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読書の3種類 ~啓発・獲得・娯楽

2.2.3


読書という名の深呼吸をしよう。
おおきくすえば、おおきくはける。
ふかくはけば、ふかくすえる。



人の思考は、みずからが読んできたものに相応して、
大きくもあり小さくもある、深くもあり浅くもある。

だから、深い次元の本を求め、深く汲み取ろうと努力を続けていくと、
自分が読み・書くものもじょじょに深さを得ていく。

また、大きな内容を読み・書こうという意欲をもてばもつほど、
大きな本と出会えるようになる。
(どんな本が真に大きな本なのかが見えてくるようになる)

本(=著書)とは不思議なものだ。
本は、その書き手の知識体系や観念世界、情念空間をまとめたものである。

読み手にとっては、自分の外側にある1つのパッケージ物なのであるが、
それがひとたび読書という行為を通じて、自分の内面に咀嚼されるや、
自分の新たな一部となって、自分の知識体系・観念世界・情念空間をつくりかえる。
これが本の啓発作用というものだ。

その意味では、読書は飲食と同じである。
良い食事は、良い身体をつくり、動くエネルギーとなる。
良い読書は、良い精神をつくり、意志エネルギーとなる。

本は、自分の外側にある一つの縁であり、
それを摂取することによって自分の内側を薫らせるものだ。


◆「啓発の読書」
私は、読書の役割を主に次の3つで考える。

  〈1〉啓発の読書
  〈2〉獲得の読書
  〈3〉娯楽の読書

1番めは冒頭触れたとおりだ。啓発とは「開き・起こす」ということである。
「啓発の読書」の開き・起こすメカニズムは図に示すとこんな感じだろうか。

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私たちは、まず本を開いて文章を読んでいく。
最初は〈1〉「著者の表現世界の中を泳ぐ」わけだ。
そうするうち、著者の伝えてくる内容が、自分にまったく新しかったり、
既存の考え方と異なったりして、〈2〉「自分の中の知の体系に揺らぎが起こる」

揺らぎを覚えた自分は、それを排除するか、それを取り込んで、
〈3〉「新しい知の体系を再構築しようとする」。そして、
〈4〉「その再構築した体系であらためて著者の書いていることを咀嚼しようと試みる」

図に表れているとおり、啓発の読書によって2つの円が大きくなる。
1つは、〈2〉→〈3〉で、自分の中の知の体系が再構築され大きくなる。
これは言わば、自分の内側につくられる「知を受け取る器」が大きくなったことである。
それに伴って、〈1〉→〈4〉で、その本を咀嚼できる力が増す。
最初、読んだときは〈1〉の力でしか読めなかったものが、
自分の中の知を受け取る器が大きくなることで、〈4〉の力で読めるようになったのだ。

このように、啓発の読書の場合、
本が自分を大きくしてくれ、大きくなった自分が、
その本をより大きく読めるようになるという相互の「拡大ループ」ができあがる。

したがって、いくら良書・偉大な本を読んだとしても、
「なんだ、この程度か」と思う人と、
「やっぱりすごいな、この本は!」と思う人と、差が出る。
本というのは、自分が内面に持っている器次第で、大きくもなり小さくもなる。
分厚くもなり薄っぺらにもなる。財(たから)にもなれば、紙ゴミにもなる。


◆「獲得の読書」「娯楽の読書」
次に、2番めの「獲得の読書」について。
獲得の読書とは、情報獲得、知識獲得、技術獲得のための読書をいう。
たとえば、
市場調査のためにさまざまな白書や購買データを読む。
新しい業務の知識を得るために、その分野の専門書を読む。
資格試験のために、技術の解説書や習得マニュアルを読む。

これらの読書は、図に示したように、
情報・知識・技術といった固まり・断片を1つ1つ集めて積んでいくものである。
その集積は、ヨコに広がったり、タテに重なったり、奥に伸びていく。
この集積ボリュームが複雑で大きい人を、博識とか達者と呼ぶ(「オタク」な人もそう)。

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最後、3番めの「娯楽の読書」について。
娯楽の読書は、自分を啓発しようとか、何か知識・技術を得ようとか、そういう
目的はなく、ただ、楽しみのために読む行為をいう。
極端に言ってしまうと、読了後に何かが残らなくてもいい、
その経過時間が心地よければいいというものだ。

