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いま、あらためて「夢・志」考

1.5.3



【考える材料1】
夢を語ることが野暮になった?



夢や志はいまや死語、というか人をシラけさせる禁句になりつつあるのだろうか。私は企業内研修を生業とし、普段、さまざまに会社員、公務員たちと接している。研修の場で「みなさんの夢は何ですか?」などときいてみるのは野暮なことのように感じる。ほとんどの人は苦笑いをして「いまさら、なんでそんな質問を?(それより、目の前にやらなきゃいけない仕事が山積している。きょうは、それをいかに効率的に処理するかのスキルを覚えさせてくれる研修じゃなかったの?)」といった反応だ。

だが、そこをあえてゴリ押しできいてみる───「あなたの夢は何ですか」と。「マイホーム」という返答は依然多い。「田舎暮らし」とか「海外移住でのんびり」なども続く。そうした庶民派の夢に対し、「ITベンチャーを起業して一攫千金当てたい」といった野心派の夢が少数出てくる。また、「発展途上国で学校をつくる」といった正統派の志もまれに遭遇する。いずれにせよ、社会人となって仕事を5年や10年、20年とやりだすと、夢や志を語る口は次第に閉ざされがちになる。

夢を語り合う場というのは、本来的には希望に満ちて明るい雰囲気になるはずだが、どうもそうではない。大人にとって夢を口に出すことは気後れすることである。「あなたの夢は何ですか?」ときかれて、「特にありません」と言うのも体裁が悪い。無難に「マイホーム」と答えてみれば、あぁ、自分は小市民的とか即物的とか思われてしまったかなと胸中にざわざわと残物が引っかかる。大言壮語を吐けば、偽善的に聞こえたりしないか、理想主義者の戯言に聞こえたりしないかと、これまた気にかかる。ともかく、夢は敬遠したいテーマなのだ。

ちなみに、企業内研修をやっていて、特に20代に対して感じることだが、多くの彼らは夢や志を描くことからは遠い。が、「成長したい」という欲求は強い。正確には、「成長しないことへの焦り」を強迫的に感じている。ルーチン仕事の繰り返しで、新しいスキルや経験知が積み上がっていかないことに恐怖感があるのだ。逆に言えば、断片的にでも何か知識・技能が身につくことが普段の職場で起こっていれば、彼らはとても安心する。


「あなたの夢は何ですか?」という問いに無垢に反応できるのはいつくらいまでだろう。小学校低学年のころなら、「プロサッカー選手になってW杯に出る!」「宇宙飛行士になりたい!」と素直に言えた。それがいつしか、中学生にもなると現実の社会と現実の自分がわかってきて、子どものころの純粋な無知さ加減を気恥ずかしく思う。それ以降、他人の前では夢などということを口にしなくなる(もちろん、私を含め一般の多くの人間はということで、幼少のころから夢を抱き、成就させる人間はいる)。

実は有能で意欲の高い人間が、「夢」という言葉を毛嫌いしている場合がある。「夢=現実味のない絵空事」「ドリーマー=現実可能性の低い願望に漂っているだけの人」というイメージを持っているからだろう。以前、研修で次のように言う受講者がいた───「僕は夢を語れと言われるのが嫌いです。夢追い人と思われたくないので。でも、目標は持っています。実行したい目標なら言えます」。

夢・志という言葉のとらえ方は人によって異なり、意味的な広がりがある。それを図にしてみた。

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図のタテ軸は「想いの強弱度」を表わしている。心理レベルでみれば、夢は「願望」という漠然とした状態から「決意」「覚悟」という段階に強くなっていく。行動レベルとしては、最初は無垢な「熱中」から始まり(この段階では実現化に対する深慮はない)、次いで、現実化を考えた「模索」状態に入る。ある段階から本格的な成就活動へと進み、最後は戦いとなる。当然、自分にかかるリスク負荷も「小さい」から「大きい」へと変化していく。

図のヨコ軸は、夢を抱く意識が「閉じている」か「開いている」かである。夢には利己的なものと利他的なものと2つの性質がある。前者は「自分は何になりたい/何を手に入れたい」という意識になるし、後者であれば「世の中や他者のために、自分をどう使っていきたいか」という意識になる。

