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「成功」と「幸福」は別ものである

5.3.1

年収1000万円の働き手と年収400万円の働き手とでは、
年収1000万円もらうほうが「成功者」だろうか。

利益をあげる大企業で働いていれば「勝ち組サラリーマン」で、
困窮する中小会社で働いていれば「負け組サラリーマン」だろうか。

年収の上がる転職であれば「キャリア・アップ」で、
年収の下がる転職は「キャリア・ダウン」だろうか。


いつしか私たちの社会では、あまりに定量的、功利的な考え方が幅広く支配するようになったために、他人と自分を量的尺度で比較して、「多い/少ない」、「勝ち/負け」、「成功/不成功(失敗)」を峻別し、自分の人生の良し悪しを決めるようになっている。

だが、ここでじっくり見つめなおしてみたいことがある。
それは、他者との比較相対で「多・高・優・強」を獲得した人が、「成功者」であり、それが「幸福」を保障するものなのか。また逆に、他者と比較相対して「少・低・劣・弱」である人は、「不成功(失敗)者」であり、そのことがすなわち「不幸」を意味するのか、という問題だ。

現実社会をみてみると、仕事やキャリアで「成功」している人が、「不幸な」生き方をしているケースは多々ある。同様に、世間の尺度で言えば、必ずしも働き手として「成功者」とはいえないが、実に「幸せな」生き方を実現している人は大勢いる。

そうしてみると、つまり、「成功」と「幸福」は別ものと考えるべきなのだろう。

だが、それはどう整理してとらえればいいのか。
───「成功」と「幸福」の違い。本項ではそれについて考察する。


◆成功/不成功は「定規を当てる」こと
私は成功と幸福の違いを、下の図のようなイメージでとらえる。

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まず左側の『定規モデル』をみてほしい。これは、自分が仕事上で獲得したもの、たとえば、収入とかそれで買ったモノ、あるいは自分の知識や能力、さらには仕事の成果・業績など、有形・無形を問わずそれらのものを、定規(スケール)を当てて、自他で比較して評価することを表している。

その結果、自分の「相対的な位置」が確認できる。他人よりも多く、うまくやっていれば喜び、ほめられ、逆に、他人より少なく、ヘタであれば元気をなくし、責任を問われる。

当てる尺度はたいてい、定量的なものか、単純な定性的なもので、どれも一般化されていて、実行者本人の複雑で繊細な個性価値を表すには粗いものになっている。

しかし結局、世に言う「成功と不成功(失敗)」「勝ち組と負け組」とは、まさにこのような定規による相対的な判別を指しているのではないか。


◆幸福は「器を作り・満たし・分ける」こと
では、幸福とは具体的にどういうことだろう。それを表すのが『器モデル』である。

仕事の幸福は、まず自分の「器」(ポット)をこしらえることから始まる。器の素材や形状は、自分なりでよい。それは、仕事人生に対する、作り手の個性・美意識・価値観の表れだから。

また、こしらえていくうちに、器の大きさは、自然と自分の精神的な懐(ふところ)の深さ、視野の広がり、見えている世界の大きさといったものを反映するようになる。そして、その器は、自分が行う仕事や仕事から得られるもので満たされていく。

ここには作り手の3つの喜びがある。
1つに、器を作る喜び。
1つに、器を満たす喜び。
1つに、満たしたものを他に注ぎ分ける喜び。

これらの喜びが、すなわち「仕事の幸福」なのだ。


◆成功は相対的なもの・幸福は個性的なもの
この2つのモデルから引き出せるように、
成功は、他との比較相対によって生じるもので、
幸福は、自分に絶対軸を据えて、それをもとに生み出すものである。

哲学者・三木清の『人生論ノート』から重要な箇所を抜き出してみたい。

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福は何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。(中略)

純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功主義と結びついている。近代の成功主義者は型としては明瞭であるが個性ではない」。



◆成功は消費される
とはいえ、成功はけっしてネガティブなものではない。働くうえで、成功は当然目指すべきものだ。最初から失敗でよいなどということでは、何事も成し遂げられない。ただ、成功は取り扱いにおいて、注意が必要ということだ。

