« 2013年9月 | メイン | 2013年11月 »

「決意」が人を最も元気にする

5.7.2


NHK教育テレビ『100分de名著』が、少し前にヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を取り上げた。その影響は大きなもので、あのような重苦しい作品が、月間ベストセラーにランクインした。日本人の読書欲もまんざら軟弱ではないなと思えるかたわら、それだけ生きることへの漂流感が強くなっているのかもしれない。

フランクルは、私も研修プログラムの中で頻繁に引用する人物で、「生きる意味」「意味が人間に与える力」を語らせれば、彼以上に説得力を持つ人はいない。なぜなら、第二次世界大戦下、あのアウシュヴィッツの強制収容所から奇跡的に生還したユダヤ人学者だからだ。あの絶望するしかない状況の中で、フランクルは生きる意味を自分に問いかけ、周囲にも問いかけ、生き続ける闘いを貫いた。

フランクルの言葉を一つ引用しよう。

「人間にとって第一に必要なものは平衡あるいは生物学でいう『ホメオスタシス』、つまり緊張のない状態であるという仮定は、精神衛生上の誤った、危険な考え方だと思います。人間が本当に必要としているものは緊張のない状態ではなく、彼にふさわしい目標のために努力し苦闘することなのです」。

                                                ───『意味による癒し-ロゴセラピー入門-』


精神科医フランクルがたどり着いた結論は、人間の幸福はなにも緊張がない穏やかな状態に身を浸すことではなく、意味に向かって奮闘している状態だということである。こうした行動主義的幸福観は、他の偉人賢人の考えとも共鳴する。

「われわれが不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことができない。理性もほとんどできない。これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる」。    ───ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』

「人は意欲し創造することによってのみ幸福である。(中略)だから、行動を伴わない楽しみよりも、むしろ行動を伴う苦しみのほうを選ぶのである。(中略)登山家は、自分自身の力を発揮して、それを自分に証明する。この高級な喜びが雪景色をいっそう美しいものにする。だが、名高い山頂まで電車で運ばれた人は、この登山家と同じ太陽を見ることはできない」。    ───アラン『幸福論』


「人は軽薄の友である歓喜や、快楽や、笑いや、冗談によって幸福なのではない。むしろ、しばしば、悲しみの中にあって、剛毅と不屈によって幸福なのだ」。    ───モンテーニュ『エセー』

「丈夫(真の男)というのは、潔く玉となって砕けることを本懐とすべきであって、志を曲げて瓦となってまで生きながらえるのを恥とする」。    ───西郷隆盛『西郷南洲遺訓』



こうしたことを受け、私は「幸福とは、自分が見出した意味に向かって坂を上っている状態」と拙著『プロセスにこそ価値がある』の中で定義した。私もまた、行動主義的幸福に強く共鳴する者の一人である。
意味とは、言い換えれば、夢や志、目的といったものである。それを成し遂げようと「決意する」とき、人は元気になる。元気とは、その字のごとく、その人の元のところから湧き起こってくる気だ。その人が本来の自分になるためのエネルギーだ。

なにかとストレスが重くのしかかる昨今の仕事生活にあって、人びとはよく、「癒されたい」と願う。そして「癒し」をうたう商品・サービスも花盛りだ。しかし、「癒し」は病気や傷をなおすことであり、あくまでマイナスの状態をゼロに戻す手当てでしかない。“やまいだれ”が付く字であるのはそういうことだ。いくら高価な「癒し」の商業サービスを受けても、プラスゾーンに突入できるほどのエネルギーは得られない。通常のストレス負荷にさらされれば、すぐまた、マイナスゾーンで疲弊することになる。

もちろん、疲れた心身に癒しは必要である。だが、中長期にわたって、ほんとうに元気になっていくためになにが必要か、そこを考えなければ、いつまでも「ストレス負荷→癒し・憂さ晴らし→ストレス負荷」のサイクルをマイナスゾーンでぐるぐる回る生活を続けるだけになるだろう。

では、ほんとうに元気になるために必要なものとはなにか?
───それは「決意」することである。
意味を見つけ、そこに肚を決めて行動することが、人が一番元気になることなのだ。

たしかに、肚を決めて行動するにもストレス負荷は生じる。しかし、それは「よいストレス」である。学術的には、ストレスには2種類あり、なにか建設的な目的に向かうときのストレスは「ユーストレス(eustress):よいストレス」であり、やらされ感のあるときのストレスは「ディストレス(distress):わるいストレス」となる。
また、行動を仕掛ければ、その分、失敗や挫折もあるだろう。だが、それは病的で不健全な落ち込みではない。自分を真の意味で蘇生させるための価値のあるプロセスとなる。苦しみのどん底にあっても、決意をした人間は「誓い」を立てることができるからだ。

