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優れて抽象的な思考は 優れて具体的な行動を生む

4.3.6


◆「具体的にわかりやすく」という安易な傾き
私は企業の現場で研修を行ったり、本を書いたりすることを生業としている。研修担当者や出版社の編集者と内容について討議をするとき、いつもせめぎ合いになるのが、どこまで抽象的にやって、どこまで具体的にやるかという問題だ。
「本当に重要なことは抽象的にならざるをえないし、抽象的に考える習慣をつけさせることが真に受講者や読者のためになる。いや、それを超えて、組織や社会をよくするためのものになる」という思いの私。それに対し、「明日からの職場で活かせる具体的な行動例を示してやらないと受講者の満足度が上がらないんです」、「速効的なハウツー情報がないと本っていうのはなかなか売れていかないんです」と担当者・編集者。
もちろんその抽象と具体のバランスを取ってよい内容に仕上げるのが私の仕事なので、その努力は惜しまないつもりだが、昨今では、バランスを取りようもなく、何でもかんでも具体化の方向に傾いていっているという危惧を覚える。

例えば、私は部課長クラスの管理職に向けた「個と組織を強くする対話力研修」をやっているが、この研修の意図は、部下と仲よしになる会話術を教えることではない。対話という協働作業をするために、管理職自らがどんな「観」を醸成し、何を語るべきかを自問させることにある。そして、そこから部下とともに共有できる目的をどう構築できるのかを考えさせることにある。

いみじくも、ピーター・ドラッカーが「どのように話すかという問題が意味を持つのは、何を話すかという問題が解決されてからである」(『プロフェッショナルの条件』より)と書いたように、部下と話すテクニックは二の次、三の次問題なのである。だから私は、「よい仕事とは何か」「よい協働性とは何か」「よい組織とは何か」「残業は是か非か」「自律的であるとはどういうことか」「転職は会社への裏切りか」「金儲けは目的か手段か」など、抽象度の高いテーマで討議課題を与え、受講者の観を揺さぶり、各自が語るべき何かをつかみ取れるよう仕向ける。

しかし、受講者の研修後アンケートとなると「面白い論議はできたが、実際の職場にどう結び付けていいのかわからない」という意見がぽつぽつと出る。そのため、プログラムの中に、「部下のやる気を引き出す上司のフレーズ集」とか「部下との個別面談のしかた」といった即効的な実践アイデアものを挿入することになる。すると、如実にアンケートの満足度スコアはアップする。ただ、私はこうした対症療法的なハウツー情報はあくまで付録程度に留めることにしている。


◆顧客の望むものばかりを与えるのが顧客本位ではない
確かに、もっと具体的な策を紹介する方が受講者の受けはよくなるのはわかっている。実際のところ、研修市場を見渡してみても、そうした上司のコミュニケーション術に特化した研修商品のほうが花盛りである。また、書店の棚を見ても、上司の褒め言葉集や朝礼での話ネタ集など、直接的、即効的なテクニック本が売れ筋だ。人は(私も含めて)、面倒くさがりだし、ラクをしたいし、早く効果が出るものを手に入れたいものだ。抽象的なことを考え、至らない自分を内省し、曖昧な中から答えを自分でつかみ取ることは、面倒で、しんどい。効果が出るともわからない。それに第一、退屈である。それよりも、1日の研修時間、1冊の本の中で、さっさと具体的な技術を整理した形で与えてほしい───それが顧客の多数派の声だ。

研修後のアンケートの数値評価や本の販売部数は、ある意味、大衆人気を推し測るテレビの視聴率に通じるところがあって、その数値獲得をいたずらに追うと本質を見失うときがある。特に研修のような教育サービスの場合はそうだ。だから教育事業に携わる私は、顧客が望む口当たりのいいものばかりを与えるのが顧客本位ではないと肝に銘じている。親が子にする躾のように、ときに子が嫌がったとしても、親の愛情として施したい、施さなければならない、というのが教育の大事な側面である。

