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「メタ能力」~能力をひらく能力

2.1.2



◆ある能力には長けていても……

組織のなかには、特定分野の知識が豊富な人、ある技能に長けた人、修士号や博士号を修めた人、利発的でIQの高い人などがいる。しかし、そうした人たちが必ずしも仕事で高い成果を上げるわけではないことを、私たちはいろいろと見聞きしている。

 「タコ壺(ツボ)的に深い知識があるがそれを他に展開できない」
 「才能に恵まれているのに、配属に不満があって本気を出さない」
 「言われた作業は器用に処理できるが、何か新しい仕事を創造することは苦手である」

……本項では、こうした「能力がありながら、能力がひらけない/ひらこうとしない」状態に陥る理由を考えていきたい。そこで私が持ち出したいのが、「メタ能力」という概念である。なお、メタ能力はここだけの新規の概念であり、一般に言及されているものではない。

メタ能力の「メタ(meta)」とは「高次の」という意味である。たとえば心理学の世界では、「メタ認知」という概念がある。メタ認知とは、認知(知覚、記憶、学習、思考など)する自分を、より高い視点から認知するということである。
たとえば、会議や商談の場を想像してほしい。私たちはまず、その場でやりとりされる内容や流れを自分なりに把握する。そこでもし自分が何か発言しようとする ならば、私たちは考えていることをそのままはき出してしまうのではなく、その場の空気を読み、相手の考えを読み、自分がこう発言すればどう反応があるだろ うか、こう言った方がいいかな、ああ言った方がいいかなと、頭のなかに一段俯瞰して考えるもう一人の自分を置いてシミュレーションする。これがまさに「メ タ認知」している状態である。

それと同じように、本項では「能力をひらく能力」として「メタ能力」というものを考えてみたい。

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【Ⅰ次元能力】 能力をもろもろ保持し、単体的に発揮する

「〇〇語がしゃべれる」「数学ができる」「記憶力が強い」「幅広い教養がある」、
「文章力が優れている」「表計算ソフト『エクセル』の達人である」、
「〇〇の資格を持っている」「運動神経が鋭い」「論理的思考に長けている」───
これらは単体的な能力、素養としての能力である。これらを発揮することをⅠ次元の能力ととらえる。

【Ⅱ次元能力】 能力を“場”にひらく能力
私たちは仕事をするうえで、能力を発揮する「場」というものが必ずある。たとえば、家電メーカーの営業部で働いているとすれば、その営業チームという職場、 営業という職種の世界、そして家電という市場環境。一般社員であるかリーダーであるかという立場。これらが「場」である。そして場はそれぞれに目標や目的 を持っている。
私たちは、もろもろに習得した知識や技能(=Ⅰ次元能力)を、さまざまに編成して「場」に成果を出そうと努める。このⅠ次元能力の一段上からもろもろの能力 を司る能力が、言ってみればⅡ次元能力であり、ここで「メタ能力Ⅱ」と名付けるものである。この「メタ能力Ⅱ」についての理解を促すための演習を1つやっ てみよう。


◆演習「モザイク作文」~自分の意図のもとに要素を編成する

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〈ワーク指示〉
□ワークシート〈P〉の右上にある四角枠の中に、いまあなたが全く適当に思いついた単語(名詞)を書き入れてください。
□次に、ワークシート〈P〉の他の空欄に次の言葉を埋めてください。
・要素A→「海」 ・要素B→「幸福」 ・要素C→「夏の日」 ・要素D→「中華料理」 ・要素E→「甘い」
□現在、ワークシート〈Q〉のような状態になりました。では課題です。要素A~Eまでの5つの要素を盛り込んで、あなたが先に記入した単語に帰結するよう物語を作ってください。(時間は10分間)

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さて、この課題に対し、どんな物語をこしらえることができただろうか? 実際の研修で出てきた回答例を紹介しよう。

【作例:Kさん・女性】
○記入単語=「机」
○桜の花が「甘い」香りを放つ4月、私たちは入学した。みんなで「海」に行き、大騒ぎをした後、横浜に立ち寄って本格的な「中華料理」に舌鼓を打った。そんな「夏の日」もまるで昨日のよう。そして秋が過ぎ、冬が過ぎた。「幸福」な思い出をいっぱい詰め込んで、きょう、私はこの教室、この「机」ともお別れだ。

