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「道」をめぐる三人の言葉

5.6.4


「道に迷うこともあったが、
それはある人びとにとっては、
もともと本道というものが存在していないからのことだった」。

        ───トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』(実吉捷郎訳、岩波文庫)



『トニオ・クレエゲル』は、ドイツの文豪トーマス・マン(1929年ノーベル文学賞受賞)の若き日の自画像小説です。

主人公トニオ(若き日のマン)は2つの気質を合わせ持っている。それは彼の出自が両極端な二つの方向から来たことによる。一方には、領事を務める父から受け継ぐ北ドイツの堅気な市民精神があり、もう一方には、イタリアで生まれた母から授かった開放的な芸術家気質がある。トニオは芸術家として立つことを決意するものの、鷹揚さや官能が支配する芸術の世界にどっぷり浸ろうとしても父方の血がそれを嫌悪して許さない。はたまた、ただ誠実に凡庸に生きるという市民的な生活に安住することにも、母方の血が黙ってはいない。この二つの気質の相克のなかで、何にもなりきれないでいる自らを「道に迷った俗人」と呼んだトニオの人生は、されど続いていく……。

人生にもともと“本道”なんてものはない。───トニオが吐露したこの言葉をどう受け止めるか、ここは読者にとって重要な箇所です。

小説の中でマンはこの後に、(本道というものがないのだから)どんな道を行くのも可能と思えるし、同時に、どんな道を行くのも不可能に思える、というような表現を加えています。私たちは人生において、さまよっているときは往々にして(特に芸術家はそうですが)、強気にポジティブになるとき(躁の状態)と、弱気でネガティブになるとき(鬱の状態)が交互にやってくるものです。『トニオ・クレエゲル』は、まさに主人公がこの躁鬱の振り子を大きく往ったり来たりする日々を繊細に描いた小説です。若きマンが、その躁鬱の苦悶から安らぎを得るためにたどり着いた一種の諦観──「人生において道に迷うことは必然なのだ」──それが冒頭の言葉です。

ゲーテも『ファウスト』の中で、「人は努めている間は迷うものだ」と書いています。おそらくマンもこの一文には触れていて、心のひだで共振していたのではないでしょうか。

私は仕事のうえでキャリア形成理論をかじっています。今日の学術的考察においては、「キャリア(職業人生)というものは偶発性に左右されることが無視できない。むしろその偶発性を意図的に呼び込むなかで選択肢を拡げ、キャリアをたくましく形成していくのがよろしい」と指摘する。この分野では有名な『計画された偶発性理論』」(Planned Happenstance Theory)です。同理論を提唱する米国スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授は次のように言います。───「キャリアは予測できるものだという迷信に苦しむ人は少なくありません。“唯一無二の正しい仕事”を見つけなくてはならないと考え、それをあらかじめ知る術があるはずだと考えるから、先が見えないことへの不安にうちのめされてしまうのです」。(『その幸運は偶然ではないんです!』より)

確かにこの理論は、私も自身の20余年のキャリアを振り返ってみても、じゅうぶん理解できるものではあります。ただ、学術的知見として、観念として分かっても、やはり人生の悩みは人生の悩み。現実の自分をどこへ持っていくかは、人生の具体的課題として依然大きく眼前に横たわります。しかし、自分の歩むべき道を容易に定めることができない、その難しさこそが人生を深く、味わい深いものにしているものでもあります。

* * * * *

「道」という言葉を耳にするとき、私は反射的に、東山魁夷の描いた作品『道』を思い浮かべます。ただ一本の道が続いていく、それを清澄な空気のなかに情感豊かに描いたあの名作です。東山はこの作品についてこう語っています。

「人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、私はこの本のはじめの章に書いている。その考え方はいまも変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の据え方、その方向というものが、かなりはっきりと定まってきた気がする。

しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々(たんたん)として、在るがままに在る、ひとすじの道であった」。   (東山魁夷『風景との対話』。以下の引用も同著より)


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東山はこのひとすじの道は、自分自身がこれから歩いていく方向の道を描いたと言っています。そしてその道は、“他力”によって見えてきたのだと。彼が言う「他力」は、「他力本願」といった場合に使われるような受け身で依存的な他力ではありません。そうしたひ弱な他力ではなく、死にもの狂いの自力で努力して努力して、そこを超えたところで出合う「おおいなる何か」という意味での他力です。

