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心の成熟化 ~「成功」志向から「意味」志向へ

1.4.2


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」  ───湯川秀樹



人の欲望にあらかじめ、それが「よいもの」「わるいもの」というラベルが貼ってあるわけではない。「こうしたい」「ああなりたい」「あれがほしい・これを手に入れたい」といったエネルギーは、人を育てもするし、惑わしもするし、壊しもする。

若いころの欲は、往々にして、「具体的で功利的な結果」を求め、「自己に閉じがち」である。しかし、その人が“よく成熟化”していくと、欲の性質が変わっていくように思える。つまり、「意味の感じられるプロセス」を求め、「他者に開いていく」心持ちになっていく。
ただし、この変化はそこに書いたように“よく成熟化”した人間が得られるのであって、年齢とともによく成熟化ができないと、依然、欲は結果に拘泥し、自己に閉じたまま、いやむしろ、それが強まりさえしてしまう。

私自身、決してよく成熟化しているとは言えない凡夫なのであるが、個人的に振り返ってみるに、やはり20代、30代の欲は、功名心や野心めいたものの力が強かったように思う。メーカーで商品開発を担当し、次に出版社に転職をして雑誌の編集をやったが、「ヒット商品を当てて世間を騒がせたい」「スゴイ記事を書いて世の中を驚かせたい」と鼻息は荒かった。そのためにいつも自分が担当した商品や記事の販売数や閲読率という数字に執着していた。成功者になりたいというエネルギーは、多分に自己顕示欲を満たしたい、自己優越感に浸りたいといった感情を連れ添っていた。

また、「自己実現」という言葉が流行ったときでもあり、「そうだ、すべてはジコジツゲンのためだ!」とストレスと疲労が溜まっても自分にモチベーションを与えて頑張っていた。が、いま考えると、その自己実現は「利己実現」ではなかったかと恥ずかしくなる。

しかし、年を重ねるとは、ありがたや、不思議な影響を人間に与えてくるもので、私は41歳でサラリーマンを辞め、教育事業で独立をした。一つには“消費されない仕事”をしたい。消費されない仕事とは、人をつくる仕事だと思うようになったこと。そしてもう一つは、「大きな目的のために自分を使いたい」と心持ちが変化したことだ。

私は子供のころから身体が丈夫なほうではない。大病こそせずに済んでいるが、いつも身体のことを気にかけている。もし私が、昭和以前に生まれていたなら、この生物的に弱いつくりの個体は、とっくに何かで死んでいただろう。医療が発達し、物質が豊かで、衛生環境もよい現代の日本に生を受けたからこそ、ようやく私は人並みに働くことができ、生きている。私は40歳になったとき、「40以上の寿命は天からの授かりものと思って、今後はもっと世のため人のためにこのアタマとカラダを使いたい」と思った。
そういえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、あの1970年「よど号ハイジャック事件」に乗客として遭遇し、無事解放されたときに、「これからの人生は与えられた人生だから、人のために身をささげようと決心した」と語ったエピソードは有名である。そしてまさに、先生はそうされている。

さて、この記事で私が何を言いたいかというと、

1) 心の成熟化に伴って、「成功」志向は弱まっていき、「意味」志向になる
2) つまり、成功という「功利的結果」を手にするよりも、
  意味のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に
  喜びを感じるようになる
3) とはいえ、若いうちは大いに成功を目指し、結果を出すことを習慣づけるべき


そのあたりのことを、賢人たちの言葉から補ってみたい。

「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。
だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。
───大原総一郎(『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より) 


「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。
───湯川秀樹(『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)



このお二人の無私で透明感のある言葉を、ようやく私は咀嚼できるようになってきた。しかし、仕事上で20代、30代の若い世代に「仕事観」を醸成する研修を行っている私は、こうした賢人の達観を伝えるとともに、次のメッセージも届けなければならないと感じている。それは、

「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。
───マルチナ・ナブラチロワ(テニスプレイヤー)


