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働く個と雇用組織の関係[1]~『蟹工船』を超えて

4.1.4


いま、小林多喜二の『蟹工船』が再び読まれているという。まさにプロレタリア文学の直球作品。確かに、その過酷な労働現場の描写や人物の表現は、息詰まるほどリアルなイメージを呼び起こす。搾取する側(=資本家)と搾取される側(=労働者)の単純明快な対立構図。そして最後のダメ押しとして、国家権力が資本家側につくというオチ。「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」───小説の最終部分に出てくる労働者のこの悲痛な叫びは、そのまま、現代のある層の労働者にも当てはまる吐露でもあるように思える。

『蟹工船』しかり、また『女工哀史』しかり、そこで描かれているように資本家が“雇用”をある種の権力にして経済的弱者である労働者の生殺与奪を握り、彼らを使い回すことは、古くて新しい問題である。昨今では「ブラック企業」なる言葉でも顕在化している。


◆資本家・企業家は必ずしも人格者ではない
これは、「悪徳資本家を追放し、善良な労働者を守れ」というような単純に階級闘争の図式に落とし込めばよい問題ではない。これは、誰のなかにも潜む人間の欲望のコントロールに関する問題である。私たちが認識すべきは、資本家や企業家、経営者が、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではないことだ(労働者もまた、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではないのと同じように)。

私はビジネス雑誌の編集を7年間やり、さまざまな企業人をインタビューするなどして人間観察してきたが、成功者と呼ばれる人はたいてい、我欲・自己顕示の強い場合がほとんどである。人間のバランスとしては(良くも悪くも)偏りがあり、歪んでいる。だからこそ、それがパワーとなって成功を得るわけでもある。利益獲得競争のビジネス世界では、総じて、バランスのいいお人よしは成り上がれないのだ。

そして、成功してカネやら既得権益やらを手に入れると、人間というものは、ますます欲望が増長して、暴走する可能性を大きくする。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「精神のない専門人、心情のない享楽人」と表現しているのも、まさに資本主義ゲームの盤上で我欲を増長させ跋扈する不逞の輩のことである。

ただ、世の中は奥深いもので、渋沢栄一や松下幸之助、本田宗一郎といったみずからら抑制のきく哲人企業家が存在するのも事実であるし、『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著)で紹介されているような、地味だけれども、志の清らかな経営者はいる。要は、欲望とはある種の力で、それを善いように用いるか悪いように用いるかは、その人間に任されているのである。言い換えるなら、欲望のもとに、私たち一人一人は善人にも悪人にもなる可能性がある。


◆働き手よ、成り下がるな!
いずれにしても、不当な過酷労働、不幸な労働者搾取は、いつの時代も起こってきたし、これからも起こるにちがいない。これを最小限に食い止めるためにどうすればよいのだろう。

もちろん法律で規制していくことは不可欠だし、報道メディアによる指摘・糾弾、買う側の不買運動もある程度有効な策になるだろう。が、これらはあくまで他律による外側からの処置に留まる。欲望の問題は根本的には各人の自律的抑制によらねば解決しない。だからこそ、資本家や企業家、経営者には、特段高い理念・倫理観を抱くことを求めなければならない。そこには教育の力、文化・芸術の力、宗教の力などが総合的に結びついていくことも大事である。これは中長期にわたる人の精神の土壌を健やかに育むところから始めなくてはならない実に大きな問題なのだ。

そして、やはり最後に決定的なのは、働く側本人の生きる姿勢である。人生はもともと不平等だし、理不尽だし、運不運が左右する。しかし、不遇があれ、不幸があれ、幸福をつかむ人はたくさんいる。むしろそうしたネガティブな状況こそがほんとうに強い人間をつくるという事実がある。だから結局、成り上がるも、成り下がるも、自分の意志・努力の反映なのだ、と強く思う人間を増やさなくてはならない。もちろん、社会は結果的に弱者になってしまった人へのセーフティネットを整備する必要はある。しかし、最初からそうしたセーフティネットを当てにして、ただ「世の中が悪い。ブラック企業が悪い」と被害者意識のみで、みずからの環境に立ち向かうことをしなくなる人間が増えてしまえばどうなるだろう。社会の足腰は致命的に弱くなる。だからこそ私は、教育の現場で、「蟹工船」的な職場でしか雇ってもらえないような自分に成り下がるなと叫んでいる。