2つの世界大戦をまたぐ東山の幼少期、青年期の苦労話は割愛しますが、ともかくも彼は画家として目立った成果をあげられないまま昭和20年を迎えます。そしてこの年の7月(つまり終戦の1カ月前)、よもや37歳の東山まで召集令状を受け、直ちに熊本の部隊に配属されます。そこでは爆弾を身体に巻き付け、上陸してくる米軍戦車を想定した突撃訓練が行われていました。そんな訓練が続くある日、東山は熊本城の天守閣跡に登りました。そしてその日、そこからみた眺望がその後の運命の分岐点となりました。東山はこのように書いています。

「私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を――。(中略)これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに――歓喜と悔恨がこみ上げてきた。

あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない」。


結局、東山はそのまま終戦を迎え、すんでのところで戦場行きを免れました。その魂を震撼させられた体験から2年後、『残照』が日展の特選となり、政府買い上げの作品となりました。私たちが知る日本を代表する風景画家、東山魁夷の誕生はここからといってもよいでしょう。実に遅咲きでした。

『道』を描いたのはそれから3年後の昭和25年、42歳のときです。『残照』で高い評価を得、それで有頂天になるわけでもなく、かといって、戦後の激動社会の中で画家としてやっていくことに不安や悲観に支配されるわけでもなく――そこを東山は「明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく」と表現しているわけですが――、ともかくもただ無心で眼前に現れた道を一歩一歩進んでいきたい、その心象が『道』なのです。つまり東山が言う「早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道」です。

人生の道というものを考えるとき、東山はこう表現します。

「いま、考えて見ても私は風景画家になるという方向に、だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。

(中略:人生の旅の中にはいくつもの岐路があるが)私自身の意志よりも、もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが――」。


「生かされている」や「他力によって」などの言い回しは、私個人、若い頃は受け付けませんでした。「人生を動かすのはあくまで自分の能力・努力である。運を引き付けるのも実力があってこそ。自分は自らの意志で生きている」のだと、豊かな時代に育った血気盛んな青臭いちっぽけな自信家はそう思っていました。ところがそれは本当の苦労知らず、本当の自力・他力知らずの感覚だったことを、ようやく40代も半ばを過ぎたあたりから肚でわかるようになりました。

私も仕事柄、さまざまなキャリア・働き様の人びとを観察しています。そして自分自身もそれなりの歳月を生きてきました。そこから感じることは、

自力が弱い人は、他力をあてにする。
自力が強い人は、他力を軽視する。
自力が突き抜けた人は、“おおいなる他力”と出合う。
そして真摯な気持ちをもった人は、その“おおいなる他力”に抱かれながら、
“おおいなる自力”を発揮するようになる。

『民藝』運動を起こした柳宗悦も“他力”ということについて次のように言及しています。

「実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にかかる法則が働いているためであります。これを他力の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を超えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡(すべ)てかかる大きな他力であります。

かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せきる時、新たな自由の中に入るからであります。これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を嘗(な)めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少ないのはこの理由によるためであります」。

                                                            (柳宗悦『手仕事の日本』)


「欲求5段階説」で知られる心理学者のアブラハム・マスローは、その5番目にある欲求を「自己実現欲求」としました。彼もまた、この自己実現に関し、“おおいなる他力”に通底するものを指摘します。

「自己実現の達成は、逆説的に、自己や自己意識、利己主義の超越を一層可能にする。それは、人がホモノモスになる(同化する)こと、つまり、自分よりも一段と大きい全体の一部として、自己を投入することを容易にするのである」。

                                                (アブラハム・マスロー『完全なる人間』)


「他力に任せきる」、「自分よりも一段と大きい全体に自己を投入する」───過去の哲人たちがこう言い示すように、虚心坦懐に一つの物事に努力を積み重ねていけば、やがて“他力”的なる何かを感得する境地に達するのでしょう。そこで見えてくる進むべき道は、確かな道にちがいありません。こういう話をすると何か宗教臭さを感じる人もいるでしょうが、この精神性は誰もが本然的に持っているものだと思います。