【作例:Tさん・男性】
○記入単語=「クルマ」
「中華料理」の丸テーブルを囲みながら、きょうは我が家の家族会議だ。今年の「夏の日」の旅行は何処に行こうか。「海」にも行きたい、山にも行きたい。温泉にも浸かりたい、キャンプもしたい。そんな「幸福」プランはいろいろ出てくる。しかし、現実はそんなに「甘い」ものではない。なぜなら我が家は先月、「クルマ」を売っ払ったばかりだった。



要素AからEは、まったく脈絡のないばらばらなものである。しかし、ひとたび、「机」なり「クルマ」なり、帰結点を定めるとどうだろう。その瞬間から、これ ら単体的な要素に意味合いや流れを持たせようと意志的な努力がはたらく。そして、何かしら物語が完成すると、各要素はあたかも最初からその物語のために用 意されていたかのように思えてくる。つまり、5つの要素は、当初、単体として分断されていたのだが、私たちは物語をつくる意図のもとで、それらをあるまとまりとして機能させ、つながるように完成させたのだ。


◆「単に~ができる」と「成果が出せる」は別物
これを実際の仕事上のことに引き戻して考えてみよう。
私たちは日ごろ、業務処理や仕事体験を通して、さまざまにⅠ次元能力を身につけていく。だが、俗に言う「仕事ができる人」というのは、そうした単体の能力要 素をたくさん持っている人ではない。どんなプロジェクト、どんな職場、どんな立場を任せられても、内面に蓄えたⅠ次元能力を自在に組み合わせて、着実に成 果を出すという人間である。上の演習で言えば、どんな帰結ワードを振られたとしても、見事な作文を仕上げられるということだ。これがまさに「メタ能力Ⅱ」 に優れている状態である。

つまりⅠ次元能力は、単に「~を知っている」「~ができる」というレベルであるのに対し、Ⅱ次元能力はもろもろの能力を組み合わせて、何か目的にかなった成果を出すレベルを言うのだ。

私自身これまで、メーカー、出版社、IT企業と渡り歩き、業種・職種を超えて仕事をしてきた。メーカー時代にはマーケティングや商品開発、生産管理などの知 識を蓄えたし、出版社に入ってからはコンテンツ制作やデザインの技能を身につけた。IT企業ではプロジェクトマネジメントやビジネスモデル構築に関わる知 識を得た。その意味では、Ⅰ次元能力をさまざま蓄積してきた。
そして現在、職業人教育という場において働いている。いま何かのサービス開発をするときに頭がどう動くかと言えば、「以前の会社でのあのプロジェクトで習得 したマーケティング知識は形を変えれば応用できそうだ」とか、「そういえば、元部長のKさんのコネクションを使えば道が開けるかもしれない」とか、「あ あ、あのときの失敗経験がこんなところで役に立つ!」といった具合だ。「メタ能力Ⅱ」とは、このように、過去から蓄えたもろもろの能力を「場」にひらく能力なのである。

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◆「異動に納得がいかない」という若手社員に対して
と ころで、私が受託する研修の対象は、主に20代・30代前半の会社員・公務員である。彼らがやる気をなくす原因として、不本意な異動というのが少なからず ある。「本人の適正を考えないこんなミスマッチな配置転換があっていいのか」とか「会社は一貫性のない異動を強要して、これでどうして一貫性のあるキャリ アが築けるのか」といった声を研修現場でもよく耳にする。そんなときに私が伝えるのは次のようなメッセージだ───

・異動というのはサラリーマンの宿命である。
 (その宿命から逃れたいなら、どうぞ思い切って独立起業なさい)
・異動はチャンスである。
 (思いがけない才能を発見したり、出会いがあったり、世界が広がったり)
・優れた「組織内プロフェッショナル」とは、
 次々に命じられる「場・ミッション」を楽しみにでき、
 かつ、きちんと成果を出せる人財である。


3番目が、言うまでもなく「メタ能力Ⅱ」を発揮せよということである。では、その次々に命じられる「場・ミッション」をどうやったら楽しみにできるようになるのか、それについては最後に触れる。

【Ⅲ次元能力】能力と場を“意味”にひらく能力
能力の高次元への移行はこれで終わりではない。もう一段高い移行がⅢ次元能力だ。これは自分が持つ諸能力とそれが発揮される場を、意味のもとにひらいていく能力である。具体例で示そう。