娯楽とは、英語では「pastime」と書く。
まさに「時間を経過させる=ヒマつぶし」。

この場合の読書の様子は、図のとおり、刺激の上下を楽しむだけだ。
たとえば、サスペンス小説を読むとき、
ハラハラがあり、ドキドキがあり、最後にクライマックスを迎えて終わる。

私は読書をこのように3種類に分けるが、
すべての読書がきっちりこのいずれかに収まるとはいえない。
たいていは3つの混合である。
娯楽として小説を読んだとしても、その小説から啓発を受けて自分の知の体系
が広がることもあるだろうし、何かの知識が増えることもあるからだ。


◆個と社会に必要な「啓発の読書」力
さて、もっとも有意義であるが、もっとも力を使うのは、言うまでもなく「啓発の読書」だ。
個人においても、社会全体においても、この読書に向かう意欲が弱まっていることを感じるのは
私だけではないと思う。

社会や時代をつくるものは、経済や文化、教育、政治、宗教などいろいろある。
しかし、その根本は、個々人に宿る「エートス」ともいうべき、気風・精神性にある。
活き活きとした健全なエートスは「啓発の読書」なしには醸成されない。

個々人が古今東西の書物と一人向き合い、自分の内側を開き・起こさないかぎり、
経済、文化、教育、政治、宗教からの施策などは、うわすべりするだけで、
じゅうぶんな効果は出ない。

日本人はたいていが「読み・書き・そろばん」はできる。
しかし、読むことを通して、自分を耕し、強くすることをどれだけしているだろう。
パソコンやスマートフォンの普及で、仕事場でも電車の中でも、
「読む量」は減っていないという分析がある。
確かに「獲得の読書」「娯楽の読書」は、むしろ盛んになっている。
たが、「啓発の読書」は敬遠され、多くの人はそこから逃げたがっている。

良書を一冊手に取って、著者の表現した世界を鑑(かがみ)にして自分の世界を
豊かに掘り起こすという負荷作業がどこか面倒なのだろう。
世の中には、負荷なしに享受できる心地よいだけのモノ・サービス・コンテンツは溢れている。
しかし、負荷を嫌ってばかりいたら、いつ負荷に立ち向かうというのか

そうするうち、現実生活の悩みや苦しみ、不遇や事故などの負荷に遭遇して、
「もう生きるのがいやだ」ということになるのだろう。

私はいま、この歳になって、石川啄木の『一握の砂』を読み返している。
あれだけの才能に恵まれながら、けっして報われることのなかった26年の生涯。
啄木の自身に懊悩し、時代を先駆け、運命に抗おうとし抗いきれない吐露を
彼の文字の中から汲み取れば汲み取るほど、私は力を得る。
『一握の砂』は物としては、500円前後で買える薄い文庫本である。
しかし、ここからは、ほぼ無尽蔵のものが耕せる。
読書とはなんと手軽で安上がりな、しかし偉大な心の鍛錬機会だろうか。

個と社会にとっていつのときにも大事なもの───それは「啓発の読書」力。





王国一賢い男か・王国一ハンサムな男か

5.3.5


「王国一賢い男になるよりも、王国一ハンサムな男になるほうが魅力的だ。
なぜなら、知性を理解する洞察力を持っている人間よりも、
目を持っている人間の方がはるかに多いからである」。



ウィリアム・ハズリット(19世紀英国の批評家)が吐いたこの警句には、思わずにんまりと肯定させられる。

道を究めれば究めるほど、そこは細く深い世界になっていく。
必然、その世界を評価できる人間は少なくなる。

道を究めようとする者の最大の誘惑は、
「多くの人間に認められたい」という欲求かもしれない。

しかし、そうした欲求を満たしたいなら、道を究めるよりほかの術をとったほうがいい。
「大衆から人気を得る」というのは、少し別のところの才能なのだ。

* * * * *

江戸時代の文人、大田南畝(おおた・なんぼ)は、『浮世絵類考』の中で、
浮世絵師、東洲斎写楽についてこんな記述をしている。

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「あまりに真を画かんとて
あらぬさまにかきなせしかば
長く世に行われず 
一両年にして止む」


……あまりに本質を描こうと、あってはならないように描いたので、
長く活動できずに、1、2年でやめてしまった、と。

東洲斎写楽。寛政6年(1794)、豪華な雲母摺りの「役者大首絵28枚」を出版して、
浮世絵界に衝撃デビューした彼は、翌年までに140点を超える浮世絵版画を制作したものの、
その後、忽然と姿を消した。

東洲斎写楽のあの大胆な構図の「役者大首絵」は、現代でこそ、
高い美術的価値が付いている(残念ながら最初に高い価値を与えたのは海外の国であるが)

