5●仕事の幸福論 Feed

仕事のなかに「祈り」はあるか

5.8.1



◆正倉院宝物がもつ時空を超える力
奈良に出張したあるとき、折しも開催中だった『正倉院展』(奈良国立博物館)を観た。私は小学校の時から、奈良県へは遠足やら社会見学やらで何度も行ったが、大人になってからの奈良はほんとうに久しぶりだった。大人になってから観る寺院や仏像、そしてこうした宝物(ほうぶつ)工芸品は何とも新鮮で、驚きの再発見が絶えない。

展示物を観て感嘆するのは、その生々しさである。1200余年を超えても、その物自体が発する息が聞こえてきそうな感じだ。色、紋様、形状、構造、素材の質感、細部に至る技……それらは現代のデザインと比較しても、まったく古臭くないどころか、啓蒙的ですらある。

天平文化がもつ大陸文化への憧憬と初々しさの残る国風文化との融合具合が、えも言われぬ表現となって造形され、一品一品(ひとしな・ひとしな)、いま、21世紀に生きる私たちの目の前にある。古人は何とも素晴らしい贈り物をしてくれたものだと感謝をする。

さて、これらの宝物は、なぜ、いまだ私たちを魅了する力をもっているのだろう?確かに、1200余年という時間が横たわっていることはある。そして、ものづくりの卓越さもある(製作のための化学知識や技術は7世紀にしてすでに驚くべき水準をもっていた)。

しかし、それ以上に私が感じたことは、作り手の「祈り」である。

一点一点の物からは、単に技巧的に美しく見せるという以上に、人の真剣さや敬虔さ、畏怖の気持ちからしか醸し出てこないような美のオーラがあるのだ。

作り手は、天皇という天上の存在を想い、あるいは、仏(ほとけ)という最上の境地を想い、一筆一筆、一刻一刻、一織一織に祈りを込めて作り、奉献した。私は、作り手が製作という仕事のなかに無垢な「祈り」を込めたところが、これらの宝物に時空を超える力を与えているのだと思う。


◆「ゲームとしての仕事」/「道としての仕事」
ひるがえって、現代のビジネス社会に働く私たちには、仕事に「祈り」があるだろうか? 「仕事に、祈り……?」。多くのビジネスパーソンにとってこれは突拍子のない問いかもしれない。

私たちはあまりにゲーム化され、巨大システム化されたビジネスのなかで働いているので、もっぱら気にかけることは、競争や駆け引きの具合であったり、効率化や利益の最大化に長ける術であったりする。

そしてまた、個人は大きな組織・大きなシステムの部分を断片的に任されているので、自分がどう組織や社会に貢献しているのか、お客様とどうつながっているのかが、わかりにくくなっている。どうも私たちは「祈り」から遠い世界で働いているのだ。

仕事をカテゴリー分けするなら、ひとつには「ゲームとしての仕事」がある。ある種のルールと限られた資本の下で得点(利益)を取り合う───企業もサラリーマン個人も、そんな「ゲームとしての仕事」に労力を注ぐ(そうして自己存続のための利益や給料を得ていく)。

他方で、「道としての仕事」がある。もちろん、私たちは生きるために稼がなくてはならないが、稼ぎは二の次で、その道を究めることを最上位の目的に置く───そうした意識で働いている人たちもまた世の中には少なからずいるのだ。

サラリーマンであっても、ある割合、「道としての仕事」を行うことはできる。例えば、NHKのテレビ番組『プロジェクトX』。あの一話一話は、自らの仕事を道として究めようと奮闘した人たちの物語だ。あれを他人事と見過ごしてはいけない。誰にも、目の前の仕事をあのように「プロジェクトX」化させることはできるからだ。

丸ごとの自分を没入できるプロジェクトを得た人は仕事の幸福人である。仕事の幸福は、道を究めようとする過程にある。絶え間なく精進するその過程において、私たちは、内から湧いてくるエネルギーを炎に変えることができる。そして、道を同じくする師や同志との出会いがある。道のはるか先に見え隠れする「大いなる何か」を少しずつ感得し、前に進む大きな力を得ることができる。

その次元になると、不思議と人間は、小我にわずらうことが少なくなってくる。道のもとに自分を十全にひらきたいと欲するようになる。他者や社会のために自分の能力を使いたいと願うようになる。それがつまり「祈り」ということだ。