◆キツネとタヌキの化かし合い?
さて、ここからは広く「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を考える。

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私は、両者の関係は図のような3つの極があると感じている。1つめは、冒頭触れたように、会社が労働者に過酷な労働を強い搾取するという「蟹工船」の極。そして2つめは、逆に、従業員が組織にべったり依存し、保身に浸る「ぶら下がり」の極。

私は企業内研修の現場で、働き手のいろいろな就労意識に接しているが、ほんとうにひどい会社への寄りかかり根性、保身・安住意識の人たちを目にすることもしばしばある。ちなみに、私はそういうときに、クラス全体に向かって次のことを投げかけることにしている。「あなた自身が働き手としてどれだけの人財価値があるか即座に判定できる方法があります。それはこう自問することです───もしあなたがいま、この会社の社長だったら、あなた自身を雇いますか? YES or NO 」と。

特に大企業のなかには、「ぶら下がり」とは言わないまでも、仕事を「ほどほど」にやっていればよいという人、求められる仕事を処理しているだけなのにそれで「そこそこ」満足している人は多い(ただ、そこには「これ以上、仕事量とスピードを上げられたら、身体が壊れちゃうよ」といった自己防衛もある。この点は十分に留意する必要がある)。実際のところ、私のもとには、そうした層に対して、「キャリア形成の自律意識醸成」や「社員の活性化」といったテーマで研修を依頼されるケースがほとんどだ。人の働く意欲の「よどみ」や「たるみ」は、数値で表すことのできない、組織のなかに潜在化する問題としてある。ましてや組織の年齢構成が確実に高齢化する趨勢にあっては、よどみやたるみは放置しておけない深刻な課題なのだ。

この「蟹工船」と「ぶら下がり」の2つの極は、いずれも従業員と会社のネガティブな関係である。こういう関係のもとでは、会社側はもっぱら労働者をいかに効率的に安く多く働かせるかを考え、他方、労働者側はもっぱらどれだけラクに組織に居付くかを考える……。まさにキツネとタヌキの化かし合いである。会社と従業員は、この2つの極の間のどこかで折り合い、両者とも「しょーがねぇーなー」という冷めた感じで雇用・被雇用関係を維持していく。


◆企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
そんななか、会社と従業員がポジティブな関係を築こうとするところもある。3つめの極「活かし活かされ」がそれである。ここでは、会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみる。両者間では事業理念の共有がなされ、たいてい、魅力的な経営者が求心力を創造している。私は、その典型を、本田宗一郎の次のような言葉の中に見出す───

「“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
こんな楽しい人生はないんじゃないかな。
そうなるには、一人ひとりが自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。
そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、
伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。
そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 大海原を 和気あいあいと
一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ」。

            『本田宗一郎・私の履歴書 ~夢を力に』 “得手に帆を上げ”より



◆「働くことの成熟化の形」を示すために
このように私は、「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を3つの極でとらえる。もちろん、世の中の多くが「活かし活かされ」型の関係性になってほしいと願う。私はこの問題をとらえる根本は、誰のなかにも潜む人間の欲望のコントロールに目を向けるべきだと書いた。経営者であれば、できるだけ人件費を減らして儲けたいと思う。また、労働者であれば、できるだけラクをして多くの給料をもらいたいと思う。そうした、いわば「欲望の負の重力」があるために、社会から「蟹工船」型や「ぶら下がり」型はなくならない。

平成ニッポンという国・時代に生まれ合わせた私たちが、「働くことの成熟化の形」を世界に示していく、後世に引き渡していくのを挑戦とするなら、この「欲望の負の重力」を「欲望の正の飛力」ともいうべきものに転換して、個と組織が共通の価値・理念に向かって協働することが求められる。

持続可能な個人の仕事生活、持続可能な組織、そして持続可能な経済システムと社会をつくりあげていくためには、詰まるところ、個々の人間が賢く欲望をコントロールし、賢く向かうべき価値を見定めることだ。そうした意味で、一人一人の知力、感性、倫理観にアプローチしていく、教育、文化・芸術、哲学・宗教のセクターが、もっと力を付け、賢く発信することが望まれる。教育を生業とする私自身も意を新たに強くしたい。