◆新幹線の清掃員たちが能力の次元をどう上げていったか
手元に、遠藤功著『新幹線お掃除の天使たち』(あさ出版)がある。この本は、新幹線の車両清掃をするJR東日本のグループ会社、鉄道整備株式会社(通称:テッセイ)の清掃員たちが、いかに3K(きつい・汚い・危 険)仕事を、誇り高き「おもてなしサービス」に転換したかを紹介している。以下、同著の内容を参考にしながら、メタ能力の観点から清掃員たちの意識変化を 考察してみたい。

テッ セイの清掃員が1日に清掃を行う車両本数は110本。車両数は1300両に及ぶ。ホームに入ってきた新幹線車両の清掃にさける時間はわずか7分。その間に、車両清掃、トイレ掃除、ゴミ出し、座席カバーの交換、忘れ物のチェックなどを終えなくてはならない。したがって、清掃員たちに求められるのは、何よりもまず車両をきれいにする基本的なスキルだ。窓の拭き方や掃除機のかけ方から、床にくっ付いたチューイングガムの取り除き方、トイレのパイプ詰まりの直し方などまで、雑多な作業技術を身につける。

会社が今日のように生まれ変わる以前の清掃員たちは、これら基本技術を習得し、それを繰り返すだけの日々だった。言わばⅠ次元能力の発揮レベルに留まる状態である。おそらく彼らの働く意識としては、車両の汚れを落とせば賃金が得られるといっただけのものではなかっただろうか。その意識を変えたのが、同社の矢部輝夫専務取締役である。

矢部専務はJR東日本東京支社からテッセイに移り、試行錯誤するなかで、一つのメッセージを社内外に発信する。それは、テッセイは単に清掃作業をする会社か ら、快適空間を創造する会社になりたいという宣言だった。そして同社が提供する価値として「さわやか・あんしん・あったか」というキーワードを前面に出し た。そのためにまず、制服を一新したり、清掃員の技術コンクールを実施したり、従業員の休憩所を整備したりと、快適空間創造サービス会社のサービスパーソ ンにふさわしい待遇改善を目に見える形でどんどん行っていった。

その結果、清掃員たちのなかで何が起こったかと言えば、快適な新幹線空間を創造することが仕事の目的としてあり、その手段として各種の掃除技術がある、という意識転換だ。そ してまた、自分たちが提供する「さわやか・あんしん・あったか」に応じて、お客様から評価され、信頼を受け、それが給料につながってくるという意識変革で ある。とりあえず目の前の汚れを落とせば給料がもらえる。チューイングガムをきれいに除去する技術を覚えるだけで事足れりというレベルからはとても大きな 変化だ。まさに雑多に持つ能力を一段上から司り、場にひらくⅡ次元能力が開花した瞬間である。


◆やがて能力も場も手段になった
矢部専務がテッセイに着任して8年。同社が行うサービスは、地味で隠れた清掃から「魅せる清掃」へ、利用客とは遮断された清掃から「接客業としての清掃」へと変わっていき、清掃員たちは新幹線という鉄道輸送の場・旅の場を盛り立てる存在になった。現在では清掃員たちは誰もが、自分の仕事・自社の事業を「おもてなしサービス」だと認識している。そしてついにはⅢ次元能力を発揮する段階に移っていく。

その変化の鍵は、彼らがみずからの仕事に大きく意味を見出すようなったことだ。自分たちのやっていることがお客様の旅の一部になっている。だからこそ「さわ やか・あんしん・あったか」という価値提供をもっと高めたいという思い。また、彼らの活躍がメディアで紹介されるほどに、3K仕事だって劇的に転換できる というメッセージを自分たちの姿を通してもっと世に広げていきたいという使命感。そうした働くことの意味から来る内発的エネルギーが次々と彼らの行動変容を促したのである。

その具体例は「エンジェル・レポート」に数々紹介されている。「エンジェル・レポート」とは、日ごろの現場でコツコツとがんばっている人たちを上司や仲間が褒めるための社内の仕組みで、清掃員たちのさまざまな仕事エピソードが報告され、紹介されていく。『新幹線お掃除の天使たち』にいくつも掲載されているので、ここでは割愛するが、それらの事例を読むと、もはや彼らは自分の仕事「場」を自律的に変えていく、新たにつくり出していく主体となっていることがうかがえる。

メ タ能力Ⅱは、もろもろの能力を場にひらく能力であった。テッセイの清掃員の場合、当初、その場というものは、経営側から与えられたものであったし、清掃員 たちはそこにまだ十分な意味を見出し切れていなかった。ところが、いまでは一人一人が自分なりに意味を見出し、その意味(理念と言ってもいい)のもとに、場をどう変えていこうか、つくり出していこうか、そのために能力をどう総動員しようか、新しいスキルが必要なら進んで学びにいこうというモードになった。 これは能力を司る次元がさらに一段上がったことであり、メタ能力Ⅲを発揮している状態といえる。

