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目的と手段を考える[下] ~金儲けは目的か手段か?

1.3.4


【問い】
金儲け(利益追求)は、仕事(あるいは会社)の目的か? それとも手段か?


……これに対し、あなたはどんな答えを持つだろうか。

ところで、金を儲けることは、貨幣の考案以来、人類にいつも多くの考える題材を与えてきた。お金は欲望に直結しており、変幻自在で強大な力を持っている。「金持ちが天国の門を通り抜けるのは、駱駝(ラクダ)が針の穴を通るより難しい」とは聖書の言葉である。金儲けは罪である、金欲は悪だという意識は、現代の資本主義社会ではかなり薄らいできたものの、それでも、過度の利殖行為に対して、多くの人は何か眉をひそめる。また同様に、企業にとって利益追求が至上の目的であるとする考え方にも、少なからずの人が首をかしげる。
さて、考察の問いに戻り、あなたの人生において、金儲け(ここでは広く「お金を得ようとすること」と考えてほしい)はどんな位置づけだろうか。生計を立てていくにはお金が不可欠なので、金儲けは「目的」と考えられる。しかし金儲けは目的である、とのみ考えるだけで十分だろうか。目的以外の何かではないだろうか。もしくは、主目的ではなく、副目的という場合はないだろうか。


◆利益は事業の目的ではなく「条件」である
この考察問題を解くためには、目的と手段のほかに新たに2つの要素を考え起こす必要がある。それが、「条件」と「成果・報酬・恵み」である。

私たちは、そもそも目的の達成・手段の行使のために基本的な支えや環境が必要になる。それが「条件」である。条件は間接的に目的や手段に利く要素となる。

ピーター・ドラッカーは次のように言う。

「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いだけではない。的外れである。利益が重要でないということではない。利益は企業や事業の目的ではなく、条件である」。      ───『現代の経営』より



ドラッカーは、企業や事業の真の目的は社会貢献であると他の箇所で述べている。その真の目的を成すための「条件」として利益が必要だとここで言及しているのである。

金(カネ)は経済の世界では言ってみれば血液のようなものである。人間の体は、血液が常に良好に流れてこそ健康を維持でき、さまざまな活動が可能になる。血の流れが止まれば、人体は死を迎える。それと同じように、経済活動の血である金の流れが止まれば、その経済活動や事業体は死に直面する。ただ、だからといって、血のために私たち人間は生きるのだろうか? 「血をつくるために、日夜がんばって生きています!」という生き方はどこかヘンだ。やはり人間の活動として大事なことは、その身体を使って何を成したかである。血は、肉体を維持するための条件であって、目的にはならない。そう考えると、利益追求が企業にとっての目的ではなく、条件であるとするドラッカーの指摘は説得力がある。

私たち職業人の一人一人の生活にあっても、金を儲けることは、目的というより、自分が仕事をするために必要な基礎条件である───これが1つのとらえ方である。


◆利益は結果的に生まれる「恵み」である
次に、もう1つの要素である「成果・報酬・恵み」について考えてみたい。手段を尽くして目的を成就させると、結果的に何かしらの産物が出る。産物とは、具体的なモノかもしれないし、目に見えないコトかもしれない。経済的な利益をここに位置づけることもできる。

「本質的には利益というものは企業の使命達成に対する報酬としてこれをみなくてはならない」。  ───松下幸之助『実践経営哲学』

「徳は本なり、財は末なり」。「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」。  ───渋沢栄一『論語と算盤』



松下幸之助は、事業家・産業人として『水道哲学』というものを強く心に抱いていた。それは、蛇口をひねれば安価な水が豊富に出てくるように、世の中に良質で安価な物資・製品を潤沢に送り出したいという想いである。松下にとって事業の主目的は、物資を通して人びとの暮らしを豊かにさせることであり、副次的な目的は雇用の創出だった。そして、そうした目的(松下は“使命”と言っているが)を果たした結果、残ったものが利益であり、それを報酬としていただくという考え方だった。

