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働く個と雇用組織の関係[1]~『蟹工船』を超えて

4.1.4


いま、小林多喜二の『蟹工船』が再び読まれているという。まさにプロレタリア文学の直球作品。確かに、その過酷な労働現場の描写や人物の表現は、息詰まるほどリアルなイメージを呼び起こす。搾取する側(=資本家)と搾取される側(=労働者)の単純明快な対立構図。そして最後のダメ押しとして、国家権力が資本家側につくというオチ。「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」───小説の最終部分に出てくる労働者のこの悲痛な叫びは、そのまま、現代のある層の労働者にも当てはまる吐露でもあるように思える。

『蟹工船』しかり、また『女工哀史』しかり、そこで描かれているように資本家が“雇用”をある種の権力にして経済的弱者である労働者の生殺与奪を握り、彼らを使い回すことは、古くて新しい問題である。昨今では「ブラック企業」なる言葉でも顕在化している。


◆資本家・企業家は必ずしも人格者ではない
これは、「悪徳資本家を追放し、善良な労働者を守れ」というような単純に階級闘争の図式に落とし込めばよい問題ではない。これは、誰のなかにも潜む人間の欲望のコントロールに関する問題である。私たちが認識すべきは、資本家や企業家、経営者が、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではないことだ(労働者もまた、必ずしも聖人君子、高邁な人格者ではないのと同じように)。

私はビジネス雑誌の編集を7年間やり、さまざまな企業人をインタビューするなどして人間観察してきたが、成功者と呼ばれる人はたいてい、我欲・自己顕示の強い場合がほとんどである。人間のバランスとしては(良くも悪くも)偏りがあり、歪んでいる。だからこそ、それがパワーとなって成功を得るわけでもある。利益獲得競争のビジネス世界では、総じて、バランスのいいお人よしは成り上がれないのだ。

そして、成功してカネやら既得権益やらを手に入れると、人間というものは、ますます欲望が増長して、暴走する可能性を大きくする。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「精神のない専門人、心情のない享楽人」と表現しているのも、まさに資本主義ゲームの盤上で我欲を増長させ跋扈する不逞の輩のことである。

ただ、世の中は奥深いもので、渋沢栄一や松下幸之助、本田宗一郎といったみずからら抑制のきく哲人企業家が存在するのも事実であるし、『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著)で紹介されているような、地味だけれども、志の清らかな経営者はいる。要は、欲望とはある種の力で、それを善いように用いるか悪いように用いるかは、その人間に任されているのである。言い換えるなら、欲望のもとに、私たち一人一人は善人にも悪人にもなる可能性がある。


◆働き手よ、成り下がるな!
いずれにしても、不当な過酷労働、不幸な労働者搾取は、いつの時代も起こってきたし、これからも起こるにちがいない。これを最小限に食い止めるためにどうすればよいのだろう。

もちろん法律で規制していくことは不可欠だし、報道メディアによる指摘・糾弾、買う側の不買運動もある程度有効な策になるだろう。が、これらはあくまで他律による外側からの処置に留まる。欲望の問題は根本的には各人の自律的抑制によらねば解決しない。だからこそ、資本家や企業家、経営者には、特段高い理念・倫理観を抱くことを求めなければならない。そこには教育の力、文化・芸術の力、宗教の力などが総合的に結びついていくことも大事である。これは中長期にわたる人の精神の土壌を健やかに育むところから始めなくてはならない実に大きな問題なのだ。

そして、やはり最後に決定的なのは、働く側本人の生きる姿勢である。人生はもともと不平等だし、理不尽だし、運不運が左右する。しかし、不遇があれ、不幸があれ、幸福をつかむ人はたくさんいる。むしろそうしたネガティブな状況こそがほんとうに強い人間をつくるという事実がある。だから結局、成り上がるも、成り下がるも、自分の意志・努力の反映なのだ、と強く思う人間を増やさなくてはならない。もちろん、社会は結果的に弱者になってしまった人へのセーフティネットを整備する必要はある。しかし、最初からそうしたセーフティネットを当てにして、ただ「世の中が悪い。ブラック企業が悪い」と被害者意識のみで、みずからの環境に立ち向かうことをしなくなる人間が増えてしまえばどうなるだろう。社会の足腰は致命的に弱くなる。だからこそ私は、教育の現場で、「蟹工船」的な職場でしか雇ってもらえないような自分に成り下がるなと叫んでいる。


◆キツネとタヌキの化かし合い?
さて、ここからは広く「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を考える。