図にはいろいろな夢の具体例を配置した。



夢にはこのようにレベル差や意識差があるが、いろいろあってかまわないと思う。ただ、そんな中で、「本物の夢」というべきものはあるのではないか。夢を「本物の夢」にするのは、

―――「ルビコン川を渡る」かどうかだ。

「ルビコン川を渡る」とは、不退転の覚悟で挑戦することを言う。ルビコン川とは、ユリウス・カエサルが、政敵ポンペイウスの手に落ちたローマを奪還するために、自らの兵を率い、「賽(さい)は投げられた」と叫んで渡った川である。当時、兵軍を伴ってルビコン川を渡ることは国法で禁じられていた(つまり、カエサルは川を渡った瞬間に罪人となるのだ)。

内に抱く想いが「ルビコン川を渡る」ほどの不退転の挑戦意志となったとき、それが「本物の夢」となる。それは次の古典的表現に通じる。

  事を成すための真の勇気は
  (前進のために)橋をつくることではなく
  (後戻りできないように)橋を壊すことである。

ちなみに私は、「本物の夢とは、不退転の明るい覚悟」だと思っている。



下の図は、夢・志なるものをカテゴリー的に表わしたものである。

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「夢」という言葉にネガティブなニュアンスがあるのは、おそらく、夢をある種の言い訳にして、ずるずると人生を過ごしてしまう人がいたり、想いが気分的に浮き沈みし、腰が引けた状態で願望をあれこれ言うだけの人がいたりして、そんな人たちを批評する気持ちから生まれているのかもしれない。

だが、夢は強弱幅広い含みをもっていてもよいもので、夢のすべてにおいて「ルビコン川」を渡るべきということでもないだろう。ルビコン川の手前で(つまり覚悟を決めない、リスクの小さい範囲で)、ささやかに抱く夢もけっして悪いものではないと思う。「手の届きそうなあこがれ」や「モラトリアム的夢想」は、世知辛い日々に、やはり希望や張りや目標を与えるものであるからだ。また「できるところからの良心」的な夢は、利他的な活動をライフワークにすることでもあり、尊い志であると思う。

とはいうものの私は、人生に一度はルビコン川を渡る挑戦を強く勧めたい。私自身、独立起業というルビコン川を渡ってほんとうによかったと思っている(いまだ奮闘は絶えないが)。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【考える材料2】

等身大の生活で十分に幸福だから、壮大な夢や志は必要ない


私は研修の中でも、「働くとは何か」といったテーマを扱う内容をやっている。そうした内省的な研修をやっていると、受講者の中から「働くことにそんなに夢や志が必要なのですか。働く意味や価値といった高尚なことを考えなくてはいけないのですか。それより、わたしは真面目に働いて家族を養い、家庭生活を大切にしています。日常の身の丈の喜びがあるので、あえて仕事で夢を追ったり、仕事好きにならなくてもよいと考えています」といった声が出る。

こうした問いに対し、私は次の2つの観点で自分の考えを伝えている。

1つめに、
「夢を持っていない生き方が正しいか/正しくないか」は他人にきく問題ではない。むしろ自分自身にこう問うてみたらどうか───「夢を持っていない生き方を(自分が)美しいと思うか/美しくないと思うか」と。夢や志を抱くかどうかは、あくまで自分自身の生きる美意識の問題なのだ。

2つめに、
働き方・生き方は、人それぞれのサイズがあってよい。グローバルな舞台で大きなプロジェクトに関わっていくことを選んでもよいし、一地方にしっかりと根を張り、自分の目と手の届く範囲できっちり仕事をまっとうしていくことを選んでもよい。「身の丈」というサイズの生き方は、実は、私自身も選んだ道である。起業を決意したときに、けっして規模を追う事業はしない。外的な拡大より内的な進化・深化を追求したい。そのために等身大のビジネスでよいと腹を据えた。それはいまも変わっていない。