「決意のある人生」と「決意のない人生」を図で表してみた。


572



「決意のない人生」(左側)は、疲弊ゾーンでこぢんまりと回るだけだが、「決意のある人生」(右側)は、元気ゾーンの住人となり躍動して回っていくこととなる。ときに、ネガティブゾーンに入っていくが、それも人生の醍醐味の一つとして、許容できるほどの力強さを持つだろう。

作家の村上龍さんは『無趣味のすすめ』のなかで次のように書く。───「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクを伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」。 

ネガティブゾーンでこぢんまり生きるか。それとも、ポジティブゾーンで、大きな喜びも大きな苦しみも抱え込んでダイナミックに生きるか。それは、ひとえに「決意するか/決意しないか」による。






なめてかかって真剣にやる

5.6.3


ずいぶん前のことになるが、米メジャーリーグに行ったある日本人選手が「なめてかかって真剣にやる」といった内容のことをコメントしていたと記憶する。「なめてかかる」とだけ言ってしまうと、何を高慢な、となってしまいそうだが、その後の「真剣にやる」というところが彼らしくて利いている。

「なめてかかる」というのは決して悪くない。いやむしろ、それくらいのメンタリティーがなければ大きなことには挑戦できない。

私たちの眼前には、つねに無限大の可能性の世界が広がっている。しかし、その世界は壁に覆われていて、どれくらい広いのかよく見えない。壁の向こうは未知であり、そこを越えて行くには勇気がいり、危険が伴う。一方、壁のこちら側は、自分が住んでいる世界で、勝手がじゅうぶんに分かっており、平穏である。無茶をしなければ、安心感をもって暮らし続けられると思える。そんなことを表したのが〈図1〉である。

56301


「既知の平穏世界」と「未知の挑戦世界」の間には壁がある。これは挑戦を阻む壁である。わかりやすく言えば、「~だからできない」「~のために難しい」「~なのでやめておこう」といった壁だ。壁は2つの構造になっていて、目に見える壁と目に見えない壁とに分けられる。

目に見える壁は、能力の壁、財力の壁、環境の壁などである。目に見えない壁は、不安の壁、臆病の壁、怠惰の壁などをいう。前者は物理的な壁、後者は精神的な壁だ。
何かに挑戦しようとしたとき、能力のレベルが足りていない、資金がない、地方に住んでいる、などといった物理的な理由でできない状況はしばしば起こる。しかし、歴史上の偉人をはじめ、身の回りの大成した人の生き方を見ればわかるとおり、彼らのほとんどはそうした物理的困難が最終的な障害物にはなっていない。事を成すにあたって、越えるべきもっとも高い壁は、実はみずからが自分の内につくってしまう精神的な壁なのだ。

私たちは誰しも、もっと何か可能性を開きたい、開かねばとは常々思っている。しかし、壁の前に来て、壁を見上げ、躊躇し、“壁前逃亡”してしまうことが多い。そんなとき、有効な手立てのひとつは、「こんなことたいしたことないさ」と自己暗示にかけることだ。やろうとする挑戦に対し、「なめてかかる」ことで精神的な壁はぐんと下がる。
どんな挑戦も、最初、ゼロをイチにするところの勇気と行動が必要である。そのイチにする壁越えのひと跳びが、「なめてかかる」心持ちで実現するのなら、その「なめかかり」は、実は歓迎すべき高慢さなのだ。

で、本当の勝負はそこから始まる。〈図2〉に示したとおり、飛び越えた壁の後ろは上り坂になっている(たぶん悪路、道なき道)。

56302


この坂で、「なめてかかった」天狗鼻はへし折られる。たぶん晴れて大リーガー選手になった彼も、自分の小生意気だった考え方を改めているに違いない。怪我やスランプを経験して、相当に試されているはずだ。だがその分、彼は真剣さに磨かれたいい顔つきになった。その坂では、いろいろと真剣にもがかねば転げ落ちてしまう。その坂はリスク(危険)に満ちているが、それは負うに値するリスクだ。

挑戦の坂を見事上りきると、「成長」という名の見晴らしのいい高台に出る。高台からは、最初に見た壁が、今となっては小さく見降ろすことができるだろう。このように壁の向こうの未知の世界は、危険も伴うが、それ以上にチャンスがある。