ご存じのように、写楽の絵は、描き方がいびつ(歪)で、
あまりに歌舞伎役者の特徴をとらえすぎていた。
このことは、歌舞伎興行側・役者側からすれば好ましくないことだった。

彼らは「大スターのブロマイドなんだから、もっと忠実に、もっと恰好よく」を望んだ。
同時に、観客である庶民からもその絵は人気が出なかった。
お気に入りの役者のデフォルメされた絵など買いたいと思わなかったからだ。

版元の蔦屋重三郎は才能の目利きだったかもしれないが、
版元も商売でやっている以上、当然、多く売れるように仕向ける。
写楽に「もっと写実的に描けないか」と圧力をかけたことは容易に想像できる。

事実、「役者大首絵28枚」以降の写楽の絵はごく普通のものとなり、
明らかに生気を失くし、陳腐なものに堕していく。

写楽は非凡なる絵の才能を持ち、非凡なる絵を描いた。
無念なるかな、同時代の大衆はそれを評価できなかった。

写楽ほどの才能をもってすれば、
大衆好みのわかりやすい絵をちょこちょこと描いて、食っていくこともできたかもしれない。
しかし、それは自分をだますことになるという気持ちが強かったのだろう。

写楽のその後の人生は詳しくわかっていない。
一説には、人知れず画業の道を貫き生涯を終えたとも。

* * * * *

アメリカの音楽産業は1960年代からオーディオ製品の普及に伴って、一気に拡大を見せる。
音楽レコードはもはや一部の金持ちの趣味品ではなくなり、大衆商品になりつつあった。
その起爆剤になったのが、ロック音楽の台頭である。
1940年代からジャズ音楽界入りし、円熟の技が冴えるマイルス・デイビスもその渦中にいた。

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以下は、『マイルス・デイビス自叙伝〈2〉』
 (マイルス・デイビス/クインシー・トループ著、中山康樹訳、宝島社文庫)
からの抜粋である。


1969年は、ロックやファンクのレコードが飛ぶように売れた年で、
そのすべてが、40万人が集まったウッドストックに象徴されていた。
一つのコンサートにあんなに人が集まると誰だっておかしくなるが、
レコード会社やプロデューサーは特にそうだった。

彼らの頭にあるのは、どうしたら常にこれだけの人にレコードが売れるか、
これまで売っていなかったとしたら、
どうやったら売れるようになるかだけだった。

オレの新しいレコードは、出るたびに6万枚くらい売れていた。
それは以前なら十分な数字だったが、この新しい状況となっては、
オレに支払いを続けるには十分なものじゃないと思われていた。

1970年に『フィルモア・イースト』で、
スティーブ・ミラーというお粗末な野郎の前座をしたことがあった。
オレは、くだらないレコードを1、2枚出してヒットさせたというだけで、
オレ達が前座をやらされることにむかっ腹を立てていた。
だから、わざと遅れて行って、奴が最初に出なければならないようにしてやった。
で、オレ達が演奏する段になったら、会場全体を大ノリにさせてやった。


『フィルモア』に出ていたころ、ロックのミュージシャンのほとんどが、
音楽についてまったく知らないことに気づいた。
勉強したわけでもなく、他のスタイルじゃ演奏できず、楽譜を読むなんて問題外だった。
そのくせ大衆が聴きたがっている、ある種のサウンドを持っているのは確かで、
人気もあればレコードの売り上げもすごかった。
自分達が何をしているのか理解していなくても、
彼らはこれだけたくさんの人々に訴えかけて、レコードを大量に売っている。
だから、オレにできないわけがないし、
オレならもっとうまくできなきゃおかしいと考えはじめた。


オレには創造的な時期ってものが、いつだってあるんだ。
「イン・ア・サイレント・ウェイ」から始まった数年間は、
1枚1枚のレコードで、まったく違うことをやっていた。
どの音楽も、すべて前よりも変わっていたし、誰も聴いたことがないことをやっていた。

だから、ほとんどの批評家連中が手を焼いたわけだ。
連中は分類するのが好きで、わかりやすいように、
自分の頭のどこか決まった場所に押し込んでしまう。
だからしょっちゅう変化するものは嫌われるんだ。
何が起きているのか一所懸命理解しなきゃならないし、
そんなこと連中はしたがらない。