働く忠誠心はどこにあるか~「組織人」と「仕事人」

4.1.3


あなたの働く忠誠心は、組織(会社)にあるだろうか? それとも職業・仕事にあるだろうか? その忠誠心の置き方によって「組織人」の意識と「仕事人」の意識とに分かれる。

【組織人(会社人)の意識】
・雇用される組織(会社)に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはタテ(主従)の関係
・組織(会社)が要求する能力を身につけ、会社が要求する成果を出す
・組織(会社)の信頼で仕事ができる
・組織(会社)の目的の下で働く
・組織(会社)は船。沈没したら困る。下船させられても困る
・組織(会社)内での居場所・存在意義を見つけることに敏感
・みずからの人材価値についてあまり考えない
・組織(会社)ローカル的な世界観
・「一社懸命」

【仕事人の意識】
・自分の職業・仕事に忠誠を尽くす
・組織(会社)とはヨコ(パートナー:協働者)の関係
・仕事が要求する能力を身につけ、仕事を通じて自分を表現する
・自分の能力・人脈で仕事を取ってくる
・自分の目的に向かって働く
・組織(会社)は舞台。自分が一番輝ける舞台を求める。舞台に感謝する
・世に出る、業界で一目置かれることを志向する
・自分が労働市場でどれほどの人材価値を持つかについてよく考える
・コスモポリタン(世界市民)的な世界観
・「一職懸命」



私のように個人で独立して事業を行っている場合は、依って立つ組織はないので当然、「仕事人意識」100%で働くことになる。一方、会社員や公務員のように組織から雇われている場合は、この2つの意識の混合になる。たいていの人は、やはり組織人意識の割合が大きくなるだろう。だが、なかには仕事人意識が勝っている人もいる。


◆自分を勤務先で紹介するか・仕事内容で紹介するか
自分のなかでどちらの意識が強いかは、たとえば下のような自問をしてみるとよい。自分が一職業人として社外で自己紹介するとき、XとYのどちらのニュアンスにより近いだろうか。

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【Xタイプ】
〇「私は〈 勤務会社 〉 に勤めており、
 〈  職種・仕事内容  〉を担当しております」。

【Yタイプ】
〇「私は〈 職種・仕事内容 〉の仕事をしており、(今はたまたま)
 〈 勤務会社 〉に勤めております」。



Xは「組織人」の自己紹介ニュアンスである。組織人であるあなたを言い表すものとして、まず勤務先があり、次に任された職種・仕事内容が来る。他方、Yは「仕事人」のものである。仕事人はまず職種・仕事内容で自己を言い表す。そしてその次に勤めている組織が来る。

仕事人の典型としてプロスポーツ選手の場合で考えてみよう。たとえば、米メジャーリーガーのイチロー選手の場合、どうなるかといえば、「私は〈プロ野球選手〉の仕事をしており、今はたまたま〈ニューヨーク・ヤンキーズ〉に勤めております」だ。数年前であれば、後半部分は「今はたまたま〈シアトル・マリナーズ〉に勤めております」であった。

野球にせよ、サッカーにせよ、プロスポーツ選手たちは、仕事の内容によって自己を定義する。彼らは「組織のなかで食っている」のではなく、「自らの仕事を直接社会に売って生きている」からだ。彼らにとっての仕事上の目的は、野球なり、サッカーなり、その道を究めること、その世界のトップレベルで勝負事に挑むことであって、組織はそのための舞台、手段になる。そういう意識だから、世話になったチームを出て、他のチームに移っていくことも当然のプロセスとしてとらえる。ただ、それは組織への裏切りではない。“卒業”であり、“全体プロセスの一部”なのだ。


◆「組織人×依存心」=「雇われ根性」が生む諸問題
さて、ひるがえって日本の働き手で圧倒的多数を占める組織人に話を移そう。言うまでもなく、戦後の日本は、組織が「終身雇用によるヒトの抱え込み×年功ヒエラルキー型」を強力に実行し、そのなかで労働者が忠誠心を組織に捧げて、与えられる仕事を真面目にこなしてきた。労使を挙げて、コテコテの組織人が大量に生産された時代だった。

