・ライシュという人物の堅固な良識さ・明晰さと、このことを社会に問わずにはいられないという使命にも似た強い意志を感じることができる。

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◆捨てられない資本主義をどうするか
著者は、今のこの歪(いびつ)に暴走を始めた資本主義の進路コースを修正し、世界が継続的に維持発展できるようにするためには、一人一人がマクロの視点で、自分たちが依って立つ経済システムを見つめなおす意識を持つことが大事だと訴える。

そして、「消費者・投資家として私」が、際限のない欲望をうまく自制し、よき「市民・労働者」として、よき民主主義を蘇生させるよう動くことだと主張する。そのバランスを能動的に賢くとることができれば、強い資本主義と活気ある民主主義を同時に享受できるとしている。

私たちのほとんどは、資本主義を生まれた時から当然のものとして受け入れている。単純な比較で「資本主義=○、共産主義=×」と半ば反射的にとらえている。だが、そこには、確たる思想があって、資本主義を是としているわけではない。ただ何となく「共産主義は怖そうだから」とか「資本主義は自由だからいい」といった程度の感覚で支持しているにすぎないのではないだろうか。

しかし、今回明らかになったように、資本主義は、私たちの大事な民主主義を脅かしていて、「1%の経済的強者と99%の経済的敗者」を現実的につくりだす方向に加速している。資本主義など捨ててしまえ、という単純なものではない。おそらく、このシステムを土台にしてしか、当面、地球上の数十億人の経済は回っていかない(中国も事実上すでにこのシステムの上に乗っかっている)。

資本主義は基本的には優れたシステムである。しかし、人間の欲望をエンジンにして稼働するところが問題なのだ。そのとき私たちには、それを賢く扱うための「思想」が要る。言うまでもなく、一個一個の人間の内にそれが不可欠なのだ。

アンドレ・コント=スポンヴィル氏が『資本主義に徳はあるか』の中で言ったように、資本主義のメカニズムは、それ自体、道徳的でも反道徳的のものでもない。結局、それは経済を行なう人間に任されている。だから、私たち一人一人の思想いかんで、資本主義は“ノアの方舟”にもなれば、“泥船”にもなる。


◆資本主義を生かすためには叡智が要るが……
思想なり哲学なり叡智なり、人間の賢さというのは、少なからずの人が指摘するように時代が下ってもさほど進化してはいない(科学技術文明の発達ともあまり関係がない)。特に、欲望の扱いに関しては、人類は古くから惑わされっぱなしである。

渋沢栄一の『論語と算盤』は、昭和3年(1928年)の刊行だが、ここには現在と同じくマネー獲得を狙って投機に明け暮れる投資家や事業経営者たちがあちこちで言及されている。そして『論語』の思想で滔々と諭す渋沢がそこにいる。

また、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著したマックス・ヴェーバーは(執筆した1904年時点で)、「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」と書いている。つまり、経済がその本来の意味である“経世済民”からはずれて、もはやマネーの多寡を競い合う体育会系ゲームになり下がっていると指摘しているのだ。

そもそもケインズも、私は資本主義より優れた経済システムを知らない。しかし、人びとの中に生まれる「貨幣愛」が問題である、と吐露している。資本主義が回り始めてこのかた、人びとの欲望がそのシステムの箍(たが)をはずし、いくつもの「●●恐慌」やら「●●ショック」を引き起こしてきた。金融の「暴走→暴落→規制→新たな暴走」というサイクルが止まないのは、人間がいまだ欲望をうまくコントロールできていない証左だともいえる。

古今東西、宗教は、人間の欲望を統御する力としてある程度の役割を果たしてきた。私は最終的には、歪み暴走する経済システムを矯正するために、宗教セクターの力は不可欠なものと信じている。またそれに加え、文化や芸術、哲学、教育の力が必要なことは言うまでもない。……一方、科学。科学は、実質、暴走経済を荷担する側になり下がっている。科学という刀を正しい経済システム構築に使うためには、やはり、人間の欲望のコントロール力というところに戻ってくる。

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◆答えは一個一個の人間の内側にある
私たちの考え方と行動いかんによって、資本主義が泥船化するかもしれないという大事な分岐点にあって、私たちは相変わらず、日々の業務効率化スキルの習得ばかりに目がいき、組織から下りてくる数値目標の達成に忙しい。肉体労働、知識労働の別にかかわらず、組織の歯車となって一人一人の労働者が働かされる構図はチャップリンが映画『モダンタイムズ』で描いたころとさして変わってはいない。

スーパーで1円を節約する主婦が、あるいは昼食で100円200円を浮かせたサラリーマンが、FX取引で「きょう1日で5万円の儲けが出た」とか「レバレッジで2000万円の損失が出た」と口にする風景は、どうも何かを見失っているように思える。

「生活防衛のための投資の何が悪い!」という気持ちもあるだろうが、それは冒頭で触れた明石の花火大会歩道橋事故で言えば、肘を立てて我さきに強引に逃げようとしている姿にも映る。橋全体が崩れるかもしれないという状況にもかかわらず・・・。

「パンとサーカス」は、詩人ユヴェナリスが用いた風刺句である。民衆はパン(=食糧)とサーカス(=適当な娯楽)さえ与えられていれば、為政者に文句を言わず、日々適当に暮らしていくということだ。

今の日本を見ると、問題山積ではあるものの、パンはそこそこ手に入るし、ストレス発散や憂さ晴らしをするサーカスもさまざまある。加えて、パソコンやスマホから手軽な操作で、マネーを増やす投資(投機)手段もいろいろ出てきた。「給料が増えないんなら、カネにカネを生んでもらおう」と投資商品を買い、日々の相場数値に一喜一憂する。意地の悪い風刺画家であれば、こうした状況をパンとサーカスに満足し、サイコロに夢中になっている人びとを描くのではないだろうか。

私は厭世家でも、マネー投資否定者でもアンチ資本主義者でもない。むしろ“強い資本主義”と“活気ある民主主義”の両方を望む者である。そして経済を本来の大義である“経世済民”として、その健全な発展を望む者である。

そのために「働くことのよき思想」を一人一人の人間の中に涵養していくことが決定的に重要だというのが本記事の主張である。そして職業人教育の分野で起業した私の事業動機もそこにある。歴史を振り返ると、よき時代には、必ず「よきエートス(道徳的気風)」が充満している。エートスはどこからか漂ってくるものではない。個々の人間の内側から湧き起こってくるものである。その個々の人間の内側にはたらきかける仕事ができることに私はやりがいを感じている。




【お勧めしたい関連読書】

・アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』
 (小須田健/C.カンタン訳、紀伊国屋書店)
・渋沢栄一『論語と算盤』(国書刊行会)
・野中郁次郎/紺野登『美徳の経営』(NTT出版)
・内山節/竹内静子『往復書簡 思想としての労働』(農山漁村文化協会)
・杉村芳美『「良い仕事」の思想』(中央公論社)
・塩見直紀『半農半Xという生き方』(ソニーマガジンズ)
・西村佳哲『自分の仕事をつくる』(晶文社)
・ジョシュア・ハルバースタム『仕事と幸福、そして人生について』
 (桜田直美訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
・ディック.J.ライダー『ときどき思い出したい大事なこと』
 (ウィルソンラーニングワールドワイド監修、枝廣淳子訳、サンマーク出版)





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