オレがどんどん変化しはじめると、やってることがわからなくて、
連中はこき下ろしはじめやがった。
だがオレには、批評家が重要だったことなんか一度もない。

やり続けてきたことを、そのままかまわずにやり続けるだけだった。
今だってオレの関心は、ミュージシャンとして成長すること以外にないんだ。


1971年には、ダウンビート誌でジャズマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれて、
バンドもグループ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
オレはトランペット部門でも1位になった。

オレだって賞をもらってうれしいのは事実だが、
特別大喜びするような類のものじゃないってことも確かだ。
音楽の中味と賞は、関係ない。


(1986年に)オレはホンダのバイクコマーシャルにも出たが、
そのたった一つのコマーシャルが、オレの名前を広めるという意味では
今までにやったどんなことよりも大きな効果があった。

黒人も白人もプエルトルコ人もアジア人も子供も、
オレが何をやってきたかをまったく知らない、オレの名前すら聞いたこともなかった連中が、
通りで話しかけてくるようになった。
チクショー、なんてこった! これだけの音楽をやり、たくさんの人々を喜ばせて、
世界中に知られた後に、オレを人々の心に一番強く印象づけたのが、
たった一つのコマーシャルだったなんて、クソッ。

今この国でやるべきことは、テレビに出ることだ。
そうすれば、すばらしい絵画を描いたり、
すばらしい音楽を作ったり、すばらしい本を書いたり、
すばらしいダンサーである誰よりも、広く知られて尊敬されるんだからな。

あの経験は、才能もなく、たいしたこともできない奴が、
テレビや映画に出ているというだけで、
スクリーンに現れない天才よりも、はるかに称えられ尊敬されるってことを教えてくれた。


* * * * *

純粋に己の創造を追求する者にとって、
心の奥の悪神はたびたびこうささやく───

「道を究めるなんていう高尚な生き方もなるほどけっこうだ。
しかし、賢くたって、深い世界を知ったところで、食えなきゃしょうがない。
食えなきゃ敗者だ。
大衆にモテることさ。食うのがラクになるってもんだ。

もう一度訊こう。
おまえさんは、“王国一賢い男”にも、“王国一ハンサムな男”にもなれる。
さぁ、どちらを選ぶかね?」と。



創造的に逸脱する力 ~『Kind of Blue』ライナーノーツから

3.7.6


376_md_kob_01CD棚からマイルス・デイビスの名盤『Kind of Blue』(1959年)を取り出し久しぶりに聴いている。アルバムの中に入っているライナーノーツに、ピアノで参加しているビル・エヴァンスが小文を書いている。

いま、この“IMPROVISATION IN JAZZ”(ジャズにおける即興性)と題された小文を読むと、何とも響いてくる。エヴァンスの言っていることに対し、ようやく私の受信機レベルが受け入れ可能状態になったのだろう。名文や名著の類は、受信側の心に準備ができたときはじめて、行間から光が射してくるものである。

エヴァンスの書き出しはこうだ……

“There is a Japanese visual art in which the artist is forced to be spontaneous. He must paint on a thin stretched parchment with a special brush and black water paint in such a way that an unnatural or interrupted stroke will destroy the line or break through the parchment. Erasures or changes are impossible. These artists must practice a particular discipline, that of allowing the idea to express itself in communication with their hands in such a direct way that deliberation cannot interfere.

The resulting pictures lack the complex composition and textures of ordinary painting, but it is said that those who see well find something captured that escapes explanation. ”

376_md_kob_02「芸術家が自発的にならざるを得ない日本の視覚芸術がある。芸術家は薄く伸ばした羊皮紙に特別な筆と黒い水彩絵の具を使い描かなければならない。その際、動作が不自然になったり中断されたりすると、線や羊皮紙が台無しになってしまう。線を消したり変えたりすることは許されない。芸術家は熟考が介入することのできない直接的な手法を用いて、手とのコミュニケーションによりアイデアにそれ自体を表現させるという特別な訓練を受けなければならない。

その結果生まれる絵は通常の絵画と比べて複雑な構成や質感を欠くが、見る人が見れば、説明の要らない何かを捉えていることが分かるという」。  (訳:安江幸子)



エヴァンスは紙という二次空間に筆を打ちつけていく書と、
時間という流れの中に旋律を放っていくジャズ音楽と、
どちらも後戻りのできない即興性に、その芸術的な妙味を見出している。