末梢のコミュニケーションテクニックだけを網羅的に披露する部課長への研修は、真に人をリードできる部課長を育てない。抽象的にものを考える力を養わないかぎり、いつまでたっても状況に適した自分独自の手段を生み出す能力は身につかないからだ。他人の借り物のテクニックで済ませようとする部課長が増えれば増えるほど、大事な抽象論議や対話は職場からなくなる。そうした配下で働く部下もまた抽象的に考え、答えを見出す訓練を受けないから、末梢のテクニック頼りになる。

もちろん具体的な方法が悪いわけではない。物事をいったん抽象化して本質を引き抜いた後の具体的方策と、具体的なテクニックをただ機械的に繰り返している場合の具体的処理とでは天地雲泥の差があるのだ。


◆「抽象的である」はネガティブではない
そこにきてまた、中間層に位置する研修の担当者や出版社の編集者も「アンケート数値が下がるから」とか「本の販売部数が上がらないから」と、ますます抽象的な内容を避けるなら(サラリーマンとしての彼らの評価はそうした数値によってなされることが多いのが事実だ)、ビジネス現場の「もっと具体的に、もっと即効的に」というアンバランスな流れは加速していく。しかし、そうした「わかりやすさ信仰・功利的な技術志向」の行き過ぎは、人びとの思考回路をどんどん短絡的にしていく罠があることを認識しなくてはならない。

「その話は抽象的だ」は、昨今ではネガティブな意味で使われることが多い。しかし、人間が抽象能力をなくしたら、それこそ大変なことになる。物事を分けることも、類推することも、応用することもできなくなる。数学で考えることもできなくなる。抽象化は人類が発達させたきわめて重要な能力のひとつである。結局、「抽象的」がネガティブなニュアンスになったのは、人びとの抽象化能力の低下によって下手な説明しかできなかったり、受け手のほうの抽象化能力が拙いために高度な抽象を解釈できなかったりするための結果だともいえる。
私たちは、振り子を戻すためにも、人間が持つすばらしい能力である抽象的思考力を掘り起こす必要がある。逆説的ではあるが、優れて抽象的な思考ができる人は、優れて具体的な行動ができる人なのである。後半はそのことについて触れよう。


◆「事業とは何か」を定義せよ
私が一般社員向け研修、管理者向け研修でやっている演習がある。それは「事業とは何かを定義せよ」というものだ。この演習の狙いは、その人が事業という活動を具象的に定義するのか、それとも抽象的に定義するのかを確認するものだ。

具象的な定義というのは、誰もが明瞭に理解できる「形態・外に表れるもの」に着目して概念を限定するものである。したがって、その定義は輪郭線ではっきりと描かれたようになる。他方、抽象的な定義は、洞察によって曖昧にとらえられる「本質・内に潜むもの」で概念を限定する。したがって、その定義には“にじみ”や“ぼかし”といった不明瞭なものが出る。しかし、この「にじみ・ぼかし」こそ、抽象的定義の奥深さになる。具象的定義には解釈を広げる余地が少ないが、抽象的定義には読み手の能力によっていかようにでも解釈を広げ深める余地が残されるからだ。ちなみに、抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことをいう。

さて、演習に戻ろう。事業のもっとも単純で明瞭な定義は、「事業とは□□□の製造・販売である」といった表現だ。空欄には自社の取扱商品を入れればそれで済む。これは個別具体的で万人に理解しやすい言い方である。しかし、事業とは何かと問われて、このような答えしか思い浮かばない人は、実は事業についてあまり深く考えていない。外側から見えていることを直接的な単語ではめているだけで、事業の本質は何だろうかと、目に見えない内側に迫っていっていないからである。
辞書的な表現になると、もう少し一般化が進んで、「事業とは一定の目的と計画とに基づいて経営する経済的活動」(『広辞苑』)となる。しかし、これもまだどちらかというと具象的な定義である。