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一方、明治・大正期の事業家で日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、財は末に来るもの、あるいは糟粕のようなものであると言った。仁義道徳に基づく行為こそが目的であり、その過程における努力が大事であって、そこからもたらされる財には固執するな、無頓着なくらいでよろしいというのが、渋沢の思想である。
渋沢は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、そして一橋大学や日本赤十字社などに至るまで、多種多様の企業・学校・団体の設立に関わった。その活躍ぶりからすれば、「渋沢財閥」をつくり巨万の富を得ることもできたのだろうが、「私利を追わず公益を図る」という信念のもと、蓄財には生涯興味を持たなかった。

私自身もこのようにお金・利益を「条件」や「成果・報酬・恵み」として位置づける意識を強く持っている。なぜなら、結果的に生まれた「成果・報酬・恵み」としてのお金や利益は、「条件」づくりに還元されたり、補強財としてはたらく。そうして「条件」が堅固に強くなると、その分、目的の達成・手段の行使もより広く強く行えるようになるという循環のイメージが起こるからだ(図6)。これはまさに金が身体でいう“血液”であることのイメージに重なってくる。

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◆金儲けはさまざまに位置づけられるが……
とはいえ、やはり、お金や利益を目的にする人たちはいる。金融機関はまさに金を投入して金を得るというのが事業である。また、是が非でも儲けることが重要な手段になる場合もある。深刻な経営危機から再生しようとする企業にとって、ともかく利益を出すことが先決である。「黒字に戻った!」というのは、何にも代えがたい社内の士気向上の材料になるからである。

金儲けは目的か手段か───結論から言えば、それは目的にもなりえるし、手段にもなりえる。条件や成果・報酬・恵みにもなりえる。より正確には、これら4つの要素の複雑な混ざり合いである。どの要素の比重が大きくなるかは個々のとらえ方や状況による。ただ一点、金を自分の意志の支配下に置くか、それとも自分が金の支配下に置かれるか、ここは個人の生き方や事業のあり方にとってきわめて重要な分岐点であるにちがいない。


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目的と手段を考える [上]

1.3.3


私たちは日々の仕事のなかで、自分の目指していることが袋小路に入ってしまうことがよくある。そんなとき、冷静に原因を分析してみると、いつしか当初の目的がどこかに消えてしまっていて、手段が目的にすり替わり、それに振り回されていたことに気づく。本項は目的と手段の関係性についてあらためて考える。

◆目的と手段の基本的な形
「目的」とは目指す事柄をいう。そして、その事柄を実現する行為・方法・要素が「手段」である。何かを成し遂げようとするとき、目的と手段はセットになっていて、端的に表せば、「~実現のために、~する/~がある」という形になる。たとえば、「平和を守る〈=目的〉ために、署名活動をする〈=手段〉」、「平和を守る〈=目的〉ために、法律がある〈=手段〉」といった具合だ。その関係を図に示すとこうなる。

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◆目的と手段は相対的に決まる
さて、冒頭の疑問のように、私たちはときとして、何が目的で何が手段であったか混乱してしまう、気がつけば手段が目的に入れ替わっていたなどということがよくある。これはなぜだろう───。それは、目的と手段は目線を置くレベルによって「相対的」に決まるからである。つまり、あるレベルでは目的であったものが、違うレベルでは手段になりえるのだ。それを図で考えてみよう。

図2は、ある一般的な人生の流れを例として描いたものである。
レベル1は、小学校低学年のときのことを思い出してほしい。このころは、「テストでいい点を取る」ために、「しっかり算数を習う・きちんと漢字を覚える」という目的・手段の組み合わせがある。ところが、レベル2の高校生くらいになると状況が変わってくる。レベル1では目的だった「テストでいい点を取る」は、レベル2では手段となる。その手段の先には、「希望の大学に入り、好きな研究をするため」という目的が新たに生じたのである。さらに人生が進み、就職段階のレベル3にくると、レベル2で目的だった「希望の大学に入り、好きな研究をする」は、新たな目的である「専門を生かした就職をするため」の手段となる。

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このように、ある1つの目的は、より大きな目的の下では手段となる。つまり、自分がどのレベルに目線を置くかによって、何が目的か、何が手段かが、相対的に決まってくるのだ。自分が常に意欲的になって、ある1つの目的を達成した後、次の新たな目的を掲げ続けるかぎり、この目的・手段の入れ替わりはどこまでも続いていくことになる。このことは逆方向もまた真である。何を成したいかという目線が下がってしまえば、やはり目的・手段の入れ替わりが起こる。