以上みてきたように、Ⅰ次元能力からⅢ次元能力までを簡潔にまとめるとこうなる。

【Ⅰ次元能力】
・能力をもろもろ保持し、単体的に発揮する
・単に「~できる」「~を知っている」ことに満足する
・その単体的な能力を磨くことが自己目的化する

【Ⅱ次元能力】 メタ能力Ⅱ
・能力を“場”にひらく能力
=場が求める目的に合わせて諸能力を寄せてきて自在に編成し、成果を出す力。
 そして、その場に応じた能力が新たに身についていく。
・能力を使って成果を上げることにおもしろさを感じる

【Ⅲ次元能力】 メタ能力Ⅲ
・能力と場を“意味”にひらく能力
=意味のもとに諸能力を寄せてきて自在に編成し、
 場をみずからつくり出し/つくり変え、実現したい価値を生み出す力。
 そして、その意味に応じた価値観が強まっていく。
・能力と場を使って意味を満たすことに喜びを感じる



◆能力の成熟化~「進化・深化」と「高次元化」
さて最後に、能力の成熟化について触れておきたい。能力の成熟化には2つの方向があるように思う。

 1)その次元内での能力の「進化・深化」
 2)能力をⅠ次元からⅡ次元へ、Ⅱ次元からⅢ次元へと上げていく「高次元化」

たとえばここでロシア語が話せるAさんを例にとってみよう。Aさんにはいま、Ⅰ次元能力として「ロシア語を話す力」というものがある。Aさんは今後も時間と 労力をかけてロシア語につきあっていけば、文法や聞き取り力、表現力が増していく。これが語学力単体でみた場合の、つまりⅠ次元能力内での成熟化である。

そんなAさんは総合商社に就職し、ロシアに自動車を輸出する部署に配属になった。そうした場を与えられたAさんにとって必要になるのは、ロシア語だけでな く、貿易知識、交渉術、人脈構築力、異文化理解などさまざまな能力だ。これらもろもろの能力を養い引き寄せて、自動車販売の成果を出していく。これがいわ ばⅡ次元への能力高次元化だ。
そしてAさんは自動車輸出部門での活躍が買われ、その後ロシア駐在となり、ロシアでのエネルギー開発部門に異動となった。そこでも語学力とともに、さまざま な能力を組み合わせて着実に成果を出していった。これはある場からある場へと移り、同様に成果を出すべく能力をひらいていくことで、Ⅱ次元内での能力成熟 である。

さて、ロシアでの仕事が長く続いたAさんはやがて支社長となり、次第に日本とロシアの文化交流に貢献したいと思うようになった。彼はビジネスで築いた人脈と 立場を活用し、いろいろなイベントを企画・推進することに汗を流した。「民間外交・文化交流こそ平和を築く礎」という信念のもとにこれまでのキャリア・人 生で培った能力を惜しみなくそこに発揮した。これは能力と場を意味にひらいている状態であり、Ⅱ次元からⅢ次元へ能力を高次元化した姿である。


◆メタ能力を開発する鍵は「意味」創造
このように能力の成熟化には、「次元内の進化・深化」と「高次元化」がある。「次元内の進化・深化」については、一所に集中して取り組んだり、経験量を増し ていったりすることで実現していく。ところが「高次元化」については、どれだけ時間をかけてその分野の仕事を真面目に繰り返していっても次元は上がってい かないことが多い。Ⅱ次元への移行は、「場」が求めるものを自覚し、場のもとに能力を司る意識にならないと駄目である。また、Ⅲ次元への移行は、意味(実現したい理念や価値、使命、志といったもの)を創造し、その意味のもとに能力と場を司る意識になることが不可欠である。

個々が、能力の発揮を全体として強く大きくさせていくためには、やはり、1つめと2つめの成熟化を同時にしていくことが理想である。

たとえば私は執筆業を生業のひとつにしているが、文章表現技術を巧みにしていくためには、それを単体的に鍛えていても限界がある。優れた文章表現を生むには、歴史観を醸成したり、音楽の技法を勉強したり、あるいは絵画の技法からヒントを得たり、そうした他の知識・能力との化学的な融合反応が必要である。また、読み手がどこにいて、どんな欲求をもっているかという需要の場を想定することで、よりいっそう感覚が鋭くなる。さらに、自分は何のために執筆業をやり、何のためにこの文章を発信するのかという意味を強く抱いているほど、文章を究めようという想いが強くなる。そうすることで、結果的にⅠ次元の能力である文章表現力がいやがうえにも強化されていくのである。