では抽象度を上げていくと、どんな定義になってくるのか。繰り返しになるが、抽象とはそのものが内包する重要な性質に目を向け、引き抜いてくることである。例えば、事業の重要な性質を利益獲得だと見る人は、「事業とは物・サービスを通じての利益獲得活動である」という定義をするだろう。
それに対し、いや違う、利益よりも上位に顧客の獲得がある。だから「事業とは顧客獲得活動である」と考える人も出てくる。さらに、いや待てよ、顧客を獲得するための肝は顧客満足を与えることなんだから、「事業は顧客満足の創出である」のほうがより本質に近いのではないか、そんな人も出てくるかもしれない。あるいは別の観点から「事業とは価値の提供である」との定義が起こるかもしれない。ちなみに、かのピーター・ドラッカーは「事業とは、市場において知識という資源を経済価値に転換するプロセスである」(『創造する経営者』)と定義した。


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◆定義化でつかんだ本質の度合いに応じて実行手段が決まる
「事業とは何か」を定義することに唯一無二の正解値はない。しかし、定義するにあたってどれだけ抽象的に考え、どれだけ事業の本質に迫っていったかは重要なポイントになる。なぜなら、その定義でつかんだ本質の度合いに応じて、実際の事業の実行手段や仕事のやり方が決まってしまうからである。

例えば、「事業とは利益獲得活動である」と定義した人は、そこから実行手段を考えるときどうなるか。「利益=売上-コスト」なのだから、自分たちの事業にとってやるべきは「売上増大」か「コスト削減」であると考える。さらに「売上増大は、販売量アップか販売単価アップ、販売回転率アップ」なのだから、その策を練ろうということになる。また「コスト削減は、原材料費で削ろうか、販売費で削ろうか、人件費で削ろうか」などといった発想に落ちていく。この考え自体は誤りではない。むしろ事業を行う上での正攻法である。しかし、そこから出てくる策は独創性の面で凡庸なものに留まる可能性は高い。その定義には、独創性を生む抽象的な“にじみ”が少ないからである。では、その抽象的な“にじみ”というのは何を生むのか、次の事例で考えたい。


◆伝説のサービスは抽象的な思考から生まれた
2011年3月に起こった東日本大震災、東京ディズニーランドはこのとき、ひとつの伝説を生んだ。同年5月16日付の『日経ビジネスオンライン』は、「3.11もブレなかった東京ディズニーランドの優先順位」と題した記事で次のように伝えている―――

「アルバイト歴5年のキャストHさんは、当日のことを思い出す。『(店舗で販売用に置いていたぬいぐるみの)ダッフィーを持ち出して、お客様に“これで頭を守ってください”と言ってお渡ししました』。彼女は会社から、お客様の安全確保のためには、園内の使えるものは何でも使ってよいと聞いていた。そこで、ぬいぐるみを防災ずきん代わりにしようと考えたという」。


これは従業員個人のとっさの判断と行動だ。こうした見事な事例ははたして偶然の産物だろうか。いや、私は必然の結果だと思う。何による必然かといえば、従業員に対し普段から抽象的に仕事・事業を考える力を育んでいた企業文化の必然だと言いたい。

つまり、東京ディズニーランドにとって事業とは、「“夢と魔法の王国”にふさわしい顧客満足を創出すること」である。この事業定義は抽象度が高い。にじみやぼかしがある。しかしこの曖昧な部分を1人1人の従業員が理解を深め、理念的なものとして組織全体で共有するとき、各々の従業員は柔軟な解釈をもって具体的な行動に落とすことができる。だからこそ、あのような文字どおり劇的なサービス行為が生まれたのだ。

日々、想定不能な出来事が起こる接客現場にあって、顧客満足を創出するための具体的行動をマニュアルで網羅することはとうていできない。できたとしても賢いやり方ではない。一番のやり方は、顧客サービスの本質を抽象的に考えられる従業員を増やすことだ。優れて抽象的に考えることは、優れて具体的な行動に結びつくからだ。


◆抽象的に「一」をつかめば、10にも100にも具体的展開ができる
「顧客に最上のサービスを提供すること」を事業の最上位概念に置く米国高級百貨店のノードストロームもまた、伝説には事欠かない企業だ。───ある顧客が「タイヤを返品したい」と言ってきた。それを受けた担当者は、にこやかに応対し、すぐさま品を受け取って返金をしたという。同社ではタイヤを扱っていないにもかかわらず。

