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プロフェッショナルの原義~『ヒポクラテスの宣誓』

3.5.1



民間企業や公的機関における不正・不祥事のニュースは絶えることがない。犯罪的営利行為、非倫理的行為などの原因は組織ぐるみのものもあれば、一従業員や一管理者、一経営者によるものもある。しかし根っこは一職業人の中の職業倫理欠落(あるいは欠陥)によって引き起こされる。

倫理・道徳などというのは抹香くさいテーマで多くが敬遠したがるものだが、働くことを考えるうえではここを避けて通ってはいけない。特に自身を「プロフェッショナル」と自認する人にとっては、だ。なぜなら、「倫理を誓う」ことが「プロフェッショナル」の原義だからである。


◆プロフェッショナルとは“宣誓する人”
「プロフェッショナル」という言葉は、現在では多義に拡大され、いささか大安売りされている感があるが、もともと「プロ」と呼べる職業はきわめて限定的だった。

ジョアン・キウーラ著『仕事の裏切り』(原題:The working Life)によると、プロフェッショナルという言葉は、もともと“profess”=宗教に入信する人の「宣誓」からきていて、やがてそこから、厳かな公約や誓いを伴うような職業をプロフェッショナルと呼ぶようになったという。

中世に存在した数少ないプロフェッショナルは、聖職者や学者、法律家、医者だった。彼らの仕事の特徴は、仕事における個人や組合・協会の自律性と、私欲のない社会奉仕精神・公約の精神だった。プロフェッショナルの仕事は無報酬を理想とし、お金を稼ぐために仕事をするのではなく、仕事をするために必要な経費だけを頂戴するという意識だった。

その意味から、社会学者のタルコット・パーソンズは50年前の著書で「(こうしたプロフェッショナルの厳格な定義に照らすと)企業管理者は決してプロになれない」と主張した。なぜなら企業におけるビジネスマンは、基本的に利己的な利益獲得行動に走らざるをえないからである。


◆我欲を排し利他を誓う『ヒポクラテスの宣誓』
欧米の医学会では、いまでも医師になるときに『ヒポクラテスの宣誓』を行なうしきたりを残すところがある。

ヒポクラテスは、紀元前400年ころに活躍した人で、ソクラテスやプラトンと同世代のギリシャの偉人の一人である。「人生は短く、学芸は永し。好機は過ぎ去りやすく、経験は過ち多く、決断は困難である」との有名な言葉は彼のものだ。ヒポクラテスは、当時の医術の発展に多大な貢献をしただけでなく、後世の医の倫理の礎を築いた。

彼は多くの著書を残し、そのなかの一つで「誓い」と題された短文がある。これが世に言う『ヒポクラテスの宣誓』である。彼はそこで医師の戒律・倫理を明言する。

『ヒポクラテスの宣誓』は、冒頭、医神であるアポロン、アスクレピオスらに誓いを立てる文面からはじまり、医を志す際の師弟の誓い、そして医師として患者第一とする利他的で我欲を排する誓いをする内容である。

こうしたみずからが進んで利他の精神を誓い、みずからの能力を社会奉仕に使うことを喜びとする専門職業人こそが、本来の意味での「プロフェッショナル」なのである。その観点からすると、現在、どれほどのプロ自認者が厳密にプロと呼べるのだろう。


◆精神のない専門人と心情のない享楽人
利益追求や利己主義は一方的に悪いことではない。むしろそういう動機があってこそ現代の資本主義経済は回るようにできているし、さまざまな創造や革新も起こる。欲は善にも悪にもなりうえるのだ。

マックス・ヴェーバーはいまから100年以上も前に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)の末尾において、資本主義の興隆で跋扈し、うぬぼれるのは「精神のない専門人と心情のない享楽人」であると予見している。

精神のない専門人が、プロフェッショナルとして多量になりすぎると、ビジネスは単なる「利益追求ゲーム」へと成り下がり、その果ては、「圧倒的な富を得る1%の勝者」と「十分な富を得られない99%の敗者」をつくりだす社会にしてしまう危険性をはらんでいる。そこでは、経済が本来、“経世済民”として持っている「民を救う」という使命・目的が喪失されることになる。

欲望をエンジンとして回り続ける自由資本主義というシステムを、今後も持続可能にするためには、欲望の自制とそれを賢明に活かす英知が不可欠となる。そのとき、『ヒポクラテスの宣誓』は新しい光をもって多くのプロフェッショナルたちに見直されるべきものになるだろう。