では、次に、壁のこちら側も詳しくみてみよう〈図3〉。ここは既知の世界であり、確かに平穏や安心がある。しかし、その環境に浸って、変化を避け、挑戦を怠けているとどうなるか……。壁のこちら側の世界は実はゆるい下り坂になっていて、本人はあまり気づかないだろうが、ずるずると下に落ちていく。そしてその落ちていく先には「保身の沼」、別名「ゆでガエルの沼」がある。^p

56303


壁を越えずにこちら側に安穏と住み続けることにもリスクがある。このリスクは、壁の向こう側のリスクとはまったく異なるものである。いつの間にか忍び寄ってくるリスクであり、気がつくと(たいてい30代後半から40代)、ゆでガエルの沼にとっぷり浸かっていることになる。

そこから抜け出ようと手足をもがいても、思うように力が入らず、気力が上がらず、結局、沼地でだましだまし人生を送ることになる。安逸に流れる“精神の習慣”は、中高年になってくると、もはや治し難い性分になってしまうのだ。

さて、私たちはもちろんそうした沼で大切なキャリア・人生を送りたくはない。だからこそ、常に未知の挑戦世界へと目をやり、大小の壁を越えていくことを習慣化する必要がある。そのために、どうすればいいか?───その一番の答えは、坂の上に太陽を昇らせることだ。

「坂の上の太陽」とは、大いなる目的、夢、志といった自分が献身できる“意味”である。この太陽の光が強ければ強いほど、高ければ高いほど、目の前に現れる壁は低く見える。と同時に、太陽は未知の世界で遭遇する数々の難所も明るく照らしてくれるだろう〈図4〉。

56304


フランスの哲学者アランは『幸福論』(白井健三郎訳)でこう言った───

「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。

「予見できない新しい材料にもとづいて、すみやかに或る行動を描き、そしてただちにそれを実行すること、それは人生を申し分なく満たすことである」。

「はっきり目ざめた思考は、すでにそれ自体が心を落ち着かせるものである。わたしたちはなにもしないでいると、たちまち、ひとりでに不幸をつくることになる」。


そう、跳ぶことはリスキーである。しかし、跳ばないことはもっとリスキーである。……ただ、そういうことは文字づらでは理解できても、なかなか実践ができない。やはり、人は(私も含め)人生の多くの局面で跳ぶことを避けたがる。なぜだろう?

それは人生の真実として次のようなことがあるからだ、というのを示したのが〈図5〉である。私たちは、危険を顧みず、勇敢に壁を越えていった人びとが、結局、坂の途中で力尽き、想いを果たせなかった姿をよく目にする。崖の底にあるのは、そんな「勇者たちの墓場」だ。

56305


その一方、私たちは次のこともよく目にする。つまり、現状に満足し、未知に挑戦しない人たちが、生涯そこそこ幸せに暮らしてゆく姿だ。壁越えを逃避する人たちが、必ず皆、ゆでガエルの沼で後悔の人生を送るかといえば、そうでもなさそうである……。

「安逸の坂」の途中には「ラッキー洞窟」があって、そこで暮らせることも現実にはある。振り返ってみると会社組織の中でもそうだろう。正義感や使命感が強くて組織の変革に動く人が、結局、失敗し責任を取らされ、組織を去るケースはどこにでも転がっている。逆に、保身に走り利己的に動く社員や役員が、結局、好都合な居場所を確保してしまい、長く残り続ける……(沈黙)

怠け者・臆病者が得をすることもあるし、努め者・勇敢者が必ずしも得をせず、損をすることが起こりえる―――これもまた真実なのだ。

人間社会や人生はそういう理不尽さを孕むところが奥深い点ともいえるが、問題は、結局、私たち一人一人が、みずからの行動の決断基準をどこに置くかだ。

「損か/得か」に置くのか、
「美しいか/美しくないか」に置くのか。

私自身はもちろん、壁を越えていく生き方が「美しい」と思うので、常にそうしていこうと思っている。「美しいか/美しくないか」―――それが決断の最上位にあるものだ。その上で、最終的に、その方向が「得だったね」と思えるようにもがくだけである。最初に「損か/得か」の判断があったなら、私はいまも居心地のよかった大企業サラリーマン生活を続けていたはずである。




努力が報われる人生とは!? ~グラン・ジュテが起こる時

5.6.2


NHK教育テレビで『グラン・ジュテ~私が跳んだ日』という番組がある。さまざまな女性の職業人生を追っているヒューマン・ドキュメンタリーで私は観るたびにいろいろにエネルギーをもらっている。