ビジネスの現場を見渡したとき、Ⅰ次元やⅡ次元で仕事をする人は多い。だが、Ⅲ次元のレベルにまで引き上げて仕事をやる人は限定的である。それだけ「意味」を最上位に置いて働くことが難しいということだ。しかし、それは生涯をかけて取り組むに値する課題ではないだろうか。能力をひらくことは大事である。だが、能力をひらく能力を持つことはもっと大事である。「メタ能力」開発のための鍵は、最終的には「意味」創造にある。







能力の広がりと深み~価値創造回路について

2.1.1


普通の人間は、リンゴが木から落ちるの「見る」だけだが、
ニュートンは独り、そこに法則を「観た」。

また、
一般人は、部屋にいながらインターネットで雑多なことを「知る」。
学者は、仮説検証を繰り返して物事を体系的に「識る」。
漁師は、波と風だけで、彼にとって最も大事なひとつのこと
――――すなわち、きょうの漁場がどこかを「智る」。




◆価値創造回路に3つの部屋
第1章〈1.2.2〉で、仕事を成すとは「INPUT(投入)→THRUPUT(処理・加工)→OUTPUT(産出)による価値創造である」と考察した。(THRUPUTはTHROUGHPUTの略)

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人はそれぞれに価値創造回路のようなものを持っていて、そこで一連の「IN→THRU→OUT」の活動がなされる。価値創造回路を構成する基本要素は、能力、意志、身体だ。それを上から平面的にとらえたのが次の図である。

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図のように、回路はおおよそ3つの部屋に分かれているととらえる(実際はこういう間仕切りはなく渾然一体としているが)。
ここで、「みる」や「いう」などの諸能力をひらがなで記しているのは、後に述べるように、「みる」といっても、見る、診る、観る、視る、また「いう」といっても言う、語る、話す、発音するなど、さまざまな広がりや深さがあるからだ。一語で膨らみを持たせるためにひらがなを用いる。

さて、回路上流では主に、モノやコトを素材として自分の回路に取り込むための能力が使われる。たとえば、私たちが何かモノを生産するとき、まず原材料を手に取って、その状態を「みたり」、「ふれたり」する。そして、どういう生産方法・工程がいいかの検討につないでいく。また、お客さんがどういうモノをほしがっているかの要望を「きく」こともする。

一方、モノづくりではなく、自分が企画書や設計図など知的情報を生産する場合も同様だ。まず素材となる情報や状況を「よんだり」「きいたり」して、どういう情報にまとめていくかの材料にする。このように、仕事という価値創造は、まず、認知や観察、摂取、受信から開始される

次に、その自分が取り込んだものを「かんがえたり」、「わかったり」、そして「おぼえたり」、「きめたり」するという中流過程がある。理解や編集、記憶、決定のステップだ。

そして、下流過程として、「かく」「いう」「だす」「つくる」などの、製作、表現、発信がある。ここで自分の回路から出されたものが、アウトプットとして他人の目に触れる形になる。

なお、ここで上流、中流、下流としているが、回路のなかではたらくさまざまな能力は、上流から下流への単調な一方通行ではなく、複雑に行ったり来たりするのが常である。


◆「見る」と「観る」の深さの違い
以上が、自分が内に持つ価値創造回路を上から平面的にみたものである。次に回路を斜めから立体的に眺めてみよう。

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この図のエッセンスは、私たちの「みる」や「かんがえる」といった行為には深さがあるということだ。たとえば、私たちが何かを「みる」場合、単純に目に映るものを「見る」こともあるし、その目に映る現象の奥に、何かの原理や原則を「観る」こともある。普通の人間はリンゴが木から落ちるのを「見る」だけだが、ニュートンはそこに万有引力を「観た」。

同じように、単に情報を耳に入れるだけなら「知る」だが、それをみずからの経験や他者からの助言などと照らし合わせ高度な情報に精錬させれば、それは「識る」や「智る」になる。情報は価値創造回路のくぐらせ方よって、データにも知識にも知恵・叡智にも変換されるのだ