私たち自身が問うべきは、働く舞台のサイズではなく、働く意識が「利己に閉じているか/利他に開いているか」だ。

私は研修の中で『自分は何によって憶えられたいか』というワークをやっている。これは次のピーター・ドラッカーの書いた一節からヒントを得たものだ。───「私が13歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、『何によって憶えられたいかね』と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。『今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ』」。 

ワークシートは次のようになっている。

Q:
私は50歳になったとき、
「〇〇〇」によって/「〇〇〇」として、
(周囲に・家族に・社会に)憶えられたい。



つまり、キャリアの集大成ステージに入る50代を想像して、そのときまでに自分の存在意義をどう打ち立てていたいかという長期視点でのおおいなる目的を考えるものだ。「〇〇〇」の中に自分の言葉を入れるわけだが、多くの人は手こずる。

そんな中、出てくる答えのひとつで私が耳を留めるのが───「私は“よきお父さん”として憶えられたい」だ。こういう答えは実はちらちらと発生する。

身の丈サイズの平安な生活は誰しも求めていいものである。だが、そのときに、意識が利己に閉じているか、利他に開いているかは、おおいに自問してほしい観点である。

たとえばとても子煩悩なお父さんAがいるとしよう。父Aはともかく家族と過ごす時間を少しでも多く取りたいと思っている。仕事の負荷がつらくなってくると、「ワークライフバランスが大事」というひと言で、仕事を中途半端に仕上げて済ませる。その姿勢はチームにもあまりいい影響を与えていない。その中途半端な仕事の尻ぬぐいも誰かがやっている(が、父Aはそのことを必ずしも気に留めていない)。ただ、家に帰れば、妻子にとって父Aは「すばらしいパパ」である。父Aはこの幸せな私生活を維持するために、できるだけ仕事の負担はなくしたいと考えている。

他方、たとえば中学校で教諭をやっているお父さんBがいたとしよう。父Bは勤務する学校の改革リーダーとして忙しい。担当の授業以外に、改革推進のための会議運営、PTAとの連絡、教育委員会や役所との協議・折衝などに飛び回る。あるとき父Bは、電話口で目を真っ赤にして怒鳴っていた。組織の不条理な力と戦っている姿だった。土日は監督をしている部活動の練習や試合にどっぷり付き合う。練習中にケガをした生徒が出れば、タクシーで運んだり、連日見舞いに行ったりした。また、地元のボランティア活動にも参加している。そんな忙しさの中でも、父Bは極力、自分の子どもたちと会話を楽しみ、ボランティア活動にも連れ出そうとした。子どもたちはもちろん父が家にいないことをさみしく思ったし、もっと自分たちと遊んでほしいと思った。しかし、子どもたちは大きくなるにつれ、父の背中から何かを感じるようになっていた。

「家庭的なよき父」とはどんなものだろう。べったり家族サービスする父がそれなんだろうか。子どもというものは、しっかりと父をみているもので、確かに幼いころは物理的な接触時間の量が大切かもしれない。しかし、子どもはやがて、父親を一個の職業人、市民、人間としてみるようになる。目の前の男ははたして「社会的なよき父」なのだろうかという目線を持つのだ。そのとき、あなたは子どもに対し、どんな父の姿を見せるのが“美しい”と思うか。これもまた自分の生きる美意識に照らして、自身で評価すべき問題である。

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「子煩悩でよきパパになりたい」という思いをけっして否定するものではない。指摘したいのは、ひょっとするとその思いは、仕事という労役はできるだけ避けたい。自分が楽しめる時間がもっとほしい。利己の殻に閉じこもっていたい。そしてその解消先がたまたま子どもに向いているだけではないのか、ということだ。お受験に熱心な母親についてもそれはいえる。自分の利己的な優越感・ブランド所有欲を子どもの高学歴獲得に差し替えてはいないか、ということだ。そうした利己に閉じた意識の場合、欲求のはけ先をなくすと、自己は虚無に陥る。

等身大生活が悪いわけではない。利己が必ずしも悪いわけではない。ただ、それが掛け合わさって閉じた意識になるとき、なにやらよからぬことは起きてこないのか。そういった個人が集まってできる組織や社会はどうなのか。その観点で歴史を振り返りたい。