ここで組織人やその意識を悪く言うのではない。私自身もサラリーマンとして働いた17年間の蓄積があればこそ独立ができた。会社が過去から蓄えたノウハウを伝授してもらい、会社の信頼度で仕事を広げ、人脈をつくり、会社のお金で研修もさまざまに受けた。組織人であることのメリットを感じながら、それを最大限活かし成長していく意識は、むしろ奨励されるべきことである。

問題なのは、組織人意識が依存心と結びついた場合である。「組織人×依存心」は、いわば「雇われ根性」を働き手に染みつかせ、さまざまな問題を誘発する。下は組織人と仕事人の仕事意識を図化したものである。

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組織人の図式において着目すべき点は、仕事が組織のなかに囲われているということだ。これは、組織が雇用や人事権、業務命令権などを通して仕事を実際的に握っていることもあるが、本質的には、働く個が、「自分はその仕事分野で独立しているわけでもなく(するつもりもなく)、仕事は組織のなかにあり、組織から受けるものである。突き詰めれば今のこの仕事は自分のものではない」という意識を表している。必然的に、働く個は、組織との関係を「タテの主従」関係ととらえる。組織人はそのタテ関係を前提にしたうえで、頑張ろうとする。

他方、仕事人の意識はまったく異なる。仕事人は、たとえ組織に雇われの身であっても、「今のこの仕事は自分のものである」と強く認識し、仕事を自分のなかに収めている。そして「組織は自分に機会と場を提供してくれる存在であり、この組織でずっと働くかもしれないし、将来独立することだってあるかもしれない」と考えている。そこには担当仕事を一つの職業として抱く、プロフェッショナルとしての矜恃がある。

ともかく組織人は、仕事は組織から発生し、組織から言い渡されるものだという心の姿勢に傾きやすい。そこに依存心が混じるとどうなるか───自律性が脆弱化する。

個々の働き手の自律性の弱まりは、さまざまな症状になって現われる。言われたことはやるが言われた以上の仕事はしない、先回りした行動ができない、仕事をつくり出せない、自身の役割を広げることをしない……などだ。また、そこで問題が根深いのは、本人は仕事をそれなりにこなしているという自覚でいることである。ともかく、いろいろと“お膳立て”をしてやらなければ、十分な仕事をやれない状態になる。


◆組織の不正・不祥事の温床
もう1つ、組織人の意識が潜在的に抱える問題について指摘しておこう。それは、顧客目線が組織都合になりがちであることだ。組織人は自分が雇ってもらっている組織を船とみる。当然、その船が沈没したり、自分が下船を命じられたりすることを極端に怖れる。そのために、組織の自己保存ための方策には寛容的にならざるをえない。

たとえば、顧客に対して、ある売り方や取引条件が組織に都合よすぎるという状況があったとしよう。あなたが一消費者の立場からみたときに、それは理不尽であり、あきらかに売り手のわがままだと感じている。さて、そのときに、あなたは組織に向かって「そのやり方は改めるべきです」と言い切り、変革の行動に出られるだろうか。

わかりやすい例を出してみよう。あなたは、ある中堅食品メーカーに勤めて10年になる。ここ最近、会社の業績がかんばしくない。従業員減らしが始まるという噂も耳にする。そんななか、ある商品の売れ行きが好調で、それがかろうじて会社の売り上げを支えている。社長からの命令で、あなたの部署もその商品の拡販をやることになった。が、その商品は食材偽装まがいのもので、法律の網をくぐったきわどいものであることを知った。そのとき、あなたは組織に対し、どう行動できるだろう。

もちろん、いまこれを読んでいるあなたは、頭のなかで「そんな犯罪じみたことはやりたくない。会社に反対意見を言う」となるだろう。しかし、現実に目の前に会社の倒産が見え隠れし、あるいは、自分の解雇の脅威があったなら、ほんとうにそこで組織に背けるだろうか。仕事人意識を強く持って働いている人間であれば、仕事は自分のなかにあり、他で雇われうる力も保持しているだろうから、そこを去ることは十分できるのだが。

実際、企業や官公庁でさまざまな不正・不祥事が起こる。そのときの要因を探っていくと、組織の自己保存・そこで働く者たちの自己保存が至上目的化して生じるケースが後を絶たない。いずれにせよ、組織人の意識に依存心が加わると、顧客目線が組織都合になったり、組織の自浄作用が弱まったりする害が起こる。