その他、「かんがえる」にも深さがある。物事の表層をなぞるだけの「考える」もあれば、その奥底の本質まで「なぜだ?なぜだ?」と探りを入れて洞察する「考える」もある。「つくる」も深みにさまざまあるものの代表格である。安易に他を真似て「作る」レベルもあれば、これまでにない独自の発想で「創る」レベルもある。

また、職人の世界では、ものを加工する場合、実に多くの技を状況に応じて使い分けする。たとえば、腕の立つ金属加工の職人たちの間では、鉄を「けずる」場合、

    「削(けず)る」 「挽(ひ)く」 「切(き)る」 「剥(へず)る」
    「刳(く)る」 「刮(きさ)ぐ」 「揉(も)む」「抉(えぐ)る」
    「浚(さら)う」 「舐(な)める」 「毟(むし)る」 「盗(ぬす)む」

などといったふうに、さまざまあるそうだ。

機械職人は、「あと1ミリ削ってくれ」とは言うが、「あと100分の3ミリ削ってくれ」とは言わない。───「あとイッパツ舐(な)めて、しっくり入るようにしてくれ」とか、「表面が毟(むし)れていて、みっともないから、イッパツ浚(さら)って、見てくれをよくしといてくれ」と言う(小関智弘著『職人ことばの「技と粋」』より)。素人であれば、一緒くたで削ることしかできないことも、職人は一段深いレベルで多種多様な能力を発揮し、「けずり分ける」のである。


さらに考えてみよう。ある一つのことを「知る」と「教える」とでは能力のレベルが違う。
陶芸を例に取ってみよう。焼きものについて「知っている」というレベルはもっとも易しい。「九州では有田焼が有名ですね」とか、「これが備前焼の特徴ですね」とか。次に第2のレベルは、焼きものがどういう工程で成形され、硬く焼けるのかという製法、化学的な原理まで「わかる」というものだ。そして第3として、実際、自分でロクロを回して、窯で焼くことが「できる」レベルとなり、第4に、それらすべてを他人に「教える」ことができるレベルになる。「知る」と「わかる」「できる」「教える」では能力の深さに違いがあるのだ。

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◆深みの違うさまざまな仕事
このように価値創造の回路は深みを持つ。もっとも浅いところは、「処理・動作」的なレベルと呼んでいいかもしれない。このレベルでは、特に深い思考がされることなく、単純に動作を行なう、あるいは段取りやルールに則って、事柄を処理していくような行為になる。したがって、このレベルでINPUT→THRUPUT→OUTPUTがなされても、あまり価値の大きなものは生じない。働き手の個性が充分に発揮される箇所も少ない。言い換えれば、このレベルの仕事は、AさんでもBさんでも誰でもやれる。

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そして、そこから少し深く入っていくと、「思索・考察」的レベルとなる。ある仕事を行なおうとするとき、よりよい何かを生み出そうとする意欲や目的意識が強ければ強いほど、私たちが持つ諸能力は深いレベルではたらこうとする。

「よく練られた仕事」のプロセスは次のようなものになる。
つまり、まず注意深いレベルのINPUTから上流工程(たとえば「傾聴する」とか「熟読する」といったような)が始まる。そしてそこから思慮深い中流工程(たとえば「分析する」「編集する」「体験して覚える」など)がなされ、最後に入念な下流工程によって(たとえば「筆致を尽くす」「独自性を醸す」など)OUTPUTがなされる。形として姿を現したその仕事のOUTPUTには、INPUT時と比べてとても大きな価値が付加されることとなり、そこには働き手の個性が宿る。

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さらにいっそう深い仕事がある。観想・覚知的なレベルでなされる仕事である。観想とは、哲学用語で、物事を感覚や主観を超えて純粋にその本質を観ることをいう。また、覚知とは悟りのことだ。このあたりのレベルは、すでに意識と潜在意識の境目にきており、凡人である私たちは、そう頻繁に行くことのないレベルだが、超一流の職業人や芸術家、科学者などはこのレベルに下りていき能力を発揮する。

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◆芭蕉の「主客一体」・チクセントミハイの「フロー」
『静に見れば、もの皆自得すと云へり』───とは松尾芭蕉の言葉である。心を落ち着かせて、対象物を深く見つめていけば、すべてのものがきちんと各々の本性のもとに、全体の理法と調和しながら存在していることに気づく、といったような意味だろうか。芭蕉は、そう気づけるようになったときが、いわば主客一体(自分と描く対象物が通じ合う状態)の状態であり、描くものが渾然と顕れてくる状態なのだと言いたかったのかもしれない。