1つには、成功は点数(多くはお金の量)による評価で決まることが多く、野心や自己顕示欲と結びついて俗的な手垢の付きやすいものになること。ヒルティが『幸福論』に記す下のことは、頭に焼き付けておくべき至言である。

「人間は成功によって“誘惑”される。
称賛は内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を増大させる。
成功は人間の悪い面を誘い出し、不成功は良い性質を育てる」。
「絶えず成功するというのは臆病者にとってのみ必要である」。


もう1つには、成功は一過性のものであり、消費されること。成功は歓喜・高揚感・熱狂を呼ぶが、それは揮発性のもので長続きしない。幸福が与えてくれる持続的な快活さとは対照的である。イギリスの作家スウィフトが、「歓喜は無常にして短く、快活は定着して恒久なり」と言ったのは、まさにこのことなのだ。


◆成功や失敗は糟粕のごときものである
結局、成功を自分のなかでどうとらえればいいのか。渋沢栄一はこう書く。

「成功や失敗のごときは、
ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。

現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、
それよりもモット大切な天地間の道理をみていない、
かれらは実質を生命とすることができないで、
糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである、
人はただ人たるの務を完(まっと)うすることを心掛け、
自己の責務を果たし行いて、
もって安んずることに心掛けねばならぬ」。        ───『論語と算盤』



渋沢栄一は、江戸・明治・大正・昭和を生きた“日本資本主義の父”と呼ばれる大実業家である。第一国立銀行はじめ、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、渋沢が関わった企業設立は枚挙に暇がない。実業以外にも、一橋大学や東京経済大学の設立に加わったり、東京慈恵会や日本赤十字社などの創設を行なったりと、その活躍の幅は非常に広い。

彼のそうした仕事の数々からすれば、「渋沢財閥」を形成するには充分な金儲けができたにもかかわらず、渋沢はそうしたものにはいっこうに関心がなく、亡くなるまで、財産めいたものは残さなかったという。だからこそ、上の言葉は説得力をもってズシンと腹に響く。


◆気がつけば「幸福である」という状態
結局、「仕事の幸福」とは、渋沢の言う“丹精”込めて励みたいと思える仕事(=夢や志、大いなる目的)をつくりだすこと、そして、その仕事を理想形に近づけていく絶え間ない過程に身を置くことにほかならない。

もしそうした仕事および過程に没頭し、自分の全能力を発揮しているなと思えれば、それこそが最上の報酬であり、他者との比較で一喜一憂する自分は消滅しているはずである。

成功や失敗というものは、その過程における結果現象であり、通過点に過ぎない。成功や失敗には、獲得物や損失物を伴うが、そんなものは、真の仕事の幸福の前では副次的なものに思えてくるだろう。

幸福は、それ自体を追ってつかめるものではない。自分が献身できる、自分が意味を込められる何かをこしらえて、そこに没頭する。・・・そしてある時点で、振り返ってみて、「あぁ、自分は幸せだったんだな」と気づく―――それが、幸福の実体に近いものなのではないか。さぁ、器作りを始めよう。



ルビコン川を渡る~夢とは「不退転の明るい覚悟」である

3.6.5



◆夢を抱く時期
人生の「夢」を抱く時期に、私は3つあると思っている。

1つめは少年・少女期。
このころの夢はともかく純粋なあこがれのみで「サッカー選手になる!」「歌手になりたい!」となる。だが、たいていは中学生あたりになると、そんな無邪気な夢を抱いていた自分を恥ずかしく思うようになる。もちろん、そのときの夢を果たす希有な人間だっていることは確かだ。

2つめに学生時代。
「絶対に東大合格!」「司法試験に受かって裁判官になる!」という類の夢を持つ。目標は確かに立派だし、使命感を抱いて真剣に取り組む人はいる。ただ、何が何でも東大、何が何でも司法試験、という人のなかには、とにかく資格試験の最高峰に受かって満足したい、周囲に優秀だと見られたいという願望だけでそこに執着している場合がある。いわゆる「東大浪人」「司法浪人」といったタイプの夢追いは、いまだ成熟していない動機に基づいているように思える(動機が成熟化することが必ずしもいいことだとは一概に言えないが)。