◆「自己実現」とは何か?
『五段階欲求説』を唱えたアブラハム・マスローは、その最上位の5番目に「自己実現欲求」を置いた。「自己実現」は何でもかんでも自己中心的に、なりたい自分になる、やりたいことをやる、というものでない。マスローは、自己実現とは「最善の自己になりゆくこと」だとし、こう書く───

「自己実現の達成は、逆説的に、自己や自己認識、利己主義の超越を一層可能にする。(中略)つまり、自分よりも一段大きい全体の一部として、自己を没入することを容易にするのである」。

                            ───アブラハム・マスロー『完全なる人間』(誠信書房)


彼は、自己実現、つまり、最善の自己になりゆく先には、自己を超越した感覚、大きな摂理につながる境地があると言っている。自己実現とは、悟りのような宗教的体験のなかで行われるのだ。したがって、彼は自己実現をする人は愛他的で、献身的で、社会的となり、物事を統合的に包容できると言及している。

このことを2人の芸術家の言葉で補ってみたい。

「実用的な品物に美しさが見られるのは、
背後にかかる法則が働いているためであります。
これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。

他力というのは人間を超えた力を指すのであります。
自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、
凡(すべ)てかかる大きな他力であります。
かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。

なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。
これに反し人間の自由を言い張る時、
多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。
自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。

                                        ───柳宗悦『手仕事の日本』(岩波書店)


「少年時代から、自然を観察していることが多かった私は、
この世のすべてを生成と衰退の輪を描いて、永劫に廻ってゆくものとして捉えていた。
その力の目的や意義については何もわからないが、
静止でなく、動きであるために、根源的な力の存在を信じないではいられなかった。
一切の現象を、その力の発現と見る考えは、青年時代を通じて変らなかったようだ。
そのことが、あの失意と悲惨のどん底の時にも、
私を挫折させなかった原因の一つであろう。
(中略)
私は、いま、波の音を聴いている。
それは永劫の響きといってよいものである。
波を動かしているものは何であろうか。
私もまた、その力によって動かされているものに過ぎない。
その力を何と呼ぶべきか私にはわからないが───」。

                                ───東山魁夷『風景との対話』(新潮社)



こうした言葉を「宗教臭い」「スピリチュアルが入っている」と思う人がいるかもしれない。特に血気盛んな20代、30代は、「何が他力だ。俺は自力でいく!」とか、「“生かされる自分”って何か気持ち悪い。自分には自分の意思がある!」、「摂理? 摂理に動かされて自分は生きているんじゃない」といったふうになるかもしれない。私自身がまさにそうだった。

そう突っ張る人は、突っ張るほどの元気があって大いにけっこうだと思う。その突っ張りエネルギーで、「MYプロジェクトX」なる仕事に没頭するといい。それが結局、柳や東山の言葉に到達する近道になる。


◆祈りは心の震えの発露である
誰しも、ほんとうに死にものぐるいで仕事に取り組んだとき、深く意義を感じて職業に献身するとき、「大いなる何か」につながる感覚、抱かれる感覚は必然的に生じる。そのとき、「祈り」も湧いてくる。

その「祈り」は、賽銭を投げて「宝くじが当たりますよーに」(パンパン:柏手)の類の祈りとは違う。そんなお気楽で都合のいい「おねだりの祈り」ではない。震える心の奥底から湧き出す「やむにやまれぬ決意の祈り」だ。

「ゲームとしての仕事」が幅をきかせるビジネス社会にあって、私は、そんな純粋な発露の祈りのもとに仕事に向かえる人が一人でも多く増えればいいなと願うものである。

最後に、ゲーテ『ゲーテ全集1』(潮出版社)から───

「教えてほしい。いつまでもあなたが若い秘密を」
「何でもないことさ。つねに大いなるものに喜びを感じることだ」。




成長は目的ではない

5.1.4



◆「課長、その仕事、成長できますか?」と訊く若手社員
心理学博士の榎本博明さんは、『「やりたい仕事」病』(日経プレミアシリーズ)のなかで昨今の若手社員が、やりたい仕事がみえないことへの不安、目の前の仕事によって成長が得られないことへの焦りなどを過剰に抱える様子について興味深く分析している。「成長欠乏不安症」の人は一度読んでみるといいだろう。

多くの上司や経営者、先生方、親たち、大人たちは、部下や従業員、生徒、子供たちに向かって「成長しろ、成長しろ」と言う。そして、私たち一人一人も「成長しなくては」と(強迫観念的に)思っている。