「プロフェッショナル」の原義は、“profess”(=神に誓う)である。プロが誓いをなくしたとき、それは単なる「○○屋」でしかない。





【参考文献】
・ジョアン・キウーラ『仕事の裏切り』(中嶋愛訳・金井壽宏監修)翔泳社
・ヒポクラテス『ヒポクラテス全集 第1巻』(大槻真一郎編集・翻訳責任)エンタプライズ




生命は「動的な奇跡」!~きょう1日を生きることの再考

5.8.5



特に科学の分野の本において、良書的なものは読者に2つのものを与えてくれる。1つは科学的知識。もう1つは、その知識を通して物事をみたときの新しい世界観だ。

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その意味で、本項で取り上げる2冊───『生命を捉えなおす』(清水博)、『動的平衡』(福岡伸一)も良書である。どちらもこれまでの科学が邁進してきた機械還元論的な生命観を超えて、全体論的な視座から生命を見つめ直し、生命を「動的な秩序」として定義する。その論理展開は、東洋が古来保持してきた叡智にほとんど馴染みが薄くなってしまった現代の日本人にもとてもわかりやすい。と同時に、そのとらえ方は、私たちの働くこと、生きることに新しい気づきを与えてくれる。この2冊は単に科学の本ではなく、一日一日の生き方を再考させる本でもあるのだ。



◆生命は瞬時も休みなく「定規立て」をやり続けている
本項は、上記2冊に啓発され、「生命・生きること」について私が再認識したことをまとめる。さて、下図をみてほしい───

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よく子どものころ、手のひらに長い定規を立てて、それが倒れないよう手のひらを前後左右に素早く動かすという遊びをやった。別バージョンとして、足の甲に傘を立てたり、額(ひたい)にほうきを立てたりするのもある。いずれにしても、このせわしなく立たせている状態が「動的平衡」である。

定規には常に重力がはたらいているので、手のひらの動きを止めたとたん、定規は倒れる。動的平衡が失われるからだ。生命とは簡単に言えば、この動的平衡の状態である。私たちは、生きている間じゅう、ずっと、四六時中、休みなしにこの「定規立て」を自律的にやっているのだ! なんと不思議なことだろう。もう1つ、図をこしらえた。

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私たち生物の身体は一つの“器(うつわ)”と考えられる。この器は、開放系と呼ばれるシステムで、常に外部と内部とでエネルギーの交換をしてその状態を維持している。

ゾウリムシのような簡素な器(簡素といっても、現在の人類の科学をもってしてもそれをつくり出すことはできない)から、ヒトのような複雑巧妙な器まで、生物という器は驚くほどに多種多様である。そしてまた、同じヒトの間でも身体の個性がさまざまあるので、器はさらに千差万別である。しかも、その器は単なるハードウエアではなく、環境情報を処理するソフトウエアまで組み込んでいる。さらに言えば、霊性までをも宿している。こんなものがなぜ暗黒の宇宙空間から生じてきたのか───この解を追い求める科学が、やがていやおうなしに哲学・宗教の扉の前に行き着いてしまうのは、一凡人の私でも容易に想像がつく。

福岡先生はこう表現している───

「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。

だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜けている」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たち身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。

つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている」。 (『動的平衡』より)


生物とは、流れの中に生じる“淀み”であり、“容れ物”である。福岡先生は、この後、生命は構造というより「効果」であるとも言っているが、いずれにしても、生命を捉えるはっと息を呑む定義である。

少し難しくなるが、清水先生の表現はこうである───

「生命とは(生物的)秩序を自己形成する能力である」。

「この内部世界を支配している自己意識には、時間的な継続性をともなう統合的な一体感がありますが、この継時的一体感は、その世界の内部の諸情報が、さまざまなホロニックループのネットワークによって過去から現在に至る時間を繰り込みながら連続的に統合されていることから来ているのです。意識は内なる意味秩序(セマンティックス)の絶え間ないフィードバックとフィードフォワードに複雑なネットワークの上に成立しているのです」。 (『生命を捉えなおす』より)


生命はそれ単独では出現も進化もせず、環境や他の生命との協働によってそれをなしていく。一つの生命(個々の細胞も、全体の生命も)は、生きることを実行していくために独自の“意味秩序”(=これが及ぶ範囲をその生命にとっての「場」と名づける)を持っていて、そのもとに自律的かつ他律的に進んでいくという言及である。これは、仏教哲学が洞察した「空」(くう)や「仮」(け)、「縁起」(えんぎ)といった観念に通底していると私は思う。


◆人は坂に立つ
いずれにしても生命の出現、そして生きているという状態は、なんとも素晴らしい奇跡である。私たちは、知らずのうちに生まれてきて、知らずのうちに息をして、知らずのうちに身体が成長して、食べて、笑って、ものを考えて、愛して、感動して、刻々と生きている。そのことの不可思議さについて、ついつい鈍感になってしまいがちだが、実はとてつもなく難度の高い営みを細胞1つの次元から瞬時も休まることなく進行させているのが生命なのである。