3つめに社会である程度働いてから。
社会に出て何年か働いていると、自分の能力の度合いや適正、組織や社会のからくりがわかってきて、いやおうなしに現実的になる。現実的になればなるほど、可能性は狭まり先が見えなくなる。目の前には、きょうやるべき仕事が山積して、忙しい。「人はパンのみに生きるのか?」という問いへの答えがどんどんかすんでくる。社会人以降、夢を抱ける人は極端に少なくなるのだ。しかし、大人になってから抱く夢こそ本物になる可能性がある。


◆夢・志を抱くのに特別な才能はいらない
私自身、夢を持てない(持とうとしない)人間だった。ところがいまはしっかり夢も志も持っている。それが見えてきたのは30も半ばを過ぎたころからだ。夢や志が見えてくるプロセスは、「キャリアをたくましく拓くために~VITMモデル」(1.6.3)で詳しく述べたとおりだ。

夢や志を抱くことは、誰もが可能だし、特別な才能はいらない。まずはおぼろげでもいいから自分の方向性〈V〉と、目指す像〈I〉を持つこと。そして、それに沿って、自分試し〈T〉を繰り返すこと。そこに意味〈M〉を与えることで行動のためのエネルギーはこんこんと湧いてくる。
小さくてもその形が出来上がれば、情報やチャンスが集まりだす。想いを強めてくれる出会いも起こる。その過程で、自分の方向性や目指す像がますます明確につかめるようになる。そしてそこに感じる意味も強くなってくる。そうなると、「この仕事に生涯腹をくくってもいいな。あ、これが夢ってやつなのかな」と思える状態が近い。これが「VITM」による、夢・志が見えてくるプロセスである。私もそれが30代後半で起こったのだ。


◆退路を断ってこそ
ところで、夢・志には、「本物の夢・志」と「本物でない夢・志」の二段階がある。各自が抱くその夢・志において、本物と本物でないものの分岐点は何だろうか?

―――それは「ルビコン川を渡る」かどうかだ。

「ルビコン川を渡る」とは、不退転の覚悟で断行することを言う。
ルビコン川とは、ユリウス・カエサルが、政敵ポンペイウスの手に落ちたローマを奪還するために、自らの兵を率い、「賽(さい)は投げられた」と叫んで渡った川である(当時、兵軍を伴ってルビコン川を渡ることは国法で禁じられていた)。

その想いが気分的に浮き沈みし、腰の引けた状態での願望である間は、まだ真の夢・志ではない。夢をある種の言い訳にして、ずるずると人生を過ごしてしまう場合がいるが、それはルビコン川を渡っていないのだ。その想いが不退転の挑戦意志となったとき、それが真の夢・志となる。それは次の古典的表現に通じる。

事を成すための真の勇気は
(前進のために)橋をつくることではなく
(後戻りできないように)橋を壊すことである。





* * * * * * * * *
【補足】
Point of No Return


まだ人間が、
この大地が球であることを知らなかった大昔。
水平線の向こうに別の陸地があるかどうかを知らなかった大昔。
大海原へと漕ぎ出していくのは相当な勇気が要ったことだろう。
海の果ては巨大な滝になっているとか、
大蛇が大口を開けて海の水を全部飲み込んでいるとか、
そんな言い伝えに人びとは航海を恐れ、また逆に好奇心も湧かせたりもしたのだろう。

たとえば、新天地を探すために、20日間分の食糧・燃料を積んで航海に出たときの、11日めを迎えるときの気持ちはどんなだろう? つまり、丸10日経つまでは、いつでも引き返そうと思えば引き返すことができる。(帰路分の食糧と燃料は足りるから)
しかし、覚悟を決めて未知の陸地に針路を取り続けるとき、11日めを越えた瞬間から後戻りできなくなる。この11日めをPoint of No Return(帰還不能点)」という。

未知に踏み込む恐怖と、未知を見てみたいという冒険心と、
その狭間に「Point of No Return」はある。

私はサラリーマン生活を止めて、独立しようと思ったときに、自分自身の「Point of No Return」を越えた。まぁ、大昔の人の航海とは違い、独立に失敗したからといって、生命まで落とすわけではないので、後戻りできないときの危険度は小さいのだが。それでも、大なり小なりこの「Point of No Return」なるものを人生の中で経験しておくかおかないかは、精神に大きな違いを生むと思う。