しかし私たちは、必ずしも「成長するぞ」と思って成長するわけではない。一所懸命、何か課題に取り組み、解決できたときに、“結果的に”成長しているというのが実態である。

だから人は「成長しなければ」とか、「なぜ成長しなければならないか」を考えてもはじまらない。「どんな仕事に没頭すれば、成長せずにいられないか」という順序でとらえるべきである。成長は目的ではないからだ。何かを全うしたときに、あるいは、何かに持続的に身を投じている過程で、ふと振り返ってみたら結果的に成長していた、そんなものだ。

◆「VITM」という処方箋
若手社員の間で「やりたいことが見つからない症候群」「成長できますか症候群」が増える状況にあって(ちなみに、若手以外のベテラン社員や中間管理職といえども、やりたいことを見つけている人は少数派だし、成長できないことへの不安をおぼえる人も多数いる。が、彼らはもう開きなおっている。その点も組織の活性化からすると大きな問題である)、私が考える処方箋は第1章でも詳しく触れた「VITM」の4要素を一人一人に考えさせることに帰結する。

「V」ベクトル:自分が価値を置く軸
「I」イメージ:理想とする像
「T」トライアル:行動で仕掛けること、自分試し
「M」ミーニング:意味・目的

514vitm



私がこれまでにさまざまな人びとのキャリアを観察してきた中で、自分らしくキャリアをたくましく拓いている人の鍵になる要素がこの4つである。ただ、4要素のうちどれもバランスよく強い人は少ない。人によって強弱が出る。

「I」(イメージ)先行でその理想実現に向かってひた走る人もいれば、必ずしも向かう先のイメージはできていないけれども、自分の譲れない価値軸「V」や意味「M」にこだわって地道にプロセスを積み上げる人もいる。また、ともかく「T」(行動)してみて状況変化を起こし、そこから次の一手を考えながら進む傾向の強い人もいる。

だが、何か1つでも強いということが実は重要である。その1つが引き金となって、キャリアがごろりと展開を始める可能性が高いからだ。「VITM」の4要素は相互に刺激し合って全体を強めていく。全体に流れができてくればしめたもので、その流れが起こったときはすでに何かに没頭する状態になっているはずである。そして知らずのうちに、結果的に「成長してしまう」ことになる。

さらに言えば、「VITM」がうまく回ることは、それ自体が報酬となる。自分の求めるV(価値)がどんどん見えてくる。理想とするI(イメージ)が成就する。M(意味)を満たすことができる。T(行動)することの爽快感を得られる。これらはすべて、金銭的報酬に勝るとも劣らない報酬である。

なお、この「VITM」を転回させるということは、働く個人のみならず、事業組織においても有効な概念モデルとなる。



◆忙しさは成長を約束するものではない

「忙しいだけなら、アリやミツバチだって忙しい。
問題は何によって忙しいかだ」。


───とは、ヘンリー・デイビッド・ソローの言葉だ。漫然と忙しくしているだけでは、実は人は成長を得られない。ここに、いわゆる『アクティブ・ノンアクション』の問題がある。

『アクティブ・ノンアクション』(active non-action)とは、「行動的な不行動」とか「不毛な忙しさ」と訳され、多忙ではあるが目的意識を伴った行動となっていないがために結果的に生産的・価値的でない行動に終始していることを説明する概念である。

この概念は、もともと、哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカが言及した『busy idleness』(あくせくしながらも結果として何もしない状況のこと:怠惰な多忙)から派生したと言われる。セネカが約2000年前の人物だということを考えると、人類の“不毛な忙しさ”問題は、古今東西を貫く一大問題なのかもしれない。

確かに私たちの仕事生活は忙しさに追い立てられ、それが止むことがない。でも、1日、1ヶ月、1年、3年を振り返ったとき、何かほんとうに価値のあることを成しえているのか、自分は何に向かって、何を積み重ねているのか……? おそらく漫然と忙しくしている人にとっては、つらく不安な自問になるだろう。