即興とは、適当や出鱈目(でたらめ)とは違う。
「創造的逸脱による個の表現」であって、そこには

 1)創造を司る基本技術の習熟
 2)逸脱の勇気
 3)そして何度やってもそこに貫通する個のスタイル

がある―――それが即興だ。

私は「キャリアとは何か・働くとは何か」を教える職業に就いてから
「キャリア形成はジャズ音楽に似ている」と言ってきたが、
その角度で読むと、このエヴァンスの小文はじんじんと響いてくる。

ジャズ音楽や書を「単発・即興性」の芸術とするなら、
クラシックの交響曲演奏や油絵は「反復・重層性」の芸術と言っていいかもしれない。

前者は原則、一筆書きで作品を仕上げ、やり直しがきかない。一発勝負の世界だ。
逆に後者は、入念に何度もリハーサルをやったり、下書きを描いたりし、
音を重ね、色を重ね、筆を重ね作品を組み立ててゆく。
時間と空間を往ったり来たりできるので大作も可能になる。その意味で反復・重層的なのだ。
これはどちらが良い・悪いという問題ではない。
どちらを意志的に選んで作品づくりをするかという問題だ。

人生やキャリアも言ってみれば、
“生き様・働き様”という一つの壮大な作品づくりであるが、
その創作過程は、「ジャズ・書」的にやるか、「交響曲・油絵」的にやるかの選択だといえる。

会社員として組織の中で働き、ある程度軌道に乗った事業の下で担当仕事を任されるのは、
「交響曲・油絵」的である。
指揮者に相当する中心者がいて、各自が役割を負い、各自が大小の業務を重ねていって、
漸進的に事業を競争力のあるものにしていく。このとき多少の失敗も許容される。

しかし、私のように個人で独立して新規に事業を始めると、そうはいかない。
自分の一挙手一投足が、即、事業に影響する。
下手をやっても後からの重ね修正はできないし、組織が守ってくれるわけでもない。
私にとっては、一回一回の研修プログラム、
一度一度のコンサルティング、一冊一冊の著作、一片一片の記事が勝負作品になる。
そこで評価されないと、次はない。

五年後にきちんと事業を安定化できているのか、それはわからない。
一年後、この商売を無事続けていられるかさえもわからない。
(無計画に事業・キャリアを進めているというわけではなく)

しかし、常に一瞬先の未知で白紙の空間に、
自分の信ずるところのサービスを打ちつけていく―――それしか仕事がない。
そういった意味で、いまの自分のキャリアは「ジャズ・書」的である。
自身がそういう状況にあるからこそ、
余計にジャズ音楽に惹かれ、エヴァンスの文面に過剰に反応してしまうのだとも思う。

再び彼の文章を引用すると……

“Group improvisation is a further challenge. Aside from the weighty technical problem of collective coherent thinking, there is the very human, even social need for sympathy from all members to bend for the common result. This most difficult problem, I think, is beautifully met and solved on this recording.”

「グループ・インプロヴィゼーションは更なる難問である。全体における重要な技術的な問題とは別に、全メンバーが共通の結果を目指すべく心を一つにしなければならないという、非常に人間的で社会的ですらある必要性がある。この最も難しい問題は、思うに、この作品においては非常に美しく対応され、解決されている」。



一人のアーティストの即興創作ですら容易ではないのに
それが複数のアーティストの協働となると難度が増すことは明らかだ。

このアルバムに限って言えば、参加アーティストが
マイルスにエヴァンス、そしてコルトレーンにキャノンボール・アダレイである。
それはいいものが出来るに決まっていると思われるかもしれない。
しかし、そういった超一級のタレントが集まったときほど簡単にまとまるものではない。

そういえばその昔、『WiLL』という共同ブランドプロジェクトがあった。
トヨタ自動車や花王、アサヒビール、松下電器産業(現パナソニック)、近畿日本ツーリストなど
錚々たる企業が取り組んだが、案の定、うまくいかなかった。
(取り組みには敬意を表したいが、ビジネスにおける協働は、いかんせん損得勘定や立場の違いが壁となる)

結局のところ、複数の手による即興芸術の要は、
エヴァンスの指摘するように
the common result(共通の結果)」に対する「sympathy(共感)」なのだ。
しかし、そのsympathyという言葉の美しさとは対照的に、
実際メンバーたちがやっていることは“殴り合い”である。

というのも、例えば『Kind of Blue』の演奏収録において、指揮者はいない。
もちろんマイルスはリーダー的な存在だが、
いざ演奏が始まれば彼はトランペットの演奏に集中するだけで、
他のプレイヤーにどうやれこうやれとは指図などしない。他も同じだ。
あるのは、音が現在進行形で弾き出されていく中で、
各プレイヤーが、ときにキーやコードを“創造的に逸脱”して、
他のプレイヤーに仕掛けたり呼び込んだり、その研ぎ澄まされた感性と技の殴り合いなのだ。