「後戻りできない選択を採る」には、世の中にいろいろな表現がある。

●「背水の陣」;
広辞苑によれば、―――[史記淮陰侯伝](漢の韓信が趙を攻めた時、
わざと川を背にして陣取り、味方に決死の覚悟をさせ、大いに敵を破った故事から)
一歩も退くことのできない絶体絶命の立場。
失敗すれば再起はできないことを覚悟して全力を尽くして事に当たること。

●「to burn one's boats/to burn one’s bridges」;
英語でのイディオムはこんな感じになる。
これは、引き返すための乗り物をなくすという意味で「自分の船を焼く」、
もしくは退路を断つために「橋を焼き払う」といったことだろう。

●「ルビコン川を渡る」;
政敵ポンペイウスの手に落ちたローマを奪還するために、
いったん野に下ったユリウス・カエサルは自軍を率いてルビコン川の岸に立った。
当時、兵軍を伴ってルビコン川を渡ることは法律で禁じられていた。
国禁を犯して川を渡ることは、カエサルの不退転の覚悟を表していた。


人生、調子のいいときは、
イケイケドンドンで前進のための橋をつくることが簡単なときがある。
しかし、真の勇気は、後戻りできないよう後ろの橋を壊すことにある。
「つくる」より「壊す」ほうが、ある意味、難しいのだ。





「成功」の反対は「失敗」ではない

3.6.3


36301

・リスクとは、恐怖心である。
・リスクとは、機会を得るための代金である。
・リスクとは、成果を手にしたときの燃えカスである。
・リスクとは、新しい世界への入場料である。

・リスクとは、“篩(ふるい)”である。
・リスクとは、アイデアの暴走止めである。
・リスクとは、狙う獲物に生えるトゲである。
・リスクとは、臆病心と引き換えで商売が成り立つものである。

・リスクとは、危うさの予見である。
・リスクは、評価する者の心理によって伸縮するものである。
・リスクとは、成功の神が仕掛けるいたずらである。
・行動のリスクもあるし、無行動のリスクもある。



……これら「リスクとは何か?」についての表現は、私が行ったワークショップで参加者たちが考えた一例である。人によりさまざまな定義が出てくるので面白い。

それで本項では、「成功」と「失敗」と「リスク」を考える。この三者の関係を整理してみたい。まず、次の問いである。

36302

「成功」の反意語は?とくれば、たいてい「失敗」を思い浮かべる。だが、はたしてそうだろうか。そんなとき、エジソンのこの言葉はとても重要なことを教えてくれる。

    「私は失敗したことがない。うまくいかない1万通りの方法を見つけたのだ」。

失敗は成功までの一つの過程であって、それによって得た経験知は成功までの土台になる。それは大切な「資産」である。成功によって得る獲得物も、もちろん「資産」。だから、成功も失敗も資産側に計上すべきプラス価値のものである。

では、対置するマイナス価値のものは何か?
───それは、「何もしなかったこと」
臆病心か怠慢心から、座してその機会を見送ったことである。

36303



確かに、私たちは「跳ぶ」(=何か行動で仕掛ける)ことを怖がったり、面倒がったりする。しかし、そのときに意識すべきは、跳ぶことにリスクはあるが、跳ばないことにもリスクがあることだ。

36304


「跳ぶリスク」と「跳ばないリスク」、どちらが大きいだろう?
そしてどちらが負うに値するリスクだろう?
私が考えるのは次の図である。

36305


成功にせよ、失敗にせよ、勇気をもって行動を起こせば、何らかの資産(獲得物、経験知、感動、自信、人とのつながり等)が必ず蓄積される。そして、その中に必ず次の行動の「種」が見つかる。そしてもっと「跳ぼう」と思える循環が出来上がってくる。これが「勇者の上り階段」

逆に、何もしないことに安住すると、どんどん機会損失は増え、後悔は蓄積され、時間は消費され、臆病癖、怠慢癖が自分に染みつく。「臆病者の下り階段」が知らずのうちに出来上がるのだ。


    「勇気は自信に先行する」。───西堀栄三郎



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