生命の哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』の中でこう言った───

「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。


たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけだ。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからである。
ところが、唯一、生命のみがそのエントロピー増大の傾斜に抗うように自己形成していく努力を発する。坂に置いた石が、勝手に傾斜を上っていくことがあればさぞ驚きだろうが、それをやっているのが生命なのだ。

私は先のベルグソンの言葉と出合って以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えている。
生命の本質は坂を上ろうとする作用である。本質にかなうことは必然的に幸福感を呼び起こす。だから私は、人間は本来、進歩や成長を求め、勤勉の中に真の喜びを得る生き物だと思っている。逆に、本質にかなわない滞留や衰退、怠惰からは、不幸や不安感を味わう。アランが『幸福論』で言った「人は意欲し創造することによってのみ幸福である」というのもここにつながってくる。

仕事や人生はいろいろな出来事を通して、私たちに傾斜の負荷を与えてくる。私たちはその傾斜に対し、知恵と勇気をもって一歩一歩上がっていくこともできるし、負荷に降伏をし、下り傾斜に身を放り出すこともできる。一人一人の人間が、生き物として強いかどうかは、結局のところ、身体の強さでもなく、ましてや社会的な状況(経済力や立場など)の優位さでもなく、各々が背負う坂に抗っていこうとする意欲の強さであると私は思う。


◆この一生は「期限付き」の営みである
そんな尊い生命は、とても“か弱い器”でもある。仏教では、人の命を草の葉の上の朝露に喩える。少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に地面に落ちてしまうし、そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまう。それほどはかないものであると。

スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチで「きょうで命が終わるとすれば、きょうやることは本当にやりたいことか」と問うた。私はこのスピーチを聞くと、吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出す。第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話である。

京都の賀茂で競馬が行なわれていた場でのことである。大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、ある坊さんは木によじ登って見ることにした。その坊さんは、

「取り付きながらいたう眠(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。これを見る人、あざけりあさみて、『世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて眠(ねぶ)らんよ』と言ふに・・・」


つまり、坊さんは木にへばり付いて見ているのだが、次第に眠気が誘ってきて、こっくりこっくり始める。そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、またへばり付くというようなことを繰り返している。それをそばで見ていた人たちは、あざけりあきれて、「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」と口々に言う。そこで兼好は一言。

「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」。


人の死は誰とて、いまこの一瞬にやってくるかもしれない(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主も傍で見ている人々もそうかわりがない)。それを忘れて、物見に興じている愚かさは坊主以上である。

医療技術の発達によって人の「死」が身近でなくなった。逆説的だが、死ぬことの感覚が鈍れば鈍るほど、「生きる」ことの感覚も鈍る。
仮に現代医学が不老不死の妙薬をつくり、命のはかなさの問題を消し去ったとしても、人の生きる問題を本質的に解決はしないだろう。なぜなら、よく生きるというのは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ多くを感じ、どれだけ多くを成したか、で決まるものだからだ。

この一生は「期限付き」の営みである。その期限を意識すればするほど、きょう1日をどう生きるかが鮮明に浮き立ってくる。

哲学や宗教は「死の演習問題を通して、生を考えること」とも言われる。それほど生死(しょうじ)の問題は、人間にとっての一大テーマであり続けてきた。とはいえ、若いうちは誰しも、老いることや死ぬことを真正面から考えないし、考えたくない。いまだ身体の内奥の律動が「生へ生へ」と踊っているからなのだろう。
であるならば、もっともっと生命への好奇心をもって生きることへの思索を大きく巡らせたらどうだろう。本項で取り上げた2冊もまさに生命の驚きの一面を解き明かしたものだった。たったいまの瞬間も、私たちの身体は、60兆個もの細胞が調和を保って動的な平衡秩序を維持している。そしてまた、目を閉じれば無限の思考空間が内に広がっている。それはほんとうに“有り難い”ことなのだ。そんな奇跡的な自分の生命に、「ありがとう」と言いながら、きょうの1日を送っていきたい。







「知っている」が学ぶ心を妨げる

2.1.3



企業で研修を行うと、たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、いわば成績表のようなもので、良い評価であれば励みにし、意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。いずれも見るのは楽しみです。しかし、そんな中で残念な感想というのがあります。それは例えば―――

 「わかりきった内容のことが多かった」
 「どこかで聞いたような話だった」
 「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
 「理論的に目新しいものではない」
 「明日からの業務に直接役立つものではない」……といった類のものです。