「自分は等身大の平和な生活で十分だ。けれどもこの身を使って何か世の役に立つことをしたい」といった他者や社会に向かって開いた意識の人は、壮大ではないかもしれないが、必然的に胸の内で夢や志が生まれ、その成就のための行動をすでにしている。強く穏やかな平和社会というのは、実は、そういった個人が多く集まった環境をいうのではないか。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【考える材料3】
意味を探し当てたとき人間は幸福になる


「人間とは意味を求める存在である」―――こう言ったのは、第二次世界大戦下、ナチスによって強制収容所に送られ、そこを奇跡的に生き延びたウィーンの精神科医ヴィクトール・フランクルである。

フランクルが凄惨極まる収容所を生き延びた様子は、著名な作品『夜と霧』で詳細に述べられているが、彼自身、なぜ生還できたかといえば、生きなければならないという強い意味を持ち続けていたからだ。

彼は収容所に強制連行されたとき、間近に本として発表する予定だった研究論文の草稿を隠し持っていた。しかし、収容所でそれを没収され、燃やされてしまう。そのとき彼には、なんとしてでもここを生き延びて、その原稿を再度書き起こし、世に残したいという一念が湧き起こった。

彼は戦後の著書『意味への意志』の中で次のように書く。

「(人間は)どうすることもできない絶望的な状況においてもなお意味を見るのであります」。

「未来において充たすべき意味へと方向づけられていた捕虜こそ、最も容易に生き延びることができたのです」。

「意味を探し求める人間が、意味の鉱脈を掘り当てるならば、そのとき人間は幸福になる。しかし彼は同時に、その一方で、苦悩に耐える力を持った者になる」。


夢や志――それは生きるうえでの強烈な意味と言い換えてもいいが――は、もちろん幸福という明るい未来に向かって躍動する力を与えてくれる。と、同時に、フランクルの指摘でも明らかなように、暗黒の苦悩の中においても、そこを耐え忍ぶ力を与えてくれるものでもある。その意味で、夢や志は私たちを二重に強くする。



坂を上る2つの力~「ガマン・プッシュ」と「ドリーム・プル」

1.3.5


◆人はつねに坂に立つ
フランスの哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』のなかで次のように書いた。

「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。


私はこの言葉に接して以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きること・働くこと」だと考えるようになった。

たとえば丸い石ころを傾斜面に置いたとき、それはただ傾斜をすべり落ちるだけである。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち、高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからだ。しかし生命は、そのエントロピーの傾斜に逆らうように、みずからを生成し、みずからが見出した意味や価値に向かって創造する努力を発する。(物質にも自己組織化作用があり、形成を行うという論議はここではとりあえず考えない。本稿の以降の議論にもつながってくるが、この「坂を上る」というのは、「物質的な形成」ということ以上に、「意味や価値に向かっての成就」を含ませている)

その「人はつねに坂に立つ」ことを図にしたのがこれである。

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◆坂を上っていくための2つの力
さて、職業人としての私たちは何かしらの職業をもち、日々、仕事をやっている。もちろん仕事をやるというのは創造的な作業であり、坂を上っていく努力である。そこでもう1つ、図を示そう。

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あなたが行う仕事の難度は図でいう三角形の傾斜角度である。難しい仕事であればあるほど角度は大きくなり、傾斜途中に立っている自分にかかる下向きの力は大きくなる。この下向きの力とは、その仕事の達成のために起きてくる障害やリスク、プレッシャーやストレスである。

こうした下向きの力、いわば「負の力」に対抗するために、私たちは「正の力」を出して踏ん張り、創造的態度をとろうとする。正の力には、「プッシュ型」と「プル型」と2つの種類がある。

1つは、その仕事をやらなくてはならないという義務感、責任感から生まれる力である。これは傾斜から落ちないように我慢や辛抱をし、自分で自分を押す力となる。これを「ガマン・プッシュの力」と名付けよう。

もう1つは、自分が描き出したイメージを成就させようとする力で、内面からふつふつと湧き起こるものだ。これはいわば夢や志といった目的イメージが自分を引っ張り上げてくれる力で、ここでは「ドリーム・プルの力」と名付ける。