いずれにせよ東山の描いた『道』をいま一度画集で見ると、迷いがなくどっしりと、清らかに澄んだひとすじの道です。とても静かな絵ですが、東山の決心が横溢と迫ってきます。

* * * * *

最後にもう一つ、「道」をめぐる言葉───

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」。

                                (高村光太郎『道程』より)


東山は他力によって、眼前に進むべき一本の道を見ました。そして高村はこれと視点が逆で、自分の後方に道を見ます(それは自らがつくった道であるわけですが)。この有名な一行においては、高村は力強い“自力”を書いているように感じます。ですが詩の全体を読むと、「自然」や「父」という語で自分を育み慈しむ“おおいなる他力”の存在を書いています。高村もまた、他力のもとの自力を覚知していたのです。

前に見えてくるものであろうと、後に出来てくるものであろうと、「道」とは、その人の決心や覚悟といったものの表れです。おのれの道を潔く真剣に歩んでいる人を、私たちは美しいと思う。




言葉という感性の「メッシュ」

2.2.2


中学生のときのことだ。
詳しくは思い出せないのだが、何か作文の宿題が出されていたと記憶する。
冬の夕暮れ。
部活を終えての帰り道。
田んぼのなかの無舗装の一本道を歩いていくときの、
空の色の変化をその作文で描写したいと思っていた。

私は西の空の夕焼け色も素晴らしいと思うが、
それ以上に、
すでに闇が覆いかぶさりはじめている中天から東にかけての
無限のグラデーションで広がっていく紫から紺、黒の世界が好きだ。

で、その色をうまく表したいのだが、自分の知っている語彙は、紫、紺、黒しかない。
しかし、目に映っているのは、紫ではあるが紫ではない。
紺といえば紺だが、紺では物足りない。
黒なんだけれど、単純に黒と書いては気持ちが落ち着かない。

多分、紫、紺、黒と書いて作文しても、人には通じるだろうとは思った。
しかし、何だか自分の気が済まない。
「このモヤモヤした表現欲求を鎮めてくれる言葉はないのか」───
そんな思いにかられていたのだろう。
私は、翌日、市の図書館に行って「色の事典」を手にしていた。

「日本の伝統色」の事典だったと思うが、そこには目くるめく言葉の世界があった。
私が言いたかったのは、
二藍(ふたあい)であり、
瑠璃紺(るりこん)であり、
鉄紺色(てっこんいろ)であり、
褐色(かちいろ)であったのだ。

私はこうした語彙を手にしたとき、
胸のつかえが下りたというか、
ピンボケ景色を見ていたのが、
すっとレンズの焦点が合って画像がシャープに見えたというか、そんな気分だった。

* * * * *

松居直さんは、児童文学者、絵本編集者、元福音館書店社長として知られる方だ。
著書『絵本のよろこび』に次のような素敵なくだりがある。

まったくの個人的な体験ですが、十歳のころ、ちょうど梅雨のさなかで、学校から帰宅しても外へ出られず、縁側に座ってただぼんやりとガラス戸越しに庭を見るともなしに眺めていました。放心状態でした。外には見えるか見えないかほどの霧雨、小糠雨が降っていました。そのとき背後から不意に母のひとり言が聞こえました。

「絹漉しの雨やネ」

母の声にびっくりすると同時に、我にかえった私は「キヌゴシノアメか?」と思いました。私は“絹漉し”という言葉は意識して聴いた覚えがありません。わが家では父親の好みで、豆腐は木綿漉ししか食べません。しかし私には眼の前の雨の降る様と“絹漉し”という言葉がぴたっと結びついて、その言葉が感じとれたのです。


……「絹漉しの雨」。
松居さんもこの後に言及されているが、この表現は一般的ではなく、辞書にも載っていない。
おそらくお母様の独自の言い回しだったのだろう。
けれど、多感な少年は何ともすばらしい言葉を授かったものだし、
こうした「絹漉しの雨」が降るたびに、それを言葉で噛みしめられる感性も得た。

私たちは一人一人同じ景色を見ていても、感じ方はそれぞれに異なる。
その差は、持っている言葉の差でもあるかもしれない。

雨を見るとき、
「大雨」「小雨」「通り雨」「夕立」「冷たい雨」「どしゃ降り」───
程度の語彙しか持ち合わせていない人は、
景色を受け取る感性のメッシュ(網の目)もその程度に粗くなりがちだ。