忙しさに納得ができ、その忙しさがきちんと自分の手ごたえある発展につながってくるためには、先ほど触れた「VITM」の意識のもとに働くことが欠かせないと私は思っている。企業内研修の場で多くの受講者と接し、就労意欲の減退感、キャリアの停滞感を抱く人は多い。一つの理由は、企業の事業目的・計画数値に合わせて、自分という労働力を提供し報酬をいただくという単純な対価交換関係に埋没していることだ(もちろん労働契約というのは、そもそもそういう関係をいうのだから、労使ともに特別問題のあることではないのだが)。つまり与えられた目標数値と自分との閉じた関係の中で、尽きない忙しさによる疲労感がどんどん充満していく。

ところが同じような数値目標下、同じような忙しさの中でも、嬉々として働いている人間もいる。それは、意識するしないにかかわらず「VITM」が彼(女)の中で転回しているためだ。「VITM」の転回は、らせん状にオープンに広がっていく発展実感を伴う。そしてその転回の舞台として、たまたま現職場があるという感覚だ。その意味で、「VITM」をうまく回している人にとって、会社というのは舞台提供者であり、パートナーやパトロンに近い関係意識を持つようになる。

また、「VITM」をうまく回している人は、必ずしも能力に長けた人(いわゆる「ハイパフォーマー」)ではないし、高い給料をもらっている人でもない。業務処理能力や専門知識のレベル、年俸の多寡とは別の次元、すなわち内省的に思索ができる、抽象的に本質を引き出すことができる、そして理念を行動で試すことができる、リスクをいとわないといった次元で強さや素直さを持った人である。V(価値)とかI(イメージ)とか、M(意味)とか、そういった“正解のない問い”に対して自分がどう肚をつくるかという問題なのである。

組織は個に対し、業務処理の高度化とスピード化を求める。そして事業を成長させるために、右肩上がりの数値を掲げて現場に発破をかける。個は組織に対して、正当な報酬と成長できる仕事を求める。組織も個も成長がほしい。だが、成長を目的として動いても容易に達成が得られない状況になっている。

知識と技術を身につけ、真面目にがんばれば何か報われた時代があった。だが、いまは組織も個も、いったん、意味や価値といった次元に思考と行動をくぐらせなければ、状況を打開できないときに来ている。サイエンスではなく、アートの要素がますます求められる時代になったともいえる。「VITM」モデルはまさに、アートとしての事業・仕事を考える作業なのである。

組織も個人も「アリやミツバチのように忙しいだけ」なのか、「みずからが想い描くVITMのもとに手ごたえをもって忙しい」のか、この差は大きい。スケジュールが埋まる日々にあって、「怠惰な多忙」を恐れよ。






「成長」をみずからの言葉で定義せよ

5.1.3



◆研修の現場から~成長体験から成長の本質を導き出す演習
私は研修で「成長するとは何か?を自分の言葉で定義せよ」という演習を行っている。
具体的には、各自にこれまでの仕事のなかで「いちばん成長できた経験」をあげてもらい、グループで共有する。そして、そうした自他のさまざまな経験エピソードを踏まえたうえで、「成長すること」の本質は何かを抽出し言語化する作業を行う。こうした演習を通し、受講者のなかに「ああ、結局、成長するって大本はそういうことなんだな」「多様な機会が成長に通じているんだな」「どんな業務にも自分が成長できる芽は隠れているんだな」という気づきが起こる。

「成長」についての本質を自分の言葉で腹に据えさせることで、日々の苦しかったり、つまらなかったりする仕事のなかにも、自分を成長させてくれる要素というものが何かしら発見できるはずだという意識を育むのがこの演習の狙いである。

ちなみに、下にあげるのは実際の研修で出てきた「成長」の定義の一例である───

・成長とは、限界の幅が広がり、他に認められること
・成長とは、得た知識や技術、経験に自信と信頼を持つことである。
 それらが他者に認められた時、成長したと強く実感することができる。
・成長は、自分に負荷をかけて、それを乗り切った時に起きる
・努力している時に、後から自然についてくるもの

・成長とは、物事を見る際の観点が増える事である

・成長とは、新たなステージへ進むための武器。
・受動から能動になること
・継続して能力の“筋トレ”をすること

・成長とは、できなかった事が自然とできるようになるまで身につくこと

・成長とは、自分に対する対価が増えることである
・成長とは、挑戦するこころを忘れないこと!
・自分の存在意義を実感すること

・経験を積み重ねることが成長である。

・自分の中の多様性を増やすこと
・昨日できなかったことが、今日できるようになること
・成長とは、課題を解決する力が大きくなることであり、
 より大きな課題を解決できるようになったときには、成長しているといえる。
・振り返りながら全力で走ること