もちろん私も、このような声が出ないよう、もっと知的満足を与える改善をして努力を重ねるわけですが、このような類の感想はどうしても出てしまうのです。その理由は「知識が学ぶ心を妨げている」からです。

私が行う『プロフェッショナルシップ(一個のプロであるための基盤意識醸成)研修』は仕事やキャリア形成に関わるマインド・観を涵養する内容ですので、いわゆる知識習得・実務スキル習得ではありません。働く上での原理原則の観念をさまざまに肚に植え付けること、そして思索・内省の脳を大いに動かすことを狙いとしています。
私は「観念が仕事をつくり、観念が人をつくる」と確信しています。さらには、観念は価値を生み出す基となるものであり、観念は人を結びつけるものであるとも確信しています。例えば私が紹介する観念は―――

「心が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる」。 
(星稜高校野球部・山下智茂監督の指導書き)


あるいは、

「悲観は気分に属し、楽観は意志に属する」。 (アラン:仏哲学者)


または、

「チャンスは心構えをした者に微笑む」。 (パスツール:細菌学者)



といったようなものです。これらわずか一文に表された観念を肚に落としてもらうために、ワークをやり、ゲームをやり、ディスカッションをやり、1日とか2日とかの研修プログラムをこしらえます。

原理原則を含んだ観念というのは、古典的な言い回しです。当然それらは一読して当たり前の内容であり、新規性のある情報や理論は含んでおらず、地味で説教じみたものです。そんなとき、「心が変われば運命が変わる? まぁ、教訓としてはそうだよね」、「ああ、その言葉、聞いたことある、知ってる。(で、それが何?)」、「チャンスは努力しないと来ないってことでしょ。はいはい、わかってます。(で、明日から使えそうな具体的ハウツーは何か教えてくれるの?)」……受講者の中で「知識狩り」「ハウツー情報狩り」の人の感想はこうなりがちです。

知識を狩るにしても、ハウツー情報を狩るにしても、それはひとつの好奇心の表れですから、まったく悪いというつもりはありません。しかし、自分の外側にある新奇のものばかりの収集・消費に忙しく、自分が既に持っている内側のものの耕作・醸成を放置していることが私は残念だと言いたいのです。
私たちはあまりに知識所有教育を受け、情報優位社会に生きているので、「ああ、それなら知ってるよ」と思ったとたん、それ以降の「考えること」をしなくなります。そして、もっと知らない知識・もっと目新しい情報を欲しがるのです。

ここで、小林秀雄を引用しましょう。下の箇所は小林が小中学生に語った『美を求める心』に出てきます。

「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。

(中略)言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです」。 



小林は、言葉が美を見る眼を奪ってしまうと言います。それと同じように、私は、知識が学ぶ心を奪ってしまうと思います。つまり、「ああ、アランのその言葉なら知ってるよ。『幸福論』に出てくるやつでしょ」と、自分がそれを知識としてすでに持っていると認識するや、その人はもうその言葉に興味をなくします。その言葉の深い含蓄を掘り起こし、自分の生きる観念の一部にしようという心を閉じるのです。
知識狩りに忙しい人は、新奇のものを知ることに興奮を得ていて、ほんとうの学び方を学ばない。ハウツー情報狩りに忙しい人は、要領よく事を処理することに功利心が満たされ、物事とのほんとうの向き合い方を学ばない。

とはいえ、人生とはよくできているもので、こうした情報狩りに忙しい人も、ハウツー情報狩りに忙しい人も、いつかのタイミングで古典的な言葉に目を向けるときが必ず来ます。誰しも、悩みや惑い、苦しみに陥るときがあるからです。人は何か深みに落ちたときに、断片の知識や要領のいい即効ワザだけでは自分を立て直せないと自覚します。そんなとき、自分に力を与えてくれるのが古典的な言葉です。その言葉を身で読んで、強い観念に変えて、その人は苦境から脱しようとします。
そういうことがあるから、私は古典的な言葉を通して、大事な観念を研修で発し続けます。いまはピンとこないかもしれないけれど、その人の耳に触れさせておくということが決定的に大事だからです。

自分の外側には、無限の知識空間があり、そこを狩猟して回るのは興奮です。他方、自分の内側には、無限の観念空間があり、そこを耕作することは快濶です。興奮は一時的な刺激反応ですが、快濶は持続的な意志活動です。狩猟の興奮を与えるコンテンツ・サービスは世の中に溢れていますが、耕作することの快濶さを与えるものは圧倒的に少ない。私はその圧倒的に少ないほうに自分の仕事の場を置きました。

人を強くするのは多量の知識ではなく、健やかな観念です。私たちは「知ること」を超えて、「掘り起こすこと」をもっとやっていきたい。



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