« 「人材」と「人財」の違いを考える | メイン | 「自信」について ~自らの“何を”信じるのか »

自分自身の評価眼を持て

3.7.3


「私は五大陸の最高峰に登ったけれど、高い山に登ったからすごいとか、厳しい岸壁を登攀したからえらい、という考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけないと思う。要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山がほんとうだと思う」。

                                                ―――植村直己『青春を山に賭けて』


現代は「個性が多様化する時代」だと言われる。だが、見方によっては、逆に「没個性化がどんどん進む時代」でもある。

たとえば、「あの本はベストセラーだから、きっと面白いんだろう」と、売れている本はますます売れていく。書籍の宣伝の常套コピーは「アマゾン売れ筋No.1!」だ。また、行列ができるラーメン店は、「さぞ、うまいに違いない」ということで、さらに行列ができる。そして、「あのセレブが、何々というブランドのバッグを買った」などと雑誌で紹介されるや、そのブランドバッグは翌日には品切れになるという状況が起こる。

確かに、まずは流行に乗ってトレンドを感じておこうという遊び心はあってよい。また、特に若いころはそうやっていろいろなものを手にとって、「もののよさ/わるさ」を知っていくこともよい。問題は、歳を重ねるにしたがって、モノをみる眼やコトを評価する軸が成熟化していくかどうかだ。流行に乗って遊ぶかたわらで、自分だけの「ほんもの」もきちんと選べているかだ。実際のところは、モノやコトの価値をみずからの基準で判断しようとせず、他人の評価や世間の評判に依存する意識が自分のなかで定着してしまっている人が多いのではないか。

その結果として、誰もが同じようなものを手にし、口にし、耳にし、身につけ、同じようにそこそこ満足するという没個性社会ができあがる。

さて、あなたは、自分の基準で「いいものは、いい!」、「世間では見向きもされていないが、こんなに優れたものがここにある!」と言い切れる“目利き力”をもっているだろうか? それは言い換えれば、自分の中に独自の評価眼を養い、他に説明する力があるかどうかだ。

「個として強い」人は、自分の基準でモノや情報を評価する眼を持ち、それがなぜよいのか、よくないのかを語ることができる。そして、世評や流行に関係なく、自分が認める「ほんもの」を味わう楽しみを知っている。


〈Keep in mind〉
ゴッホの絵を観て、いい絵だと思うのは、既知の巨匠が描いたからなのか。
同じ絵をゴッホの無名時代に観て、
あなたは「美しい!」と言っただろうか?



* * * * *
【補足】

◆福澤諭吉が見透かした日本民族の特性
個々の日本人に対して「独立自尊」を説いた福澤諭吉は、ある日、面白い実験をした。『福翁自伝』の「路傍の人の硬軟を試みる」の箇所で語られている話を紹介したい───

旅先で目的地に向け一人歩いていたときのことである。向こうからやってくる百姓らしき男に、福澤が道をきいた。そのときの福澤の素振りがどこか横柄で士族のように荒い言葉だと見えて、その男はていねいに道を教えてくれ、お辞儀をして去ったという。そこで福澤はこう書く───

「こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば持っているものは蝙蝠傘(こうもりがさ)一本きりで何もない。も一度やってみようと思うて、その次に来る奴に向かって怒鳴りつけ『コリャ待て、向こうに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数はおよそ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申す』などとくだらぬことをたたみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、其奴(そいつ)は道の側(はた)に小さくなって、恐れながらお答え申し上げますというような様子だ」。


福澤は人びとの反応に興味がわき、今度は逆をやってみようと思いつく。腰を低くして「もしもし、はばかりながらちょっとお尋ね申します」などと丁寧に話しかける。すると話しかけられた通行人は、福澤を町商人か何かと見なし、横柄に会釈もせずさっさと通り過ぎていくありさまだった。福澤はこうして、通りがかりの人びとに対して、こちらが尊大に出るのと、丁寧に腰を低くして出るのとを代わる代わるに三里ほど試してみた。結果は案の定、人びとは福澤の振る舞いによって、見事変わるのだった。福澤は書く───

「如何(いか)にもこれは仕様のない奴らだ。誰も彼も小さくなるなら小さくなり、横風ならば横風でよし、こうどうも先方の人を見て自分の身を伸び縮みするようなことでは仕様がない、推して知るべし、地方小役人らの威張るのも無理はない、世間に圧制政府という説があるが、これは政府の圧制ではない、人民の方から圧制を招くのだ」。


福澤は、相手次第でこのように驕傲(きょうごう)になったり、柔和になったりする民の様子におおいに落胆し、「まるでゴムの人形を見るようだ」と書いている。だからこそ、日本人一人一人に学問を授け、独立自尊の気概を持たせなければならないと叫んだ。でなければ、この国は容易に欧米列強の属国に成り下がってしまう、との福澤の危機感はいかばかりだったろうか。