これら受講者が書き出した言葉は、いずれも具体的な成長経験から引き出したという点がこの演習のミソである。私が拙著『キレの思考・コクの思考』でも述べたとおり、具体と抽象の2つの次元を往復することによって納得感のある力強い答えを導き出すことができる。抽象だけの思考は脆弱になるし、具体だけの見聞では普遍性に欠ける。抽象と具体の両輪を回すという意味でも効果のある演習になっている。

◆「成長」をさまざまに考える
ちなみに、私が受講者に紹介している成長の定義をいくつかあげる。

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○〈成長を考えるヒント1〉

成長とは、
「長けた仕事」を超え、
「豊かな仕事」をするようになることである。


成長には、「技術的な成長」と「精神的な成長」がある。技術的な成長は、いわば「長けた仕事」を生み出す。技術的な成長の観点では、ものごとの処理の「巧拙(上手か/下手か)」が問題になる。だが、人は技術的な成長だけではほんとうに次元の高い仕事はできない。もう一方の精神的な成長が必要になる。

ピーター・ドラッカーは次のように書いている───「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。これが成長である。仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。

精神的成長で問題になるのは「意味」である。意味を見出したときに、その仕事人は「長けた仕事」を超え、その人でなければ創造できない「豊かな仕事」を生み出す。

誰しも入社3年くらいまでの間や、新しい業務を任された当初は、技術が伸びる「喜び」がある。しかし、仕事慣れしてくるにしたがって惰性が生じてくる。仕事に対するモチベーションの低下やキャリアの停滞感もそうしたところから始まる。組織はそうした状態に対し、ジョブローテーションによる異動や新しい役割を与えるなどして従業員の意識をリフレッシュさせようとする。それはそれで有効的な“外科的”な方法ではある。

しかし、その人がほんとうに次の成長ステージに上がっていくためには、“内からの”変化が要る。それがすなわち、みずからの仕事に対し、意味を満たす「喜び」を見出せるかどうかだ。真の成長は「内的変革」にあり、これがなされてこそ次の技術的成長も起こる。そしてそこからさらに精神的な成長があり、内的変化が起こる。この絶え間ない循環がキャリアを無限に開いていく。

また、精神的な成長を得ている人は、仕事に対し気分的な「楽しい」ではなく、意志的な「楽しい」になっているので、多少のしんどさや苦労に耐える粘りを持つことができる。つまり、「しんどいけど、楽しい」「厳しいけど、やりがいがある」という意識で仕事に向かえる。

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○〈成長を考えるヒント2〉

成長とは、
リスクを負って殻を破ったときに得られる収穫物である。


日本の伝統芸能の世界では「守・破・離」という言葉が使われる。その道を究めるための成長段階を表したものである。

「守」:
 師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を
 習得する第一段階。「修」の字を置く場合もある。

「破」:
 経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、
 それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第二段階。

「離」:
 これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、
 思うがままに至芸の境地に飛躍する第三段階。


これを「枠をめぐる3種類の人間」として、現代風に焼き直したものが下図である。
1番目に『枠の中の「優秀者」』。
2番目に『枠を変える「変革者」』。
3番目に『新たな枠をつくる「創造者」』。
3番目にいくほど難度・リスク度は高くなり、その分、成長度も大きくなる。

あなたは、あなたの組織は、どのレベルで満足しているだろうか?

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○〈成長を考えるヒント2〉

挑戦して失敗することも立派な成長である。
成功の反意語は失敗ではない。「挑戦しなかった」ことである。


何かに挑戦する。その時点で、あなたは成長を手に入れている。
成功すればもちろん技術の習得や経験知、自信、人とのつながりなどを得ることができたはずだし、仮に失敗したとしても、やはり経験知を得ている。発明王トーマス・エジソンがこう言い切ったように───「私は失敗したことがない。うまくいかない 1万通りの方法を見つけたのだ」。

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成功するにせよ、失敗するにせよ、いったん挑戦すれば、いろいろなものが内的資産として貯まる。そこには同時に次の挑戦の「種」が宿される。そしてまた挑戦に向かう。すると、また新しい内的資産が貯まり、次の「種」が宿される。そしてまた挑戦する……この繰り返しが、成長という名の「勇者の上り階段」となる。

挑戦は、成長を約束する。
成功の反意語は失敗ではない。「挑戦しなかったこと」である。

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