◆目的=目標+意味
目的について、もう1点重要なことを加えておきたい。目的と目標の違いは何だろうか───。

目標とは、単に目指すべき状態(定量的・定性的に表される)や目指すべき具体的なもの(たとえば模範的な人物や特定の資格など)をいう。そして、そこに意味が付加されて目的となる。意味とはそれを目指す理由であり、その行為に自分が見出している価値や動機のことだ。目的と目標の関係を簡潔に表すと、「目的=目標+意味」となる。

実際のところ、何か事を成すにあたって、目的の代わりに目標を置くことはできる。しかし、そのとき意味が欠如していると、実行者にとっては「目標疲れ」が生じる危険性がある。昨今の職場に疲弊感が溜まっているというのは、実は、向かう先に意味を感じていないがための目標疲れであることが多い。

たとえば、売上げ目標が5000万円の営業担当者はその金額に向かって働く。期末になると、その数値が達成できたかできなかったかで神経をすり減らす。そして次の期も新たな目標金額を与えられ働く。そしてまた期末には神経をすり減らす。一喜一憂もつかの間、次の年の目標金額が与えられ……。この繰り返しでは、さすがに「目標疲れ」が出る。その目標である5000万円は何につながっているのか、何のための5000万円達成なのかが自分のなかで意義づけされていなければ、ほんとうの力は出ないし、長く働いていけない。だから、私たちは目標に意味を加え、目的に昇華させることが大事なのだ。

いずれにせよ、目的は「目標+意味」、この2つの要素がそろってはじめて目的と呼べるようになる。目標なき目的は、単なる理想論・絵空事となるおそれがある。また、意味なき目的は、単なる割り当て(ノルマ)となるおそれがある。

ではここで、目的と手段について、先達たちの言葉を拾ってみよう。

「知識の大きな目的は、知識そのものではなく、行為である」。
───トマス・ヘンリー・ハクスリー(イギリスの生物学者)

「私の哲学は技術そのものより、思想が大切だというところにある。思想を具現化するための手段として技術があり、また、よき技術のないところからは、よき思想も生まれえない。人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、誇りである」。 
───本田宗一郎『私の手が語る』

「最も満足すべき目的とは、一つの成功から次の成功へと無限に続いて、決して行き詰ることのない目的である」。 
───ラッセル『ラッセル幸福論』

「組織は、自らのために存在するのではない。組織は手段である。組織の目的は、人と社会に対する貢献である。あらゆる組織が、自らの目的とするものを明確にするほど力を持つ」。 
───ピーター・F・ドラッカー『断絶の時代』



◆自問リスト
さて、いまの自分の仕事の目的と手段について振り返るとどうなるだろうか。次の問いを自分に投げかけてみてほしい。

〈Ask Yourself〉
□あなたがいま担当している仕事の
 ・目標は何ですか?
 ・その目標をやり遂げる意味(自分なりに見出した価値・動機・使命)は何ですか?

□あなたのいま得ている知識や技術は、何を成すためのものですか? 
 その知識や技術の習得自体が目的になっていませんか?


□いまの仕事において、目的は手段を強め、また同時に手段は目的を強めているでしょうか?

□いまの目的の先に、もう一つ大きな目的を想像することができますか?

□あなたの所属している組織(課や部、会社)の事業目的、存在目的は何ですか?
 また、それら目的をメンバーで共有していますか?



* * * * *

【補足:目的と手段の特殊な形】
以下、補足として目的と手段の特殊な形を3つ書き添える。

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1つめに、目的と手段が一体化するという形。手段という行為がそのまま目的化するもので、これを「自己目的」的と呼ぶ。たとえば、芸術家の創作がこれにあたる。画家は絵を描くために、絵を描く。美の創造はそれ自体目的であり、手段ともなるのだ。岡本太郎はこう言っている。

「芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ」。
───岡本太郎『壁を破る言葉』



次に、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に没頭する形。これは、ポジティブな「無目的」的行為で、たとえば、子どもの遊びが当てはまるだろう。『エクセレント・カンパニー』の著者であるトム・ピーターズは、砂で遊ぶ子どもの様子をこう書いている。