他方、自分のなかに、

「霧雨(きりさめ)」
「小糠雨(こぬかあめ)」
「時雨(しぐれ)」
「涙雨(なみだあめ)」
「五月雨(さみだれ)」
「狐の嫁入り(きつねのよめいり)」
「氷雨(ひさめ)」
「翠雨(すいう)」
「卯の花腐し(うのはなくたし)」
「地雨(じあめ)」
「外待雨(ほまちあめ)」
「篠突く雨(しのつくあめ)」


……などの語彙を持っている人は、
感性のメッシュが細かで、その分、豊かに景色を受け取ることができる。

ただし、これらの語彙を受験勉強のように覚えれば感性が鋭敏になるということでもない。
実際、言葉を持たなかった古代人の感性が鈍いかといえば、まったくその逆である。

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結局のところ、見えているものを、
もっと感じ入りたい、もっとシャープに像を結んで外に押し出したい、
そういった詩心が溢れてくると、
人はいやがうえにも言葉という道具を探したくなる。

古代人のなかには、
言葉がなく、自分の詩心を表現できずに苦悶した人もたくさんいたにちがいない。
そういった意味で、現代の私たちは何とも幸せだ。
日本語という素晴らしい道具があり、
自分の表現を分かち合えるメディアを幅広く手軽に持っているのだから。



「モデル化」して考えるとはどういうことか?

2.3.2


「モデル(model)」という言葉は、最近いろいろな場面で使われる言葉である。大本の意味は「型」ということで、そこから派生して、プラモデルやファッションモデル、ビジネスモデル、ロールモデルなどに広がり、すでに日本語の中に溶け込んでいる。本項では、そんな中でも「概念モデル」を扱う。

概念モデルとは、
「物事の仕組みを単純化して表したもの」
「概念のとらえ方を示すひな型」と言っていいだろう。


概念モデルとして秀逸なものの中で、次の2つを紹介したい。1つめに、エッセイスト・画家・ワイナリーオーナーとして活躍される玉村豊男さんの「料理の四面体」図だ。


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料理という概念を理解するのに、「煮る」とか「焼く」とかいった加工方法で分類するアプローチは、特段独創性のあるものではない。玉村さんの発想の優れた点は、加工方法の観点からさらに一段抽象度を上げて、その根源となる4つの要素「火・空気・水・油」を“発見した”こと。そしてさらにもう一段の抽象化、それら4要素の関係性を三角錐(四面体)の構造で表現したことである。

玉村さんは火を頂点にして、空気・水・油へと伸びる稜線をそれぞれ「焼きものライン=火に空気の働きが介在してできる料理」「煮ものライン=火に水の働きが介在してできる料理」「揚げものライン=火に油の働きが介在してできる料理」と名づけた。こうすることで、煮物とか、炒めものとか、グリル、くんせい、干物、生ものがすべて意味をもって構造の中に配置される。
このモデル図をいったん見てしまえば、私たちは「あぁ、ナルホド、ナルホド。確かに料理ってこういうとらえ方ができるな」と思える。もちろん、これは1つの切り口からの整理にすぎないが、それでも直観的に料理という概念の全体構造を把握できる。

もう1つ。哲学者・九鬼周造が1930(昭和5)年に著した『「いき」の構造』(岩波文庫)で提示したモデルである。「粋」などという、まさに曖昧きわまりない概念をよくぞこのような姿で示せたものだと感服する。九鬼は図化を積極的にやる哲学者で、他にも、偶然性と必然性の論理を図に表して分析している。

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九鬼は、粋の構成要素として8つの趣味(渋味・野暮・甘味・意気・地味・下品・派手・上品)を抽出し、「対自的/対他的」「有価値的/反価値的」「積極的/消極的」など彼独自の対立項を用いて、直六面体の構造に表現した。九鬼は、8つの頂点に配置された趣味以外のものも、この直六面体のなかで捉えられると説明している。
例えば───「“さび”とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角柱の名称である」「“雅”は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである」「“きざ”は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している」といった具合である。