◆「プルの力」を湧かせ坂を上る──そのときすでに幸福を得ている
もし、あなたに夢や志などの目的イメージがなければ、長いキャリア人生を送っていくのは消耗戦を覚悟しなくてはならない。なぜなら、「ガマン・プッシュの力」のみで坂道を上がって行かなくてはならないからだ。自分にかかる負の力は、年次が上がるにつれ、職責が重くなったり、扶養家族が増えたりして、大きくなっていく。しかしその一方、自分の体力や知力は、あるときをピークに衰えていく。夢や希望の力は湧いてこない。傾斜から転げ落ちないよう、いつまで耐えられるか、不安はつきない。悪くすれば、「プッシュの力」を絞り尽くしたとき、メンタルを病むことも起こりえる。無情なことに、義務感や責任感が強い真面目な人ほど、いったんメンタルを壊すと治癒に時間がかかる。

ところが、自分のなかで生き生きとした目的、成就したい理想のイメージを抱くことができれば、そこから情熱というもう1つの力、すなわち「ドリーム・プルの力」を得ることができる。プルの力は、内面から発露として湧いてくるエネルギーであり、無尽蔵である。年齢にも関係がない。

成果主義が厳しいとか、数値目標の達成プレッシャーがきついとか、昨今の職場は確かに人を疲れさせる仕組みで覆われている。しかし、そんななかにあっても仕事を楽しんでいる人はたくさんいる。彼らは異口同音に、「やりがいがあったから」とか、「自分の決めた道だから」という内容の言葉を発する。これは「プルの力」を自然と湧き起こし、目的イメージからぐっと引っ張られたという状態だ。「プッシュの力」は傾斜から落ちないように「自分を留める」のがせいぜいの役割だが、「プルの力」は、傾斜をぐいぐい上っていくのみならず、「自分らしくある」「自分を拓く」ための燃料になる。

哲学者のアランは『幸福論』のなかで、

「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」


と書いた。アランは一貫して、幸福というものは、“幸福である”という静的に漫然とした状態では存在せず、意欲し、創造し、誓うことによってのみ起こり、存続しうるものであると訴える(私はアランの考えを「行動主義的幸福観」と呼びたい)。この一文も、「笑う」という意欲と動作を起こすことが、幸福そのものなのだという論である。

だから、「働くことの幸福」を得るには、“坂の上にある太陽”を見つけることだと私は言いたい。それを描き持つことができれば、すでに自分のなかには「プルの力」が生まれ、すでに坂を上りはじめている。その状態こそがまさに「働くことの幸福」を得ている自分なのだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

=人事・人財育成観点からの補足議論=

【補足1】
「目的」を遂げるための手段・過程として「目標」がある

目的も目標も志向する先を表わす言葉だが、語意に違いがある。目標とは単に「目指すべき状態(定量的・定性的に表される)・目指すべきしるし(具体物・具体像)」をいう。そして、そこに「意味(~のためにそれをする)」が付加されて目的となる。それを簡単に表せば次のようになる。

目的=目標+意味

プロ野球選手でいえば、「今年は打率3割を目指します」、「10勝以上をあげたい」、「伝説の〇〇さんのような選手になりたい」───これが目標である。目的というのは、その目標をクリアすることによって、「野球とともにある人生を送るため」「自己の能力を証明するため」「観ている人に感動を与えるため」といったことになるだろう。

そうとらえると、目的のもとに目標があるという関係がみえてくる。すると目標は目的に向かう手段・過程であることもみえてくる。

たとえば、国内の大会で優勝した体操選手がヒーローインタビューで「いえ、これは一つの通過点ですから」と答えた。彼にとっては、国内で1位になることは単に目標Aであって、その次に世界選手権で1位になる目標Bがある。さらにはオリンピックで金メダルを取るという目標Cまで胸のなかにある。そして、目標AもBもCも、すべては「強く美しい演技を通して自分もハッピーになりたい、人もハッピーにさせたい。それが競技者としての自分の存在意義である」という人生のおおいなる目的につながっている。それを図化すると次のようになる。