いまでも同社では、例えば、顧客が5年間履き続けた靴を店に持ってきて、それが擦り減ったから代金を返してほしいと言った場合、その客にお金を渡すかどうかは販売員の判断に委ねられている。ジェームズ・ノードストローム共同会長はこう言う。

「従業員が仕事に励むのは、自分がこうすべきだと思った方法で仕事ができる自由と、自分が顧客だったらこう扱われたいと思う方法で顧客に尽くす自由があるからだ。従業員のインセンティブを奪い、ルールで縛るなど、もってのほかだ! 彼らの創造力が潰れてしまう」  (『ノードストロームウェイ~絶対にノーとは言わない百貨店』)。


リッツ・カールトンもまた、顧客満足の創出をホテルという場を用いて行う事業者である。同社のクレド(事業の理念や使命、哲学を明文化したもの)にはこうある―――

「リッツ・カールトンでお客様が経験されるもの、それは感覚を満たすここちよさ、満ち足りた幸福感、そしてお客様が言葉にされない願望やニーズをも先読みしておこたえするサービスの心です」。


このクレドの行間にはそれこそたっぷりのにじみがある。従業員はこのにじみを普段から深く咀嚼し、お客様との出合いがしらの状況で具体的な接客行為に落とすことをやっている。同社の従業員が優れているのは、正確には「接客術」ではない。リッツ・カールトンのサービスがどうあるべきかを、「抽象的に把握する力」が優れているのである。

本当に大事な人財教育というのは、末梢の具体的な行動をいくつも覚え込ませることではない。従業員たちはそうした理解が容易な具体的なものを欲しがるだろうが、そればかりでは思考が受け身になるだけだ。育むべきは、抽象的に大本の「一(いち)」を考えつかもうとする習慣なのだ。大本の「一」をつかんだ者は、そこから独自に10通りも100通りも具体的な行動に変換することができるようになる。これが「自律的な個」というものだ。そして、そんな個が集まれば「自律的な組織」になる。自律的な組織は、監督者がいちいち細かなことに口出しをしなくても、現場のそこかしこで勝手に素晴らしい創発を起こす。だから、経営者や監督者が、従業員や部下に促すべきは、「もっと抽象的に考えろ。本質を抜き出せ」なのだ。


◆「本田技術研究所は人の気持ちを研究するところである」
補足になるが、松下幸之助や本田宗一郎は、事業に対しどんな定義の感覚をもっていたのだろう。松下は『実践経営哲学』の中でこんな言い回しをしている―――

“事業は人なり”といわれるが、これはまったくそのとおりである。(中略)私はまだ会社が小さいころ、従業員の人に、「お得意先に行って、『君のところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、『松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのです』と答えなさい」ということをよく言ったものである。


また、本田は1960年(昭和35年)に本田技術研究所を分社独立させたとき、創立式典で次のように語ったという―――

私は研究所におります。研究所で何を研究しているか。私の課題は技術じゃないですよ。どういうものが“人に好かれるか”という研究をしています。 (ホンダ広報誌『Honda Magazine』2010年夏号より)


「松下電器は人をつくるところである」「本田技術研究所は人の気持ちを研究するところである」―――これらの定義は抽象的であると同時に主観的である。定義は客観的であるべきだと誰もが思いがちである。しかし主観による定義が悪いだろうか。確かにサイエンス(科学)の世界は厳格に客観性を求める。しかし、経営や事業、仕事といったアート(技芸)の要素を多分に含み込む人の営みの世界では、主観性はおおいに許される、いや、むしろ積極的に奨励されるべきではないか。

会社では頻繁に会議が行われている。しかし、私が感じるのは、会議の場に分析や批評が溢れはするが、ついぞ「自分たちはどうするんだ」とか「自分たちは事業をこう定義する」といった肚から出る主観的な意志が立ち現われてこない。結局、対前年何%増といった事業計画上の数値目標だけが、客観性・合理性を帯びた金科玉条として組織の中を跋扈することになる。

「拙くてもいい、粗くてもいい。もっと抽象的に、もっと主観的に、仕事を通しての自分の叫びを表現してみろ!」私が経営者・上司なら、そう発破をかけるだろう。ちなみに私は、自分が行う事業を次のように定義している───「働くとは何か?に対し目の前がパッと明るくなる学びの場を提供する事業」。そして自分の目指したい姿は「働くとは何か?について第一級の翻訳者になること」。その本質のもとに、具体的な行動を考えるのである。