◆「分断された個」はそれでも全体を気にしながら情緒的にフワフワと考える
これを昔の話と決め込んではいけない。こうした権威や肩書き、メディア、外見、世間の評判などによって、見方・態度を“ゴム人形のように”軟弱に変える(変えるというか、移ろう)性質は、いまの日本人もさほど変わりがない。

もちろん、立場の上下を慮り、敬語や謙譲語を使い分ける日本の文化は美しい。しかし、それはあくまで所作の面で流麗に応対することの美しさだ。自己の存在の核となる自尊心や価値判断まで相手に依って容易に変えてしまうなら、それはむしろ弱く醜い姿だろう。

一般的に、日本人は「全体の空気のなかに混ざろうとする個が、情緒的に自分の考えのようなものを抱く」、欧米人は「独立した個が、意思的に主張を持ち表明する」と言われる。このことは、私も米国在住経験や海外への度重なるビジネス出張での観察から、おおかた当たっていると思う。ただ、本来的にはこのどちらが「よい/わるい」ということではなく、どちらも過度になると弊害が出てくるということなのだろう。私は米国留学時に、何度も彼らの「個の主張の激しさ」に辟易した。日本に帰ってきたときに、「やっぱり日本はラクだなぁ」と正直思ったものだ。

しかし、日本人のその「全体の空気のなかに混ざろうとする個が、情緒的に自分の考えのようなものを抱く」ことが、新しい傾向性を帯びてきたように感じる。
これまで日本人が全体の空気を感じ取るとき、そこには他に調和したり、他を思いやったりするという美徳に通ずるプラス面があった。これは長らく続いてきた日本の「ムラ社会で互恵的に生きていく文化」の影響によるものだろう。だが、昨今では、「ムラ」の解体はもちろんのこと、核家族化、さらには非婚化、独居化によって、個がますます分断されつつあり、全体へのつながりが急激に薄まっている。その結果、個々が自己の殻に閉じこもりがちになった。

閉じこもりがちになったとはいえ、個は相変わらず世間全体の流れに依りながらしか物事をとらえようとしない。言ってみれば「全体の空気を気にしつつも、分断された個が、情緒的に自分の考えのようなものを抱く」という状態への変化だ。


◆情緒的な所感のやりとりに留まるディスカッション
私が企業の研修現場で観察することを少し加えよう。
私は働くことの根本を考えさせるために、「働く目的は何か?」「仕事とは何か?」「仕事を通して自分は何の価値を届けたいのか?」「成長とは何か?」「金儲けは悪か?」「プロフェッショナルとは何か? 理想のプロ像とはどんなものか?」……といったことを問う。そしてグループで討論させる。

こうした真・善・美・利といった根本の価値論に通じる問いや、意味・理想を語らせる問いについて考えることは、ほんとうに日本人は苦手である。思考空間の下層部に醸成されるべき観が軟弱で、そうした問いを深層部にくぐらせ、自分自身の価値評価による堅固な答えを持つことができないのだ。

討論の様子や個人の発表を聞いていると、情緒的所感が交わされる表層的なものになりがちでどうも迫力がない。「好き/嫌い」「気持ちいい/気持ち悪い」「なんとなく共感できる/共感できない」「カッコイイ/カッコ悪い」といった感覚的なレベルで答えがつくられていき、最後は「しょうがないから・やるしかないから」という諦観に飛躍する。しかも、他の発表を聞きながら、自分の答えがある範囲内に収まっていることに安心を得るふうでもあり。 (もちろん、粒立ちの明快な力強い意志を発表する個人も少なからずいる。それはそれで頼もしいと思うのだが、全体の傾向としてはここに述べたとおりだ)

いずれにせよ、日本人について「個が弱い」という一般論はいつの時代も言われてきたのだろうが、私はこの(研修事業という)仕事をやるようになり、個人個人の意志的に考える力を日々試す立場になって、その一般論の妥当性を直接的に感じる。ただ、だからこそいまの自分の仕事にはいっそうのやりがいも感じている。この『働くこと原論』サイトに、「観を耕せ・強い個になれ」と副題をつけているのもそうした想いからだ。

ちなみに私は、日本人の「全体の空気のなかに混ざろうとする個が、情緒的に自分の考えのようなものを抱く」性質はけっしてネガティブなことではないと思っている。私自身は、これをベースにして、欧米型の「独立した個が、意思的に主張を持ち表明する」色合いを同時に濃くしていきたい。そしてさらには、日本人というアイデンティティを持ちながら、「コスモポリタン」(世界市民)として国内外で仕事をしたいと思っている。



Related Site

Link