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【補足2】
「目標による管理制度」はうまく機能しているか

目的は意味を含んだものである。目的は実現したい価値と置き換えてもいいだろう。人は、自分の行動に目的を持ち、意味や価値を体現する理想像を思い描くことができれば、すすんで目標を立て、成果を出したがる状態に変わるものだ。本文で述べた坂の例で言えば、それがたとえ厳しい傾斜であっても、登山家やロッククライマーのようにむしろそれを楽しんで上ろうとする。

したがって、個が真に自律的・主体的に働くために必要なものは目的である。目標が不要ということではない。目標は目的のもとに設定されこそ有効にはたらく。

昨今の職場では「目標による管理制度」が広がっている。しかし、ノルマ的な数値目標を課し、報酬制度と連動させることばかりに目がいっていて、目的の創造はおざなりになっているのがほとんどではないか。目標にだけ向かわせる働かせ方には、すでに限界がみえている。職場では「目標疲れ」さえ起きている。成果主義の悪い側面だけが噴出している。

個々の能力開発目標にしても、単に業務処理の要請からくるスキルを部品的に1つ1つ習得させていく機械論(人材はスキルを寄せ集めてできる機械であるととらえる)的なやり方が一般的である。ここでも目的は不在である。実現したい意味・価値のために、全人的に仕事に没入するとき、人は強く豊かに統合的な成長を遂げる。

目的の創出は意味・価値を問う作業になる。この意味や価値を考え、描くことが、個人においても組織においても、大きなチャレンジになる。

個人において働く目的を考えるとは、「5年後の自分はどうなっていたいか」などの質問に代表されるような矮小なものではない。研修でこのような問いを盛り込むことが多いようだが、無難に“置きにいく”答えしか出てこない。「職能3等級をクリアしてプロジェクトマネジャーについていたい」「〇〇の分野でトップ10の成果を出せる研究者になっていたい」などの回答が悪いわけではないが、いっこうに思いが意味や価値の次元にもぐっていないし、結局のところ、組織のなかの一サラリーパーソンとしてどう振る舞うかの枠におさまっている。

私はみずから行う研修のなかでは、個々が一職業人・一人間として何の価値に献身できるのか、何の意味に魂を生き生きとさせることができるのかを内省・対話させる。価値観は多様であり、プログラムの進行には難しさもあるが、こういう正解のない哲学的な問いに真正面から取り組んでいく場こそマインドを醸成する研修にふさわしいと思っている。

また、会社が組織としてどんな目的を掲げるかも大きな問題である。昨今の職場には、「数値目標は溢れるが、目的がない」。会社の目的として、社是・社訓、企業理念やコーポレート・バリューのようなものがある。ただ、社是社訓は古色蒼然とした単なるお題目になっているところもあるし、理念やバリューはあくまで行動規範を示すに留まり、働く者に生き生きとした志向性・未来像を想い描かせるものにはなってはいない。

経営者のなかには、「業界シェアNo.1をとる」「売上げ●●億円企業になる」といった旗を揚げるところもある。こうした数値的な到達点は本稿で繰り返し述べているように目標であって、目的ではない。なぜシェアや売上額をそこまで伸ばすのか、そのことが社会や働く個人にどんな意味や価値をもってつながっているのか、それを肉声で語らないかぎり目的にはならない。それが経営者の覇権欲・野心を満たすためであれば、従業員は部品化してしまう。部品化し目的を持たない従業員は、与えられた業務目標をこなし、それに見合った金銭的報酬をもらえばいいと考えるだけの殺伐とした意識になる。そうした会社では、ヒトの定着が悪く、取っ替え引っ替え労働力を集めてこなくてはならない。

組織が目的を考えるとは、会社や事業の「存在意義」を経営者、管理職、従業員がともに考え創出することだ。「この世にあってもいい事業なのか、なくてもいい事業なのか」、「なくてはならない会社なのか、ないほうがいい会社なのか」───こういった観点の対話がいったいどれくらいの組織で行われているか。