『プロジェクトX』のように壮大なドラマ仕立てでなく、『情熱大陸』のように超有名人を扱っていない。どちらかといえば普通の人が職業人生を切り開いていく物語で、自分と等身大のスケールで観ることができる。だから余計に現実味を帯びたエネルギーをもらえる。

「ロールモデル不在」とそこかしこで言われる日本社会だが、こういった番組はそんな中で多くに視聴を勧めたいものだ。登場する彼女たちの生きざま・働きざまはロールモデルにじゅうぶんになりえる。特に中学生くらいからどんどんみせたらいいと思う(今の子供たちは、想いにひたむきな生き方、志に向かう真剣な大人の姿をあまりに目にしていない)。

番組タイトル名のグラン・ジュテとは、バレエの専門用語で「大きな跳躍」という意味だ。毎回登場する主人公は、さまざまなきっかけや出来事によってその世界に入り、苦労や忍耐を重ねる。小さな成功に有頂天になるときもあるが、その後長く続く、ほんとうの試練にさらされて、次第に天狗鼻も削り落とされてゆく。その下積みのようなプロセスを番組はていねいに追っている。

その下積みの間の心理変化や、主人公のあきらめない心の持ちようこそが、この番組の一番の肝である。私もそこに強い関心を置く。

番組のタイトルどおり、番組の後半では、そうした苦境を乗り越え、主人公には晴れて「グラン・ジュテ」の瞬間が訪れる。そこから彼女たちは、仕事のステージががらりと変わり、成功へのキャリアストーリーが始まる。それはもう番組作り上の華のようなもので、また視聴者にとっては必ずあってほしいカタルシスのようなもので、「あぁ、よかった。彼女が報われて」となる。

―――しかし私たちは、この番組をあらかじめ「グラン・ジュテ」があることを知っているからこそ安心して観ていられる。番組は必ずハッピーエンドで終わってくれるのだ(だからこそ、番組化された)。

さて問題は、現実の自分自身の人生・キャリアに引き戻したときである。
自分がいま報われない環境にあったり、苦境やどうしようもない停滞に陥っていたりするとしよう。……この下積み状態はいったいいつまで続くのか?どこまで努力し耐えたら、みずからの「グラン・ジュテ」が訪れるのか?

いや、ひょっとすると、現実の自分の人生・キャリアには「グラン・ジュテ」などは起こらないかもしれない。努力が結果として報われない人生など、周辺にいくらでも転がっているのだ……。

さて、本項はそんなことを前置きとしながら、「努力が報われる人生とは何か」を考えてみたい。

◇ ◇ ◇ ◇

下の図は、投じる努力とそれによって得られる変化を表したものだ。

61201

〈比例変化〉とは、自分の投じた努力に比例して変化がきちんと起こる状況である。
たとえば、語学でもスポーツでも始めたばかりのころは、勉強量・練習量に応じて能力がきちんと上がっていく。

次に〈逓減変化〉とは、努力に対する変化の度合いが徐々に小さくなっていく状態である。
何事もある程度のレベルに上達してくると、何か「カベ」のようなものにぶち当たり、成長が鈍る。そんなときのことをさす。

そして3番目に〈非連続的変化〉
私たちはときに、努力しても、努力しても、状況になかなか変化が表れない期間を経験する。しかし、それでも努力を止めなかったとき、ふと、突然にジャンプアップの変化が起きるときがある。

私は米国に留学したとき、住みはじめた当初はどうしてもヒアリングに難があった。しかし、3ヶ月後くらいに、すぅーっと耳に通ってくる状況(英語の場合は、頭の中で翻訳プロセスを通さず、ダイレクトに英語でものを考えること)が起こる。これは自分の言語能力のレベルがぽんと変わった瞬間である。これが非連続的変化だ。

さて、冒頭に触れた「グラン・ジュテ」(大きな跳躍)―――
これはまさに3番目の非連続的変化のことだ。

また、グラン・ジュテは「過冷却」の現象にもなぞらえることができる。
過冷却とは、「気体や液体をその沸点や融点以下に冷やしてもなお気体や液体の状態にあること」だ。水を例にとると、水を常温からゆっくり静かに冷やしていく。すると、摂氏0度になっても凍らず、マイナス何度という液体の水となる場合がある。この状態を過冷却という。しかし、このとき振動などの物的刺激を与えると、一瞬のうちに水は凍結化する。

つまり、人生におけるグラン・ジュテの直前というのは、過去からの努力の蓄積が、とうに変化を起こしてもよいくらいの量を投じられているにもかかわらず、現象として変化が起きていない―――そんな「過冷却」状態であるわけだ。


私たちは、努力に努力を重ね、何かしらの変化が訪れるのを期待するときがある。そのとき、うまい具合に出来事や出会いが起こるときもあるし、結果的に起こらないときもある。努力が報われるか報われないかは「神のみぞ知る」で、やはり人知の及ばないものなのだろうか。それとも、努力が確実に報われる方法はあるのだろうか……?