抽象的に考える力~喩え話をどう現実に展開するか

2.3.1


「抽象的」という言葉を私たちはどちらかというとネガティブなニュアンスでとらえていないだろうか。「その話は抽象的だね」というのは、「その話は曖昧でわかりにくいね」と言っているのと同じだ。しかし、「抽象的」というのは決してネガティブなものではない。抽象的に考えることがいかに高度で重要か。本項では、「比喩の展開」という切り口でそれをみていく。


◆共通性を見出して括(くく)る…それが抽象作業
まず、「抽象的に考える/抽象度を上げて考える」とはどういうことかを改めて押さえることから始めたい。抽象とは、物事のある性質を引き抜いて把握することをいう。抽象の「抽」は「抜く・引く」という意味で、「象」は「ようす・ありさま」のことだ。

図1を見てほしい。横に「ヒト」「キリン」「カエル」「ミジンコ」「サクラ」と並んでいる。そこでまず「ヒト」と「キリン」を括る〈共通性①〉は何だろうか。次に「ヒト」と「カエル」を括る〈共通性②〉は何だろうか。そういう具合に〈共通性③〉〈共通性④〉に入る言葉を考えてほしい。

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……正解の一例をあげると、順に「哺乳動物」「脊椎動物」「動物」「生き物」となる。このように複数の物事の間に何かしらの共通性を考えるとは、簡単に言えば、グループ分けをしてそこにラベル張りをする作業でもある。その作業をするとき、私たちは必然的に、そこに並んでいる物事の外観や性質から特徴的な要素を引き抜き、どんな括りで分類できそうかを考える。これがまさに抽象的に考えることにほかならない。

より多くの物事、より関係性の弱い物事を概念的に括ろうとすれば、そこに付けられるラベルはより多くの曖昧さを含むようになる。共通性①の「哺乳動物」と、共通性④の「生き物」とを比べてみてもわかるとおり、後者のほうが概念の範囲が広く、その分だけ曖昧さが増す。「抽象的」という言葉がときに「曖昧だ」という意味合いで使われるのは、このことによる。


◆「魔法使いの弟子」から何を学びとるか
抽象度を上げて考えることが巧みな人は「比喩の展開」も巧みである。「比喩の展開」とは、「比喩表現を他のものごとへ応用する」思考のことである。

『魔法使いの弟子』という寓話(教訓や諷刺を含んだ喩え話)をご存じだろうか? ドイツの文豪ゲーテは、この古い寓話を詩文に取り込み、それをフランスの作曲家ポール・デュカスは、1897年に交響詩として楽曲化した。そしてこの寓話は1940年、ディズニー製作のアニメーション映画『ファンタジア』によって幅広く知られることとなる。映像化されたシーンはこんな感じだ。

───ミッキーマウス扮する魔法使いの弟子は、師匠から水汲みを命ぜられ、両手に木桶を持って家の外と中を往復している。折しも師匠が出かけていなくなり、ミッキーはここぞとばかり、見よう見まねの呪文を箒(ほうき)にかける。すると箒は木桶を両手に持って歩き出し、自分の代わりに水汲みを始める。しめしめとミッキーは居眠りをする。しかしその間にも水はどんどん溜まり続け、ついには溢れ出す。

ミッキーは目を覚まし、あわてて箒を止めようとするが、箒にストップをかける呪文がわからない。ミッキーは斧を持ち出して、箒を切り刻んでしまう。ところが切られた破片がそれぞれ1本の箒となって蘇り、水汲みを始める始末。箒の数は幾何級数的に増えていき、ミッキーは洪水状態の家の中であっぷあっぷと溺れる……。


さて、この寓話からあなたは何を学び取るだろう。ある人は「怠け心は結局得にならない」と日常生活への知恵にするかもしれない。また、ある人は「技術は中途半端に用いると危険だ」と自分の仕事のことに当てはめて考えるかもしれない。さらには、これを現代文明への警鐘として受け止める人もいるかもしれない。