母国チェコスロバキアを逃れてアメリカに亡命し、70~80年代に黄金の歴史を築いた女子プロテニス界最強の一人が言うのだから、実にすごみのある言葉である。

そう、やはり、勝つという結果にはこだわるべきなのだ。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいいのだ。最初から結果を求めず、「私はプロセス重視派です」なんていうのは、実際のところ、怠慢か逃避の言い訳である。そういう姿勢は、結局、先の二人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなる。

逆に、若いうちに成功を求め、結果を追った者ほど、ある人生の段階に入ったときに、二人の言葉がふぅーっと心に入りやすくなる。なぜなら、欲は、よいものもわるいものも、利己的なものも利他的なものも、“ひとつながり”だからだ。欲の質は縁(きっかけ)に触れて変わる。仏教はそれを「煩悩即菩提」と教えている。

「結果」と「プロセス」を語るとき、そして「成功」について語るとき、そこに忘れてはならないワードは、「目的」である(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが「開いた意味」に根ざしているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくだろう。代わって、プロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってくる。しかもそれは持続的である。結果や成功を得ることが、ある種、一時的な興奮・高揚であるのとは対照的である。

要は、動くことなのだろう。動くことからすべてが起こる。動くほどに、ものが見えてくる。動くほどに、同じように動いている人と結び付く。そしてその人たちの影響を受けて、さらにものが見えてくる。さらに動こうという欲求が起こってくる。



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【姉妹記事】
○「成功」と「幸福」は別ものである
○「結果とプロセス―――どちらが大事か?」



上司と部下の健全な関係性

4.2.1


◆上司/部下の関係タイプ分け
世の中には、それこそ数え切れないほどの上司と部下がいる。そしてそれらの関係状況も実にさまざまである。上司と部下の関係は、業務を遂行するためだけの機能的で淡白な状況もあれば、個人レベルで双方が親しくなる状況もある。あるいは、上司が半ば恐怖政治のような環境をつくり、部下を服従させている状況もしばしば見受けられる。そんな上司と部下の関係を、関係の深さと健全性の二軸でタイプ分けしたのが次の図だ。


421a_2

421b

上司と部下の関係でもっとも基本的でシンプルなものが「監督者/作業者」型である。これは職務遂行のために「私監督する人/私作業する人」という関係で、給料をもらうためには各々がきちんと責任をまっとうする―――それ以上でもそれ以下でもない。

そしてここを中心に右上方向に位置していくのが健全で関係性の深いタイプである。逆に左下に位置していくほど不健全で関係性の浅いタイプになる。

組織内で目指すべき健全な関係は、「指導者(よきリーダー)/賢従者(よきフォロワー)」型だ。この関係性においては、上司も部下も、無機質な「監督者/作業者」よりも相互に信頼感を持ち、より高いレベルの職務遂行に向かって進んでいく姿勢がある。

上の図で、「サポーター/ドリーマー」型「師匠/弟子」型が最も右上に位置づけされている理由は、上司も部下ももはや一組織人という立場を超えて(ときに利害を超え)、夢や志を追い、道を究めようとする一人間同士の啓発的な関係になっている点である。

他方、健全な関係といえないのが、「王様/家来」、「カリスマ/信奉者」、「キツネ/タヌキ」、「暴君/弱衆・下僕」といったものだ。これはいわずもがなである。


◆親分/子分関係の問題点
さて、ここでひとつトリッキーなタイプが指摘される。それは「親分/子分」型だ。親分/子分の関係は独自の信頼関係から成り立ち、ある意味団結が強く、実際に多くの会社では組織を動かす原動力にもなっている。個人的にも親分である上司とウマが合って、寵愛を受け、引き抜き昇進に授かれば部下にとっても悪い話ではない。

しかし、この関係には問題が多い。親分の言ったことになかなか子分は逆らえない。子分の昇進は、親分の社内での政治力や親分への取り入り方のうまさで左右されるところから、子分はやがて太鼓持ちかイエスマンになってしまう。また、派閥めいた固まりは組織に硬直性を持たせることにつながる。そして何より、「親亀こけたら皆こける」の状況が生じることだ。