「遊びはいい加減にやるものではない。真剣にやるものだ。ウソだと思うなら海辺で砂のお城を作っている子供を見てみるといい。まさに一心不乱、無我夢中・・・。作り、壊し、また作り、また壊し・・・。何度でも作り直し、何度でも修正する。ほかの物は目に入らない。ぼんやりよそ見をしていれば、お城は波にさらわれてしまう。失敗は気にしない。計画はいくら壊してもいい。壊していけないのは夢だけだ」。 
───トム・ピーターズ『セクシープロジェクトで差をつけろ!』



そして、3つめは、目的がなく(またはその意識がなく)、ただその行為に漂流する形。これはネガティブな「無目的」的行為であり、たとえば、絶望者の行動が当てはまるだろう。社会学者のクルト・レヴィンは、絶望者の行動を次のように表現している。

「人は希望を放棄したときはじめて『積極的に手を伸ばす』ことをやめる。かれはエネルギーを喪失し、計画することをやめ、遂には、よりよき未来を望むことすらやめてしまう。そうなったときはじめて、かれはプリミティヴな受身の生活に閉じこもる」。
───クルト・レヴィン『社会的葛藤の解決』






「目的と手段を考える〈下〉~金儲け目的か手段か?」に続く


心のマスターとなれ

5.7.1


◆「精神のない専門人」が跋扈する
この原稿「心のマスターとなれ」を最初に書いたのが2008年。米国の大手証券会社リーマン・ブラザーズが経営破たんしたニュースが飛び込んできた翌日のことだったと記憶する。高度に証券をマネー化させ、みずからつくった仕組みの中で荒稼ぎした末の身勝手な突然死だった。その一方、日本では、その前年の世相を象徴する漢字は『偽』だった。汚染米の流通やウナギの産地偽装など、連日「食の偽装」ニュースが世間を騒がせた。そしてこの原稿を再度書き直しているのが2013年。今年は多くの有名ホテル・百貨店で、食材の虚偽表示問題(問題を起こした側はあくまで“誤表示問題”と釈明する)が噴き出した。

こういう問題の解決には、決まって法規制のアプローチが論議される。確かにそれは必要だが、それはどこまでいっても対症療法でしかない。今後もこのような自己保持・私利に基づくきわどい行為はやむことがないだろう。なぜなら根本の問題は、人間の「欲望」というやっかいなものからきているからだ。ここに目線を入れないかぎり、根本の解決は難しいものである。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、いまから100年以上も前に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、資本主義経済の末路において跋扈するのは、「精神のない専門人・心情のない享楽人」たちだろうと予見した。資本主義というシステム自体は善でも悪でもない。それを使う人間の意思が善か悪による。70億を超えた人間の数を養っていくためには、現状、資本主義システムを賢く回していくしかないように思える。そのためには、やはり哲学や思想、宗教心の次元にまで入り込んで考え、解決していく必要がある。

* * * * * * 

◆欲望を制御できない個人・企業・社会
個々の人間においても、あるいは企業体や社会全体においてもみずからの欲望をどう司っていくかは、肝心・要の仕業である。欲望は人間にとってやっかいなシロモノで、人を惑わしもすれば、成長させもする。すなわち善悪の二面性がある。

現代の科学技術と自由資本主義経済システムは、人間の諸機能を飛躍的に拡張させることとなり、それは同時に、人間の欲望も爆発的に増長させることとなった。その増長する欲望のペースに、人間の自制心が追いついていかない。これが、現代文明の抱える根源的な問題のひとつである。「欲しろ→つくれ→買え、欲しろ→つくれ→買え」……この際限ないチキンレースから個人も、企業も社会も抜け出せないまま、暴走機関車は「より多くのモノを・より多くのカネを」と走り続ける。

作家の司馬遼太郎さんは、生前、「この現代社会にメッセージを残すとすれば何でしょうか?」との質問に、―――『知足』(ちそく=“足る”を知る)という一言を発していた。

そんな時代だからこそ、個人も企業も、みずからが、みずからの「心のマスター」(=主人)にならなくてはいけない。欲望自体は滅することはできないし、また、そうする必要もない。善にも悪にもなりえる欲望は、そのコントロールのしかたこそが問題になる。大乗仏教は「煩悩即菩提」と説いた。煩悩を叡智によって菩提に変換せよと。


