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「自立」と「自律」の違いを考える

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3.1.1


ハイハイをしていた赤ん坊がやがてみずからの2本の脚で立ち上がる。
これが「自立」である。
そして自分の脚で立った後、今度は自分の意志のもとに方向づけして進んでいく。
これが「自律」である。

自立と自律には大きな差がある。
自立は、能力・経済力・身体といった“外的な”要素による独り立ちである。
自律は、価値観・信条・理念・哲学といった“内的な”要素による独り立ちである。



◆自立は経済的・技能的に独り立ちすること
「自立」と「自律」の違いについて下図のように考えてみたい。

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自立は、職業人として独り立ちして生活ができ、業務がこなせる状態を言う。
(いわば「外的な独立」と言ってもよい)
英語で表現すれば、“self-stood”である。
自立には、経済的自立と技能的自立の2種類がある。

まず、経済的自立。
皆、学校を卒業して就職すれば、当然、経済的に親から独立し、自分の稼ぎで生計を立てる。そして、いよいよ20代後半から30代にかけては、結婚や子供の誕生、あるいは不動産購入などの人生イベントが予想されるので、経済的な基盤をより堅固にしていく必要がある。人生における家計のやりくりや財形の課題に対し、着実に手を打つことがキャリアの自立には欠かせない。自立はまず「生活力」維持の問題である。

次に、技能的自立。
誰しも、入社したては先輩社員や上司について、仕事のイロハを教えてもらい業務の方法を覚える。そしてやがて仕事全体の流れや事業の仕組みを把握し、自分なりに改善点や新しい工夫を加えていける。また、いずれは自分が後輩にやり方を教える番になる。これが技能的自立である。また、心身が健康であるということも大事な要件である。


◆意識的自律が「強い個」を生む
そうして経済的にも技能的にも、自ら立った(=自立)後は、
自分で「方向づけ」して行動ができるようになる。
(いわば「内的な独立」と言ってもよい)
この状態が「自律」である。英語で表現すれば、“self-directed”だ。

「律」とは「規範やルール」といった意味である。自らの規範やルールを内に持ち、それにしたがって判断・行動する状態を自律という。律を持つためには、自分なりの価値基準や信条、理念といったものが当然必要になる。自律はそのように意識やマインドといった内的領域にかかわるものである。

よく「大企業病」ということが言われる。これは、企業がある成功で大きくなると、従業員たちはいつしか、組織が築いた過去のやり方を踏襲してそれを継続さえしていればよいという意識に陥り、そこそこの技能的自立で満足したり、安定して維持される経済的自立で満足したりする症状をいう。さらに症状が進むと、業務の行い方について常に上司・組織の意思決定を頼るという他律意識、定年までは雇用してくれるだろうという会社へのぶら下がり意識などが蔓延してくる。真に強い企業というのは、従業員の一人一人が自立で満足することなく、「自律した強い個」になるようお互いが啓発し合って、それを組織文化にしているところである。


◆「守・破・離」
日本の伝統芸能や芸術、武道の世界に「守・破・離」という言葉がある。これはその道を極めるための成長段階を示す言葉である。

●「守」
=まず、師からの教えを忠実に学び、型や作法、知識の基本を習得する第1段階。
「修」の字を当てる場合もある。
●「破」
=経験と鍛錬を重ね、師の教えを土台としながらも、それを打ち破るように自分なりの真意を会得する第2段階。
●「離」
=これまで教わった型や知識にいっさいとらわれることなく、思うがままに至芸の境地に飛躍する第3段階。


この「守・破・離」の成長3段階は、まさに自立から自律へのステップを表しているともいえる。自分自身のキャリアも、ひとつの「道」とすれば、その最終境地である「離」を目指したいものだ。


◆「5+3=○」と「○+○=8」
さて、自立と自律の違いをもう少し別の角度から眺めてみよう。ここに2つの足し算がある。

    5+3=○
    ○+○=8

5+3=○を、一般に「閉じた問い」という。5+3は?ときかれたとき、答えは8しかない。A君がやっても、Bさんがやっても出す答えはひとつ。8だけだ。

閉じた質問では、回答のための技能やルール(この場合は足し算という演算)を覚えさえすれば、誰でも一様の答えを出すことができる。回答に個性が求められることはない。

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私たちの仕事現場では、こうしたいわば「閉じた業務」というのがある。定型業務と呼ばれるのはその典型で、その技術を習得すれば誰でも同じような処理ができる類のものだ。「3+4=○」「2+9=○」「6+7=○」「3+3=○」……と、どんな問題が降ってきても、それを的確に処理できるようになるのが「自立」段階である。

次に、○+○=8を「開いた問い」という。○+○=8は?と問われたとき、A君は2+6と答えるかもしれない、Bさんは4+4と答えるかもしれない。この場合の答えは、ひとつに決まっているわけではなく、人によって答えが違っていてもよい。

開いた問いでは、回答は多様化し、個性が入り込む余地が出てくる。回答者には、回答するための技能やルールを覚えたうえで、さらに自分なりの答えを出すにはどうしようかという一段高度な思考が要求される。8という数式結果に達するために、どんな組み合わせがあるのか、無限の選択肢のなかからの創造行為になるわけである。