しかもマイルスは、何を演奏するかを示唆した“草案(sketches)”を
本番収録の数時間前に持参しただけである。
どの曲もいまだかつて完奏されたことがないものだ。
そこには事前の熟考や擦り合わせ、事後の塗り重ねなどない。出たとこ勝負の掛け合いである。

ジャズや書は言ってみれば「ハイリスク・ハイリターン」の創作である。
神がかり的な名作が生まれ出る一方、駄作も山積みされる。
それに対し交響曲演奏や油絵は「ローリスク・シュア(手堅い)リターン」かもしれない。
リハーサル練習や下書きなどによって失敗のリスクを減らし、完成状態に目途をつけ、創作がスタートする。

* * * * *

いま日本の働き手、特にプロフェッショナルを意識する人に強く求められるのは、
ジャズ的な即興的創造の力ではないか。
即興的創造の力で重要になってくるのは、次の3つである。

1)創造を司る基本技術の習熟
2)逸脱の勇気
3)個のスタイルを貫通させる意志

日本人が主としてやっている働き方は、
「組織の力で没個性的に、型にはめて、枠の中で、根回しをして、中心者に従いながら」である。
それは、ジャズ的な即興創造とは反対のものばかりである。

例えばプロスポーツのサッカーにおいて、ほんとうに強いチームというのは、
ブラジルとかイタリアとか、あるいは組織的と言われるドイツでさえも、
このジャズ的な即興的創造の力によって、最終的に勝利をつかみ取る。

現代サッカーは、戦略・戦術の研究、データの分析などによって
相手のよいところを消し、守備的にはどこも互角に戦えるようにはなってきている。
しかし、最後、試合に勝つためには誰かが球をゴールに突き刺さねばならない。

私は、サッカーにおいて(特に)攻撃は、ジャズセッションだと思っている。
球のゆくえによって状況が刻々と変わる時空間で、複数のプレイヤーが、
瞬間瞬間に予測をし、判断をし、肉体を操り、筋書きのない即興的創造を行っているのだ。

球を保持しているプレイヤーは次の仕掛けを閃光のごとく考える。
球を保持していないプレイヤーはスペースに走り込む気配を放ってパスを呼び込む。
彼らは感覚と肉体を研ぎ澄ませて目に見えない殴り合いを(味方同士で)やっている。
“the common result”である「勝利」という栄光に「sympathy」を持ちながら。

私もサッカー少年だったのでよくわかるのだが、
守備の固い敵陣のペナルティーエリア近辺から、独り切り込んで局面をつくることは
ほんとうに難しいことだし、何よりも怖い。

茶の間のファンが、
「なんでそこでパスするんだよ」とか「逃げるな、シュートを打て」とか、
「だから日本は決定力がないんだ」とか、そうコメントすることは簡単だ。
しかし、そう批評する個人も、例えば自分の職場で難しい状況に遭遇したときに、
独り勇気をもって局面を打開する創造力があるだろうか。

創造的な逸脱をするには相当な勇気が要る。
勇気だけではダメで、そもそもの基本ができていなくてはならない。
そして、最後まで自分の信ずるスタイルを依怙地なまでに貫くことも大事だ。

スポーツにせよ、ビジネスにせよ、私生活にせよ、
先行きの予測できない不安定な状況に身を置いても自分をしっかりと保ち、
流れの中から状況を、しかも個の表現としてつくりだす、そしてそれを面白がる
―――そんなたくましきマインドがいまの日本人(特に若い世代)にもっともっとほしい。

日本人は古来、形式を重んじ、型や枠に沿って行動するところに美意識を見出してきた。
しかし、伝統芸能の世界で口にされる「守・破・離」という言葉が示すように、
「守」は修行のほんの第一段階でしかない。
師は弟子たちに、あくまで「破り離れよ」と教えているのだ。
「破・離」とは、予定調和の創造的破壊、既定路線からの創造的逸脱にほかならない。

創造的に逸脱するたくましさを涵養するために、
社会ができること、家庭ができること、学校ができること、職場ができることは何だろう?
―――たぶんその答えもまた型どおりの教育方法ではだめなのだろう。
そのために、教育サービスづくりを生業とする私も創造的逸脱を楽しみながら
アイデアを生み出し実行していきたいと思っている。



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