九鬼の場合、こうした風流をめぐる美的価値を1つ1つ言葉上で定義するのではなく、直六面体のモデル上に相対的な位置関係で示すというアイデア自体が、優れて独創的である。概念モデルを図に落とし込む作業は、ある意味、アート作品をこしらえる作業にも通じるところがあって、その表現は、もちろん理解しやすいということが必須要件だが、美しいことも大事な要件である。

* * * * *

ところで、なぜ物事をモデル化してとらえることが大事なのか。

───それは、物事を個別具体的にとらえるレベルに留まっていると、
永遠に個別具体的に処置することに追われるからである。

それを簡単なモデルを使って説明しよう。次に並べたのは英語の問題である。それぞれの下線部には前置詞が入る。1つ1つ答えよ。

・a fly        the ceiling  (天井に止まったハエ)

・a crack        the wall  (壁に入ったひび割れ)

・a village        the border  (国境沿いの町)

・a ring       one’s little finger  (小指にはめた指輪)

・a dog        a leash  (紐につながれた犬)



……さて、どうだろう。

正解は、すべて「on」だ。ところで、私たちは前置詞「on」を「~の上に」と習ってきた。習ってきたというか、暗記してきた。そうした暗記的なやり方で英語と接してきた人は、「天井にさかさまに止まった」とか「壁に入った」とか、「国境沿いの」などの言い表しに思考が発展しないので、それぞれの問題に戸惑ったことだろう。そうして正解を見て、また1つ1つ、「on」の使い方を丸暗記していくことになる。

これに対し、いま私の手元にある一冊の英和辞典『Eゲイト英和辞典』(ベネッセコーポレーション)の帯には、こんなコピーが記載されている───

    「on=『上に』ではない」と。

さっそく、この辞書で「on」を引いてみる。すると、そこに載っていたのは、下のような図だった。

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「on」は本来、縦横・上下を問わず「何かに接触している」ことを示す前置詞だという。確かにこの図をイメージとして持っておくと、さまざまに「on」使いの展開がきく。この辞典は、その単語の持つ中核的な意味や機能を「コア」と呼び、それをイラストに書き起こして紙面に多数掲載している。10個の末梢の意味を覚えるより、1つの「コア・イメージ」を頭に定着させたほうがよいというのが、この辞書づくりのコンセプトなのだ。

まさにここで出てきた「コア・イメージ」に基づく学習が、概念をモデル化して押さえることにほかならない。

私たちは、物事の抽象度を上げて大本の「一(いち)」をイメージなりモデルなりでとらえることができれば、それを10個にも100種類にも具体的に展開応用することができる。逆に言えば、モデル化によって「一」をとらえなければ、いつまでたっても末梢の10個を丸暗記することに努力し、100種類に振り回されることになる。1000にも種類が広がったら、もうお手上げだろう。

「一」をつかんだ者は、1000個だろうが、1000種類だろうが、原理原則を押さえているのでそれに対応がきく。そして、その「一」から落とし込んだ1000種類の応用は、具体的な末梢を必死になって丸暗記したときの1000種類とはまったく異なったものになるだろう。真に新しい発想というのは、必ずと言っていいほど、抽象思考の川をさかのぼり、本質の「一」に触れて、再度、具体思考の川を下るというプロセスを経ているものである。

“抽象的”という言葉は、何かネガティブなニュアンスで使われることが増えた。しかし抽象的に考えることはとても大事なことで、物事の余計な部分をそぎ落とし、その奥にある本質は何か、原理原則は何かと考えるのが抽象化能力なのだ。概念をモデル化するのも、まさにこの抽象化能力をフル稼働させて表現に落とす作業である。

私たちは、日ごろから意識して、モデル化して物事を把握することが大事になる。日本人ほど断片の知識や情報を多量に得ている国民はない。しかし、物事の知識量を増やすことを超えて、物事の仕組みをつくる能力が弱いために、グローバルビジネスでは胴元的な存在になれず、仕組みの中の一機能に置かれることが多い。逆に考えれば、物を売ることを超えて、物を売る仕組み(ビジネスモデル)をつくることができるようになれば、そもそもは「おもてなし」のような繊細な心と技を持つ国民性だから、独自で力強い販売様式を打ち立てることもできる。





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