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職場にもこうした「開いた業務」がある。たとえば、「=8」を「=売上げを10%伸ばす」としてみる。すると、そのための方法はいくつも存在する。「値引き+チラシ」という案があるかもしれないし、「販売ルート変更+おまけ付け」というという手もいいかもしれない。

○+○=8という数式において、右辺はいわば「目的・ゴール」であり、左辺はそれを実現するための「手段・プロセス」と見立てることができる。ある与えられた目的に対し、自分ならどういう手段を探し組み立てるか、これが自立から自律への移行となる。しかし、ここはまだ「半自律」の段階である。「=8」という到達点が受動的に与えられているからだ。

◆○+○=○の両辺を司るのが「自律」
完全な自律は、次の数式を成立させる段階といえる。

    ○+○=○

この段階では、もはや右辺も左辺も開いている。だから、右辺(目的・ゴール)も自分で設定しなければならないし、左辺(手段・プロセス)も自分なりに組み立てなければならない。

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日ごろの仕事・キャリアにおいて、右辺に当たるもの、つまり「目の前の担当業務で何を課題とし、どんな目標を立てるか」「自分は仕事で何を成したいのか」「どういう職業人になりたいのか」をイメージできる。そのうえで、左辺の手段・プロセスを考え出し、実行していく。これが力強く自律的に働く姿である。

自律的に働くとは、
「○+○=○という数式を、大小、何本も何本も完成させる営みである」
と表現できる。





【『働くこと原論』関連記事】
・「3つの自」 ~自立・自律・自導 
・「自導」についての補足~2つのリーダーシップ   
・「自律」と「他律」 そして「合律的」働き方




【人事担当者のための補稿】
◆自立と自律の隔たりは大きい
自分の律を内に確固と持って、ぶれない判断を行い進んでいけるかどうかは、「強い個」となり、「強いキャリア」を形成していくための要の部分である。いくらうまく仕事を能力的にこなせる自立的な人でも、みずから評価・判断ができずに指示を期待する、決断を他者に委ねる他律的の人は、結局、弱い個であり、弱いキャリアしかつくれない。単に自立的であることと、自律的であることには大きな隔たりがあるのだ。

何年か前の話になるが、関西のある老舗料亭が、賞味期限の改ざんや食べ残しの再利用で不祥事を起こした。おそらく同店の料理長は、腕の立つ自立した料理人であったと思われる。しかし、「何が顧客にとって正しいことなのか」という自問を通して、自律を求めようとせず、あるいは、不正は承知していたが、それを言い出すと解雇される恐怖心があり、創業者一族社長の指示に他律的に従い続けた。結果的に同店は廃業となり、料理長は失職するのみならず、これまでのキャリアも名誉も台無しにしてしまった。

また、社長も経営者としては自立した人だったかもしれない。が、自律がいつしか我律に陥り、その独断は社会の律(=法律)によって裁かれた。清く正しく美しく、しかも個性を持って自律的であることは、本当に難しい課題なのだ。


◆自律性を受け止める土壌が組織にあるか
組織の要求に合わせて従順に自発的に働く人のことを自律的というのであれば、それは誤りだ。従順というのはむしろ他律に近い姿勢である(他律的に自発的に働くということは起こりえる)

自律は先にみたとおり「自らの律」によって評価、判断、行動することである。そのために、自律を強めれば強めるほど、組織の考え方と違和感が出てくる可能性は高まる。そのため、自律性の強い社員は従順というより、改革的批判の姿勢に傾く。そして自らの律は「心の奥の叫び」となって、激しい態度に出る場合もある。だから、組織側にはそうした自律的な人材を受け止める土壌がないと、真に自律に目覚めた人は社外に出て行くことも起こりえるのである。しかし、ほんとうに自律的な個が集まる自律的な組織は、そうした個と組織の律がガツンとぶつかり合い、侃々諤々の議論を通してギリギリと音を立てながら進んでいく。そうした一つの律ともう一つの律がぶつかり合って、新たな律が生まれていく仕組み(いわば正・反・合の止揚プロセス)については、関連記事「「自律」と「他律」 そして「合律的」働き方」で詳しく触れた。

企業の人事部門は容易に「自律的人材を多く育てたい」と言ってしまいがちだが、同時に、組織全体にそれを受け止め、生かす文化があるかにも思考を巡らせる必要がある。




〈蛇足〉
「自律型」人材というときの「型」に違和感がある
人事の世界でよく目にする「自律型」人材という表記。私はこの「型」という言い方に違和感を覚える。おそらく「自律型」というのは、メカトロニクスの世界から転用したものだろうが、機械であれば「自律型制御システム」とか「自律型ロボット」という表記は適切だと思う。それ以前の機械が「指令(コマンド)型」であり、いちいちの動作は指令を打ち込まないかぎりそのとおりに動かなかったからである。それが、機械みずからが考えるようになった新型が開発されてきた。旧型と新型という区別で「型」がある。

その観点でみて、「自律型人材」の「型」とは何だろう? みずからの考えで動けない人材と動ける人材の区別として「型」と表記するのだろうか。

自律は人の中に醸成される性質である。心の態度といってもよい。それは誰にも本然的にあるもので、「型」の違いというより、「程度」の違いとみたほうが適切ではないか。したがって、「自律的人材」「自律性が強い/弱い」「自律度が高い/低い」という表記のほうが私には納得がいく。




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