◆「出世」とは何か?
ところで、「出世」とはどういうことだろう。組織人のとらえ方としては、部長に上がったとか、役員になったとか、そういう社内の階段を上っていく話になる。

電通の元プロデューサーとして有名な藤岡和賀夫さんは、『オフィスプレーヤーへの道』の中の「“出世”の正体」という章でこう書いている。

「自分の会社以外の世界からも尊敬される、愛される、
それは間違いなく『世に出る』ことであり、『出世』なのです。
そこで肝心なことは、『世に出る』と言ったときの『世』は、
自分の勤めている会社ではないということです。
(中略)
自分の選んだ会社を“寄留地”として、
そこを足場として初めて『世に出る』のです。
(中略)
“寄留地”を仕事の足場として、ビジネスマンという仕事のやりかたで、
もっともっと広い社会と関わっていくということが『世に出る』ということなのです」。



以前、韓国のあるIT会社のマネジャーから面白い話を聞いた。その会社では、マネジャークラス以上の人間は、少なくとも年に1回、業界のカンファレンスやビジネスエキスポなどで講演やセミナーをしなければいけない、というルールがある。実行できなければ、降格評価の材料となるそうだ。「社内の管理業務だけに閉じこもっているな。社外に開いて、『この分野に○○社あり』『この分野に“誰々”あり』とアピールしてこい」というもので、これは、いわば、「組織内“仕事人”」をつくり出す方針として注目に値する。


◆ほんとうの「愛社精神」とは
元プロ野球選手の松井秀喜さんは、読売巨人軍を去って、ニューヨーク・ヤンキーズに入団した。だが、松井さんの巨人を愛する心はいまもって深いだろう。できるかぎりの恩返しはしたいにちがいない。仕事人であっても、かつて所属した組織への愛情を注ぎ、恩に報いることはできるのである。逆に、組織人であっても、組織に愛情や恩情を注がない人もいる。そのくせ、組織への「ぶら下がり意識」は強いことさえある。

ほんとうの「愛社精神」とは、組織に雇用され続けたいという下心から起こるものではない。世の中にどんな価値を届ける事業が望ましいか、顧客のためにどんな商品・やり方が理想であるか、などの共通の目的のもとに、組織と個人が対等な立場で言い合える関係のなかで生まれるものである。だから、ほんとうの愛社精神を持った個人は、ときに組織に対して苦言を呈することもあるのだ。

また、次のような愛社精神の表れもある。IBMやアクセンチュア、リクルートといった企業は、仕事人意識の強い人たちが多く集まる。したがって彼らは転職で出て行くケースが多い。しかし、社外に巣立った人たちは、元の会社と継続的に関係を保持しながら、場合によっては、競合しながら業界を育て盛り上げていくことをしている。彼らは元の会社での武勇伝をそこかしこで披露し、いかに自分がそこで育てられたかを語る。そういった話が業界に流布すると、その会社に人財が流入しだすということが起こる。つまり、人財をよく輩出する組織は、人財をよく取り込めるという循環が生まれるのだ。巣立った人びとの武勇伝が、元の会社への強力な恩返しになっているわけである。

繰り返して言うが、組織人の意識自体が悪いわけではない。ただ、組織人の意識は、本質的に、依存心と結びつきやすく、保身的、閉鎖的な姿勢に陥りやすい。だからこそ、仕事人の意識を意図的に取り込む努力をしなければならない。仕事人の意識は、自律心を呼び起こし、革新的、開放的な姿勢を強める。ともかく日本の会社・官公庁は、「組織ローカルな人間」を育てすぎるし、働き手本人たちもそこに安住したいと望む傾向がある。私はみずからが行う人財育成プログラムで、「仕事コスモポリタン」を増やしたいと思っている。その仕事分野において、境界を越えていく世界市民的な人間が日本の仕事現場には少ないからだ。






自分にとっての「よい会社」とは?

4.1.2


「自らの価値観が組織の価値観になじまなければならない。同じである必要はない。だが、共存できなければならない。さもなければ心楽しまず、成果もあがらない」。
―――ピーター・ドラッカー『仕事の哲学』



◆働くことがマラソンだとすれば……
「よい会社」の定義は、人・立場によりそれぞれである。経営者にとっては、多様な人材(人財)と技術力を保持し、1円でも多くの利益を創出していく会社が「よい会社」である。一方、株主にとってみれば、株価も配当も上がり続ける会社が「よい会社」である。また、社会にとっては、雇用や納税など経済的な貢献と、商品・サービスを通して文化的な貢献をするのが「よい会社」である。

では、私たち働く個人にとって「よい会社」とは何だろう?