私はそういった意味で、組織のなかに「CPO」(チーフ・パーパス・オフィサー)なる最高責任者がいてもよいのではと思っている。ここの「P」は「purpose(目的・意義)」のほか、「philosophy(哲学)」の頭文字でもある。CPOの役割は、その組織にとって、そこで働く社員にとって、「この事業を世に行う意味は何か」「会社の存在意義は何か」「実現したい理念は何か」「働きがいとは何か」「経営と働く個人が共有できるビジョンはどんなものか」などについての論議や対話を起こすことだ。つまり「坂の上の太陽は何か」を問い、つくり出していく先導者である。

理想的には、経営者、管理職、従業員の一人一人が「P」を考え、「会社組織のP」と「各人のP」を重ね合わせていく作業ができることである。しかし実際のところ、経営者は会社という組織を存続させるための利益追求に忙しい。中間管理職においては、一職業人としての働く目的を(「生計を立てるため」という以外)明快に語れる人は少数派であり、彼らもまた「ガマン・プッシュの力」で坂道を耐えているという状況にある。ましていわんや、一般社員の多くは日々の雑多な仕事をモグラたたき状態でこなしている。だれしも「P」をしっかりと肚で考える暇(いとま)も術(すべ)も持っていないのである。

組織にとっても、働く個人にとっても、目的はその在り方を決める。目的をあやふやにしたまま、あやふやな在り方で、この世に存続することはできるかもしれない。ただ、それをあなたは「美しい」と思うかどうかだ(「正しい」かどうかの問題ではない)。坂の上にどんな太陽を昇らせるのか───恒常的に考えたい大切なテーマである。

 

 

 

 




 

 




楽観主義は身を救う ~仕事を労役にしないために

3.4.4


私たちは自分の「仕事」が「労役」化してしまう引力に常にさらされている。
そうならないための根本の処方箋は、力強い楽観主義を持ち、仕事を大きくとらえることである。

* * * * *

「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」

―――仏哲学者・アラン



私は日ごろ、主に企業に勤めるビジネスパーソンたちと研修現場で接している。彼らの少なからずが「仕事がツライ」と口にする。この「ツライ」には千差万別ある。

能力レベルと仕事の要求がミスマッチでツライ場合もあれば、嫌でしょうがない仕事を任されてツライという場合もある。目標達成がツライけれど、仕事に面白みを感じているのでかろうじて頑張れている場合もあれば、まったくの怠け根性でただツライツライと愚痴っている場合もある。また、世の中には不運にも非正規雇用を余儀なくされ、本当にツライ3K仕事をして糧をつないでいる人もいるだろう。

私はこの「仕事のツライ」に対して個人ができうる根本の処方箋は、強い楽観主義を持つことだと思っている。もちろん、社会や企業が制度面で労働環境をよくしようとする努力は複合的に必要だし、楽観主義で構えるだけで何も建設的なことを行動しないようでは根本の解決はない。

「つまらない」「生きるためにしょうがない」「どうせ俺の人生はこんなもの」「しょせん世間や会社はそんなもの」といった悲観主義を分母にしたツライは、早晩自分の心身を痛めていく。一方、「そこに何か面白みを見つけてみよう」「働くことでいろんなことが勉強できる」「この方向で頑張れば何かが見えてくるはず」「この仕事には意味を感じているから」など楽観主義を分母にしたツライは、自分を成長回路に乗せてくれる。

ちなみに私がここで言う楽観主義とは、状況を気楽に構えながらも「最終的にはこうする」という意志を含んだ姿勢のことである。その点で、楽天主義とは異なる。楽天主義とは、意志のない気楽さである。根拠のない安逸と言ってもいいかもしれない(別名:能天気)。

いずれにせよ、悲観主義をベースにするか、楽観主義をベースにするかで、仕事のツライは、天地雲泥の差が出る。5年後、10年後、20年後の差は決定的である。

楽観主義と悲観主義の分岐点はどこにあるか―――。

それは冒頭のアランの言葉にもあるとおり、目の前の状況を意志的にとらえるか、それとも、感情で流されるか、にある。自分に言い訳をつくって、他に責任を転嫁して、感情に流されるのは簡単なことだ。自己嫌悪というのは、逆説的にではあるが、自己への甘えの一種である。しかし、ツライ状況をあえて、未来的な意志の下に状況をポジティブに建設的に解釈しなおしていく。そして行動していく。この微妙な心持ちの差が、一刻一刻、一日一日、一年一年と積み重なって、結果的に悲喜こもごもの人生模様が織られる。