米国の評論家・歴史家であるルイス・マンフォードは、『現代文明を考える』(講談社、生田勉・山下泉訳)の中で、この寓話を取り上げ、こう書く───

「大量生産は過酷な新しい負担、すなわち絶えず消費し続ける義務を課します。(中略)『魔法使いの弟子』のそらおそろしい寓話は、写真から美術作品の複製、自動車から原子爆弾にいたる私たちのあらゆる活動にあてはまります。それはまるで、ブレーキもハンドルもなくアクセルしかついていない自動車を発明したようなもので、唯一の操作方式は機械を速く働かせることにあるのです」。



◆抽象的な物語に触れよ
1つの寓話から引き出す内容、当てはめる先は、人それぞれに異なる。それを描いたのが図2だ。このように、ある比喩を生活や仕事、社会といった他の物事に広げ応用していくのが「比喩の展開」である。

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比喩の展開プロセスは、図に描いたとおり3ステップになる。───〈1〉抽象度を上げて考え、〈2〉そこから共通性を見出し、〈3〉当てはめる。この一連の流れを私は、その形から「π(パイ)の字」プロセスと呼んでいる。

なお、〈3〉番目の「当てはめる」作業は、抽象度を下げるという意味で、具体化するということでもある。すなわち、「πの字」プロセスとは、抽象化と具体化を往復する思考と考えてもよい。

「アリとキリギリス」「ウサギとカメ」「北風と太陽」など、世の中にはさまざまな寓話がある。寓話は子ども向けの話と済ませてはいけない。古典的な寓話は、人生のいつの時期に読んでも、そのときどきのとらえ方ができる。抽象度を高く上げて、その寓話が内包するエッセンスをつかみ、遠くのものごとに敷衍(ふえん)することは、大人の成熟した思考の姿でもあるのだ。

さらに言えば、寓話よりはるかに高度で複雑な物語として経典がある。キリスト教や仏教、イスラム教にはそれぞれ経典がある。これら経典もまた深遠な比喩の話によって編まれている。比喩に込められた教えを、個々の人間がどう解釈して受け止めるか。神や仏の言葉を信じるために人間は抽象的に考え、個別具体的に生きてきたのだ。ただ、宗教は人間の精神に偉大な薬ともなれば、危険な毒ともなる。薬と毒の分岐は、とりもなおさず比喩に満ちた教えをどう抽象化し具体化するか、その往復運動の善し悪しにかかっている。

企業の現場では、「マニュアル人間ばかりが増えて」という指摘があちこちから上がって久しい。大人や上司が若い世代をこう批評するのは簡単だ。具体的なハウツー情報に依存し、そればかり摂取していては、いっこうに抽象的に考える力は養われない。いろいろな見聞・読書をする。いろいろな生きざまを見る。そこから本質的に大事なものは何か、自分との共通点は何か、を抜き出すように対象を見つめるクセをつける。そうした豊かに考える作業が圧倒的に不足しているのだ。その機会を促すのが大人の責任であり、教育の課題である。



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〇「類推できる人はよく学べる人」


類推できる人はよく学べる人

8.09


◆1冊の本の「再読・再々読」は栄養吸収がよい
2月はプロ野球の世界ではキャンプシーズン。選手は身体をいろいろいじめて鍛えたり、基本の動作を念入りに練習したりする。私も毎年2月は春キャンプという位置づけで、仕事の基本である読書を集中的にやる。ここでいう読書とは、情報収集のための“軽い”読書ではない。プロ野球選手が身体をいじめるのと同様、私もアタマをいじめて鍛えるために、分野違いの、内容の詰まった本を読む。

読書は、新しく開拓する読書ばかりではない。むしろ最も自分の身になるのは、再読、再々読する本である。再び紙面を開く本は、たいていの内容が頭に入っているので、先に何が書いてあるんだろうという“せかされ感”が起こらず、ゆったりとした気持ちで文字を追える。以前読んだ時に引いたマーカーのところを中心に読んでいき、「なぜこのとき自分はここをマークしたんだろう」といったようなことを思い返しながら内容を反芻する。その反芻で染みてくることこそが自分にとって大事な内容になる。