高度な集中によって、自己が何か一つのことに全人的に没入し、能力が十全に開いているときの包括的感覚を社会心理学者のミハイ・チクセントミハイは、「フロー」と呼んだ。彼のフローの描写は次のようなものだ。

「それは進路を正確にたどっている船乗りの髪を風がなびかせる時、ヨットが若駒のように波間を突き進み、帆・船体・風そして海が船乗りの血管の中でハーモニーを奏でている時、そういう時に感じられるものである。また、キャンバス上で色彩が互いに魅力ある緊張を構成し始め、新しい何か、生き生きした形が目前で輪郭を現し始めた時、それに驚嘆しながら制作している画家が感じるものである。

自分は不可知の力によってもてあそばれているのではなく、自分が自分の行為を統制し、自分自身の運命を支配しているという感じを経験する時はだれにでもある。

このような瞬間、我々の生活での最良の瞬間は、受動的、受容的な状態でくつろいでいる時に現われるのではない。最良の瞬間は普通、困難ではあるが価値のある何かを達成しようとする自発的努力の過程で、身体と精神を限界にまで働かせ切っている時に生じる」。  
                                                                ───『フロー体験 喜びの現象学』より


よくスポーツ選手などが口にする「ゾーンに入る」というのも、この「フロー」に似通った概念といえる。いずれにせよ、人間の能力には底知れぬ深みがあり、その発揮具合も無限にある。


◆広がりへの張力・深みへの引力
私たちは生涯にわたり、自分の持つ価値創造回路を豊かに膨らませていくことが望まれる。それでこそ、いつまでも自分が納得できる仕事をやり続けることができる。価値創造回路を膨らませるものには、外側からの強制と内側からの意志がある。

私たちはたいてい20代までは、やれ義務教育だ、やれ受験だ、やれ新入社員で初めての担当業務だ、ということで、外側から与えられる課題をこなすことによっていやおうなしに能力が身についていく。これがいわば「外側からの強制」による回路の膨らませだ。
ところが、就職して3年や5年が経つころから、価値創造回路はあえて自分から意志的に膨らませようとしないかぎり膨らんでいかない。特に深み方向は伸ばすのが難しくなる。業務の処理方法を一通り覚え、職場で自分の居場所を確保してしまうと、人は往々にして、そのやり方やレベルに安住してしまうからだ。

30代以降も確かに、異動や新規プロジェクト配属という外側からの命令によって、新しい知識や技術を学ぶという平面的な能力拡大はあるかもしれない。しかし、自分の内からの意志によって、みずからの思考や意識のレベルを深化させようとしないかぎり自分のやる仕事は浅薄なものに留まる危険性が出てくる。

「見る」から「観る」へ。「知ろうとする」から「識ろうとする」へ。「物事の仕組みを理解する」から「仕組みの奥にある本質をつかむ」へ。「予定調和のなかで作る」から「既存の枠を破ったものを創り出す」へ。こうした意志的な努力を惜しまない人が、永遠に価値創造回路を膨らませ続けられる人である。そのために仕事への好奇心が大事になってくるわけであるが、いったい絶え間ない好奇心はどうすれば保持できるのだろう───?

それこそがまさに夢や志であり、仕事に見出す意味や目的意識である。能力を豊かなものにするためには、能力を一段上から司る想いや観といったものが絶対必要なのである。結局、能力の豊かさは、想いの豊かさと太くつながっている。

山高ければ裾野広し。山高ければ谷深し。

すなわち、夢や志が高ければ、それを成し遂げるための能力も、必然的に幅広く深くなっていく、ということだ。



衣食住足りて「働く」を知るようになったか

0.1.2


私たちは、
衣食足りて「働く」を知る――――ようになったのでしょうか?

確かに、平成ニッポンの世をみると、“小さな飢え”はなくなったように思えます(社会のある部分には依然残る問題ではありますが)。しかし、私たちの目前には変わって、“大きな渇き”が現われはじめたのではないでしょうか。次のような内なる問いに対して、明確な答えが得られないという渇きです。

・自分は何のために働くのか?

・食うためには困らないが、このままこの仕事を何十年も繰り返していくと思うと、気分は曇る。かといって、今の自分に何か特別やりたいものがあるわけでもない・・・

・仕事は本来苦しみなのか、それとも楽しみなのか?