上司/部下の目指すべきタイプは「指導者/賢従者」だと言ったが、そこでは双方の意識はまず「よい仕事を行う」ことに向けられている。したがって、部下にしても、もし上司が仕事達成のために不適切な指示を出したら、意見を遠慮なく言うことができる。つまり「仕事」が上位で「上司」が下位だからだ。ところが、親分/子分関係では、これが逆の順位になってしまう。仕事の達成を互いが最優先と認識して、それを媒介にしながら、上司と部下が能力を出し合う協力関係が健全な姿といえる。

ちなみに、ピーター・ドラッカーは組織の人間関係につき次のように言っている。

「人間関係の能力を持つことによって、よい人間関係がもてるわけではない。自らの仕事や他との関係において、貢献を重視することによって、よい人間関係がもてる。こうして人間関係が生産的となる。生産的であることが、よい人間関係の唯一の定義である。

仕事上の関係において成果がなければ、温かな会話や感情も無意味である。貧しい関係のとりつくろいにすぎない。逆に関係者全員に成果をもたらす関係であれば、失礼な言葉があっても人間関係を壊すことはない」。  ───『経営者の条件』より



◆最終的に上司と部下は呼び寄せ合っている
「サラリーマンでいるかぎり、上司は選べない」―――多くの会社員はこう思って(悟って? あきらめて?)いる。……しかし、はたしてそうだろうか。

私がいろいろな組織の、いろいろな上司-部下関係を観察するに、上司と部下は呼び寄せあっているように思える。人は、3年、5年、10年、20年という時間をかけ、その人の内面的な内容・傾向性に応じた環境にみずからはまり込んでいくものである。

志を掲げて高い意識で働いている部下は、優柔不断で明快な意志を持たない上司から次第に離れていき、やがて同じような目的観を強く持った上司をつかまえ、その下に行く。

保身でなぁなぁにやりたいと思っている部下は、やはり保身で適当にやればいいと思っている上司の下で馴れ合い関係を保とうとする。(タヌキとキツネで互いを利し合っている関係性は意外と長続きするものだ)

何かに怯えるように働く部下には、サディスティック(加虐的)な上司がますますサディスティックになる。意気軒昂な部下なら、さっさとそんな上司の下から抜け出してしまおうとするが、心が弱い部下はなぜか鎖を掛けられたようにそこに留まってしまう(ふつうに考えれば不思議なことだが、こういった状況は意外に多い)。

いずれにせよ、部下と上司の人間関係は、仕事上の目的があって、それを実現するための手段でしかない。手段に振り回されるのか、手段をうまく用いるのか、それは自分自身の問題ととらえるべきだ。世の中に悪い上司はたくさんいる。その悪い上司に捕まりっぱなしになるのは自分の問題だ。上司の人格を変えようとしても無駄である。世の中に良い上司はたくさんいる。それを捕まえるのも自分の問題だ。強い目的意識をもって、自分の益になる上司を引き寄せることだ。


人生で一度は「事業主」をやりなさい! ~メンドリの参加と豚のコミット

8.10


アメリカンジョークをひとつ;

In ham and egg, the hen is only participating, but the pig is really committed.

ハム&エッグにおいて、
メンドリ(雌鶏)は参加しているだけだが、ブタはガチでコミットしている。




いつごろからか、ある種の「飲み会」が面白くない。
ある種の飲み会とは、
サラリーマン率の多い飲み会である。

酒席での話題はおおかた仕事や組織の話になる。
 「給料が出て当然」
 「交通費が支給されて当然」
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然」
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・」
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・」
彼らの愚痴やら持論は、こうしたマインドベースがあって出てくる。

