心のマスターとなれ
5.7.1
◆「精神のない専門人」が跋扈する
この原稿「心のマスターとなれ」を最初に書いたのが2008年。米国の大手証券会社リーマン・ブラザーズが経営破たんしたニュースが飛び込んできた翌日のことだったと記憶する。高度に証券をマネー化させ、みずからつくった仕組みの中で荒稼ぎした末の身勝手な突然死だった。その一方、日本では、その前年の世相を象徴する漢字は『偽』だった。汚染米の流通やウナギの産地偽装など、連日「食の偽装」ニュースが世間を騒がせた。そしてこの原稿を再度書き直しているのが2013年。今年は多くの有名ホテル・百貨店で、食材の虚偽表示問題(問題を起こした側はあくまで“誤表示問題”と釈明する)が噴き出した。
こういう問題の解決には、決まって法規制のアプローチが論議される。確かにそれは必要だが、それはどこまでいっても対症療法でしかない。今後もこのような自己保持・私利に基づくきわどい行為はやむことがないだろう。なぜなら根本の問題は、人間の「欲望」というやっかいなものからきているからだ。ここに目線を入れないかぎり、根本の解決は難しいものである。
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、いまから100年以上も前に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、資本主義経済の末路において跋扈するのは、「精神のない専門人・心情のない享楽人」たちだろうと予見した。資本主義というシステム自体は善でも悪でもない。それを使う人間の意思が善か悪による。70億を超えた人間の数を養っていくためには、現状、資本主義システムを賢く回していくしかないように思える。そのためには、やはり哲学や思想、宗教心の次元にまで入り込んで考え、解決していく必要がある。
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◆欲望を制御できない個人・企業・社会
個々の人間においても、あるいは企業体や社会全体においてもみずからの欲望をどう司っていくかは、肝心・要の仕業である。欲望は人間にとってやっかいなシロモノで、人を惑わしもすれば、成長させもする。すなわち善悪の二面性がある。
現代の科学技術と自由資本主義経済システムは、人間の諸機能を飛躍的に拡張させることとなり、それは同時に、人間の欲望も爆発的に増長させることとなった。その増長する欲望のペースに、人間の自制心が追いついていかない。これが、現代文明の抱える根源的な問題のひとつである。「欲しろ→つくれ→買え、欲しろ→つくれ→買え」……この際限ないチキンレースから個人も、企業も社会も抜け出せないまま、暴走機関車は「より多くのモノを・より多くのカネを」と走り続ける。
作家の司馬遼太郎さんは、生前、「この現代社会にメッセージを残すとすれば何でしょうか?」との質問に、―――『知足』(ちそく=“足る”を知る)という一言を発していた。
そんな時代だからこそ、個人も企業も、みずからが、みずからの「心のマスター」(=主人)にならなくてはいけない。欲望自体は滅することはできないし、また、そうする必要もない。善にも悪にもなりえる欲望は、そのコントロールのしかたこそが問題になる。大乗仏教は「煩悩即菩提」と説いた。煩悩を叡智によって菩提に変換せよと。
◆欲の二面性
欲の持つ善悪二面性は、表裏一体でありながら、表と裏は境目がなくつながっている。その二面性は「メビウスの帯」としてイメージするとよいかもしれない。図のように、欲の陽面を〈欲望X〉、陰面を〈欲望Y〉とすると、欲望Xと欲望Yは、表裏一体でありながら、ひとつながりのものになる。
たとえば、一人の為政者が権力を持って「正義を行ないたい」という欲は、知らずのうちに「独善を強いる」欲に変わっていくときがある。また、よく芸人は「遊びも芸の肥やしだ」と言って奔放に遊ぶ。これは「立志・求道」という欲求から起こっている部分もあるだろうし、「享楽・奢侈(しゃし)」という欲求から起こっている部分もある。同様に、「節制」したいは、「怠惰」で済ませたいということにつながっているし、「清貧」でいたいは、「無関心」でいたいとつながっている。これら欲の両極はどこかで分断されているわけではなく、表裏一体で境目がなくつながっているものだ。
このように欲の二面性を見つめるとき、欲望を「陽面」でコントロールし、自分を昇華させることができるのか、それとも、欲望の「陰面」に翻弄され、そこに堕してしまうのか、ここに重大な幸福と不幸の分岐点があるように思える。
◆それは「大我」に根ざした欲か・「小我」から来る欲か
私たちはつねに欲望を湧かせて生きている。そのことはつまり、私たちがつねに「幸福につながる欲」か「不幸につながる欲」かの分岐点に立つことでもある。その分岐点において、自分がどのような「心持ち」をするか、これが決定的な問題となる。
「大我的・調和的に、開いた」心持ちをするのか、
「小我的・不調和的に、閉じた」心持ちをするのか。
下図はそれをまとめたものである。
「大我的・調和的に、開いた意志」の心持ちをすることは、端的に言えば「おおいなるもの」を感得しようとすることである。過去の賢人たちの古典名著を読むにつけ、彼らは例外なく、「おおいなるもの」を感じ取り、それを言葉に表している。
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「教えてほしい。いつまでもあなたが若い秘密を」
「何でもないことさ。つねに大いなるものに喜びを感じることだ」。
―――ゲーテ『ゲーテ全集1』
○
「平和とは、個人的満足を超えたところにある理想の目標と、魂の活動との調和を意味する」「平和の体験によってひとは自己にかかずらうことをやめ、所有欲に悩まされることがなくなる。価値の転換がおこり、もろもろの限界を超えた無限のものが把握される」。
―――ホワイトヘッド『観念の冒険』
○
「自己実現の達成は、逆説的に、自己や自己意識、利己主義の超越を一層可能にする。それは、人がホモノモスになる(同化する)こと、つまり、自分よりも一段と大きい全体の一部として、自己を投入することを容易にするのである」。
―――エイブラハム・マスロー『完全なる人間』
◆深く高い仕事は哲学的・宗教的な体験を呼ぶ
一つの仕事に真摯に熱中して、何かを成し遂げようと奮闘するとき、その深みや高みの先に、大我的で調和的な感覚、おおいなる何かにつながる・抱かれるという体験は確かに存在する。それを摂理として表しているのが上の賢人たちの言葉にほかならない。
深く没頭し、高みを目指して働くためには、哲学や宗教的な心持ちが要る。また、そのように深く高く働けたときには、結果的に何かしら、哲学的・宗教的な経験をしてしまうものである。その哲学的・宗教的な経験こそ、私は「仕事の幸福」であると思っている。
私はビジネス雑誌記者を7年間やって、成功者と言われるさまざまなビジネスパーソンやら経営者やらを取材した。仕事や事業を私欲の道具にして、ゲーム感覚で勝ち上がり、短期的に浮き上がる人たちも多く目にしてきた。彼らが得たものは「仕事の快楽」であって、「仕事の幸福」ではない。しかし同時に、みずからの事業と従業員を大切にし、地味だけれども頑張っている経営者とも少なからず出会ってきた。世間やメディアには華々しく取り上げられないが、そこには確かに「仕事の幸福」があるように感じた。
私たちが個人として、組織として、社会として課される挑戦は、いつの時代も、
欲望をいかに「開き」「制する」か、
そして欲望の「貪り」「怠け」をどう排していくか、である。