……給料の高い会社、やりたいことをさせてくれる会社、ずっと雇用してくれそうな会社、ステータスのある会社、社風に活気のある会社、ブランド力の強い会社、理念に共感できる会社、子育てのできる会社、海外に住まわせてくれる会社など、いろいろあるだろう。しかし、総合的に考えて、よい会社とは「自分に馴染む(フィットする)会社」ではないだろうか。

働くことは、ある意味、マラソンであり、会社はそのマラソンに用いる肝心要のシューズと考えてみる。違和感のあるシューズ、見た目はよいが機能性のないシューズでは思った走りができない。短期には頑張れても、中長期ではどこかで足を痛め、ひいては身体を壊し、完走が難しくなる。

「馴染む」とは、いろいろな意味を含む。たとえば、会社の扱っている商品・サービスが自分の感性に馴染む、経営者の考え方が自分の価値観に馴染む、職場の人たちが馴染める人柄である、担当業務・通勤場所・雇用条件が自分にフィットする、などをいう。つまり、シューズにとって「履き心地」が最重要問題であるならば、会社は「働き心地」「働きやすさ」こそ最重要の観点となる。勤めることの持続可能性を考えれば、年収額や知名度、会社規模は二の次でいいのかもしれない。

ただし、念のために加えておくと、働き心地のよい会社に勤めることは、「仕事がラク」であることを意味しない。マラソン自体がどんなに履き心地のいいシューズを選んだとしても、長くて苦しい運動であることに変わりはないのと同じである。体力や知力、理想や計画、完走意志はやはり不可欠なのだ。

そんなところから、自分にとってのよい会社とは「仕事に厳しいが、やりがいが起きて、長く勤めたいと思える会社」と私は提唱したい。


◆2つの円が重なる~会社の目的と個人の目的
さて、その自分のとってのよい会社の「仕事に厳しいが、やりがいが起きて」の部分をさらに掘り下げてみたい。どういった状態が、やりがいが起きる状態なのだろう。そこで「2つの円」を考える。

会社には会社の事業目的がある。これが1つめの円だ。そして個人には個人の働く目的がある。これがもう1つの円である。この2つの円の重なり具合によって、次の3つの関係性が生まれる。

① 【健全な重なり関係】
会社と個人の間には、何かしらの共有できる目的(目的観)があり、両者は協調しながらその成就に向かい、関係性を維持・発展させていくことができる。
こうした関係の下では、ヒトを「活かし・活かされ」といった空気ができあがる。会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみる。ここに、強い理念を掲げた魅力ある経営者が求心力となれば、その組織はとても強いものになる。

② 【不健全な従属関係】
会社の目的に個人が飲み込まれ(この場合、たいてい個人はみずからの目的を明確に持っていない)、個人が会社に従属し、いいように使われてしまう関係である。
個人が他に雇われる力のない弱者である場合、雇うことを半ば権力として会社は暴君として振る舞うことが起こる。

③ 【不健全な分離関係】
会社と個人はまったく別々の目的を持っていて、両者の重なる部分がない。会社はとりあえず労働力確保のために雇い、個人はとりあえず給料を稼ぐためにそこで働くといった冷めた関係となる。

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長き職業人生を送っていくにあたり望むべきは、当然、1番めの関係性である。会社側の目的と個人側の目的と、2つの円が重なり合うこと。この重なりは、賃金労働というカネの重なり以上に、理念共有とか「活かし・活かされ」の相互信頼といった精神的な重なりを表す。

会社と個々の働き手の間で意味的な共有がなされ、魅力的な経営者が求心力を創造している組織の典型を、私は本田宗一郎の次の言葉の中に見出すことができる。


“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
こんな楽しい人生はないんじゃないかな。

そうなるには、一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。

そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、
伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。

そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 
大海原を 和気あいあいと
一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ。

―――『本田宗一郎・私の履歴書~夢を力に』“得手に帆を上げ”より




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