それを聞かされる私のマインドベースは、
 「給料が出るのは当然ではない」
 「交通費が支給されるのは当然ではない」
 「ペン1本から個人パソコン1台まで取り揃えてもらうのが当然ではない。自腹で買う」
 「これだけ仕事やってんのに会社は・・・と自分の事業を責めてもしょうがない」
 「これだけ我慢してんのに上司は・・・そもそも私に愚痴を言う上司はいない」

独立して自分の事業を起こした私(事業主)のベースと
雇われ身である彼らとのベースは根本的に違うのだ。

一方、私にとってベンチャー起業者や独立事業者の集まりは面白い。
皆、リスクを一身に背負っている。
会社員を「ビジネス兵士」と呼ぶなら、こちらは「事業侍」だ。

侍同士が持ち合う、世を渡る緊張感や、孤独感、スピンアウト意識、
妙な美意識や誇り、アウトロー感覚、賭博的な人生感覚、無常観……。

私はここでサラリーマンを揶揄するつもりはまったくない。
(むしろ私も、サラリーマン時代にいろいろなことを勉強させてもらったからこそ
今日の自分がある。独立において、サラリーマンというプロセスは重要なものだ)

しかし、サラリーマンという生き方と、事業主という生き方の間には、
いやおうなしに大きな溝がある。

サラリーマンはどこまでいっても、やはり、事業は組織のものであり、
リスク(特に資金的なリスク)は組織が抱えてくれるものであり、
その関わり度合いは「メンドリ的」なのだ。

一方、事業主は、自分の事業に自分のすべてを賭して「ブタ的」に関わる。

両者の仕事に対する必死さ・緊迫感に違いが出るのは当然と言えば当然かもしれない。
それにしても事業主になってみて、
よく見えてくること、強くなれることがたくさんある。

私が従業員を雇う場合、
「大企業で働いてきました。これこれこういう実績があります」という人と、
「いったん独立しましたが、うまくいかずここで再起を図りたいです」という人と、
どちらに魅力を感じるか?―――いわずもがな、後者である。
自らの事業を自らのリスクで動かそうと試みた人間は、
他人には言いきれない多くのことを内に刻んでいる。

だが実際このとき、私は彼を従業員にはしないだろう。
事業主として彼を留まらせ、業務委託という形で彼に仕事を渡す。
彼とは労使の関係ではなく、協業パートナーとして結び付きたいからだ。
彼が事業主として仕事を再び軌道に乗せることができ、
今度は私にプロジェクトをもってきてくれるまでになったらとてもうれしい。

* * *

冗談半分に言わせてもらえば、
日本で45歳以上のサラリーマンを認めない法律をつくったらどうかと思う。
もしくは、40代での退職金が最も高くなるよう制度を直すべきかもしれない。
そして、20代30代にはもっと給料を出す。
加えて、高校生までは授業料を無料化する。
40代後半からは、皆が事業主になる社会をつくりだすのだ。

サラリーマンを卒業して、もちろん会社を立ち上げてもいいし、
個人自営業者・インディペンデント・コントラクター(独立請負業者)として
自らの得意とする能力を売ってもいい。
大きくやる必要はない。身の丈サイズの事業をとつとつと回していくのだ。

要は、組織の中で安穏とぶら下がりを考えるのでなくて、
自らの能力と意志でつくりだす商品・サービスを世間様に買っていただけるよう
全人的に仕事に取り組む職業人(=事業侍・ブタのコミットメント)に万人がなっていく社会だ。
そうした潔くたくましい大人が増えればこの国は壮健になる。

自分の事業を持つ。事業主になる。―――
これは誰しも人生に一度は経験すべきものだと声高に言いたい。

官僚の天下りがなくならない。
サラリーマンにしがみつく年寄りの保身姿は醜い。

いや、有能な人間ならそのポストに就いてもいっこうにかまわない。
就くのであれば、独立事業者として、コンサルタントにでも何にでもなって、
受託契約を1年1年きちんと市場価格で結んでいけばよい。

「メンドリの参加」程度で、割高年俸と退職金の二重取り三重取りは許されない。
潔く、社会良識をもった対価で、「豚のコミットをせよ」と言いたい。




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