たいていの場合、以前読んだ時より、どの箇所も読みやすくなっている。それはそれだけ自分が成長したということの証でもある。そして今度は、その読み返す箇所に新しい意味を付加する余裕も出てくる。


◆『谷川俊太郎 詩選集』を再読する
例えば、私はきょう本棚から『谷川俊太郎 詩選集1~3』(集英社文庫:3巻)を取り出して、2年ぶりに再読している。私はそこで再読する詩に新しい解釈を与えてみたり、自分の仕事に引き当てて考えてみたりすることで、いろいろな知恵やエネルギーを湧かせることができる。

◇いちばのうた (部分の抜粋)

うるんならいちえんでもたかくうる
かうんならいちえんでもやすくかう
けちでずるくてぬけめがなくて
じぶんでじぶんにあきれてる
だけどじぶんがいちばんだいじ
よくばりよくぼけがりがりもうじゃ
たにんをふんづけつきとばし
いちばはきょうもひとのうず


……谷川さんの目はたぶん市場の高いところにあって、下々(しもじも)の人間の売り買いを神の目で眺めているような気がする。ビジネス社会の現場にいると、しゃかりきになって、ギスギス、キリキリと戦わねばならない。しかし、そんなときにも、この詩のように、どこか高台に上がって人間のやっていることは“可笑しい”ものだと達観できる心持ちになれれば、もっと日々の仕事に余裕をもって構えられると思う。

◇大人の時間

子供は一週間たてば
一週間分利口になる
子供は一週間のうちに
新しいことばを五十おぼえる
子供は一週間で
自分を変えることができる
大人は一週間たっても
もとのまま
大人は一週間のあいだ
同じ週刊誌をひっくり返し
大人は一週間かかって
子供を叱ることができるだけ


……これも再読してどきっとした。相変わらず自分は1週間という時間単位をぞんざいに使っていないか、と。1週間という時間単位はこわいものだ。私たちは1日1日を忙しく過ごしている。ダイヤリーも時間刻みでスケジュールが埋まっている。電車が5分遅れただけでもイライラする。しかし、1週間という単位で、いったい自分は何が変わったのだろう……?

◇六十二のソネット (41より部分を抜粋)

陽は絶えず豪華に捨てている

夜になっても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない


……「拾うだけに忙しい」人生は避けたいと思う。「太陽のように豪華に捨てる」ことを仕事でしたいと思う。豪華に捨てるとは、give & takeなどというケチくさいことではなくて、give & give、give & forgotということだろう。大いに与えて、そして、悠然と休む。それが苦もなくできる境地にはやく入りたい。

◇夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった (7より部分を抜粋)

真相はつまりその中間
言いかえれば普通なんだがそれが曲者(くせもの)さ
普通ってのは真綿みたいな絶望の大量と
鉛みたいな希望の微量とが釣合ってる状態で


……「フツウに妥協したくない!」と大見得を切って、普通のサラリーマン生活から独立してはみたものの、才覚は普通より多少上くらいに過ぎなかったことを悟り、稼業への苦労は絶えない。しかし、鉛の希望が黄金の希望に変わったことは確かである。

◇質問集続 (部分の抜粋)

金管楽器群の和声に支えられた一本のフルートの旋律、
その音はどこから来るのですか、

笛の内部の空気から、奏者の肺と口腔から、すでに死んだ作曲者の魂から、
それともそれらすべてを遠く距(へだた)ったどこかから?


……とても含意に富んでいる。この詩にぴんと響いた人は、“大いなる何か”と感応して仕事をした経験のある人であろう。ほんとうに深い仕事をしたとき、人はよく「何かが降りてきた」とか「何か大きな力に動かされた」と口にする。物理的には、道具によって、自分の身体・技術によってそれがなされるわけだが、ほんとうのところは“大いなる何か”と自分との協働なのである。仕事をするうえで、道具は大事だ。身体・技術も大事だ。しかしその次元から突き抜けて“大いなる何か”とつながれるかどうか、ここは実に重大な一点である。

◇夢の中の設計図 (部分の抜粋)