・今の仕事は刺激的で面白い。しかし、これはゲームに興じている面白さと同じような気がする。仕事に何か大きな意味とか意義を持っているわけではない。これは健全なことなのか?

・成功することと幸せであることとはイコールなのだろうか? つまり、仕事で成功したとしても、人生が不幸ということが起こりえるのか? また、仕事で必ずしも成功しなくても、幸せな人生を送ることは可能なのか?

・メディアの文字に踊るキャリアの勝ち組とは何だろう? 成功者とは誰のことだ?

・天職にめぐり合うことは、運なのか努力なのか?

・働きがいが大事なのはわかるが、理想の働きがいを追っていたら、就職口はほとんどなくなるのが現状だ。所詮、働くとは、妥協と我慢を強いられるものなのか?

・利己的に、反倫理的に儲ける個人・企業が増えてきたら世の中はどうなるのだろうか?また、自分自身がそういう“うまい汁”の権益を持った身になったら、果たして自身の欲望を制御し、利他的、倫理的に振舞えるだろうか? しかし考えてみるに、欲望は成長や発展のために必要なものではないか?

・仕事はよりよく生きるための手段なのか、それとも仕事自体が目的になりえるのか?

……等々。



一人ひとりの内面から湧き起こってくるこうした「職・仕事」をめぐる“大きな渇き”は、無視することのできない“大きな問い”です。私たちは、みずからが働くことに対し、意味や意義といった“答え”が欲しい。なぜなら人間は、みずからの行動に目的や意味を持ちたがる動物だからです。ましてや、その行動が苦役であればなおさらのことです。

また、これら“大きな問い”は、同時に、私たちに課せられた“大きな挑戦”でもあります。なぜなら、働くことは、

・生活の糧を稼ぐ「収入機会」であるばかりでなく、
・自分の可能性を開いてくれる「成長機会」であり、
・何かを成し遂げることによって味わう「感動機会」であり、
・さまざまな人と出会える「触発機会」であり、
・学校では教われないことを身につける「学習機会」であり、
・あわよくば一攫千金を手にすることもある「財成機会」だからです。

◇ ◇ ◇

しかしながら、ひととおりの経済的・物質的繁栄を手にした日本の働く現場は、昨今、具合がよくありません。

増え続ける非正規雇用の人たちにおいては、安定的な生活の保障がもっぱらの問題となり、幸運にも正社員として雇用されている人たちの間では、過労やメンタルヘルスが無視できない問題となっています。また逆に、労働条件的に守られすぎた会社員のなかには組織にぶら下がろうとする意識も広がってきます。いずれにしても、いっこうに「大きな渇き」「大きな問い」「大きな挑戦」に関心が上がっていかないのが現状のように思えます。

私たち労働者は(宿命的に)意識に上げる優先項目として、次のトップ2があります。
1)「労働条件」(いかに多くの給料を得られるか、いかに好ましい環境で働けるか)
2)「仕事術」(いかに効率的に仕事を処理する技術を身につけるか)

私たちは、「いかに」(HOW)ということを狩るのに忙しく、
ついぞ「何がやりたいのか」(WHAT)
「なぜそれをやるのか」(WHY)を耕す時間をもたない。
「働く目的・働きがい」を求める内面の声は、
「考えるのが面倒くさい」という怠け、逃げ、あきらめの声に
いとも簡単に押しのけられてしまう。

科学技術の進歩が人間をいろいろな労務・苦役から解放するにしたがい、「働くこと」に関する論議は、当然、意味論・価値論の領域に移っていくのが自然だと思われました。ところが私たちの関心は、いまだ労働条件をどうする、仕事の効率化をどうする、のような外側の問題に終始しています。

人間が古くから自問してきた「人はパンのみに生きるのか?」という一大テーマは、今日的問題であり続けています。この問いに真正面から向き合い、避けずに考えることは、自分を働くことに苦しむネガティブゾーンから引き上げるために、そして同時に、働くことを楽しむポジティブゾーンでおおいに躍動するために、必要な日常的作業です。

ただ、「働くとは何か?仕事とは何か?」を一人でじっと考えるのは、取っ掛かりがなくて考えにくいということもあります。そんなときの取っ掛かりとして是非読んでいただきたいと願い、私はこの『働くこと原論』をネット上に掲示するものです。読者のみなさんにとって、“大きな渇き”を顕在化させ、同時に、それを確かに満たしていくことにつながる材料をひとつでも多く提供できればと思っています。





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