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私は、両者の関係は図のような3つの極があると感じている。1つめは、冒頭触れたように、会社が労働者に過酷な労働を強い搾取するという「蟹工船」の極。そして2つめは、逆に、従業員が組織にべったり依存し、保身に浸る「ぶら下がり」の極。

私は企業内研修の現場で、働き手のいろいろな就労意識に接しているが、ほんとうにひどい会社への寄りかかり根性、保身・安住意識の人たちを目にすることもしばしばある。ちなみに、私はそういうときに、クラス全体に向かって次のことを投げかけることにしている。「あなた自身が働き手としてどれだけの人財価値があるか即座に判定できる方法があります。それはこう自問することです───もしあなたがいま、この会社の社長だったら、あなた自身を雇いますか? YES or NO 」と。

特に大企業のなかには、「ぶら下がり」とは言わないまでも、仕事を「ほどほど」にやっていればよいという人、求められる仕事を処理しているだけなのにそれで「そこそこ」満足している人は多い(ただ、そこには「これ以上、仕事量とスピードを上げられたら、身体が壊れちゃうよ」といった自己防衛もある。この点は十分に留意する必要がある)。実際のところ、私のもとには、そうした層に対して、「キャリア形成の自律意識醸成」や「社員の活性化」といったテーマで研修を依頼されるケースがほとんどだ。人の働く意欲の「よどみ」や「たるみ」は、数値で表すことのできない、組織のなかに潜在化する問題としてある。ましてや組織の年齢構成が確実に高齢化する趨勢にあっては、よどみやたるみは放置しておけない深刻な課題なのだ。

この「蟹工船」と「ぶら下がり」の2つの極は、いずれも従業員と会社のネガティブな関係である。こういう関係のもとでは、会社側はもっぱら労働者をいかに効率的に安く多く働かせるかを考え、他方、労働者側はもっぱらどれだけラクに組織に居付くかを考える……。まさにキツネとタヌキの化かし合いである。会社と従業員は、この2つの極の間のどこかで折り合い、両者とも「しょーがねぇーなー」という冷めた感じで雇用・被雇用関係を維持していく。


◆企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
そんななか、会社と従業員がポジティブな関係を築こうとするところもある。3つめの極「活かし活かされ」がそれである。ここでは、会社は働き手を「人財」として扱い、働き手は会社を「働く舞台」としてみる。両者間では事業理念の共有がなされ、たいてい、魅力的な経営者が求心力を創造している。私は、その典型を、本田宗一郎の次のような言葉の中に見出す───

「“惚れて通えば千里も一里”という諺がある。
それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ち込めるようになったら、
こんな楽しい人生はないんじゃないかな。
そうなるには、一人ひとりが自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。
石は石でいいんですよ。ダイヤはダイヤでいいんです。
そして監督者は部下の得意なものを早くつかんで、
伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。
そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。
企業という船にさ 宝である人間を乗せてさ
舵を取るもの 櫓を漕ぐもの 順風満帆 大海原を 和気あいあいと
一つ目的に向かう こんな愉快な航海はないと思うよ」。

            『本田宗一郎・私の履歴書 ~夢を力に』 “得手に帆を上げ”より



◆「働くことの成熟化の形」を示すために
このように私は、「働く個(従業員)と雇用組織(会社)の関係」を3つの極でとらえる。もちろん、世の中の多くが「活かし活かされ」型の関係性になってほしいと願う。私はこの問題をとらえる根本は、誰のなかにも潜む人間の欲望のコントロールに目を向けるべきだと書いた。経営者であれば、できるだけ人件費を減らして儲けたいと思う。また、労働者であれば、できるだけラクをして多くの給料をもらいたいと思う。そうした、いわば「欲望の負の重力」があるために、社会から「蟹工船」型や「ぶら下がり」型はなくならない。

平成ニッポンという国・時代に生まれ合わせた私たちが、「働くことの成熟化の形」を世界に示していく、後世に引き渡していくのを挑戦とするなら、この「欲望の負の重力」を「欲望の正の飛力」ともいうべきものに転換して、個と組織が共通の価値・理念に向かって協働することが求められる。

持続可能な個人の仕事生活、持続可能な組織、そして持続可能な経済システムと社会をつくりあげていくためには、詰まるところ、個々の人間が賢く欲望をコントロールし、賢く向かうべき価値を見定めることだ。そうした意味で、一人一人の知力、感性、倫理観にアプローチしていく、教育、文化・芸術、哲学・宗教のセクターが、もっと力を付け、賢く発信することが望まれる。教育を生業とする私自身も意を新たに強くしたい。





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