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「天職」とは“境地”である

1.7.2



私は 「天職とは、仕事を通して得た最上の境地」 ととらえている。

つまり、何十年と働いてきて、「ああ、ほんとうに自分はこの仕事でよかった」と思えるときの天職の「職」とは、特定の「職業」ではなく、「境地」と置き換えてもいいようになるのだ。

西村佳哲さんが書かれた『自分の仕事をつくる』(晶文社)という本がある。著者がものつくり系のデザイナー・職人たちをさまざまに訪ね、「仕事とは何か」というテーマを追っていく良書だが、このなかで興味深いコメントが散見される。

例えば、東京・富ヶ谷にパン屋「ルヴァン」を開く田中幹夫氏のコメントは───

「パンそのものが目的ではないな、という気持ちが浮かんできた。
……パンは手段であって、
気持ちよさだとかやすらぎだとか、平和的なことを売っていく。
売っていくというか、パンを通じていろんなつながりを持ちたいというのが、
基本にあるんだなと思います」。


また、日本在住の人気デザイナー、ヨーガン・レール氏のコメントは───

「自分の職業がなんであるとか、そういうことはあまり気にしません。
私は、モノをつくってるというだけでいいです(笑)」。



これらはまさに天職を生きている人たちの言葉だ。
彼らの心の次元では、もはやパン焼き職人とか、アパレルデザイナーだとかの具体的な職業は主たる問題ではなくなっている。いまのこの力強い心の平安を自分にもたらしてくれている職業が、たまたまパン職人であり、デザイナーである、というところまで気持ちが昇華されているのだ。つまり、これらの人たちは、仕事を通じてある高みの境地に達したといえる。

この悟りにも似た感覚は、私自身も感じるし、私がビジネス雑誌記者時代に遭遇した一級の仕事人たちも同じようなことを口にしたのを記憶している。


◆ふつふつと湧き起こる想いが天職への入り口
このような天職境地にたどり着くための必須要件は「想い」である。
先の田中氏にしても、レール氏にしても、彼らは決して何々という職業の形にこだわってはいないし、それを始めるにあたって、仕事と能力のマッチングがどうだこうだと適性診断テストで自己分析したわけでもないだろう。ましてや雇用の形態や会社の規模、年収額など気にかけたはずはない。

彼らは内奥からふつふつと湧く「想い」をただ実現しようと生きてきた(いる)だけである。「想いの実現」が目的であり、職業は手段なのだ。その結果として天職を感得した。

「想いの実現」を奮闘していった後に“ごほうび”として得られる泰然自若の状態
―――それが天職だ。


昨今の働き手は、職業選択にあって、職種・会社・雇用条件という外形や、能力適性の問題を過度に考えるきらいがある。もちろんここを無視してよいわけはないが、念入りに自己分析や情報収集、雇われ先への要求などをやるわりには、自分の想いは放置したままというのが大半ではないだろうか。

人生で天職を得たいのであれば、最も重要なものは「想い」である。だから、私が行う研修プログラムのなかで最も注力するのは、「想いを描く」という部分である。ここで言う「想い」というのは、単に情緒レベルから発せられる自分のやりたいことや好きなことではない。もっと強い意味・価値を含んだ意志的なものである。

受講者一人一人のかけがえのない職業人生にあって、
「何を働く中心テーマ」に据えたいのか、
自分という能力存在を使って「何の価値」を世の中に届けたいのか、
日々の仕事のアウトプットには「どんな想い」を反映させたいのか、
そして自分の送りたい人生は「どんな世界観」なのか、
……これらを各人がうまく引き出せるように刺激を与える。

これらを肚で語れないかぎり、会社員はずっと「働かされ」モードから抜け出ることはない。当然、天職という境地にたどり着くこともない。だが逆に、もし自分の想いのもとに会社組織のなかで仕事をつくり出せるなら、そんないいことはない。安定して雇用されながら、天職にも近づいていけるのだ。

ただ実際は、会社員として安定的に雇用され、そこそこの給料で生活が回っていくと、自分の想いを描かず、あるいは想いにかなう仕事なんて見つかりはしないとあきらめ、適当な満足感で安住し、会社にぶらさがる生き方も出てくる。「想い」を持とうとしない人は、天職から遠くなるばかりでなく、能動・主体の人生も危うくなる。




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