◆仕事は「ゲーム」「学び機会」「趣味・アート」である
ものごとを楽観的に構えるとは、いろいろな方法や思考法があるだろう。私は次のように、仕事というものに対して意識を拡げてみてはどうかと言っている。

○例えば、仕事は「ゲーム」だと考えてみる。
ゲームはある種の勝負事だが、遊び心をもって楽しんでやるものだ。現在、仕事上で目の前に抱えるトラブルや困難は、ゲームを面白くするためにゲームメーカーが仕組んだ障害物だととらえてみる。テレビゲームを1面1面クリアしていくように、1つ1つの問題を解決して、「よーし、次の面はどんな面だ」と待ち受けることができれば、仕事のストレスは軽減され、質さえ変わる。

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○また、仕事は「絶好の学び機会」だと解釈してみる。
仕事はさまざまに私たちに“解”を出せと求めてくる。しかし、そこにあらかじめの「正解値」はない。それは逆に言えば、「自分なりの解を創造してよろしい」ということだ。だからこそ、その解を創造するまでの過程は無上の学習機会になる。学習は成長でもある。給料をもらいながら、こうした学習と成長ができるのである。有り難い話ではないか。

○さらに、仕事は「趣味・アート」だととらえてみる。
いまは一個人の趣味活動やスタイルが消費者の心をつかまえて、そのままビジネスになりうる時代である。自分の興味・テイスト・スタイル・凝った技能を仕事に付加してみる。好奇心をエネルギーに変えて、「こんなこと考えてみました」とか「こんなふうにつくってみました」と、自分表現のアウトプットを上司や組織に提案してみる。思わぬところから、「お、それいいね」と反応が起こり、一気に仕事が面白くなるかもしれない。

「趣味ゴコロ? 自分のスタイルを付加する? そんな努力したって所詮ムダ」とシラけて何もしない状態こそ、悲観主義者の姿だ。楽観主義者は、そこでこそやってみる人なのである。確かにそんなヘタなことをしてみても、容易に周囲が称賛してくれるわけでもないだろう。しかし、誰か一人でも反応してくれれば、そこから何かが開けることは十分にあることなのだ。人生の転機とは実際そのような些細な一点から生じるものである。


◆私たちは傾斜に立っている
下の図は、私たち一人一人が常に傾斜に立っていることを示したものである。私たちは生きていくうえで、つねに、下向きの力を受けている。それは物理的にも精神的にもエントロピー(乱雑さ)を増大させる力である。私たちは気を緩めれば、いつでも下に転がるような摂理の中に身を置いている。

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この傾斜という負荷に対し、抵抗をやめることは基本的にラクだ。しかし、そのラクの先に天国は決してない。逆に、私たちは「仕事」という傾斜を上っていく努力をする限り、何らかの成長や喜びを得ることができる。しかし、その努力の先に天国が簡単に待っているわけでもない。これがこの世が仕組む奥深さである。しかし、傾斜を上ろうとするその過程こそが幸福であると私は思う。

仕事という傾斜に対し抵抗をやめれば、そこには「労役」という別の世界が待ち受けている。この世界に入り込んでしまうと、ほんとうにツライ。ネガティブ回路が増幅して脱出も難しくなる。昨今、社会問題として大きく取り上げられるワーキングプアの問題などは、この労役の回路から抜け出せない人びとの問題でもある。(これは個々人の意識・努力の要因だけでなく、社会制度の要因も考えねばならない)

その仕事を労役にしないために、そして現状の仕事をよりよい仕事にするために、私たちは力強い意志的な楽観主義というものを持ちたい。もちろんそれだけで、難しく入り組んだ個々の仕事問題が解決できるわけではない。が、楽観的意志を持つことがすべての始まりとなる。

労役への引力に身を任せるな、楽観的意志で抵抗せよ。

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