◆欲の二面性
欲の持つ善悪二面性は、表裏一体でありながら、表と裏は境目がなくつながっている。その二面性は「メビウスの帯」としてイメージするとよいかもしれない。図のように、欲の陽面を〈欲望X〉、陰面を〈欲望Y〉とすると、欲望Xと欲望Yは、表裏一体でありながら、ひとつながりのものになる。

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たとえば、一人の為政者が権力を持って「正義を行ないたい」という欲は、知らずのうちに「独善を強いる」欲に変わっていくときがある。また、よく芸人は「遊びも芸の肥やしだ」と言って奔放に遊ぶ。これは「立志・求道」という欲求から起こっている部分もあるだろうし、「享楽・奢侈(しゃし)」という欲求から起こっている部分もある。同様に、「節制」したいは、「怠惰」で済ませたいということにつながっているし、「清貧」でいたいは、「無関心」でいたいとつながっている。これら欲の両極はどこかで分断されているわけではなく、表裏一体で境目がなくつながっているものだ。

このように欲の二面性を見つめるとき、欲望を「陽面」でコントロールし、自分を昇華させることができるのか、それとも、欲望の「陰面」に翻弄され、そこに堕してしまうのか、ここに重大な幸福と不幸の分岐点があるように思える。


◆それは「大我」に根ざした欲か・「小我」から来る欲か
私たちはつねに欲望を湧かせて生きている。そのことはつまり、私たちがつねに「幸福につながる欲」か「不幸につながる欲」かの分岐点に立つことでもある。その分岐点において、自分がどのような「心持ち」をするか、これが決定的な問題となる。

「大我的・調和的に、開いた」心持ちをするのか、
「小我的・不調和的に、閉じた」心持ちをするのか。

下図はそれをまとめたものである。

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「大我的・調和的に、開いた意志」の心持ちをすることは、端的に言えば「おおいなるもの」を感得しようとすることである。過去の賢人たちの古典名著を読むにつけ、彼らは例外なく、「おおいなるもの」を感じ取り、それを言葉に表している。


「教えてほしい。いつまでもあなたが若い秘密を」
「何でもないことさ。つねに大いなるものに喜びを感じることだ」。
―――ゲーテ『ゲーテ全集1』


「平和とは、個人的満足を超えたところにある理想の目標と、魂の活動との調和を意味する」「平和の体験によってひとは自己にかかずらうことをやめ、所有欲に悩まされることがなくなる。価値の転換がおこり、もろもろの限界を超えた無限のものが把握される」。
―――ホワイトヘッド『観念の冒険』


「自己実現の達成は、逆説的に、自己や自己意識、利己主義の超越を一層可能にする。それは、人がホモノモスになる(同化する)こと、つまり、自分よりも一段と大きい全体の一部として、自己を投入することを容易にするのである」。  
―――エイブラハム・マスロー『完全なる人間』



◆深く高い仕事は哲学的・宗教的な体験を呼ぶ
一つの仕事に真摯に熱中して、何かを成し遂げようと奮闘するとき、その深みや高みの先に、大我的で調和的な感覚、おおいなる何かにつながる・抱かれるという体験は確かに存在する。それを摂理として表しているのが上の賢人たちの言葉にほかならない。

深く没頭し、高みを目指して働くためには、哲学や宗教的な心持ちが要る。また、そのように深く高く働けたときには、結果的に何かしら、哲学的・宗教的な経験をしてしまうものである。その哲学的・宗教的な経験こそ、私は「仕事の幸福」であると思っている。

私はビジネス雑誌記者を7年間やって、成功者と言われるさまざまなビジネスパーソンやら経営者やらを取材した。仕事や事業を私欲の道具にして、ゲーム感覚で勝ち上がり、短期的に浮き上がる人たちも多く目にしてきた。彼らが得たものは「仕事の快楽」であって、「仕事の幸福」ではない。しかし同時に、みずからの事業と従業員を大切にし、地味だけれども頑張っている経営者とも少なからず出会ってきた。世間やメディアには華々しく取り上げられないが、そこには確かに「仕事の幸福」があるように感じた。

私たちが個人として、組織として、社会として課される挑戦は、いつの時代も、

欲望をいかに「開き」「制する」か、
そして欲望の「貪り」「怠け」をどう排していくか、である。




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