祈りもなく

何を夢見ることができよう
どんなに固い
石の道も
私たちの夢の迷路から
生まれるのだ
どんなに高い
尖塔も
私たちの夢の闇に
試されるのだ


……私たちは、日常、ありとあらゆる工業製品や建造物に囲まれている。例えば、コップや鉛筆、パソコン、自転車、家屋、ビル、道路、看板など。これらはもれなく、誰かが製造の意図を持ち、誰かが形や寸法・デザインを起こし、誰かがつくったものである。そして、これらの間には明らかに出来不出来の差が生じている。陳腐な椅子と、いつまでも使い続けたい椅子。せわしなく変わってきた貧相な街並みと、時の風雪にも耐えてきた味わい深い街並み。この差はどこから生じるのか?コストだろうか、作り手の技術だろうか。―――私はそれこそが、祈りであり、夢であると思うのだ。

世の中に次々と出回ってくるものの多くは、あまりに機械的に、功利的に、短縮期間でつくられてくるために、そして何よりカイシャインたちによる“流し仕事”の気持ちでつくられてくるために、祈りをくぐらせていない製品、夢の迷路のふるいにかかっていない事業、夢の闇の試練を経ていない建造物が多くなる。だから、陳腐で貧相で、次々と容易に消えてゆく。サラリーマンであれ、私のような自営業であれ、一人でも多くのものの作り手が、せめて自分の仕事は、自分の祈りや夢の“ろ過”を経て、世に送り出してやる!ということになれば、世の中のものは一変するに違いない。

◇メランコリーの川下り (部分を抜粋)

子等(こら)の合唱の声は日なたの匂いがして

あっという間に空気に溶けてしまう

残っているのは旋律ではない
……なまあたたかい息だ
おとなたちの目の前に浮かび上がる
決して触れることの出来ない感情のホログラム……


……私が事業として売っているのは研修プログラムで、例えば、1日間研修を終えたときに、受講者の前で締めの一礼をして、一応拍手をいただいて退場するわけだが、そのときに、上のような「手に触れることのできないホログラム」的な何かを残すことができているのだろうか―――この詩の一節はそんなことをふと考えさせた。

ビジネスパーソンへの研修プログラム(セミナーや講演含む)という商品は、もちろん仕事に関する知識や技能、考え方、在り方を学習体験に変換して売っているわけであるが、終了直後の受講者に対し、それ以上の何かを差し上げられているのかが、私にとって一番気になるところだ。
私の研修サービスは、キャリア教育やプロフェッショナルとしての基盤意識醸成に的を絞っていて、かっこよく言えば「明日からの働くことに対し、“光と力”を与えたい」という想いでプログラム開発をしている。研修を終えておじぎをしたときに、受講者一人一人にとって内側に光が見えてきたか、力が湧いてきたか、もし、そうであるなら、それこそが教育者冥利に尽きる喜びである。

私たちはそれぞれに売っているものがある。トマトを売っている、カメラを売っている、クルマを売っている、建物を売っている、生命保険を売っている、料理を売っている。それら商品を通して売っているのは、必ずしも便益や機能だけではないはずだ。その商品・サービスを送り届けたときに、「手に触れることのできないホログラム」的な何かがお客様の内に立ち上がること―――それがひとつのプロフェッショナルの仕事であるように思う。

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◆学ぶ力のひとつは類推力
さて、このように1冊の本を再読すると、改めてさまざまな気づきが起こる。再読は心に余裕があるので、こうした気づきが起こりやすい。何より大事なことは、分野違いの本でも、自分のいまの仕事に当てはめるとどうなるか、いまの自分に状況に引き戻すとどうなるかという「類推」をすることである。類推(アナロジー)とは、「似たところをもととして他の事も同じだろうと考えること」(広辞苑)。

この類推が豊かな人は、世の中のさまざまなことから多くを学び取ることができる。逆に言えば、学び力の強い人は類推力が強い。隣の一を観察して、自分の十に応用展開できるのだ。

いたずらに手を広げて多読するばかりが学びではない。いまそこの本棚にある一度読んだ本を手に取って再読する。そして類推を利かせる。「再読×類推」―――自己の観を耕すために大事な作業である。



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