下図を見てほしい。

61202


私たちは現在から一瞬先の未来のことは予測できない。
〈パターンA〉のように、あとどれくらいタイミングで、あとどれくらいの努力をつぎ込めば、グラン・ジュテが起きてくれるかはわからない。1年後か5年後か、いや、場合によっては明日なのかもしれない。

いや、ひょっとすると永遠に来ないかもしれない・・・〈パターンB〉

いや、そう考えている矢先、まったく努力などしない隣の能天気人間が、あっさりと成功を収めてしまうことだってある。〈パターンC〉


ちなみに、Cの場合のジャンプアップは、グラン・ジュテというより「ラッキー・リープ」(幸運な跳躍)と名づけるべきものだ。ラッキー・リープした人間は、跳躍した分の中身が伴っていないので、事後にそこを埋める努力をしないと、身を持ち崩すことが多い。


◇ ◇ ◇ ◇

さて、ここから本記事の大事な結論に移ろう。
私たちは、物事を自分の理想に近づけようと努力をする。特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、相当大きな、そして継続的な努力を要する。しかし、その努力が“結果として”報われるがどうかは、残念ながら誰にもわからない。

血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を私たちは周りで多く目にしている。かといって、この世の神様は非情だと嘆いてみてもしょうがない(たぶん神様は非情的でもなく、逆に同情的でもない。人間の情に関係なく、因果に透徹なだけだ)。そうしたことを前提として、大事なことが2つある。

○1つめ:
努力の結果の形が最終的にわからないにしても、
結果を出してやるという執念で努力をする。
つまり「人事を尽くして天命を待つ」の気構えで事に当たること。
結果に執念を持たない努力は惰性になる。

○2つめ:
その努力したプロセスが”意味によって”きちんと報われるようにする。


努力の報われ方には2種類ある。一つは、「結果によって報われる」こと。つまりその努力の後に、何かしら意図する形・状態・金銭・物が得られること。
もう一つは、「意味によって報われる」こと。これは、意味を満たす行為そのものが自分への大きな報酬になっていて、結果いかんに関わらず、すでにやっている最中で報われている、という考え方である。

たとえば、私たちが何かボランティア活動に汗を流したとき、私たちはその行為の結果をあまり気にしない。それをやったことによって、メディアが取材に来てくれたとか、どれだけ世の中を変えられたとか、そういったことは主たる関心ではなく、ともかく自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚える。これが意味によって努力プロセスが報われた姿である。

だから、大事なことの2つめは、努力しようとする行為に意味を付与することだ。
そこに意味を見出しているかぎり、それは「やりがいのある努力」になり、結果がどうあれ自分は報われる。

61203


大切な私たちの時間と労力である。くれぐれも、やることに意味を与えず(つまり、いたしかたなくそれをやり)、しかも結果が何も出なかったというような「最悪の努力」は避けなければならない。

結局、自分のキャリア・人生を「努力が報われる」ものにしていくための根本は、やっていることに意味を与えること、あるいは、やっていることを意味あるようにつくり変えていくこと、に行きつく。

意味を感じていれば、まず、1つ1つのプロセスがその時点で報われる。そして、努力の継続もできる。自分の感じている意味が、ほかの人も感じられるような意味であれば、彼らからの共感や応援も加わる。そうこうしているうちに、自他供の努力の質と量が臨界点を超え、グラン・ジュテはいやおうなしにやってくる!(くるものと信じたい)。

神様は同情的でも非情的でもないが、意地悪でもない。
いや因果に透徹な神様であればこそ、
しっかりとした因をつくれば(神様を動かすことができ)、必ずグラン・ジュテは起こせる!



*   * * * *
【補足の言葉】

「ここまでダッシュと思ったら、最後まで全力で走る。
1m手前で力を抜いたせいで負けることもある」。

                        ───岡田武史(元サッカー日本代表監督)



「かなったか、かなわなかったかよりも、
どれだけ自分が頑張れたか、やり切れたかが一番重要」。
「成功は必ずしも約束されていないが、成長は約束されている」。

                        ───三浦知良(プロサッカー選手)

Related Site

Link